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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

ロダンの彫刻

2009年05月24日 12時54分57秒 | 彫刻家 後藤清一
東京国立博物館での阿修羅展、既に入場者が50万人を突破したとのことだ。
何処の美術館も何とか入場者を増やしたいと、努力している。
今回の様なことは、滅多に無いことだろう。
僕は、開始されて間もなくの土曜日の6時頃入館したのでゆっくりと観られた。
その後、1時間待ちがあたりまえのようになったようだ。
会期も残り少ないのでもう一度拝見しようと、土曜日の4時頃上野に行った。
国立西洋美術館の「ルーブル展」も50分待ちとの表示。
これでは「阿修羅展」も同様だろうと西洋美術館の庭のロダンの作品を観てからにした。

つい最近NHKのテレビ番組、プレミアム8<文化・芸術>シリーズ巨匠たちの肖像「ロダン あくなき生命への欲望」をたまたま観た。
「近代彫刻の父」と呼ばれたオーギュスト・ロダン(1840-1910)。
ロダンの優秀な弟子にして愛人だった、カミーユ・クローデルとの出会いと葛藤。
代表作「地獄の門」や「カレーの市民」などの最新研究から浮き彫りにされた人間像は今まで知らなかったことが多かった。




テレビ番組を観た上で改めて観る、「地獄の門」や「カレーの市民」は今までと観方が変わった。
単に見聞きするのと、物事が分って見聞きするのは大きな差がある。

後藤清一さんが東京美術学校在学時代はロダンが大流行した。
明治時代末期から大正時代にかけてロダンが紹介された頃は、彫刻の世界のみならず絵画や文学の世界にまで大きな影響を与えた。
日本に紹介したのは荻原守衛(1879-1910)である。萩原は洋画の修行にフランスに渡り、1904年のサロンに出品されたロダンの『考える人』を観て感動し彫刻に転向した。帰国して2年後の明治43年、31歳の若さで急死した。僅か4年間の彫刻制作であったが、ロダンに触発された生命感あふれる新鮮な造型は、同時代の美術家に大きな影響を与えた。
高村光太郎も『ロダンの言葉』などを翻訳・刊行してロダンの魅力を啓蒙した。
文芸雑誌『白樺』(明治43年創刊)は文学誌であると同時に美術誌で、毎号西洋美術の写真版を挿入していた。
武者小路実篤、梅原龍三郎、志賀直哉を初め多くの美術家・文学者がロダンの紹介に務めた。

この時代に彫刻を学んだ後藤も当然のようにロダンの作品から影響を受けた。

 ロダンの彫刻は、物の外装を破って、その実相に深く喰い入っている。真の知識人が、その知識に、おぼれずして、しかも、その知識に、万全に生ききつておることに、よく似ている。これは何か永遠につながりをもつ、大きな力にちょるもの、働きであるのか?『隠者の方影』より


阿修羅展は50分の待ちで入場出来た。
夕方5時過ぎでも入場者はたえない。
博物館や美術館入場者が多いのは良いことだ。
しかし、東洋館や、本館は入場者は少ない。

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