去年末の甲州武州下野(しもつけ)山旅の最後に 日光二荒山神社本社を訪ねました。
日光は数年前に 男体山に登りましたが その時は二荒山神社中宮祠境内から登りました。
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日光二荒山神社は日光市内に三社あり、本社、中宮祠、奥宮です。
本社は日光市街地にあり、中宮祠は中禅寺湖畔にあり、奥宮は男体山山頂にあります。
二荒山神社は 下毛野国一宮と呼ばれる下毛野国(現在の栃木県)で一番古くて権威ある神社です。
その地方で一番古くて権威ある神社が 一宮と呼ばれます。
ちなみに伊勢の国一宮は 椿大神社(つばきおおかみやしろ)で伊勢神宮ではありません。
また出雲の国一宮は熊野大社であり、出雲大社ではありません。理由は簡単で 九州物部軍の
第二次東征で敗れた出雲王国のうち 東出雲王家の向家は王宮を物部軍に明け渡し 熊野大社の地に
移り住みました。その後徐福が連れてきた矛卑の子孫の矛卑家が 出雲国で仕事が無くなりかけたときに
旧王家の向家に 矛卑家が社家となれる神社を造営してくれるように頼み込み 向家と旧西出雲王家の
神門臣家が出資して 杵築大社 今の出雲大社が作られたのです。
※ 大元出版 斉木雲州著「古事記の編集室」他の書籍参照
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下野国の国造は日本書紀によれば 崇神天皇が東国につかわして治めさせた豊鍬入彦の子孫だそうです。
※ウイキペディアによる
しかし 記紀に崇神大神と記された九州物部家のイニエ王は九州から一歩も出たことはなく、したがって
大和の大王ではありません。
またイクメ大王(垂仁)の策略、指示により 出雲系の加茂田田彦や旧出雲王国軍によって 豊彦王
(記紀では豊鍬入り彦)はじめ豊国軍は大和から追い出されました。
豊彦や豊国軍は 豊彦王の妹である 四番目のいわゆるヒミコの豊姫(豊姫又は豊来入姫、支那の歴史書
では 台与とよ と書かれた)と一緒に大和から東国へ追い払われました。
つまり下野国の国造の始祖 豊来入彦は大君により 派遣された将軍などではありません。
九州物部、宇佐豊連合王国の第二次東征軍内部の争いに敗れて東国へ逃げた 連合王国のれっきとした
王の一人なのです。
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北九州に本拠を置いた物部王朝のイニエ王は東征の準備のため南下します。そして薩摩に滞在したあと
薩摩の阿多津姫を伴い日向に移ります。阿多津姫との間にイクメ皇子をもうけ、西都原に都を造り各地
から豪族を呼び寄せて 着々と東征の準備を進めます。
しかし阿多津姫は短命で イクメ皇子を生んで亡くなります。そのあと宇佐王国から 豊玉姫女王を后と
して迎え 物部豊連合王国が成立し 東征の準備をさらに進めます。
イクメ王と豊玉姫皇后との間に生まれたのが 豊彦、豊姫(豊来入彦、豊来入姫)なのです。
つまりイクメ皇子と豊彦皇子は異母兄弟なのです。連合王国軍が大和入りしてから 内紛が起き
豊彦王は 九州物部王国の東征総指揮者 イクメ大王との内部戦いに敗れて東国に逃れ、その子孫が
下毛野国の国造家となったのでしょう。
※詳しくは このブログのヒミコのまとめや 赤城神社訪問記にも書きました。
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日光二荒山神社中宮祠から男体山山頂の奥宮へ登拝しました。2015年9月14日
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中禅寺湖に面して鳥居があり ここから二荒山神社中宮祠への参道が始まります。
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鳥居をくぐり 石段を登っていきます。
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神社の境内です。
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これが本殿ですが、なんともはや出雲系の神社の雰囲気とは かけ離れています。
第一に社の造りが 大社造りとはかけ離れていて、瓦葺です。しかも妻入りでもなく、柱の本数も
ここからでは分かりません。神社というより お寺の感じですね、
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境内には何故か恵比寿様、つまり事代主もいらっしゃいます。
出雲系の社であるからなのか 単に商売繁盛の人を寄せ集めようとなさったのか。
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これはおろちなのでしょうか。それとも出雲族の信仰厚い 竜蛇神なのでしょうか、
説明書きがないのでわかりませんでした。
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社務所と拝殿です。ここで登拝の手続きをします。
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登拝料ーいくらだったか忘れましたがーを払うと巫女さんがお祓いをしてくれて このお守り御札
を下さり、「くれぐれもご安全にご登拝ください」とお声がけしてくださいます。
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ここが奥宮、つまり男体山山頂への登山道への入り口です。
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奥宮に着きました。2時間半から3時間くらいかかったような記憶があります。
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二荒山大神、つまり神社の主祭神の大己貴命(おおなむちのみこと) つまり大名持命(おおなもちの
みこと)です。大名持とは古代出雲王国の主王の役職名です。古代出雲王国では 主王と副王の
二王制であり、神門臣家と向家が交互に 主王と副王を出していました。
この場合の大名持は 紀元前2世紀末に 忠実な部下の矛卑(ほひ、今の出雲大社宮司家の祖先)とともに
大勢の海童たちを引き連れて和国に上陸した徐福に幽閉殺害された 第八代主王、大名持の八千矛王
(のちに記紀で大国主と書かれた)のことです。
ちなみに この時に同時に殺害された副王の八重波津身は 事代主と書き換えられ のちには恵比寿さん
と呼ばれるようになりました。
八重波津身の姫、御穂須須美(みほすすみ)により八重波津身が祀られた 美保神社(今の松江市美保関町)
が全国の戎神社の総本社です。
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標高2600mの山頂付近は雲が流れて 景色はほとんど見えませんでした。
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奉納された「御神刀」が異彩を放っていました。
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その2へ続く
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