「世の中、ちょっとやぶにらみ」

本音とたてまえ使い分け、視点をかえてにらんでみれば、違った世界が見えてくる・・・かな?    yattaro-

「耳痒し、耳痛し」

2012年06月25日 | つれづれ噺

               

今年の梅雨は順調に降る。といってもそれはこの地域だけの話なのだろう。
九州各地や紀伊半島などは、とてつもない大雨に襲われて、生命・財産の危険にさらされている映像を見ると、胸ふさがれる思いがする。
中でも、4歳と3歳の友達同士が増水した用水路に流され命を落とす、などのニュースはいたたまれない。そんな幼い子どもから目を離さなければならない重大事が他に起こっていたのだろうか。保護者の権利と義務を今一度考えたいものだ。

そんな折、ちょっと耳慣れない言葉と出会った。“ 慎独 ” つまり、独りを慎む。

「オレが、オレが」という執着を離れ、欲も得も忘れて解放されてみる。
そこには、忘れかけていたその人本来の値打ちが見出され、新たな進むべき道が見えてくることがある。すなわち、行き詰った時には、何もかも投げ出し身も心も一旦素っ裸になって出直すことも必要だよ、と諭されているのだろう。

江戸中期の俳諧師「瀧瓢水(たきひょうすい) 」は、もともと廻船問屋の若旦那であった。放蕩の果てに一文無しになってしまったが、そんなことは一向に気にもせず、風流一筋に生きた人物だと言われている。そんな彼の晩年の句。
 
“ 浜までは 海女も蓑着る 時雨かな ” と言う一句。さて何を思う。

どうせ海に入れば濡れてしまうのだから、雨が降ってもわざわざ蓑など着けるまでもなかろうにと思うのだが、海女さんは海に漁に出て行く時も、雨が降ればきちんと律儀に蓑笠着けて海岸まで出向いたという。
この姿こそ本来の日本人の心意気、日本の文化なのだ、と。

他人が見ていようが見ていまいが、本来やるべきことをきちんとやる。
・・・耳がむずがゆい、耳が痛い・・・。
親から受け継いだ財産を、放蕩三昧でなくしてしまうほどの度胸があっただろうか。心配しなくてもいいか、そんな財産など一切もらっていないもの。

いやいやそういう話ではなく、浜までは、きちんと蓑笠つける海女さんの律儀な姿を見習わなくては、と頭では思うのだが・・・。

コメント (6)
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