「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

河和田山房 

2011年10月29日 21時30分22秒 | 水戸今と昔
河和田山房 

北茨城の穂積家住宅を使用した「高萩茶房」に行ったのは、古民家に憧れ、そんな空間に住んでみたいと思った時代があった、ことによる。

昭和30年代に高度成長が始まり、次々と新しい家が建てられた。
同時に、年代を経た農家などが取り壊された。
太くて重い柱や梁、天井が高い空間は。時代に合わなくなってしまったのだ。

壊してしまうのは、まことに“もったいない”話なのだが、解体するには手間と経費が掛かる。心ある趣味人が、全部を移築できなくとも、部分的に或いは柱や梁や板戸、欄間、天井の煤竹などの部材を新築・改築の資材として再利用した。

最近、その流れが復活し店舗などに使用されているが『昭和』の建築で、さほどの魅力は無いが、職人さんがいた時代ゆえ、今よりはましだ。

かって、水戸市河和田町に「河和田山房」という料理屋が在った。
河和田の報仏寺の手前で、大きな欅の木が何本か有るところが跡地。
この料理屋のご主人は信州生まれ、水戸市内に喫茶店やバーや料理店など、当時としてはシャレた店を何軒か経営していた。

その集大成ともいうべき店が「川和田山房」だった。
古民家を何軒も移築し、離れをつなぎ合わせた。
高級料亭や旅館によくあるるスタイル。

今では市街地となった河和田だが、当時は町はずれ。
水戸の奥座敷・隠れ家的な存在だった。

主人の“北島まひと”さんは、趣味人で骨董蒐集家で、絵筆が立って、能書家。
「水戸の魯山人」と言われたことも有った、

山房の裏庭の一画にはトタン屋根の倉庫が在り、その中に沢山の民家を解体した部材が保管されていた。
店を増築するとか、趣味人が家を建てる材料として集めておいたのだ。

それらを使って、新築や内装を変えた友人もいた。
骨董に熱中していた時代、そのような諸兄の住処を訪ねるのは愉しかった。
僕も、そのようにしたいと夢みていた。

今は、住まいや庭を!等考えることも無くなった。

しかし『河井寛次郎記念館』のような京都の町屋、或昔の土蔵を改装した店を訪ねるのは、今でも愉しい。

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