「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

山本寛斎さん、

2012年03月10日 23時05分14秒 | 人間
山本寛斎さん、

コシノジュンコさんのアトリエで働き始めて間もなく「この人が、加わることになりました、宜しく」とジュンコさんに伴われ青年が現れた。
長身で精悍な顔つき、声が大きく元気がいい。
「高橋さん、カッテングは教わりますが、デザインは僕が教えますから」が挨拶代りの会話だった。
やまもと寛斎と名乗り、岐阜の出身で日本大学英文科を中退したとのことだ。
名前からして奇抜だが、真っ赤なジーパンを穿き、自信たっぷりで派手な雰囲気を漂わせていた。

当時、ズボンの類を「パッチ」とも呼んでいた。
セツ・モードセミナーの長沢節先生着用する、前中心に縫い目のある細身のズボンに由来するのか、或いは、江戸時代からの職人の股引からか?
とにかく、真っ赤なジーパン姿は「赤パッチ」と呼ばれることになった。

僕のアパートは中央線の大久保。
彼も同じ中央線の阿佐ヶ谷、帰り途、僕のアパートに立ち寄った事もあった。僕も阿佐ヶ谷に行き、商店街の食堂で飯を食ったこともあった。
お互いに貧乏だし、ましなものは食べられない時代だった。

高田賢三さんがパリに発つ頃で、防衛庁の辺にアトリエが在ったのか、通りがかりに目礼をすると、挨拶を返してくれたことはいい思い出、賢三さんは既に、かなり名が知られていた。

浜野安宏さんも近くに住んでおられた。
浜野さんは日本大学芸術学部在学中から「造像団」というデザイン・プロジュース組織を立ち上げていた。
堂々たる風貌でカリスマ性があったから、多くの人が彼の周りに集まった。

寛斎さんも「造像団」に関係していたのかもしれない。
日大を中退しデザイナーを目指しアトリエに来たのは、浜野さんの紹介と思った。
僕はピンチヒッターと言う感じで、数か月しか在籍しなかったから、詳しいことは分からない。

寛斎さんはその後、第21回「装苑賞」を受賞しデザイナーとして認められ、
1971年(昭和46年)に独立して、株式会社「やまもと寛斎」を設立した。
同年、ロンドンで、日本人初となるコレクション 『Kansai in London』を実施した。その時の演出であったか、自らが歌舞伎の黒子の姿で登場し進行してゆくスタイルは、斬新でかつ日本的だった。
1993年「ハロー!! ロシア」をロシア・モスクワ 赤の広場で開催する等、毎年大きなイベントを開催しプロジューサーとしての活躍が目立つ。
現在は、テレビタレントとして出演している。

世界的に活躍しているが、そこに至るまでの過程などが放送されたり週刊誌に掲載されたりすることがある。

結婚に至る物語は、ダスティン・ホフマンの映画『卒業』と同様だったとの記事を読んだことがあった。

また、幼い娘を連れてアジア?外国を旅した写真集の様なものを観た記憶がある。かなりの冒険旅行で、その娘さんが女優の山本未来なのか?

少年時代を語ったテレビ番組によれば、
両親が離婚し、伯父を頼り2人の弟を連れ高知県に行く引き受けを断られ、児童相談所に収容されたが脱走。その後、父に引き取られ、父方の祖母がいた岐阜市に落ち着く。恵まれた幼少期ではなかった。
父が洋服縫製業を始め、寛斎も縫製の手伝いをするようになった。
そのうちに中学の友人から制服の直しを受けるため、ミシンを踏み始めた。
中学時代からミシンを踏んだり縫製の経験もあったのだ。

少しの間、同じ職場で働いただけ、派手で明るく何の悩みもなさそうな印象であったが、かなりの苦労をしていたことを知った。

時々、テレビ等で活躍している姿を見ると、コシノジュンコのアトリエに入社した時から、彼の頭の中には世界で活躍したいとの大きな夢を抱いていたのだろう。

50年に近い昔の、ほんのわずかな一コマ。
防衛庁跡地はミッドタウンとなり、かっての住宅街は大幅に変貌した。

朝のテレビ小説「カーネーション」を見ていると、いろいろなことを思い出す。

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コシノジュンコさん

2012年03月09日 00時08分52秒 | 人間
コシノジュンコさん

NHKの朝の連続テレビ小説『カーネーション』はコシノ三姉妹を育てた母親のものがたり。
大阪・岸和田市を舞台に、大正から昭和、平成を「だんじり魂」で駆け抜けた92年の生涯を描いているが、めまぐるしく展開するので楽しくみられる。

三姉妹の次女・コシノジュンコさんのアトリエに数か月だが、お手伝いしたことが有るので懐かしくもあり、その様だったのか、と合点することの方が多い。
今から45年も前の数か月、ジュンコさんの記憶には無いだろうが。

コシノジュンコさんや高田賢三さん松田光弘さん達は文化服装学院デザイン科の花の9期生といわれた。
僕が文化に入学した昭和35年、コシノさんはデザイナーの登竜門と言われる『装苑賞」を19歳で受賞し、在校生約1万の頂点立つような有名人で、我々、普通の学生から見たら雲上人のような存在だった。
デザイン科の科長小池千枝先生(後に学院長を務められた)の指導力も有ったろうが、各自の能力と競争心があいまって個性豊かな人材が一挙に現れたのだろう。卒業後は、それぞれが直ぐに華々しい活躍を始めた。

たまたま僕が勤めた会社のアトリエが六本木の防衛庁(現。東京ミッドタウン)の近くで、コシノジュンコさんの竜土町の自宅もすぐ近くだった。
ジュンコさんのアトリエの縫製をしていた業者の方が「ジュンコさんのアトリエでカッターを探しているのだけれど」という話で、臨時的に務めるようになった。

コシノジュンコさんの人柄はテレビ報送のお母様や本人と同じ、インパクトの強い方で、仕事の鬼と云う感じではあったが、無茶苦茶怖い人ではなかった。
時に、怒られたが、全て僕がボンクラデだったため。
テレビを観て分かる様に、子供時分からお母様の洋装店の仕事を見聞きしていた方から見たら、僕の経験年程度は素人同然、さぞ歯がゆく感じられたことであろう。
テレビで観ると、既に銀座に店を出されていたようだが、僕が勤めていた感じでは自宅を中心にされていたように思った。当時は自分の担当していることしか知らなかった。
朝、自宅に行き作業の指示を受けて、六本木のアトリエに行き、裁断をする。
当時のあの辺は人通りも少なく、交さ点の「アマンド」や「ゴトウ花店」のすぐ裏の民家を借りたアトリエだったが、誠に静かな場所だった。

コシノサンは既にカメラマンのSさんと言う方と結婚しておられ、龍土町の自宅はお二人の事務所も兼ねられている感じであった。
僕が感心したのは、いつも整然とした部屋でファッションに関する本や雑誌の類は一切見たことが無かった。

デザインなど、創造的発想は自然に頭の中に湧き上がってくるものかと感心した記憶がある。

テレビで観ると大阪やデパート等、忙しい日々だったらしいが、その様な事を感じさせることも無く、仕事をこなしていた。
まだ20代半ばであった.
大成する方は、並みの素質ではありませんね。

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『自立社会への道』(新泉社) 

2012年03月04日 22時24分03秒 | 人間
『自立社会への道』(新泉社) 出版記念の集い @石岡プラザホテル
            3月4日(日)午後2時から






筧次郎さんの著作『自立社会への道―収奪の五〇〇年を超えて』の出版を祝う集いが石岡市で開かれ、約80人が集った。

筧さんは1947年に水戸市の生まれ。
哲学・言語学を学び、花園大学講師を務めた学究の徒であった。
机上の学問に限界を感じ「もっとよく見るため」と1983年から筑波山麓にて百姓暮らしを始めた。

生き物は自然の恵みを受けて生きている。
百姓暮らしで日々の暮らしは成り立つはず、と考えた。
機械や農薬・化学肥料を使用しない昭和30年代迄の農業を実践する事にした。

農業を通して社会見つめよう。
今なら、その考えを受け入れる社会環境に成りつつある。
当時は“青白き学究の徒”に農業が務まるか?
との世間は危惧したが、この春で丸30年を迎えた。

周囲の古老から以前の農法を学びながら、悪戦苦闘・試行錯誤の毎日だった。
農作業の体験を『百姓入門~奪ワズ汚サズ争ワズ』『百姓の思想 丸い地球の暮らし方』などに著わし、時には講演活動も行った。

「次の世代を守る会」を通じての、完全な無農薬野菜の供給と購入システムを組織し、農村会員(生産者)と都市会員(購入者)との交流の場を多く持った。
ちかごろ流行の、生産者直売のシステムとは似て非なるもので、お互いに覚悟が必要とされる。
そのため、脱落する人達もいたが、理解し支援する人達も増えた。

2002年から自給自足の暮らしで自立の精神を養う「スワラジ学園」を立ち上げ、学園長を務めている。
1年間の研修の後、農業者としての生活を営む人も何人か出来た。

旧八郷村は、新たに農業を学び、実践する人達の聖地となった。
勿論、筧さん夫婦だけの力ではないにしても、筧さんの言動は大きな源泉となっている。



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吉野満彦さん逝く

2012年02月14日 19時15分46秒 | 人間
吉野満彦さん逝く






芳野満彦さんが2月5日に80歳で亡くなられた。
昨年末、友人から「芳野さんが入院した」との知らせを受けて、お見舞いに行った。年を越すのは難しそうとの、医師の診断も有ったが、新年を迎え初場所の相撲中継も楽しんでおられた。

1987(昭和62)年1月9日~14日に水戸市泉町のタキタ画廊で「芳野(服部)満彦山岳画展」が開催され、芳野さんを知った。
“伝説の登山家”芳野さんが、ヒマラヤやヨーロッパの山々に登った時のスケッチや油絵180点が展示されていた。
特に心を奪われたのは、画帳に鉛筆やサインペンで書かれた絵や文章。
スケッチは水彩やパステルなどで簡単に彩色されている。
切符やレシートなども貼られた旅日記。
それらが、何十冊も展示されていた。

後で知ったが、通常も詩やスケッチを書き留める習慣で『山靴の音』の一部にはそれらも挿入されている。

それ以来、住まいがごく近所と云うこともあって、ちょいちょいお邪魔した。
部屋には何時も、どなたか御出でで、酒盛りや将棋や雑談を交わしていた。
アパートの部屋が山小屋という感じで、時には室内にテントが張られ、寝袋も有った。ビバーク(野営の意味か)と称し、酔っ払って立ち寄って朝まで寝てる人も居たり、ユニークな部屋と人達だった。
当時の人々の奇行を想い出すと懐かしい。

東京新聞出版局 の雑誌『岳人』に1年間連載した画文集がまとめられて『新山靴の音』として出版されたのは1992(平成4)年3月だった。
盛大な出版パーテーも開催された。奥様が亡くなる少し前の出来事だったように記憶している。

雑誌連載の頃に分かったのだが、文章や絵はいとも簡単に仕上げる。
原稿は1日で充分と話していたが、まさにそうだった。

その頃から、絵かきとしての仕事が増え、あちこちで「山岳画展」を開催された。還暦を迎えたころではあったが、山登りも続けられており、ネパールへのトレッキングガイドなどもなさっていた。

10年前頃か?軽い脳梗塞が二度続き、それ以来、酒をぴったりと断った。
酒の気のない芳野さんは、少しばかり物足りなく思えたが、一滴たりと口にすることはなかった。
タバコは医者に止められていたが、たまには吸われたようだ。

“伝説の登山家”と呼ばれるのは、本人は”山家”と称していたが、生きていながら『伝説の』が付くのはご承知の様に・・・・

1948年(昭和23年)、早稲田高等学校2年の17歳のとき八ヶ岳で遭難して両足指をすべて欠くが、(凍傷にかかり、かかとから足先まで12センチしかない)
リハビリを重ね、平地で歩くのは人より遅いが、岩登りにかけては一流となり、
日本人で初めてマッターホルンの北壁を登り、続けてアイガー、グランドジョラスの北壁を登った。当然、ヨーロッパアルプスの三大北壁を登ったのは芳野さんが初めてだった。
グランドジョラスではパートナーを失ったし、八ヶ岳の遭難でも友人が凍死している。そうした、劇的な登山は彼をモデルにした新田次郎の「栄光の岩壁」に詳しい。
昭和30年~40年代は登山が大流行、芳野さんは当時のヒーローだった。
「山靴の音」(昭和34年10月、朋文堂)は、当時は山男のバイブルとして読まれた。

更に、沢山の伝説があるのだろうが、知り合いになって約25年。
己の実績について自慢話的なことは語らなかったから、詳しいことは分からない。
東京・日暮里で生まれ育ったことを誇りに思い、常に日本人としての矜持を持っておられた。
感情を顕わにされる事も有ったが、照れ屋で優しい方であった。

ネパールにご一緒しヒマラヤの山々を見たかったことや、もう少し盃を重ねたかった、との思いが残る。

12日の通夜しか出席できなかったが、その際、三浦雄一郎さんの姿を拝見した。
芳野さんより一歳年少の79歳。
来年の80歳でエベレスト登頂を目指し、日々トレーニングを重ねている姿が報道され、期待されている。
鍛えられた強靭な体つきは、とても年齢には見えない。
芳野さんと三浦さんの交流は50年以上に渡る。
芳野満彦さんの思いを胸に、80歳でのエベレスト登頂を果たしてほしい。

芳野満彦のヒマラヤ画帳_02.flv
http://www.youtube.com/watch?v=A-7joM0ym7E
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友明堂主人 田中昭光さん

2012年02月13日 23時23分25秒 | 人間
友明堂主人 田中昭光さん @奈良市春日野町





「おとな日和」10号に掲載された吉田光男さんのエッセイ『そうだ、京都へ…』に触発され、2月6日~8日までの2泊3日の旅が実現した。
新幹線京都駅から近鉄特急に乗り換え、先ずは奈良に。
月曜日で国立奈良博物館は休館日とは承知していたが、昨年開設された『東大寺ミュージアム』も臨時の休館と知った。




奈良といえば、博物館正門前の「友明堂」を訪ね、古美術品を眺め、お菓子と抹茶を戴き、店主、田中昭光さんの話を伺うのは大きな楽しみだ。
古美術の世界に取りつかれていた時分にはお伺いする機会が多かったが、近ごろはご無沙汰している。前回は2010年4月だから約二年ぶりの訪問となる。







店頭のウインドーを始め、店内のあちこちに素敵な花が活けられている。
器・花・田中さんの技術と感覚の三位一体によるものだ。



活けた花と器とお菓子の記録『野の花を活ける茶花十二か月』(文化出版局, 1984年)は何十版を重ねたロングセラーだが今は絶版らしい。



古美術が専門だが、無法庵と号して奈良茶も嗜まれている才人で奇人。
世間体など全く気にせず、我が道を行く方だ。

店で供される抹茶のお菓子も手作り。



今年は『月刊 淡交テキスト』~茶花 季節の花を入れる~淡交社刊として、一年間の連載が始まったとのことだ。
毎号、花と器を6~7点、さらに『無法庵 昔語り』という随筆も掲載されている。

この様なお店とご主人は奈良の地、ならではだ。
何年に一度であろうとも、この様な方お会いできるのは真に嬉しい。

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自由が丘スタジオ@水戸市東原2-7-39

2012年01月31日 22時26分18秒 | 人間
自由が丘スタジオ@水戸市東原2-7-39 石田外科裏



洗足池病院に附設されている「ギャラリー・古今」の記事を書いて、水戸市東原の石田外科敷地内の「自由が丘スタジオ」を思い起こした。

石田外科院長石田哲郎 さんはジャズが大好きで、毎週のように東京のライブに行っていた。
友人のミュージシャンの縁もあって、病院の一画にログハウスのスタジオを設けたのが1996年。
スタヂオの広さは、およそ100㎡。
スタインウェイのグランドピアノ、ハモンドオルガンB3も置かれている。
更に、レコーディング機材とミキサー質も完備。
コンサートもレコーディングも何時でも出来る状態になっている。



月に2回から3回ほどのコンサートが開催され、一流アーティストの演奏が、平均3000円と格安なのだが黒字になることは稀らしい。

赤字覚悟の運営を15年以上も続けているのには頭が下がる、
水戸ホーリーホックのチームドクターで、水戸のホームゲームはスタジアムに詰めている。
これまた、ボランテア活動だ。

次回のコンサートは、
2月17日(金)19:30~
川上さとみトリオの5枚目のアルバム「オーキッド」発売記念ライブ。
川上さとみ(P) 小杉敏(B)田鹿雅裕(Ds)

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朝ヨガ @アクアメディクス

2011年11月06日 12時25分09秒 | 人間
朝ヨガ @アクアメディクス

2月にスポーツクラブに入会した。
3月の大震災で1ヶ月間休業。
4月になって再開された。

マシンによるトレーニングはしないで、1時間ほどプールで過ごし、風呂に入って戻ってくる。
プールにはジャグジーバスもあるし、風呂場にはサウナもある。
スーパー銭湯並み。或いはそれ以上だ。

たまに、水泳のレッスン出ることもある。
水府橋の下那珂川の「水場」で覚えた、自己流だから正式には泳げない。
指導を受けて、クロール。平泳ぎ、背泳ぎなどが幾らか上達した。


今朝は「朝ヨガ」と云うスタジオレッスンに出席してみた。

インストラクターは「○○先生の代理ですが、誰も同じようと云うことではなく、人それぞれです、自分なりにやりましょう」とのこと。
ヨガはインド生まれ、インドでも沢山の流派があるが、伝わった日本でも沢山おやり方がある。
しかし、基本は呼吸法。
五木寛之の言う「養生」の基本でもある。吐く息を長く、ゆっくり。

身体の動きは激しくないが、身体の中から汗が出てくる。
1時間があっという間に過ぎた。

愉しく身体を動かし、その後の風呂が心地よい、

養生は健康法と云うより。身体と心を休め楽しく自分をいたわること。
自分の体験と実践が、養生に結び付きつつあるのは嬉しい。

今から、ケーズスタジアム、ホーリーホックの応援。
これまた、養生の実践です。


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細胞が元気になり血行が良くなる。

2011年05月11日 23時18分45秒 | 人間
細胞が元気になり血行が良くなる。
「メディフロー ルーム」 @水戸市泉町3丁目




歳を重ねれば老化が進むのは当然のこと。
最近、手足が冷たいと感じることがある。
何とかならないものか?ともおもう。

細胞を活性化させて、血行が良くなり体温を上昇させ、免疫力が上がる。
と云う結構な施設が泉町に出来た。

今や、健康ブーム。
身体に良い、とする話は数多くある。
とても全てを鵜呑みにはできない。

この施設の運営主体は「岩間東華堂」、天和3(1683)年創業の薬屋さん。
薬局の他に、「岩間東華堂クリニック」と云う総合内科もグループだ。
岩間誠院長は44歳の時脱サラし、以前から興味のあった医学の道に進んだ。
医師になったのは51歳の時。
7年前にクリニックを開業、西洋医学と東洋医学のどちらも取り入れた統合医療、未病医学に取り組んでいる。

福島県いわき市在住の川上進盟さんが開発した、「リラクゼーションルーム・進盟」。
室内の気圧を上下させ、体内に酸素をまんべんなく巡らせる考えに共鳴した。
「この考えは免疫力を向上させる一つの方法」だと思い。設備を導入し「メディフロー ルーム」をオープンした。

気圧を下げることで酸素濃度が落ち、すると、細胞が「これは大変だ!」と反応して、酸素をたくさん取り入れようとする。
酸素が増えるとエネルギーが生まれて熱が加わり、身体が暖かくなる。
人間本来の免疫力を最大限に利用する。
と云う理論だ。

とにかく、試してみた結果を報告。



宇宙ステーションの様な円筒形の調圧室は、高地でマラソン選手が訓練すると同じような効果があるとのことだ。
室内は20人程が両側のベンチシートに座る。
係員の方から事前の説明で、「飛行機の内部の様な耳鳴りがするが、つばを飲み込むとか、耳抜き抜き(鼻を押さえて息を?み込む・上を向いて口を明ける)で対処するように」。
さらに、体温を計ってくれる。今の体温計は耳の穴に差し込むだけで瞬時に体温が表示される、35,6度だった。どちらかと云えば低めだろう。

扉を閉めて始まると、耳がトコトコ鳴り出す。
気圧の上げ下げが繰り返されるから、耳鳴りが強くなるが、飛行機の離着陸程の強さや不快感はない。

持参した本を読んでいる内に50分が経過。
体温を計ると36,3度だった。0,7度上昇した。
「普通。体温が上がるのはエネルギーが消費され心拍数も上がる。しかし、体温は上昇しても心拍数は上がらないのは、エネルギーを消費しているのではなく作り出しているから。つまり、細胞内でATPが作られているから」と云うことのようだ。

配布された資料の一部に。
『人間の体を作る60兆個の細胞は、水と酸素と主に食事から得られるグルコースを使って、ミトコンドリア内でATPという物質を合成します。ATPはエネルギーを化学的に蓄えた物質で、細胞のあらゆる活動のエネルギー源となっています、、、』
まるで分からないが、身体がポカポカと体温が上昇したのは事実。
体質改善に、通ってみようと思う。



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角聖・常陸山に学ぶ

2011年02月09日 16時22分42秒 | 人間
角聖・常陸山に学ぶ



小岩・亀戸・錦糸町など総武線を各駅停車の旅。
730円也のJR都区内自由切符を有効に使った。
夕暮れの両国駅で下車、近辺を散策した。




国技館の道路面には、関取衆の幟がはためいていた。
本場所が開催されていなくとも、立てておくようだ。

それから数日後、八百長問題が発覚し、春場所も中止となった。
相撲協会は「国技剥奪」の危機に瀕している。

今回の問題で思い出したのは水戸出身の第19代横綱、常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん・1874年- 1922年)。

旧水戸藩士の子として生まれた(明治7年)ことから、相撲の世界に武士道の考えを導入。それまで天皇・政府の庇護はありながらも、興行に過ぎなかった大相撲を国技と呼ばれるほどに押し上げ、かつスポーツのカテゴリに加える端緒を切り開いた最大の存在。
明治40年 8月に門弟 3人を連れて渡米し、第26代アメリカ合衆国大統領ルーズベルトとの会見を始めとして41年 3月まで米国各地で相撲の紹介に努めた功労者でもある。

ウィキペディアには


武家に生まれた影響か〈力士は侍である〉との思想の持ち主で、現役時代から力士の品位を向上させる努力を怠らなかった。また弟子への指導の厳しさは有名で、稽古場では常に愛用する青竹のステッキを持っていた。後の横綱たちをしても、彼が稽古場にこのステッキを持って現れれば、震え上がったという。悪い相撲をとったり稽古をしなかったりすると容赦なくこのステッキで殴っていたが、逆によい相撲をとれば賞金を出し、時にその金額は10円にも達したという。土俵外の生活においても厳格で、力士には絣の着物と袴の着用を徹底させ、門限に1分でも遅れたものには大関といえども容赦なくステッキを飛ばした。

等の逸話が書かれている。
相撲協会は何年かかろうとも、品格ある大相撲を再建してほしいと願う。


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清家清の自宅『私の家』

2010年08月22日 22時16分48秒 | 人間
清家清の自宅『私の家』



土曜日の夜10:00~10:30テレビ東京「美の巨人たち」は一枚の絵(作品)にスポットを当て、その一枚に込められた人と作品の秘密を探る番組。
作品の背景が分かり、普通の美術番組とは一味違う楽しさがある。



21日は、戦後を代表する建築界の巨人・清家清の自宅『私の家』だった。
清家が1954年に家族の為に建てたこの家は、日本の住宅のあるべき姿を追い求める上で“実験台”としての役割も担っていたという。



『私の家』には、玄関どころか、家のどこにも仕切りやドアがない。
横幅10m、奥行き5m、わずか50平米のコンクリートの箱。
つまりワンルームに居間、寝室、書斎、洗面所の全てが収められている。

予算がないので、必要最小限度の家しか建てられなかった。
と云うが、50平米という広さは、人間が疲労を覚えることなく掃除が出来る限界の時間を割り出し、そこから逆算して決めたとのこと。



ユニークなのは、この家のシンボルとも言うべき移動式の畳。
この畳、ちゃぶ台を置けばそのままそこがお茶の間になり、布団を敷けば子供の寝室に、庭に出せば庭全体がリビングになる。

清家清は、戦後のお金もモノもない時代に現れた建築家。
そうした時代の中、日本の住宅のあるべき姿を追求し、辿りついた答えが「ワンルーム」。
其の後、日本は高度経済の道をたどり、豪邸や億ションが珍しくない時代となった。

しかし、
人間が必要な広さとして『立って半畳、寝て1畳』という諺もある。
江戸時代の長屋は9尺×2間が標準だった。
1軒が僅かに6畳しかなかった、ということだ。
だから、いかに狭い空間を工夫しながら生活したいたか。
道具類も必要最小限だった。

清家清は仕切りのない空間で家族が生活することにより、相互の理解が進むと考えた。
子供達は個室など与えられなくとも立派に成長し、長男は慶応義塾の塾長まで務めた。
長男・長女・次女の成長につれて、隣接地に「長男の家」「家族の家」を増築するが基本のスタンスは同じだった。

戦後65年を過ぎて、日本人の生活は豊かになりすぎた。
清家清の自宅『私の家』は必要最小限度で充分。
ものや、広さにとらわれない心。
そこに、人間の幸せがある、と考えたのだろう。


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 『武士道』 新渡戸稲造著

2010年05月01日 10時02分52秒 | 人間
『武士道』 新渡戸稲造 著




このブログからリンクしている「たけちゃんのカナダ便り」と「B.Cおばさんのカナダ日記」の書き手はご夫婦だ。
年の半々を、カナダと日本ですごす羨ましい生活。
4月13日の記事に「新渡戸稲造の記念碑」と題し2枚の写真が掲載されていた。
 
彼の信念を表した”願わくはわれ 太平洋の橋 とならん”の文字。
ビクトリアと盛岡市姉妹都市10周年を記念して建てられた記念碑。


日本在住の外国人に『武士道』の愛読者が多い。
元々、英文で書かれていたこともあるだろうが、日本の文化の入門書の役割を果たしている。
世界中の各国語に翻訳され、出版されている。

日本人が読むには英文を日本語に訳した書物に頼ることになる。
これまで、多くの人達手で翻訳、出版された。

僕の住まいの近くにクエーカー教フレンド派の教会が在る。
1912年の創設、と記されているから100年近い歴史だ。

戦後間もなく再建され『ネイバーフッドセンター』の看板も掲げられた。
フレンド派は日本では「キリスト友会」と称されるごとく、近隣住民の集会場の役目も果たしていた。
従って、僕には子供の頃から近しい場所であった。

新渡戸稲造が属していた会派で、水戸の「フレンド教会」とも繫がりがあった、と聞いた事があった。
死亡した場所がヴィクトリアだ、ということに興味を持った。

英文で『武士道』を刊行したのはちょうど1900年。
日本は明治33年で、世紀の変わり目ということもあるが、内外ともに象徴的なことがおこった。
日清戦争と日露戦争のあいだにあたっている。
この頃、日本近代のさまざまな意味が集約されていた。
夏目漱石がロンドンへ行った年でもある。




僕の読んだ2冊は「須知徳平」と云う人の著書だ。
翻訳者によって見解は異なるだろう。

武士道に基づくわが国の道徳が、わが国固有のものであると同時に、西洋の思想の根本をなしているキリスト教の思想と共通する面が多いと述べている。

グローバルな時代になったとはいえ、NHKのテレビ番組『クールジャパン』の例を見るように、西洋と東洋が融和することの難しさがある。

更に、最近の高校・大学生など、自立性が失われているのでは?
等の問いに答える示唆も在る。

改めて見直されるべき人物であり思想だと感じた。
読書会など、『武士道』を勉強する機会に巡りあいたい。
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快調、「ジャニブロ」ベスト10入り。

2010年04月07日 00時27分32秒 | 人間
快調、「ジャニブロ」ベスト10入り。

2009年10月にスタートした「ジャニブロ」。
レストラン「シェ.ジャニー」のシェフ、ジャニーこと春田光治さんとアメリカ在住娘のAliceのコラボで綴られるブログ。
このページからもリンクしているので、多くの方々が幻の料理を堪能していることだろう。

ブログ開設して半年足らず『人気ブログランキング』でベスト10入りを果たした。
ジャニーのファンの1人として誠にうれしい。

見て、読んでお分かりのようにジャニーの料理は正統派。
何より味を大切にする。
レシピも全て公開されているから、試してみることは可能だが、手間・ひまのかけようは尋常ではないから、自分で試してみよう、等という気は消え失せる。

安比に行って、ジャニーのテーブルで食てみたい。との気持ちになる。
既にフレンチ、中華 、和食 、和食+中華 、イタリアンなど100以上の料理が紹介されている。
何れも、自分自身が納得するまで磨き上げられた料理だ。
僕は、ジャニーの料理は芸術だと思っている。
人間の五感の味覚を満足させてくれる。

「ジャニブロ」の魅力は料理もさることながら、ジャニーとAliceの対話が面白い。
特に“話し言葉”で語られる、ジャニーの評論に、喝采したくなることが多い。
世間では、未だにグルメブームは続いているようで、スイーツとやらが流行らしい。
このことなんか、ジャニーはどう感じているのかな?

余談はともかく、そのとおり。と感じた部分をコピーして、『ジャニーの語録』としてまとめたい、と思っている。
更に、ジャニーの凄さは幅が広いところ。
そして、こだわりが多いのに拘らない自由な心を持っている。

ブログを読めば分かるが、要約して転載してみると。
Aliceお気に入り漫画に「深夜食堂」というのがあり、面白いと思い日本のAmazonで注文し、ジャニーの住所に届くように手配した。そしたらジャニー、えらく気に入った模様。
周りにも勧めるほどのお気に入りよう。(*注、僕の所にもお勧めのメールが有った)

ジャニー「深夜食堂、良いね~~~、Aliceの好みとは、すげ~~~ホロリと来るじゃん?
ワタシはホロリもの好きだけど・・・
絵も良いし、中身がしっとり、Aliceがあんなものわかるとは~~~大人になったんだね~
ただし、料理は3流、下世話過ぎ~~~」

私「えっ!料理もいいじゃんあれはあれで。居酒屋が舞台なんだから。
みんな絶対家ではこういう食事してるはず。
パパだって鮭缶そぼろ食べるくせに」

ジャニー「鮭缶そぼろとタコソーセージを一緒にするなっ」
鮭缶そぼろ、焼き海苔、カチャカチャご飯(卵かけごはん)、タラコ、全然下世話でないが、
鰺フライ、赤ウィンナー、○○にマヨネーズ、インスタントラーメンは下世話と言うより下品じゃ。

独断だが、
ナポリタンは許容範囲、
だが『ナポリタンは魚肉ソーセージだよね』は下品、
『ナポリタンにマヨネーズいれると美味いよ』も下品
ソース焼きそばは下世話、
タコ焼きも下世話、
明石焼きは美味しい料理、
お好み焼きは下世話、
もんじゃ焼きは下品(特に見た目)
以上単に好き嫌いでの判断でした。


なんていう会話は、ジャニーの別な面を垣間見た感じがした。




僕は安倍夜郎の「深夜食堂」を未だ読んでいないので、ウェブで検索したところ、
2006年10月に小学館発行の漫画雑誌『ビッグコミックオリジナル増刊』に読切一挙3話掲載で初登場。
新宿・花園界隈の路地裏に、マスター1人で切り盛りする小さなめしやがある。
深夜0時から朝の7時頃までの営業で、のれんには単に「めしや」と書かれているが、常連客からは「深夜食堂」と呼ばれている。メニューは豚汁定食、ビール、酒、焼酎しかないが、マスターが出来るものなら言えば何でも作ってくれる。深夜しか営業していないこの店を舞台に、マスターと客たちとの交流を描く。現在、第五巻まで発売されている。

新宿・花園界隈の「めしや」を舞台に繰り広げられる人間模様は僕としても多いに興味が在る。
なるべく早く読んでみたい。

「ジャニブロ」は深いブログですぞ。

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日曜美術館 「北大路魯山人」

2010年02月14日 17時36分06秒 | 人間
日曜美術館 「北大路魯山人」

北大路魯山人の旧居を訪ねた際にテレビの撮影が行われていた。




たまたま「日曜美術館」を観ていたら、ほんの僅かだが、その時の撮影されたらしき画面が映った。
戦後間もない頃、イサム・ノグチと山口淑子が新婚所帯を魯山人旧居の一隅に構えた逸話も紹介されたが、その場所は現在の山崎小学校のグランドのところ。
と言う話を現地の人から聞いた。

魯山人のコレクターである「何必館・京都現代美術館館長」梶川芳友さんが登場し、作品の紹介や人となりを語っているのも興味深かった。



何必館・京都現代美術館では「美の異端児 魯山人を使う」展が2月14日~3月28日に開催されているという。
行きたい展覧会だが、、、、
生前魯山人は、「高みを行く人間は、大衆には決して理解されない」「解る人には解るが、解らない人にはいくら言っても解らない」と言っていたらしい。 
また「大衆に受け入れられ、ほめられるものは、低級の美に過ぎない」とも云ったようだ。

たまたま、シェ・ジャニーの春田さんから戴いたメールに「人というものは、解る人には瞬時に解るが、解らない人には朝まで言っても解らないものです」と、魯山人同様のメッセージを貰ったばかりだ。

日頃、ジャニーと魯山人の共通点などを感じることがある。
味や料理に対し、徹底して追求する姿勢などについてだが、才人には何か共通項がある。

『和楽』2007年2月号「わが家で・魯山人ごはん」で銀座久兵衛・今田洋輔さんと
 春田光治さんのお二人が魯山人の器に料理を盛り合わせた特集があった。
この特集は、魯山人を通して食に関わる哲学が伝わる。


桜の頃、鎌倉の魯山人旧居、安比の「シェ・ジャニー」の春田さんを訪ねる。
3月に何必館・京都現代美術館の「美の異端児 魯山人を使う」展を観に行く。

今日(2月14日)は旧暦の元旦、初夢は無限に広がる。

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詩集「花守の賦」(はなもりのうた)川野辺精著、1982年刊。

2010年02月05日 23時10分34秒 | 人間
詩集「花守の賦」(はなもりのうた)川野辺精著、1982年刊。

ここ数日寒い日が続いている。
寒いからと言うわけではないが、西の谷の清掃作業を暫らくサボっている。
相変わらずゴミ拾いに精を出しているのはSさんご夫妻。
犬の散歩がてら、欠席なしのようである。
有難う御座います。

奥様の父親は川野辺精という詩人だった。
戦雲くらい昭和18年に詩集「新しき朝」を上梓した。
第二次大戦のさなか、詩を書いたり詩集を発行するなどと言うのは、非国民とみなされかねない時代で、反骨の人だった。タイトルも新しい時代を望んでつけたようだ。
詩人と言っても会社勤めのかたわら詩作に専念した。
素人ながら己の人生を詩にかけた人生は尊い。



川野辺さんは野草や山草が大好きだ。
第二詩集は「野草幻想」で、七年後に第三詩集「花守の賦」を刊行した。
最近、この詩集を手にする機会を得た。

みふゆのうた
はるべのはな
しめじのうた
あきざまのはな

のタイトルの下に、四季折々の花々が約90集められている。
僕の好きな春の花も詠われている。

ぼけ-木瓜-

ほてり まぶしき
春の陽を

うららに 浴びる
林泉に

はげしく ほむら
もやしつつ

思い出をを追う
せつなさの

あまく はかなき
やるせなさ、

堕ちゆく こころ
君 知るや ………


Sさんの庭は花がたえない。
川野辺さんのDNAは確実に受け継がれている。


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春田光治さん「スペシャリテ紀行 皿の上の物語」 

2009年11月03日 13時39分39秒 | 人間
スペシャリテ紀行 皿の上の物語 
#3・安比高原に居す・伝説のフレンチ料理人。旅人:片山右京

●BS日テレ新番組―2009年11月05日(木)午後9時~
       再放送2009年11月12日(木)午後9時~





BS日テレの10月8日(木)からの新番組「スペシャリテ紀行 皿の上の物語」が始まった。
地産地消・身土不二、等の言葉が再認識される時代となった。
本来、食べものはその土地で作られたものをその土地で食べる、のがあたりまえ。

その土地ならではの輝ける食材を通して、調理する。
そんな料理人に出逢い、ライフスタイルを探求する。
旅+ヒューマンドキュメンタリー+グルメ番組・・・。



テレビの番組構成とは関係ないのかもしれないが、野地秩嘉(ノジ・ツネヨシ)著「皿の上の人生」 光文社文庫が番組を作る基になったらしい。残念ながら僕はこの本を読んでいないし、作家も知らなかった。

野地秩嘉を調べて見ると、
1957(昭和32)年、東京生れで早稲田大学商学部卒。
美術展のプロデューサーなどを経て、ノンフィクション作家に。
著書に『サービスの達人たち』『サービスの天才たち』『キャンティ物語』『ビートルズを呼んだ男』『芸能ビジネスを創った男』『エッシャーに魅せられた男たち』などがある。
経歴をみて、とても魅力ある作家だと思った。

第3回は「安比高原に居す・伝説のフレンチ料理人」と題し、F1ドライバーの片山右京が訪ねる。

安比高原に居す・伝説のフレンチ料理人とはジャニーこと、春田光治さん。
日本の料理界を代表する1人と思っている。
食の根源を考え、日常の三食にこだわり、生活の総てに妥協しない暮らしをしている。
常に前を見つめた生き様は波乱万丈である。
今回のテレビ番組は野地秩嘉の本に基礎としてあるようだが、僕はこの方がジャニー(春田光治)の評伝を書かれたら、最高の読み物で、しかも料理の本になるのでは、と思う。
この願いが、現実のものとなることに期待する。

春田光治さんは略歴では収まらない人だが、取り合えず記しておく。

1940年 兵庫神戸市に生まれる。
1962年 慶應義塾大学を卒業後に鍍仏。ボルドーの“プランティエ”にて料理修業。

慶応高校在学中からジャズに魅せられ、アルトサックスホーンに親しむ。
未だにジャズとの縁はつながり、渋谷の店・安比の店もBGMはジャズのみ。
フランス料理の店としては珍しい。
音楽は生活の一部だ。

1963年~1968年ジュネーブ駐在、青木特命全権大使の公邸料理人となる。
青木大使と共にベトナムのサイゴンへ。
10カ月滞在するが、ベトナム戦争の激化で帰国。フランス人の家庭料理食を知り、以後の料理の基本となった。
特に、南仏料理はスペイン、イタリア、モロッコなどに影響された多彩な料理。
サイゴンはフランス文化の影響がつよいが、独自の食文化が発達した。
その経験を通し、美味しいものなら何処の国の料理でも取り入れる姿勢は変わらない。

1969年東京渋谷神南、実家の所有していた敷地の一画のアパートを改装してフランス料理店「シェ・ジャニー」を開店。
店名は子供の頃からの愛称ジャニー。を使った。子供の頃から、ままごとあそびの料理が好きだった。生家はアメリカ人なども遊びに来る国際的な環境で、姉の和子さんは通称パッツー。兄はアメリカに在住している。
開店以後、店は急激に評判を呼んだ。
一月前に予約で一杯になるようなり、従業員も増えた。夕方従業員が集ると、近所の公園でソフトボール、当時は野球に凝っていた。春田さんの心は常に新たのものを目指す。今までに嗜んだ趣味は野球、ジャズ、スキー、山登り、狩猟、魚釣り、何れも素人芸でなく道具から総てが本格派。勿論、本業の料理は「命をかけるという」言葉が最適と思うほどに、真剣に取り組む。古今の料理書を読み。基本をしっかりした上での作り上げる。夕方に食材の買い物をし、幾らかの仕込み。開店時間の6時~11時頃までま厨房で忙しく働く。途中お馴染みさんに挨拶のためにホールに立つこともあるが、厨房内は戦場の様に忙しい。
閉店後は従業員全員でのまかない料理を食すが、総て春田さんの手になった和・洋・中華だった。営業時間内のフランス料理に負けず劣らずの料理。それを目当てに、常に友人が遊びに来た。僕も、たまに厨房の皿洗いにゆき賄い料理を楽しんだ。食事後は新しいメニューのテストや仕込などがあり、解散は早朝4時から5時という生活であった。



1981年 評判の料理店の案内書、中央公論が出版したシェフシリーズ第3巻『魅惑の南仏料理-レストラン・シェ・ジャニー』(春田光治著)は大好評で、未だにフランス料理の教科書のように、読み継がれている。春田さんはレシピは全面的に公開することが当然と思い、よくある『当店の秘伝のタレですので企業秘密です』などの言動を苦々しく思っている。また、この本に載ったレシピをそのまま使う人たちに、「料理は生き物、常に変化していますよ」とも話す。常に試行錯誤だ。

1985年、開店15年が経過し、世はグルメブーム。ファッショとして料理を食べる客が増えたの憂い、地方に移る事を考える。候補地としてあちこち探したが、最終的に、当時凝っていたスキーが愉しめる場所に絶好の地であった安比高原に転居を決意した。





1986年安比高原のペンション街の一角に100坪の住まいを造り移住した。
以後10年間スキー、渓流の岩魚釣り、冬の狩猟など趣味の世界に遊ぶ。
料理は自分と家族のため、さらに訪れる友人達のため。朝・昼・晩の三食に全力を込める。家庭料理なれど全て営業して出せるほどの内容。ジャンルも和・洋・中華と範囲は広い。
はるばる、東京方面から遊びがてら訪ねてくる友人も多い。その人たちの宿泊用のゲストハウスも用意されていた。僕も1987年から2003年にかけて4回お訪ねし、ご馳走になり宿泊させていただいた。
今もって、素晴しい体験であった。




移住後の約10年間、レストラン営業はしなかったが、以前から知り合いの編集者の勧めで『家庭画報』のような婦人雑誌に“安比料理工房・春田光治のカントリークッキング”など料理ページで活躍状況を知る事が出来た。しかし、一般の人たちに眼にふれる機会が少なく『幻の。或いは伝説の料理人』と呼ばれるようになった。 
1997年からは敷地の一角に増築した部屋を改装して『シェ・ジャニー』を再開した。営業日時や休日などは不定で、現在はコース料理の予約のみ、のようだ。

その様な春田さんの料理を紹介する、今回のテレビ番組。
どの様な内容か、期待は大きい。


自室で寛ぐ春田さん
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