「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

徳川慶喜関連資料展@常陽史料館・史料ライブラリー(2階)

2015年02月19日 20時38分40秒 | 水戸今と昔
徳川慶喜関連資料展@常陽史料館・史料ライブラリー(2階)
平成27年2月7日(土)~3月22日(日)月曜休館




「小沼里回タペストリー展」が開催されている「常陽史料館」は常陽銀行創立60周年を記念し、郷土の歴史や芸術文化、金融経済に関する資料を収集し、公開する目的で1995年(平成7年)7月に水戸市備前町に創設された。

館内には、貨幣や銀行に関する資料を展示する「貨幣ギャラリー」、郷土文化や金融に関する図書資料を公開する「史料ライブラリー」、「アートスポット」では随時企画展示が開催されている。

2階の「史料ライブラリー」は図書館の機能もあって、読書スペースやビデオ視聴の設備も備えられている。
2月7日(土)~3月22日(日)の期間は「徳川慶喜関連資料展」が開催されている。
『徳川慶喜公伝』『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』など、徳川慶喜に関連する資料を展示されている。



特に興味を持ったのは『将軍が撮った明治―徳川慶喜公撮影写真集』(朝日新聞社 ・1986/10刊)
15代将軍徳川慶喜は明治以後、歴史の表舞台から姿を消し、晩年の消息を伝えるものは少ない。
慶喜の直孫によって秘蔵されてきた数々の写真は、空白の時間を埋めると同時に、その卓越した写真技術は、明治の風俗、歴史を物語って貴重だ。
鮮明な写真は当時の状況を目の当たりに見せてくれる。

●常陽史料館創設の翌年(1996年の9月)に「アートスポット」で『後藤清一・その深き美の世界』展を開いていただいた。
約20年前のことで、記憶のある方は少ないだろうが、後藤清一さんの彫塑の世界を知って頂くことが出来たことは嬉しい。
会報『常陽芸文』2003年5月号に芸文風土記「茨城彫刻界の重鎮・後藤清一」
として特集されたことも、良き思い出だ。
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「小沼里回(りえ)タペストリー展」@ 常陽史料館アートスポット

2015年02月19日 14時49分41秒 | 美術展
「小沼里回(りえ)タペストリー展」@ 常陽史料館アートスポット
2月3日~3月22日




織物作家・小沼里回さんの作品は、茨城県芸術祭美術展覧会や水戸市芸術祭美術展覧会等で何度か観たことがある程度だった。
今回は、点数も多く技法も多岐に渡り、30年に渡る制作活動を観る全貌展と言えるだろう。

地下に通じる階段の踊り場に織機が展示されている。
手織りの機械としては大型だ。
それに付随する、紡績や糸巻の道具類も展示されている。
染色から糸作り、更に織り上げるまで根気のいる仕事なのだ、と理解が深まる。



羊毛ばかりでなく絹糸を多く使うところが小沼さんの特色のように思った。
性格の異なる両者の織りなすタピストリーは半立体的だ。
色彩感覚とデザイン構成力が素晴らしい。

手仕事の盛んな北欧で、さまざまな織りの技法を駆使した作品に刺激を受けたことにから、単なる織物でない造形表現の可能性に取り組まれているようだ。

技法的なことは良くわからないが、柔らかで暖かみの作品群は繊維のマジックのように思えた。
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「あこがれの空へ―民間パイロットの先駆け 武石浩玻―」@水戸市立博物館

2015年02月19日 00時09分29秒 | 博物館
「あこがれの空へ―民間パイロットの先駆け 武石浩玻―」@水戸市立博物館
2015年2月14日(土)~3月22日(日)








ライト兄弟が有人動力飛行に世界で初めて成功したのが1903年、今からわずか112年前のことだ。ライト兄弟以後、飛行機はより速くより高くより遠くへ飛べるよう改良が続けられた。

茨城県那珂郡勝田村勝倉(現・ひたちなか市勝倉)出身の武石浩玻(1884年- 1913年)は1902年(明治35年)、茨城県尋常中学校(現・茨城県立水戸第一高等学校)卒業後、渡米。
職業を転々としながら放浪を続け、イェール大学に入学するも中退。
1910年(明治43年)、ユタ州ソルトレイクシティで『ロッキー時報』という邦字新聞の主筆を務めながらユタ大学に通学していたが、この時、フランスの飛行家ルイ・ポーランの姿に感動し、飛行家を志す。
当初はライト飛行学校に入学したが、1912年(明治45年)2月にカーチス飛行学校に転じ、同年5月、飛行免状獲得。1月に合格した滋野清武、4月に合格した近藤元久に次ぐ、日本の民間人として三番目の飛行家となった。

1913年(大正2年)4月、日本に帰国。同年5月4日、大阪・京都間の都市間連絡飛行に挑んだ際、京都深草練兵場への着陸に失敗し墜落死。28歳。
民間飛行家として最初に日本の空を飛んだ人物であり、民間飛行家の最初の犠牲者でもある。(Wikipedia)



操縦席に座る武石浩玻



墜落した武石浩玻の飛行機

今回の展覧会は、当時の写真や墜落した機体の操縦輪や車輪なども展示されている。
時速70キロ位だったが、目視による飛行なので、事前にルートを歩いて景色や建物などを確認する必要があった。

操縦席は、木の梯子状の所に座るだけで、身体を覆う設備も付いてない。
安全性は殆ど無いような乗り物だった。
それでも、空を飛ぶと云うことだけで大勢の観客が押し寄せた。

衝撃的な武石の最期に日本中が騒然とし、盛大な葬儀が営まれた。
それらは、日本の飛行機に対する熱を一層高めるものとなった。

墜落死から間もなく、郷里の水戸では記念像の建立が計画された。
募金運動が始まり、事故から半年後の12月には茨城県尋常中学校の 西端、旧水戸城址の土塁の上に銅像と碑文が建立された。

第二次大戦中、鍋釜から梵鐘まで多くの貴重な品々が供出させられたが、「飛行家」の像と云うことで免れた。
アメリカ軍の占領下でも、民間パイロットの像なので何のお咎めも無く存続した。
2011年の東日本大震災で台座が崩落したが、同年11月に場所を移して再建された。

100数十年で飛行機は大進化を遂げ、誰もが気楽に乗れる時代となった。
ここに至るまでの礎となった、武石浩玻の存在はあまり知られていない

少ない資料で、短い生涯を遂げた武石の業績を辿る企画は難しかったであろう。
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