今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「 土用 」の入り。夏本番。

2008-07-19 | 行事
暑中お見舞い申しあげ~ます~♪♪
まぶたに口付けうけてるみたいな
夏の日の太陽は、まぶしくて
(中略)
今年の夏は胸まで熱い
不思議な不思議な夏です
書中お見舞い申しあげます♪♪
キャンディーズの歌 「暑中お見舞い申しあげます」(作詞:喜多条忠、作曲:佐瀬寿一)
連日暑い日が続いていますが、皆様はいかがお過ごしですか。
神戸地方は、今年の梅雨、雨も少なく非常に涼しい日が多く過し良かったのだが、最後の梅雨明け時には急に暑くなり、私は、少々バテ気味です。もう、何もする気がせず、このブログも、年内中断することにして入るのですが、今日は、気分が良く、気まぐれにちょっと書いてみようかと・・・。
1970年代の日本のアイドル歌手グループ・キャンディーズが、人気絶頂時の1977年に突如解散を発表。同年7月17日、日比谷野外音楽堂のコンサートでの「普通の女の子に戻りたい」の発言は、流行語になったが、歌唱力もあり、このグループの解散は本当に残念だったな~。いや、今日は、キャンディーズのことを書こうと思ったのではない。以前にキャンディーズとこの曲のことは、このブログ6月15日「暑中見舞いの日」で書いたので、そこで見てください。又、懐かしい彼女達の歌と姿は、以下で見ることが出来る。
YOU Tubeキャンディーズ 「暑中お見舞い申し上げます」
http://jp.youtube.com/watch?v=XXWvbZXf5pw
2008年7月19日の今日は、夏の「土用 」の入りである。
土用(どよう)とは五行思想に基づく季節の分類の一つで、各季節の終りの約18日間のことをいう。五行思想では、春に木気、夏に火気、秋に金気、冬に水気を割当てている。残った土気は季節の変わり目に割当てられ、これを「土用」と呼んだ(詳しくは、五行思想参照)。
平気法においては立夏立秋立冬立春の前の18日間としていたが、定気法を用いている現在では、太陽黄経に基づいて期間が定められており、そのうち「夏の土用 」は、黄経117度の点を通過する瞬間から立秋(135度)までをいう。また、土用は各季節の終りにあるが、一般的にはこの夏の土用を指すことが多い。夏の土用の丑の日には、鰻(ウナギ)を食べる習慣があるが、日本では奈良時代の『万葉集』の、大伴家持の歌に「武奈伎」(むなぎ)として見えるのが初出でのようだ。
「石麻呂(いはまろ)に、我(わ)れもの申す、夏痩(や)せによしといふものぞ、武奈伎(むなぎ)を漁(と)り食(め)せ」(巻十六-3853)
この歌は、通称、吉田老((よしだのおゆ=吉田石麻呂)という痩せた老有力者が夏バテしてなお痩せていたのをみた家持が、「夏痩せにはウナギがいいらしいから、漁ってきて食べ、栄養をつけなさいよ」と、からかい半分に詠んだものであるが、この歌に対しては、吉田老が次のように返している。
「痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を漁ると川に流るな」(巻十六-3854)
つまり、「私は痩せていても生きているから、まだいいよ。あなたこそ、ウナギを漁(と)ろうとして、川で流されてしまわないようにしなさいよ」と・・・・。(以下参考に記載の「万葉集の学習:原文・訳文【現代語訳・口語訳】の中の「萬葉集の部屋 」の(巻十六-3853、3854等参照)
ウナギを食べる習慣についての由来には諸説あり、「夏バテ防止の為に土用の丑の日にウナギを食べる」という風習は、売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が発案したという説が一般的であるが、この歌を見ても、今から1200年も前の万葉集が詠まれた時代から、ウナギが夏やせに効くとして、日本人が食べていたことが判かり、源内もそのことを知っていて、商売に利用したのだろう。
「武奈伎(ムナギ)」は万葉仮名で「ウナギ」を表わす古語であり、平安後期頃までは「ウナギ」のことを「ムナギ」と呼んでいたようだが、このよび方は胸が黄色い「胸黄(むなぎ)」から とか諸説あるようだがが、正確なことはわからないらしい。
平安時代の貴族は、ウナギは、白蒸しして、塩味で食べていたようだ。「ウナギ」という語形は院政期になって登場し、その後は「ウナギ」で定着したという(Wikipedia)。そして、現在の開いてたれを付けて焼きご飯を添える蒲約の形式になったのは江戸時代中期、安永期以後(1772年~1780年)のようで、平安時代以降、それまでの、蒲焼は、現在の開いて串にさして焼く方法でなく、一匹丸のまま串刺しにして焼いてたれを付けてたべていたようだ。
ちょっと、横道にそれるが、文の主語とその後に置かれる語を結ぶための補助的な品詞コピュラ - というそうだが、レストランなどで注文するものを決めるとき「君はなににする?」という質問に対して「ぼくはうなぎにする」「ぼくはウナギを食べる」という代わりに「ぼくはうなぎだ」などと言うことがある。 このように、日本語では、「僕はウナギだ」「私はプリンです」のように、「買う」「選ぶ」「取る」「食べる」などの意の動詞の代替でコピュラを用いることが多くあり、このようにコピュラの使用をする構文を最も代表的な「僕はウナギだ」に代表される「~は~だ」と言う文をうなぎ文と言うのだそうである。(以下参考に記載の「日本語文法論」参照)
暑い夏スタミナをつけるために何を食べる?・・「ぼくはウナギだ」・・といいたいところだが・・・。
最近の食品偽装は底ナシの状態で、一体何を信用して良いのかわからなくなっているが、食品の自給率が低い日本では、中国産の野菜やウナギなどが輸入されているが、中国産の食べ物、特に最近は中国産ウナギの安全性が問題視されているいることから中国産ウナギが売れなくなったからと言って、中国産ウナギを「愛知一色産」と偽って販売していたことが発覚した。大阪の「魚秀」というところとマルハニチロホールディングスの100%子会社である神戸の「神港魚類」である。これほど、大掛かりで巧妙な手口は、もう偽装というより詐欺行為である。
アメリカのサブプライムローン問題以降、投機マネーが石油や穀物類等に向かって、生活に不可欠な食料品も値上がりしている中、日本産と言われる高いウナギまでが中国産を偽装したものであったことにより、この暑い夏を乗り切るための栄養源として安全で安い「ウナギ」を食べるのも難しくなってしまったよね~。
冬の「年賀状」に対して、夏の挨拶状に「暑中見舞い」がある。「年賀状」は”元旦に届くように出す”ことは一般的になっているが、「暑中見舞いは何時から何時までに出すのか?」と問われて即答できない人が多いかもしれない。「暑中」は二十四節気の「大暑(たいしょ)」(7月23日ごろ)にあたる期間を言うが、一般的に暑中見舞いは7/20前後の「梅雨明け」(出梅)から「立秋(8月7日~8日頃)の前日」までに送られる。その後は「残暑見舞い」と言うことになるのだろう。今年は、例年より早く、気象庁は16日に近畿地方の梅雨明けを発表した。
これからが、1年で最も暑い夏本番。気温もぐんぐん上昇する見込み。気象庁では最高気温が25℃以上の日を夏日、30℃以上の日を真夏日と呼ぶ。そして、気象庁は地球温暖化ヒートアイランドなどの影響で最高気温が35℃以上になる日が増えているという背景から、昨・2007(平成19)年より新たに35℃以上の日を猛暑日(もうしょび)という呼称を使う事に決めた。今年は、この猛暑日が多く発生しそうだ。くれぐれも熱中症などに気をつけてくださいよ。ただこの熱中症には暑い夏の戸外でなる人よりも家の中でなる人の方が多いらしいよ。
皆さん、水分と栄養の補給を十分にして、この暑い暑い夏を乗り越えてくださいね。では又・・・・再会を・・・。
参考:
キャンディーズ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%82%BA
キャンディーズ - goo 音楽
http://music.goo.ne.jp/artist/ARTLISD1008263/index.html
暑中見舞い - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%91%E4%B8%AD%E8%A6%8B%E8%88%9E%E3%81%84
6月15日「暑中見舞いの日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/40216f7540c23ff7f374b57c712eaee1
YOU Tubeキャンディーズ 「暑中お見舞い申し上げます」
http://jp.youtube.com/watch?v=XXWvbZXf5pw
土用 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E7%94%A8
万葉仮名 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E8%91%89%E4%BB%AE%E5%90%8D
万葉集の学習:原文・訳文(現代語訳・口語訳)
http://study.ironmannet.com/japanese/classics/waka/manyoshu.htm
12月10日)は「歳暮 」のお話
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/75c62803e2893c5295d219f7fe8e9c67
12月18日は、平賀源内 (蘭学者,本草学者,戯作者,浄瑠璃作者)の忌日。
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/44f417134f8ad5f4e63993d6941f5129
うなぎ料理の歴史
http://majin.myhome.cx/pot-au-feu/dataroom/dish/japan/history_of_eel/history_of_eel.html
ようこそ食生活館へ《テーマいろいろ・パート2》
http://www3.ocn.ne.jp/~eiyou-km/newpage137.htm
コピュラ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%A9
日本語文法論
http://homepage3.nifty.com/taketoki/sub04.html
Yahoo!ニュース - ウナギの産地偽装問題
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/eels_mislabeling/
マルハニチロホールディングス - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%83%8B%E3%83%81%E3%83%AD%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B9
サブプライムローン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%96%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%B3
気象庁HP
http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/yougo_hp/mokuji.html
熱中症 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E4%B8%AD%E7%97%87

ひかわ銅剣の日

2008-07-12 | 歴史
今日(7月12日)は、「ひかわ銅剣の日」
1984(昭和59)年の今日(7月12日)、島根県簸川郡斐川町の南にある小さな谷「荒神谷」(荒神谷遺跡)から弥生時代銅剣が発見され、その数は全国最多の358本に達した。
荒神谷遺跡は、1983(昭和58)年広域農道(出雲ロマン街道)建設にともなう遺跡調査が行われた際に調査員が田んぼのあぜ道で古墳時代須恵器の破片を発見したことから発掘が開始された。遺跡の南側に『三宝荒神』が祭られている事から荒神谷遺跡と命名され、翌1984(昭和59)年に谷あいの斜面を発掘調査したところ358本の銅剣が出土したという。
遺跡は『出雲国風土記』記載の出雲郡(いずものこほり)の神名火山(かんなびやま)に比定されている仏経山の北東3kmに位置する斐川町神庭(かんば)西谷にある(場所はGoogle地図参照)。
銅剣が埋納されていたのは、小さな谷間の標高22mの南向きの急斜面で、その翌1985(昭和60)年には、その時点からわずか7m離れて銅鐸(どうたく)6個、と銅矛(どうほこ)16本が出土した。このように、銅矛と銅鐸が1ヶ所から発見されたのは全国でも初めてのことであった。それまでは、青銅器の中でも、銅剣や銅矛は九州地方を中心として、銅鐸は近畿地方を中心として多く見つかったことから、九州地方と近畿地方では青銅器の文化がちがうことから、九州地方・近畿地方、それぞれに強い勢力をもつ国があったと考えられていた。しかし、荒神谷遺跡で大量の銅剣、それに銅矛や銅鐸までもが見つかったことから、出雲にも強い勢力をもつ国があったと考えられるようになった。
銅剣は1985(昭和60)年、銅鐸・銅矛は1987(昭和62)年に国の重要文化財に指定されていたが、1998(平成10)年に一括して「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定された。このことから、大量の銅剣が発見された7月12日を記念して、斐川町では2000(平成12)年から、この日を「ひかわ銅剣の日」と定めた。記念日の名称は全国公募し選ばれたものという。遺跡自体は1987(昭和62)年に国の史跡に指定されていたが、斐川町が中心となり1995(平成7)年に遺跡一帯に「荒神谷史跡公園」が整備され、2005(平成17)年には公園内に「荒神谷博物館」が開館し、出土品の期間展示などが行われている。現在、出土品は文化庁が所蔵し、昨2007(平成19)年3月に出雲市大社町に開館した「島根県立古代出雲歴史博物館」に保管され、常設展示されているそうだ。
先史時代の歴史区分法の1つに、主に利用されていた道具の材料で時代を、石器時代青銅器時代鉄器時代と3つに区分する三時代(時期)法の採用があり、鉄器時代はその中の最後の時代に相当するが、日本は、弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入しており、青銅器は祭器としてのみ利用され、青銅器時代を経ずにそのまま鉄器時代に移行したと考えられている。
古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と、鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、日本海、を中心とした宗教国家を形成したと考えられている。
西部地方は後に衰えを見せるが、特に東部出雲は律令下のいう伯耆国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆(鳥取県西部)を出雲文化圏とする向きもある。考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もある。これらの環日本海への版図拡大の逸話は「国引き神話」として後に『出雲風土記』と呼ばれる地誌の中の「意宇郡(おうのこおり)」に記されている。
以下では『出雲風土記』 の、全文が記載され、大略が書かれている。(原文は漢文)。
出雲國風土記(全文)-あゆみ(歩)
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/c400files.htm
この意宇郡に、「八雲立出雲國者「狭布之推國」在哉」(やくもたついずものくには「さふのおすくに」にあるかな)、つまり、八雲立つ(出雲の國にかかる枕詞)出雲の國は「狭幅の麻の布地をおおいに押し広げて1つの国になった。」・・・というのである。
神代の昔、出雲の国々をお引きになられた「八束水臣津野命」(ヤツカミズオミツヌノミコト)という神様は、出雲国を見渡してこう言った。「なんと狭い国なんだろう。小さく作り過ぎたのだな。ひとつ足らないところを継ぎ足してやれ」といい、国引きをはじめる。そしてはるか彼方を見渡すと新羅国に少し余裕があるように思えたので、大きな鋤(すき)を手にして、その一部を素早くグサリと断ち切り、強い綱をかけて「国よ来い。国よ来い」とゆっくりゆっくり引っ張ってきた。杵築の御碕(きづきのみさき)(現在の大社町日御碕から平田市小津・平田までの地域)がそれ。同じようにして臣津野命は北方の佐伎(さき)国、良波(よなみ)国、北陸の都都(つつ)の岬の一部を断ち切り、引っ張って来た。これらは、それぞれ狭田(さだ)国(平田市小津から鹿島町鹿島町多久川の切れ目までの地域)、闇見(くらみ)国(鹿島町多久川から美保関町北浦、稲積までの地域)、三穂碕(みほのさき)(美保関町北浦・稲積から松江市手角町にかけての地域)となった。この時、これらを引っ張った綱は薗長浜(そのながはま=稲佐の浜国譲り神話の舞台でもあり、「伊那佐の小濱」【古事記】、「五十田狭の小汀」【『日本書紀』などの名がみえる・夜見島(よみのしま=弓ヶ浜半島)となり、引っ張ってきた国を固定するために左右に打ち込まれた杭が、それぞれ佐比売(さひめ)山(現在の三瓶山)、火神岳(ひのかみのたけ。大山のこと)になったという。(※国引きをはじめてからの地名等は、以下参考に記載の島根県広聴広報課HP・島根PR情報誌「シマネスク」などを参考)
この「三穂埼」を引き寄せて、「国引き」を完了した神は、意宇の杜に杖を突き立てて「おう」と言われた。それで現在の郡が「意宇郡」と呼ばれるようになったというのである。『出雲風土記』 には、意宇という地名の由来を説明するために、国引き神話を長々と引用している。そして、当時の出雲の國には”9(玖)郡 郷【61】(陸拾壹) 里179 餘戸 4(肆) 驛家 6(陸) 神戸 7(漆) 里12」があったとして、その内容を細かく記している(出雲國風土記(全文)-あゆみ(歩)参照)。
この国引き神話は、出雲国の成り立ちを示したものであるが、八束水臣津野命が国引きをした範囲は、同じ日本海沿岸の北陸地方や、対岸の朝鮮半島(韓半島)まで及んでいるが実際には、その頃にはまだ新羅は建国されていないはずなのだが・・・。兎に角、このような各地における国引き・・国作りの神話を集約し総括して作りあげられたのが、大国主命(おおくにぬしのみこと。『出雲国風土記』における尊称は、所造天下大神【あめのしたつくらししおほかみ】 )の国作り神話であると考えられる。
大国主命は、『日本書紀』本文によるとスサノオの息子。また『古事記』などでは、スサノオの六世の孫などとされており、時代的には色々矛盾がある。
スサノオの後に少彦名神と協力して天下を経営し、葦原中国の国作りを完成させる。国土を天孫瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出雲大社の祭神となる。
日本神話によれば、大国主大神が天津神に、「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらのみずほのくに)を譲りわたす際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿「天日隅宮」(あめのひすみのみや)が造営され、天穂日命(アメノホヒ)を大国主大神に仕えさせた。この天日隅宮が、出雲国一宮出雲大社の始まりであるという。その門前町は旧簸川郡大社町杵築東195にある。地名「杵築」の由来については、『出雲国風土記』の出雲郡杵築郷の條に”。"八束水臣津野命"之 國引給之 後、所造天下大神之宮 、将レ奉 而、諸皇神 等 参集 宮處、杵築。故、云「寸付」。神亀3年、改字「杵築」。”・・・とあり、諸皇神達がこの宮(大社)をキヅき給うたので「キヅキ」と称するようになったと伝えている。そして神亀3年(726)に社名の示す「杵築」に字を攻めたという。 以来、この大社を「杵築大社」と称するようになったが明治4年(1871年)に出雲大社と改称された。天穂日命の子孫は代々「出雲國造」と称し出雲大社の祭祀を受け継ぎ、現在も千家氏(せんげし)が宮司として受け継いでいる。因みに、出雲国二宮は、現在松江市の鹿島町にある佐太神社である。
日本では、旧暦10月を神無月(かんなづき、かみなしづき)と呼び、現在では新暦10月の別名としても用いる。「神無月」の語源には諸説あるが、全国の神々がみな出雲大社に集まり、神さまが居なくなるので、むかしから10月に「神無」という字を宛て「神のいない月」という解釈が広く行われるようになったが、逆に、出雲ではこれを神在月と称している。
出雲では、出雲大社ほかいくつかの神社で旧暦10月に「神在月」の神事が行われる。
この続きは以下をクリックしてください。
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続:ひかわ銅剣の日

2008-07-12 | 歴史
旧暦10月10日の夜は国譲りの神話の舞台となった「稲佐の浜」には、御神火が焚かれ全国の八百万(やおよろづの)神々を迎える神迎神事が行なわれる。神事が終わると、神籬(ひもろぎ。大榊に細長い弊をつけたもの)に宿られた八百万(やおろず)の神々を案内して、神官を先頭に全国から集まった信者たちが行列して出雲大社に向かう。
八百万(やおろず)の神々は陰暦10月11日から17日までの7日間、出雲大社の御祭神、大国主大神の許に集まり、神議り(かむはかり=話し合い)が行なわれる。この間、大社の本殿及び「稲佐の浜」に近い上宮(かみのみや)で神在祭が執り行われ、境内十九社(東西に2つ)は神々の御旅社(宿泊場所)となる。出雲大社での神在祭が終ると、引き続き現在の松江市(旧八束郡)鹿島町の佐太神社において11日から16日まで神在祭が執行され、神々は簸川郡斐川町の万九千社(まくせのやしろ)よりそれぞれの国々に帰るという。
万九千社は、荒神谷遺跡の発見された簸川郡斐川町の斐伊川の河口にほど近いところの 立虫神社境内にある。神立橋の近くの田園地帯(現在は住宅地と変わりつつある)のなかにある。 以下参照。
斐川町イラストマップ
http://www.town.hikawa.shimane.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC0200H&Cc=7D219A12DD5&DM=&Tp=&IM=
魁 神社巡拝記 No.05-115 立虫神社
http://websakigake.sakura.ne.jp/05-115.html
万九千社は、今は神社も本殿もない。拝殿の後の玉垣に新しくつくられた磐座(いわくら)があるだけだという。万九千神社は、古代でいう出雲郡神戸里に属し、背後には仏経山(神名火山)が見える。
『出雲国風土記』の出雲郡の神名火山(かんなびやま)の条に”曾支能夜社坐、伎比佐加美高日子命社、即 在此山嶺。故、云「神名火山」。”・・つまり、「この山の頂上には、伎比佐加美高日子命(キヒサカミタカヒコ)の社があり、今は「曽支能夜社(そきのやのやしろ)」が鎮座する。それゆえに神名火山という」とある。
神社といえば、すぐに神を祀る建造物を連想するが、『万葉集』が「社」「神社」を「モリ」とよんでいるように、もともとは、神聖な樹林をさした例もある。『出雲国風土記』秋鹿(あいか)郡の女心高野の条に”上頭 在樹林。此則、神社 也。”(上頭 【かみのほとり】に樹林あり、これは即ち神社なり)・・・とするのも、そうした状況を物語る。そこには聖なる「モリ」から「ヤシロ」への展開が内包されている。この神社はいまは山の麓にあるが、祭りは中腹の岩屋で行われているといい、この山を拝むためにこの位置に神社があったのではないか。
古代人に神のこもり坐す山として祭られていた山は、一般 には「神奈備」と書くが、『出雲国風土記』には、意宇郡の茶臼山を神名樋野、秋鹿郡の朝日山を神名火山、楯縫(たてぬい)郡の大船山を神名樋山、出雲郡の仏経山を神名火山としている。これら4座は宍道湖の4隅に位置する場所にある。
出雲で御忌祭の行われる神社のうち出雲大社を除きすべて、出雲風土記に記すところの神名備山並に神戸里に近いところに位置しているようだ。以下参照。
出雲国風土記「神名火山」 (島根県教育庁文化財課)
http://www.pref.shimane.jp/section/bunkazai/fudoki/fudokif/kanna.html
出雲大社以外の出雲の「神在月」と祭りにともなう御忌みは、もともと他国から集まる神を迎えるための祭儀ではなく、神名備山に坐す神霊を麓の里に迎えるがための祭儀であったのかもしれない。出雲大社の近傍には、神名備山はないが、大社と深い関係にあった現・松江市大庭にある、意宇六社の一社神魂(かもす)神社の西北あたりには、『出雲国風土記』では神名樋野として登場する茶臼山があり、この神魂神社の祭儀が大社の祭として移されたのではないかとも見られている。
とにかく、律令以前の出雲国の影響力は日本神話の各所に見られ、記紀神話において、日本創生の神話の大半が出雲やその周辺の話になることから、その影響力は絶大であったのであろう。しかし、やがてはヤマト王権が誕生し、西暦3~4世紀の頃近隣諸国の侵略を開始した。出雲の国も抵抗したが、最終的には日本神話の「国譲り」が語るように、ヤマト政権に属するようになった。そのことは、『出雲国風土記』の意宇郡母里郷(現;島根県安来市)の地名起源説話には”「越八口」(越の八口とは八岐遠呂智【ヤマタノオロチ】のこと)を大穴持(大国主)命が退治し、その帰り、長江山に来たとき『わたしが造った国は皇御孫に差し上げよう、ただ出雲の国はわたしが静まる国にしよう』と国譲りの宣言をしたとある。
しかし、ヤマタノオロチは、日本神話に登場する伝説の生物であるが、出雲の国に降り立ったスサノオが退治し、国津神の娘と結婚。スサノオの子孫である大国主は、スサノオの娘と結婚し、スクナビコナと葦原中国の国づくりを始めたように書かれているところに相違がある。ヤマタノオロチを退治したスサノオは、宮殿を作る地を探して出雲国の須賀の地へやって来て、「ここに来て、私の心はすがすがしい」と言ってそこに宮を作った。それでその地を須賀という(『出雲国風土記』では安来郷の地名説話で「ここに来て、私の心は安らかになった」と言ったことが記載されている)。宮が完成したとき雲が立ち昇った。そこで、「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」と詠んだ(古事記)という。
松江市(旧・八束郡)八雲村と、その隣の雲南市(旧・大原郡)大東町の境界に八雲山(426メートル)がありこの八雲山に須賀社(すがのやしろ:大東町:須賀神社)がある。
須賀神社は、日本全国に存在するが、結局のところ、大和朝廷成立以前の勢力闘争で、敗れたオオクニヌシは国の支配権の献上を誓い、壮大な宮殿を建てる条件をだしたことになっているが、オオクニヌシとはよほどの実力者だったから「大国主」と書かれたのだろう。この大国主は必ずしも一人だけだったとは限らない。それは、大和に滅ぼされた無数の「まつろわぬ人々」(まつろうは「順う」と書く。よって、従わない人々)を、大国主命という言葉で代表させているとも考えられる。日本神話の国生みの話しは、実際には大和の武力に屈し、その結果殺され たオオクニヌシたちと言うのが真相で、そんな、オオクニヌシたちの鎮魂のための神殿が出雲大社のように思えるのだが・・・。
肥沃な出雲平野を背景として古代から発展した出雲市は、特に弥生時代以降は、西谷墳墓群など大型の四隅突出型墳丘墓(弥生時代の墓制参照)が造る大きな勢力が存在した。6世紀後半には今市大念寺古墳(島根県教育文化財課HPの島根県の史跡・西谷墳墓群・今市大念寺古墳参照)や上塩冶築山古墳(以下参考に記載の「島根県遺跡データーベース」の■出雲上塩冶築山古墳参照)など、県内でも最大規模の古墳が造られた。
西谷墳墓群史跡公園の前を、斐川南区広域農道が東西に走っている。出雲市から斐川町、加茂町(現:雲南市)、宍道町を結ぶ農道は、古代遺跡を縫うように築かれているため「出雲ロマン街道」と呼ばれている。古代のロマンを求めて旅するのもいいだろうな~。
(画像は週間朝日百科「日本の歴史」より。国府・郡家と交通路。律令時代の地方の国は、情報の伝達や物資の輸送に備えて官道によって中央と直結していたが、同時に国の内部においても行政の中心であった国府は、その下の郡の治所であった郡家との間に交通のネットワークを張り巡らしていたと推定されている。例えば『出雲風土記」に従って、国府と山陰道およびその駅をも兼ねていたことが知られ、郡家の想定地には、交通路が通じていたこともわかるという。)
参考:
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
斐川町 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%90%E5%B7%9D%E7%94%BA
荒神谷遺跡の謎ブックレット
http://www.town.hikawa.shimane.jp/cgi-bin/odb-get.exe?WIT_template=AC0200H&Cc=7D219A1367&DM=&Tp=&IM=
斐川町HP
http://www.town.hikawa.shimane.jp/
国宝・荒神谷遺跡
http://www.highlight.jp/kougindani/index.html
出雲国風土記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD%E9%A2%A8%E5%9C%9F%E8%A8%98
出雲国風土記 (島根県教育庁文化財課)
http://www.pref.shimane.jp/section/bunkazai/fudoki/index.html
出雲國風土記(全文)-あゆみ(歩)
http://www3.synapse.ne.jp/kintaro/c400files.htm
島根県の史跡(島根県教育文化財課HP)
http://www.pref.shimane.jp/section/bunkazai/about-shiseki/shiseki01.html
神話の国「出雲」を訪れる
http://www.bell.jp/pancho/travel/izumo/
おおいなる社出雲大社
http://www.highlight.jp/izumooyashiro/20.html
島根県遺跡データーベース
http://iseki.ipc.shimane-u.ac.jp/index.html
島根PR情報誌「シマネスク」(島根県広聴広報課HP)
http://www2.pref.shimane.jp/kouhou/esque/index.html
三宝荒神 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E7%A5%9E
三宝荒神像
http://www.butsuzou.com/jiten/koujin.html
神奈備にようこそ index
http://www.kamnavi.net/

四万六千日

2008-07-10 | 行事
今日(7月10日)は、「四万六千日」
「四万六千日」(しまんろくせんにち)は、寺や神社の縁日の1つで、この日(7月10日)に参詣した者には4万6千日参詣したのと同じご利益や功徳があるとされており、東京では浅草の浅草寺(せんそうじ)、文京区にある護国寺がこの「四万六千日」という縁日を行っている。同様の縁日では、東京では港区の愛宕神社の千日詣(6月24日)、京都では京都市右京区の愛宕神社の千日詣(7月31日)が有名である。
浅草・浅草寺は、東京都内最古の寺院。本尊は聖観音(しょうかんのん)である。
浅草仲見世は、現代も海外からの観光客にも人気のようであるが、この浅草寺と仲見世のことは、以前にこのブログ12月27日「浅草仲見世記念日」でも書いたので詳しくは触れないが、浅草寺の起源は、推古天皇36年(628年)、漁師の檜前(ひのくま)兄弟が現在の隅田川)から拾い上げた観音様を、土師中知(はじの なかとみ。この人物の氏名には諸説あるらしい)が堂を設けて安置したのが始まりと言われている。645(大化元)年に勝海上人という僧により観音堂が建立されたのが始まりと言われているが、浅草寺が文献に現われるのは鎌倉時代の『吾妻鏡』が初見のようである。1590(天正18)年、 徳川家康豊臣秀吉から関八州(武蔵国、相模国、上総国、下総国、安房国、上野国、下野国、常陸国の八国)を与えられ江戸に入ると、浅草寺を江戸城鎮護の祈願寺に定めたこともあり、関東でも有数の観音霊場(東京都内では、唯一の坂東三十三箇所観音霊場【13番札所】。江戸三十三箇所観音霊場の1番札所)として多くの参詣者を集めるようになった。
浅草寺HPの年中行事「四万六千日」の説明によれば、”観音様の縁日は毎月「18日」と伝承されてきたが、これとは別に室町時代以降に、「欲日(功徳日=くどくにち )」と呼ばれる縁日が新たに加えられてきた。月に一日設けられたこの日に参拝すると、百日分、千日分の参拝に相当するご利益(功徳)が得られると信仰されてきた。中でも7月10日の功徳は千日分と最も多く、「千日詣で」と呼ばれていたが、浅草寺では享保年間(1716~1736)ごろより「四万六千日」と呼ばれるようになり、そのご利益は四万六千日分(約126年分)に相当するといわれるようになった。この四万六千という数については「米一升分の米粒の数が46,000粒にあたり、一升と一生をかけた」など諸説があるが、定説はないという。なお、この10日を待って一番乗りで参拝したいという民衆の思いから、前日の9日より人出があって、7月9・10日の両日が四万六千日の縁日と受け止められるようになった。また、この両日には「ほおずき市」が「四万六千日」の縁日にちなんで開かれているが、この市は、芝の愛宕(あたご)神社(以下参考に記載の「東京都(港区)・愛宕神社」参照)の縁日に始まり、「ほおずきを水で鵜呑(うの)みにすると、大人は癪(しゃく)を切り、子どもは虫の気を去る」といわれるなど薬草として評判であったようで、その愛宕神社の縁日は観音さまの功徳日にならい四万六千日と呼んでいたが、やがて「四万六千日ならば、浅草寺が本家本元」とされ、ほおずきの市が浅草寺境内にも立つようになり、かえって愛宕神社をしのぎ盛大になったと伝えられている。一方、江戸の昔、落雷のあった農家で「赤とうもろこし」を吊るしていた農家だけが無事であったことから、文化年間(1804~1818)以後に「雷除(かみなりよけ)」として赤とうもろこしが売られるようになった。ところが明治初年に不作が原因で赤とうもろこしの出店ができなかったことから、人々の要望により「四万六千日」の縁日に「雷除」のお札が浅草寺から授与されるようになり、今日に至っている。”・・という。
なにか、由緒そのものがよく理解できないお寺ではあるが、浅草寺が文献に現われる鎌倉時代の頃には観音信仰のお寺として知られるようにはなっていたのだろう。東京都(港区)・愛宕神社は、慶長8年(1603年)、徳川家康の命により江戸の防火の神様として祀られた。主祭神は火産霊命(ほむすびのみこと=迦遇槌命カ【かぐつちのみこと】) である。縁日には「千日詣り」があり、この日にお参りすると千日分のご利益があるといわれ、その縁日に「ほおづき市」がおこなわれていた。「ホオズキ」は、観賞用としても人気があるが、ホオズキを漢字で書く場合に「酸漿」の他に「鬼灯」とも書く。これは中国語で小さな赤い提灯の事で、ホオズキの実がこの提灯に似ている所から来ており、日本の仏教習俗であるお盆では、ガクに包まれたホオズキの果実を、枝付きで精霊棚(盆棚)に飾り、死者の提灯に見立てていることが多い。この果実は、薬用としても知られ、平安時代より鎮静剤として利用されており、江戸時代には堕胎剤として利用されている。現在も咳や痰、解熱、冷え性などに効果があるとして、全草を干して煎じて飲む風習のある地方が存在するようだ。
この東京・愛宕神社の縁日「千日詣り」を「四万六千日ならば、浅草寺が本家本元」と「ほおづき市」を真似て、浅草寺でもやるようになり、今では、本家よりこちらの方が知られるようになったようだ。
愛宕神社は1日お詣りすると千日分、同じく浅草寺のほおづき市では、 四万六千日分のご利益があるといわれているので、そのことが、人気の秘密か知らないが、一度お詣りするだけで46,000日分(約126年分)・・・つまり、人間一生分のご利益があるとは、豪勢なものだ。そのことを、東京・愛宕神社のHP「ほおづき市発祥の地?」のところでは、そんなご利益があるかどうか?。「実はそれを決めるのは、皆さんの信心しかありません」・・・よと、少々皮肉っている。私も、同感である。
浅草寺が明治初年ころより「四万六千日」の縁日に「雷除」のお札を授与することになった経緯も同寺HPに書かれている。この件については、同じ東京都文京区・護国寺のHPの、「四万六千日」の行事の説明の中で、縁日の当日「雷除け」のお札を授与している旨の説明がなされているように、そもそも、観音さま(観世音菩薩)の徳を説いた「観音経」(正確には「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五 」には、「雲雷鼓掣電 降雹澍大雨 念彼観音力 応時得消散」(経文解読:雷が太鼓のように鳴り響くとか、稲妻が光るとか、雹(ひょう)が降ってくるときでも、かの観世音菩薩の力を念じるならば、たちまち静まって害をうけることはないであろう。)と言う一文があり、同寺では、お詣りする人を七難三毒あらゆる災難から守る観音さまの心を表したものとして、お札を出しているようだ。こちらの説明の方が、私は浅草寺の説明より、もっとものように思えるし、これも、護国寺の行事を真似たように思われる。(「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五 」の解説文は以下参考に記載の仏教悩み相談室 「観音経」参照。)
観音さまをお祀りする、港区の愛宕神社の総本山は、京都市右京区の愛宕神社である。同・愛宕神社は、山城丹波国境にある愛宕山(標高924メートル。ここ参照)山頂にある。
愛宕神社は京都盆地東北の比叡山と共に古くより信仰を集め、火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、愛宕山の愛宕神社は、愛宕山に愛宕大権現を祀る白雲寺を建立し、9世紀には<Aa href=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BB%8F%E7%BF%92%E5%90%88>神仏習合修験道の道場となり、本殿に愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵、奥の院(現在の若宮)に愛宕山の天狗の太郎坊を祀っていたという。
仏教では如来の次に位置する菩薩の中でも観音菩薩と共によく知られている地蔵菩薩のうち、道祖神と習合したと思われる将軍地蔵は、その名が示すように甲冑を身につけ太刀を佩き、また中には軍旗を手にして馬に跨る姿をしたものもあるなど、他の地蔵とは全く趣を異にしている。その起こりは、鎌倉後期の地蔵信仰で悪業煩悩に勝つ地蔵という意で、その名から先勝をもたらすとして戦場に出向く中世武士の信仰を集め、防火神としても民間に伝幡、古来火よけ神として信仰されきた愛宕神と結び付き、その本地仏とされるに至ったようだ。明治の神仏分離により白雲寺は廃絶されて愛宕神社となり、勝軍地蔵は京都市西京区大原野の金蔵寺に移されている。(現在では伊弉冉尊【イザナミニミコト】の子である火産霊【ホムスビノミコト=カグツチ】が祭神とされる。記紀神話における火の神である。)愛宕山に集まった修験者によって江戸時代中頃から愛宕信仰が日本全国に広められた。
上方落語でも「愛宕山」「いらちの愛宕詣り」という噺が存在するほどである。(落語の好きな人は以下参考に記載の「世紀末亭>愛宕山 」を見られると良い。)
現在でも愛宕(愛宕権現)の縁日は地蔵と同じ毎月24日である。総本山・京都の愛宕神社の縁日「千日詣り」では鎮火神事が行われている。「火廼要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は殆どと言ってよいほど京都の家庭の台所に貼られており、飲食店の厨房や会社の茶室などにも貼られていることが多い。
(画像は、金龍山浅草寺雷門の提灯。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
愛宕信仰 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AE%95%E7%A5%9E%E7%A4%BE
護国寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AD%B7%E5%9B%BD%E5%AF%BA
浅草寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%8D%89%E5%AF%BA
金龍山浅草寺のオフィシャルホームページ
http://www.senso-ji.jp/
愛宕神社 (京都市) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E5%AE%95%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82)
総本山・京都・愛宕神社
http://www.kyoto-atago.jp/index.html
東京都(港区)・愛宕神社
http://www.atago-jinja.com/
12月27日「浅草仲見世記念日」
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/b8aaed3ee187117f0768a03ee74ad995
愛宕百韻
http://www.interone.jp/~touri/kadan/tanaka_4_1.html
「本能寺の変」前夜
http://www16.plala.or.jp/amber-devil/mitsuhide08.htm
世紀末亭
http://homepage3.nifty.com/rakugo/index.htm
浅草念珠堂●浅草観光こよみ7月 9・10日「四万六千日・ほおずき市」
http://www.nenjudo.co.jp/page/siman.html
真言宗豊山派 大本山 護国寺HP
http://www.gokokuji.or.jp/
仏教悩み相談室
http://enlighten.fc2web.com/index.html
世紀末亭>愛  宕  山
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakugo14.htm
古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説など
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/

恋そうめんの日

2008-07-07 | 記念日
7月7日「恋そうめんの日」
日本記念日協会のHPで今日の記念日を見ると、7月7日の今日は「恋そうめんの日」だそうである。
同HPの説明によると”古くから七夕の日には、そうめんを食べて無病息災を願う風習がある。また風水では麺類は「恋愛運を高める食べ物」とされている。この七夕の日とそうめんと恋愛のステキな関係を結びつけて、自社製品の「恋そうめん」のPRにも役立てようと記念日を制定したのは、日本を代表するそうめんメーカー、株式会社三輪そうめん山本”だそうである。
旧暦の7月7日「七夕」の夜、日本では明治改暦以降は7月7日又は月遅れの8月7日に多く七夕祭りが行われる。
そうめん(素麺)は、小麦粉を原料とした麺のひとつであるが、主に乾麺で流通するため市場では通年入手できるが、冷やして食べることが多く、清涼感を求めて今のような暑い夏の麺料理として食べられることが多い。手延素麺と機械素麺に分類されるが、日本独特の手延素麺に人気が有る。日本では奈良県桜井市が発祥の地とされていることは、以前に、このブログ「めんの日」(毎月11日)でも書いた。
そうめん(素麺)は、奈良時代に、唐から伝来した唐菓子の一つ、索餅(さくべい)に由来するとするとされている。 
索餅の、「索」は両手で縄を綯う意味、「餅」は小麦粉製品を意味し、、『和名類聚抄』の「索餅」の項に「和名無木奈波」の文字も見られ、和名では「むぎなは(麦縄)」と呼ばれていたようで、この表現から小麦粉を練って細くした縄のような形状だったことは想起できる。 また、平安時代中期の『延喜式』巻三十三「大膳下」・年料「索餅料」には「原材料の小麦と米粉(小麦三十石 粉米九石)は、搗臼(臼一腰・杵二枚)で搗き、ふるいにかけて粉とする。湯を沸かし、塩(紀伊塩二石七斗)を溶かしこむ。小麦粉と米粉を臼に入れて混合し、さきほどの塩湯を注ぎ入れて練り合わせる。さめぬうちに調理台の上で押し広め、これを包丁(刀子四枚)で細長く切る。これを竹(竹百五十株)に掛け、乾燥し、乾いた索餅は、籠(乾索餅籠十六口)に取り入れて保存する。」・・・と材料と必要な道具類も詳しく書かれており、小麦粉と米粉に塩を加えて作る麺(米粉は混ぜないという説もある)という事は分かっているが、形状については不明であり、現在の素麺や饂飩(うどん)よりもかなり太く、ちぎって食べたのではないかとする説が有力なようだ。また、この『延喜式』には「索餅」が天皇が即位するときの大嘗祭にも供されていたことなども書かれている。
この索餅はから伝来した唐菓子の1つで、古代中国の後漢や唐の文献に度々その名が出てくるが、日本では天武天皇の孫、長屋王邸宅跡(奈良市)から出土した木簡が最も古い記録とされているようだ。(以下参考に記載の※1 日本麺類業団体連合会HP「麺類雑学辞典:第4回『そうめん』(-1-)」参照)。
それを裏づけるかのような伝承が、古都奈良に残っており、三輪素麺の産地として知られる桜井市に、三輪山そのものを神体(神体山)として成立した神社であり、日本最古の神社と称されている大神神社(おおみわじんじゃ)がある。この神社は、主祭神の大物主命(おおものぬしのみこと)を主祭神としているが、大物主神は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。そうめんもまた、この神社を発祥の地であると伝承は言う。(㈱三輪そうめん山本のHPの「今に伝わる糸依伝説 (いとよりでんせつ)」参照)。
奈良地方(大和国)の農家では七夕には、「素麺」を食べる習わしがあり、「天の川」の見える縁側に祭壇をつくり、ウリやナス、枝豆等と共に「冷やし素麺」を供える風習があると聴く。
平安時代末期に成立したと見られる説話今昔物語・巻十九・第二十二話には、 僧侶が麦縄(さくべい。ここでは索餅に麦縄の字が使用されている)を粗末に扱ったために麦縄が蛇に化けたという話が書かれており、この頃には、索餅が民間にも普及した食べ物となっていたようであるが、『 師光年中行事 』寛平二年(890年)の条には、『宇田天皇宸記』(『宇多天皇御記』のこと)を引用して「・正月十五日、七種粥。三月三日、桃花餅。五月五日、五色粽。七月七日、索麪(そうめん)。十月初、亥餅等。俗間に行い来る。もって歳時となす。自今以後、色ごとに弁じ調べ、よろしくこれを供奉すべし。」 とあり、古くから中国の故事に倣って宮廷での七夕行事に索餅が取り入れられていたことがわかる。
奈良盆地の三輪地方は三輪山から流れ出る巻向川と初瀬川の清流が作る肥沃な土地で、小麦の栽培に適し、昔から小麦の栽培が盛んだったようだ。また、冬場は冷え込み雨が少なく、そうめん作りには最適の地。巻向川と初瀬川は万葉集にも歌われている。以下参照。
万葉集: 巻向(まきむく)
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/area/kinki/nara/makimukurv.html
万葉集: 初瀬川(はつせがわ)
http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/area/kinki/nara/hatsuse_rv.html
そうめんは乾燥させて作るため保存食としても有効で、三輪地方で素麺作りが始まった当時は飢饉に苦しむ人々を救ったという。
京都の祇園社(明治元年の神仏分離令(廃仏毀釈運動)により、現代の八坂神社となる)の南北朝時代の記録である『祇園執行日記』の康永2年(1343年)7月7日の条には、麺類を指す言葉として索餅、索麺・素麺のの名称が混じって用いられるようになるが、鎌倉時代になると民間レベルで大陸との交流も盛んになり、大陸の新しい技術が入ってきて、先ず、油をつけて伸ばす技術次に挽き臼の伝来により、室町時代には麺が細く長く、そしてコシ(腰)の強い「素麺」(そうめん)へと変化してきて、ほぼ現在の様なものになる。そして、その後の鉄製農具の普及に伴ない小麦の生産も飛躍的に伸び、この新しい麺の製造法が全国に普及していったようだ。
現在、日本農林規格(JAS規格)の『乾めん類品質表示基準』(以下参考に記載の「農林水産省/品質表示基準一覧」参照)にて、機械麺の場合、素麺の麺の太さは直径1.3mm未満とされている。ちなみに直径1.3mm以上~1.7mm未満は冷や麦、1.7mm以上はうどんと分類される。又、手延麺の場合、素麺もひやむぎも同基準であり、直径が1.7mm未満で丸棒状に成形したものが「手延べ素麺」もしくは「手延べひやむぎ」に分類される。ちなみに直径が1.7mm以上で丸棒状に成形したものは「手延べうどん」に分類される。
現在、日本の素麺主産地は兵庫県たつの市の「揖保乃糸」であり、今日に至っては全国一の生産高を誇っている。私事になるが、私はある兵庫県に本社を置くスーパーの株を少し持っているが、配当率もよく、それに、株主への優待として、毎年株主総会後に、特上の「揖保乃糸」を送ってくれる。最近のように銀行にお金を預けても金利もつかないので、このような株主優待制度を楽しみに株を買っている人も多い。
乾麺のものは保存性は良いが、他の麺に比べて虫がつきやすく長期の保存は避けた方が良い。よくそうめんの「ひねもの(古物 )」といわれているものは、夏に2回目の梅雨を越したそうめん(製造から2年目を迎える)をいう。同様に「おおひねもの(大古物)」といわれているものは3回目の梅雨を越すそうめんをいうのだそうだ。一般に、素麺はこのような「ひねもの」ほど美味しいといわれるが、それは、新物のそうめんに比べてコシが強く、茹でのびしにくいからである。
しかし、古ければ古いほど良いとったものではなく、先に言った古物(2~3年もの)が食べごろ。それに、保存も業者が保存に適した環境で保存しているから良いのである。
今の時期、需要の多い「そうめん」はデパートやスーパーには進物用のものが、山と積まれている。昔、知り合いのある食品スーパーの営業の者に、「こんなに沢山のそぷめんが売れ残ったらどうするの」と聞いたら、「いや大丈夫です。残った素麺は、全て、メーカーに返品します。メーカーできっちりと保管しておけば問題なく、又、次の年に売れるのです」と言っていた。その時は、そうめんとはそんなものかと思っていたのだが、先月(2008年6月6日)、”奈良県桜井市特産の三輪そうめんのある販売会社が、返品されたそうめんを再包装し、賞味期限を1年半先に延ばして再販売していたとして、農林水産省が、同社に対し、JAS法に基づく改善命令を出した。同社は平成14年にも長崎県産のそうめんに「三輪」の産地名を表示し、改善指示を受けていた。同省によると、同社は商品48種類の賞味期限を1年半とし、夏場を過ぎて返品された場合、中身に異常がないことを確認した上で再包装し、その日から1年半先を賞味期限にして表示していた”ことがマスコミで報じられていた。(以下参考に記載の「MSN産経ニュース」参照)
この頃は、やたらと食品の偽装問題が世間を騒がせている。もう、これだけ、日本人のモラルが低下した時代になると、いい加減な行為には、厳罰(罰則の強化)をもってしないといけないようだね~。
何か話が「恋そうめんの日」とは逆のイメージの落ちになってしまったが・・・。
(画像はそうめん。フリー百科事典Wikipediaより)
参考:
素麺-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9D%E3%81%86%E3%82%81%E3%82%93
風水 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E6%B0%B4
㈱三輪そうめん山本HP
http://www.miwayama.co.jp/
大神神社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BE
源氏物語: 索餅(さくべい)
http://heian.cocolog-nifty.com/genji/2007/08/post_bcc3.html
CityDO! そうめん特集
http://www.citydo.com/soumen/index.html
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html
MSN産経ニュース-返品を再包装、消費期限1年半延ばす 三輪そうめん改善命令
http://sankei.jp.msn.com/photos/life/lifestyle/080606/sty0806062356004-p2.htm
つるつる文献集(寺方蕎麦長浦HP)
http://www.nagaura-soba.co.jp/
※1 日本麺類業団体連合会HP「麺類雑学辞典:第4回『そうめん』(-1-)」
http://www.nichimen.or.jp/zatsugaku/04_01.html
八坂神社 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%9D%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE
日本史研究参考基礎史料索引(50音順)
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/siryou/list/sakuin.htm
和名類聚抄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%90%8D%E9%A1%9E%E8%81%9A%E6%8A%84
早稲田大学図書館蔵・和名類聚抄
http://www.littera.waseda.ac.jp/wamyou/
今昔物語集 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%98%94%E7%89%A9%E8%AA%9E%E9%9B%86
農林水産省/品質表示基準一覧
http://www.maff.go.jp/j/jas/hyoji/kijun_itiran.html