ジャズ喫茶ちぐさ@横浜市中区野毛町2-94


桜木町から「野毛たべもの横丁」に向かう途中に「MODERN JAZZ CHIGUSA」
の文字の書かれたテントがあった。
「CHIGUSA」は老舗のジャズ喫茶で名前は知っていたが、野毛に在るとは思わなかった。食後に、久し振りにジャズ喫茶でコーヒーを飲むことに。
「Bistro Graine Marche」であれこれと食べて飲み、大満足で立ち寄ったらすでに閉店。平日は午後6時までの営業時間でした。
翌日、「親子カフェ・ことろん」を見学させてもらい時代は変わったと、あれこれ思いを巡らした。
有楽町での同窓会に参加する前に桜木町で下車し「ジャズ喫茶ちぐさ」に。



椅子席が約20位か、落ち着いた店だ。
ピアノもあって、時にはライブが。

大きなスピーカーが中央にドーンと。

昭和8年(1933年)吉田衛(よしだ・まもる)さんが創業。
生涯はジャズと共に在り続けた人物らしい。

肖像写真のプリントされた皿が、店内を見守っている。
創業当時と場所を移して再建されたが、以前と同じような雰囲気なのだろう。
現在「ちぐさ」は一般社団法人となり、イベント主催等様々な公的活動を続けながら、ボランテアの人達の協働で営業している。
3人位が働いておられたが、皆さん感じが良い方ばかりだった。

メニューは飲み物@500円。
生ビール@700円もあり。

テーブル持ってきて頂いたのは2冊の分厚いレコードリスト。
レコードのタイトル、曲名・演奏者などが纏められ、番号が振られている。
お好きな曲をリクエストください。と云う事で、先着順にかけてくれる。
昔のジャズ喫茶の雰囲気だが、堅苦しさは無く、気軽に過ごせる。
懐かしい気分で、小一時間を過ごして辞した。
横浜のジャズ喫茶のパンフレットが在ったが、現在でもかなりの数が営業している。今も、横浜はジャズの街らしい。
●昭和35(1960)年に高校を卒業し、新宿の服飾専門学校に入学した。
当時は、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズの「モーニン」や「ブルース・マーチ」がヒットして「モダン・ジャズ」が風靡した時代で、一気に虜になった。
ハンチングを被った黒人ミュージシャンの「ファンキースタイル」憧れ、真似したりしたが、今に思えば笑いたくもなるが懐かしい。
新宿には幾つかのジャズ喫茶があって、学校の帰りは必ず立ち寄り、半日を過ごすようになった。主には南口の「ヨット」か「渚」都電の停留所前の「木馬」辺りだったが、「キーヨ」は敷居が高い店だった。「風月度」は多くの人の溜まり場で、屯していた人の中には後に有名になった人が大勢いる。
レコードや再生装置が高価で普通の家には無かったから、ジャズ喫茶で聴くのが当然の時代だった。
レコードは輸入盤で、手に取って見ることも出来ないので、カウンターの上に置かれたジャケットの絵柄を見て演奏を聴くのだから、プレーヤーの名前も良く分からず、ただ、ひたすら聴くだけ。話をすると厭な顔をされた。
今思えば、もったいない過ごし方をしたものだが、後悔、先に立たず。
以來、当時のままの好みから脱却できずに50年以上が過ぎた。


桜木町から「野毛たべもの横丁」に向かう途中に「MODERN JAZZ CHIGUSA」
の文字の書かれたテントがあった。
「CHIGUSA」は老舗のジャズ喫茶で名前は知っていたが、野毛に在るとは思わなかった。食後に、久し振りにジャズ喫茶でコーヒーを飲むことに。
「Bistro Graine Marche」であれこれと食べて飲み、大満足で立ち寄ったらすでに閉店。平日は午後6時までの営業時間でした。
翌日、「親子カフェ・ことろん」を見学させてもらい時代は変わったと、あれこれ思いを巡らした。
有楽町での同窓会に参加する前に桜木町で下車し「ジャズ喫茶ちぐさ」に。



椅子席が約20位か、落ち着いた店だ。
ピアノもあって、時にはライブが。

大きなスピーカーが中央にドーンと。

昭和8年(1933年)吉田衛(よしだ・まもる)さんが創業。
生涯はジャズと共に在り続けた人物らしい。

肖像写真のプリントされた皿が、店内を見守っている。
創業当時と場所を移して再建されたが、以前と同じような雰囲気なのだろう。
現在「ちぐさ」は一般社団法人となり、イベント主催等様々な公的活動を続けながら、ボランテアの人達の協働で営業している。
3人位が働いておられたが、皆さん感じが良い方ばかりだった。

メニューは飲み物@500円。
生ビール@700円もあり。

テーブル持ってきて頂いたのは2冊の分厚いレコードリスト。
レコードのタイトル、曲名・演奏者などが纏められ、番号が振られている。
お好きな曲をリクエストください。と云う事で、先着順にかけてくれる。
昔のジャズ喫茶の雰囲気だが、堅苦しさは無く、気軽に過ごせる。
懐かしい気分で、小一時間を過ごして辞した。
横浜のジャズ喫茶のパンフレットが在ったが、現在でもかなりの数が営業している。今も、横浜はジャズの街らしい。
●昭和35(1960)年に高校を卒業し、新宿の服飾専門学校に入学した。
当時は、アート・ブレイキーとジャズ・メッセンジャーズの「モーニン」や「ブルース・マーチ」がヒットして「モダン・ジャズ」が風靡した時代で、一気に虜になった。
ハンチングを被った黒人ミュージシャンの「ファンキースタイル」憧れ、真似したりしたが、今に思えば笑いたくもなるが懐かしい。
新宿には幾つかのジャズ喫茶があって、学校の帰りは必ず立ち寄り、半日を過ごすようになった。主には南口の「ヨット」か「渚」都電の停留所前の「木馬」辺りだったが、「キーヨ」は敷居が高い店だった。「風月度」は多くの人の溜まり場で、屯していた人の中には後に有名になった人が大勢いる。
レコードや再生装置が高価で普通の家には無かったから、ジャズ喫茶で聴くのが当然の時代だった。
レコードは輸入盤で、手に取って見ることも出来ないので、カウンターの上に置かれたジャケットの絵柄を見て演奏を聴くのだから、プレーヤーの名前も良く分からず、ただ、ひたすら聴くだけ。話をすると厭な顔をされた。
今思えば、もったいない過ごし方をしたものだが、後悔、先に立たず。
以來、当時のままの好みから脱却できずに50年以上が過ぎた。