山本寛斎さん、
コシノジュンコさんのアトリエで働き始めて間もなく「この人が、加わることになりました、宜しく」とジュンコさんに伴われ青年が現れた。
長身で精悍な顔つき、声が大きく元気がいい。
「高橋さん、カッテングは教わりますが、デザインは僕が教えますから」が挨拶代りの会話だった。
やまもと寛斎と名乗り、岐阜の出身で日本大学英文科を中退したとのことだ。
名前からして奇抜だが、真っ赤なジーパンを穿き、自信たっぷりで派手な雰囲気を漂わせていた。
当時、ズボンの類を「パッチ」とも呼んでいた。
セツ・モードセミナーの長沢節先生着用する、前中心に縫い目のある細身のズボンに由来するのか、或いは、江戸時代からの職人の股引からか?
とにかく、真っ赤なジーパン姿は「赤パッチ」と呼ばれることになった。
僕のアパートは中央線の大久保。
彼も同じ中央線の阿佐ヶ谷、帰り途、僕のアパートに立ち寄った事もあった。僕も阿佐ヶ谷に行き、商店街の食堂で飯を食ったこともあった。
お互いに貧乏だし、ましなものは食べられない時代だった。
高田賢三さんがパリに発つ頃で、防衛庁の辺にアトリエが在ったのか、通りがかりに目礼をすると、挨拶を返してくれたことはいい思い出、賢三さんは既に、かなり名が知られていた。
浜野安宏さんも近くに住んでおられた。
浜野さんは日本大学芸術学部在学中から「造像団」というデザイン・プロジュース組織を立ち上げていた。
堂々たる風貌でカリスマ性があったから、多くの人が彼の周りに集まった。
寛斎さんも「造像団」に関係していたのかもしれない。
日大を中退しデザイナーを目指しアトリエに来たのは、浜野さんの紹介と思った。
僕はピンチヒッターと言う感じで、数か月しか在籍しなかったから、詳しいことは分からない。
寛斎さんはその後、第21回「装苑賞」を受賞しデザイナーとして認められ、
1971年(昭和46年)に独立して、株式会社「やまもと寛斎」を設立した。
同年、ロンドンで、日本人初となるコレクション 『Kansai in London』を実施した。その時の演出であったか、自らが歌舞伎の黒子の姿で登場し進行してゆくスタイルは、斬新でかつ日本的だった。
1993年「ハロー!! ロシア」をロシア・モスクワ 赤の広場で開催する等、毎年大きなイベントを開催しプロジューサーとしての活躍が目立つ。
現在は、テレビタレントとして出演している。
世界的に活躍しているが、そこに至るまでの過程などが放送されたり週刊誌に掲載されたりすることがある。
結婚に至る物語は、ダスティン・ホフマンの映画『卒業』と同様だったとの記事を読んだことがあった。
また、幼い娘を連れてアジア?外国を旅した写真集の様なものを観た記憶がある。かなりの冒険旅行で、その娘さんが女優の山本未来なのか?
少年時代を語ったテレビ番組によれば、
両親が離婚し、伯父を頼り2人の弟を連れ高知県に行く引き受けを断られ、児童相談所に収容されたが脱走。その後、父に引き取られ、父方の祖母がいた岐阜市に落ち着く。恵まれた幼少期ではなかった。
父が洋服縫製業を始め、寛斎も縫製の手伝いをするようになった。
そのうちに中学の友人から制服の直しを受けるため、ミシンを踏み始めた。
中学時代からミシンを踏んだり縫製の経験もあったのだ。
少しの間、同じ職場で働いただけ、派手で明るく何の悩みもなさそうな印象であったが、かなりの苦労をしていたことを知った。
時々、テレビ等で活躍している姿を見ると、コシノジュンコのアトリエに入社した時から、彼の頭の中には世界で活躍したいとの大きな夢を抱いていたのだろう。
50年に近い昔の、ほんのわずかな一コマ。
防衛庁跡地はミッドタウンとなり、かっての住宅街は大幅に変貌した。
朝のテレビ小説「カーネーション」を見ていると、いろいろなことを思い出す。
コシノジュンコさんのアトリエで働き始めて間もなく「この人が、加わることになりました、宜しく」とジュンコさんに伴われ青年が現れた。
長身で精悍な顔つき、声が大きく元気がいい。
「高橋さん、カッテングは教わりますが、デザインは僕が教えますから」が挨拶代りの会話だった。
やまもと寛斎と名乗り、岐阜の出身で日本大学英文科を中退したとのことだ。
名前からして奇抜だが、真っ赤なジーパンを穿き、自信たっぷりで派手な雰囲気を漂わせていた。
当時、ズボンの類を「パッチ」とも呼んでいた。
セツ・モードセミナーの長沢節先生着用する、前中心に縫い目のある細身のズボンに由来するのか、或いは、江戸時代からの職人の股引からか?
とにかく、真っ赤なジーパン姿は「赤パッチ」と呼ばれることになった。
僕のアパートは中央線の大久保。
彼も同じ中央線の阿佐ヶ谷、帰り途、僕のアパートに立ち寄った事もあった。僕も阿佐ヶ谷に行き、商店街の食堂で飯を食ったこともあった。
お互いに貧乏だし、ましなものは食べられない時代だった。
高田賢三さんがパリに発つ頃で、防衛庁の辺にアトリエが在ったのか、通りがかりに目礼をすると、挨拶を返してくれたことはいい思い出、賢三さんは既に、かなり名が知られていた。
浜野安宏さんも近くに住んでおられた。
浜野さんは日本大学芸術学部在学中から「造像団」というデザイン・プロジュース組織を立ち上げていた。
堂々たる風貌でカリスマ性があったから、多くの人が彼の周りに集まった。
寛斎さんも「造像団」に関係していたのかもしれない。
日大を中退しデザイナーを目指しアトリエに来たのは、浜野さんの紹介と思った。
僕はピンチヒッターと言う感じで、数か月しか在籍しなかったから、詳しいことは分からない。
寛斎さんはその後、第21回「装苑賞」を受賞しデザイナーとして認められ、
1971年(昭和46年)に独立して、株式会社「やまもと寛斎」を設立した。
同年、ロンドンで、日本人初となるコレクション 『Kansai in London』を実施した。その時の演出であったか、自らが歌舞伎の黒子の姿で登場し進行してゆくスタイルは、斬新でかつ日本的だった。
1993年「ハロー!! ロシア」をロシア・モスクワ 赤の広場で開催する等、毎年大きなイベントを開催しプロジューサーとしての活躍が目立つ。
現在は、テレビタレントとして出演している。
世界的に活躍しているが、そこに至るまでの過程などが放送されたり週刊誌に掲載されたりすることがある。
結婚に至る物語は、ダスティン・ホフマンの映画『卒業』と同様だったとの記事を読んだことがあった。
また、幼い娘を連れてアジア?外国を旅した写真集の様なものを観た記憶がある。かなりの冒険旅行で、その娘さんが女優の山本未来なのか?
少年時代を語ったテレビ番組によれば、
両親が離婚し、伯父を頼り2人の弟を連れ高知県に行く引き受けを断られ、児童相談所に収容されたが脱走。その後、父に引き取られ、父方の祖母がいた岐阜市に落ち着く。恵まれた幼少期ではなかった。
父が洋服縫製業を始め、寛斎も縫製の手伝いをするようになった。
そのうちに中学の友人から制服の直しを受けるため、ミシンを踏み始めた。
中学時代からミシンを踏んだり縫製の経験もあったのだ。
少しの間、同じ職場で働いただけ、派手で明るく何の悩みもなさそうな印象であったが、かなりの苦労をしていたことを知った。
時々、テレビ等で活躍している姿を見ると、コシノジュンコのアトリエに入社した時から、彼の頭の中には世界で活躍したいとの大きな夢を抱いていたのだろう。
50年に近い昔の、ほんのわずかな一コマ。
防衛庁跡地はミッドタウンとなり、かっての住宅街は大幅に変貌した。
朝のテレビ小説「カーネーション」を見ていると、いろいろなことを思い出す。