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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

『忠臣蔵』の大石邸跡@笠間市笠間

2022年03月05日 07時12分43秒 | 
『忠臣蔵』の大石邸跡@笠間市笠間



笠間の佐白山に登る山道の入り口、笠間日動美術館の手前に『忠臣蔵』で知られる大石内蔵助の祖父で、笠間藩家老だった大石良欽(よしたか)の邸宅跡が小公園となっている。
笠間日動美術館は年に数度は行くが、立ち寄ったことがなかった。



浅野家・大石家と笠間市の関係の説明板。

浅野家が笠間の地を去ってから57年後、元禄15年(1703)12月14日に赤穂浪士が吉良邸に討入って主君・浅野内匠頭の本懐を遂げた。



討ち入りに参加した四十七士のうちの3人が笠間藩出身者とか。



笠間義士会により建てられた大石内蔵助良雄像。





何やら、曰くありげな碑も立っている。

*「忠臣蔵って何?」
以前は芝居や映画、テレビドラマでよく目にしたが、最近は「忠臣蔵って何?」という人も少なくない。
かく言う私もその一人で、高輪・泉岳寺の赤穂浪士の墓に参り、本所の吉良邸趾を訪れた程度、芝居・映画・ドラマなど、その類の何一つ見ていない。
従って確固たるイメージが湧かない。
戻ってから幾らか調べてみたが、見方・考え方、登場人物も多様で、何だかよく分からない、が本音である。
“お話し”の方が面白いのかも知れない。

ほしいも神社 @堀出(ほりで)神社境内(ひたちなか市阿字ヶ浦178)

2022年03月01日 20時53分30秒 | 
ほしいも神社 @堀出(ほりで)神社境内(ひたちなか市阿字ヶ浦178)





近年「干し芋」が大人気で、味も価格も高級な「お菓子」と同じ位となった。
我々が子供の頃は「乾燥芋」と云って、硬くて甘みも薄く、しゃぶるようにおやつ代わりの食べ物。七輪であぶって食べることもあった。
時代は変わって、冷蔵技術や乾燥方法の向上・芋の品種改良・等々が伴って別物に生まれ変わった名産品となった。
専門業者の「干し芋御殿」が話題を呼んだが、令和に元号が変わって堀出神社の末社として「ほしいも神社」が創建された。
「ほしいもの」がすべて手に入りますようにという思いを込めた新しい神社。





酒列磯前神社に近い、堀出(ほりで)神社境内に在る。
堀出神社は磯崎大明神(酒列磯前神社)をはさんで前浜、平磯両村の境界検分中に古墳を発見。同所から発掘された品々が水戸城で「磯前明神の本体」とされたことから鎮守として寛文11(1676)年に創建された。
掘って出たので「堀出」と命名。



「ほしいも神社」は「堀出神社」境内の奥まった見晴らしの良い場所。



絵馬も干し芋の形。



干し芋産業創設者の一人・小池吉兵衛の胸像(昭和32年建立)。



境界検分の時代に遡るであろう、樹木や土塁。
陰陽のご神木。



「ほしいも神社由来記」
さつまいもの伝来から「ひたちなか地区」での栽培の普及、干し芋製造などの歴史を踏まえた上で「ひたちなか商工会議所」の名誉会頭・鈴木誉志男氏が中心なって、街作りの一環としてほしいも神社の創設を考えた。
アートディレクターの佐藤卓氏に依頼して、コンセプト作り・設計・建設まで統一された考えのもとに出来上がった。

数年を経て、知名度が徐々に高まり県内外の二輪・四輪が次々と訪れる
古きものを取り入れ、新しい神社という器に盛り発展させ伝えるのは素晴らし
いアイデアだ。

⁂余録・何処かの光のイベントは賛否両論というより、不評が増している。
夜間の入場者本位で、昼間は無惨なのは本末転倒だ

酒列磯前神社@ひたちなか市磯崎町

2022年02月28日 22時27分28秒 | 
酒列磯前神社@ひたちなか市磯崎町







太平洋に面した岬の丘上に鎮座する、酒列磯前神社の創建は斉衡3年(856)と伝えられる。
主祭神:少彦名命(すくなひこなのみこと)、大名持命とともに国造りを行ったとされる。
配祀神:大名持命 (おおなもちのみこと)大国主命(大己貴命)の別名。
大洗磯前神社祭神で、その分霊、少彦名命の力を借りて国造りを行ったとされる。
那珂川対岸の大洗にある「大洗磯前神社」とは主祭神と配祀神を交換した形で、2社で1つの信仰を形成している。



歴史がありながら中世には廃絶し社殿もなくなった様だが、近世になって水戸藩2代藩主・徳川光圀により造営の起工がなされ、3代藩主・綱條により現在地に遷座がなされ再興された。
旧鎮座地は一の鳥居の辺りと伝えられる。
石垣に囲まれた300m参道もその頃に作られたのだろう。





参道両側や境内周辺は広葉樹林(椿やタブノキ、スダジイなど)で特に山椿が目立つ、これからが見頃だ。





参道の途中に海側の道路に繋がる通路と階段がある。
磯崎漁港と北側に連なる海岸が見渡せる。





本殿や拝殿を囲む境内地内や一の鳥居から拝殿まで続く参道両脇の樹叢は当時からの姿を留め、襟を正したくなる。





特に本殿背後の樹叢は人の手がほとんど入らず、禁足地的に保護されてきたことがうかがえる。

余録
酒列磯前神社(さかつらいそさきじんじゃ)の社名について、読むのが難しいし、意味も分からなかったので調べてみた。
当社の周辺海岸の岩石群は南に約45度に傾斜して並んでいるが、その内の一部の北に傾いた部分、すなわち「逆列(さかつら)」の地名が社名の由来とされる。のちに酒の神様を祀るところから「酒列」となったとされる。
「酒」の字は少彦名命の酒神としての御神徳に沿って「酒」という字を当てたのではないかとも考えられている。とのことだが、どうも納得がいかない。


ニシモトホマレさんから漂着の軽石が届いた。

2022年02月15日 11時56分04秒 | 
ニシモトホマレさんから漂着の軽石4個が届いた。







小笠原諸島父島在住のニシモトホマさんから《父島・小港海岸に漂着の軽石》が届いた。

2021年8月13日に小笠原諸島・南硫黄島の北東約5キロにある海底火山「福徳岡ノ場」噴火、大量の軽石が噴出し漂流した。
漂着した軽石が大量に押し寄せた沖縄などの被害が報じられた。





小笠原諸島父島在住の、ニシモトホマさんに異常は有りませんか?と問い合わせたところ「小港ビーチを散歩したら軽石漂着ですね!洋ちゃんさんに言われなければ見過ごしていたかも、地球の息吹きを感じる朝でした!」のコメントと画像が送られてきた。



今回、採取した軽石4個をケースに入れて送ってくれた訳だが、大きさ2センチ足らずの軽石だが、市販されている軽石(風呂場などで使用する)物に比べ噴火間もない出来立ての軽石は、見れば見るほど多くの物質が混入、地球の営みを感じた。

2022年1月15日に南太平洋トンガ沖の海底火山の大噴火により、日本でも津波警報や避難指示が出されたことは記憶に新しい。
地球はマダマダ発展途上、如何なる災害が起こるか計り知れない。
2年以上を経過しても収まらない新型コロナウイルスの蔓延も然り。

そこそこ安全な遠出が可能な状況に成ったら、まず一番に小笠原諸島の父島に行きたいと思っている。
東京都でありながら、東京港の竹下桟橋から週1便の定期船「おがさわら丸」で1昼夜(約24時間)を要する太平洋上に浮かぶ小笠原諸島は。世界自然遺産に登録された大パノラマの自然が在る。
住民のニシモトホマレさんや、野生イルカと泳ぐ世界初のドルフィンスイムでブームを巻き起こし、絶滅危惧種となっていたアカガシラカラスバトを保護し、世界遺産の登録に大きな貢献をした宮川典継さんなどとお会いしたい。

NEXT1の一つに数えられる国に(バングラデシュへの旅 其の4)

2022年01月26日 23時27分21秒 | 
NEXT1の一つに数えられる国に(バングラデシュへの旅 其の4)
2006年1月20日~27日。




「シャイト・ゴンブズ・モスジット」
屋根の上に大小のドームと四隅に低いミナレットを有するモスク。
煉瓦を用いて1459年に建造された。
バングラデシュは仏教遺跡とイスラム寺院の他に観光の名所は少ない。
16年前に訪問した当時「ガイドブックのない国」と言われた。
今は有るのかもしれないが、悠久の大地に延々と続く田園風景が最大の見どころだが、移動の交通機関や宿泊施設は整備されていなかった。

バングラデシュは「ベンガル人の国」という意で、宗教はイスラム教徒が9割近くを占め、その他はヒンズー教徒、仏教徒、キリスト教徒など。
殆どがイスラム教徒だが、女性の服装などを見るとインドのサリーのようで、いかにもイスラムの國とは思えなかった。
とは言え、アルコール類は禁止なのは他のイスラム圏と同じだが、外国の観光客がホテルやレストランでビールを飲むことは可能だった。
ビールで喉しめしでは物足りなく、夕食の後は部屋に集まり、免税店で購入したウイスキーや日本酒で、反省会を兼ねた雑談会をするのが楽しみだった。





イスラム教の縛りが緩い、と感じるバングラデシュだが首都のダッカから東南に25㌔ショナルガオという街の旧ヒンズー教徒の居住域は無人の街だった。
英国からの独立時にヒンドゥー教徒がインド領に逃げ出した跡は廃墟のようだった。
イスラムとヒンズーが共存していると思っていたが、対立の根は深いのだろう。





ヒンズー寺院か、転用されたイスラム寺院なのかは分からないが、壁面や外壁をテラコッタで飾っている。
宗教的な物語や蓮華文など様々だが、どれもこれも欲しくなるような魅力がある。



道路沿いで瓦の製造工場をよく見かけた。
地元の民家で使用されてはいないので、もしかしたら輸出品かもしれない。



サトウキビを絞った原液を煮詰めている製糖工場もよく目にした。
燃料はサトウキビを絞った残りの部分を使用しているので、無駄がない。
菜種を牛にひかせた石臼で菜種油を絞っている所なども見た。
何百年も変らないやり方を踏襲している。

第1日は、日本からバングラデッシュまでの直行日は無いので、バンコックから「ビーマンバングラデシュ航空でダッカに到着、ホテルに直行し夕食。
2日目は、国内線の小型飛行機(旧ソ連製のガタガタのプロペラ機(これでよく空が飛べると驚いた)案の定、霧の為に目的地に到達出来ず、かなり離れたところに着陸した。ガイドさんが現地調達したオンボロノ小型バスで旅は始まった。
治安状か?理由はいまだ不明だが、銃を抱えた警官2名が先導する。
農村地帯の仏跡やイスラム寺院を2日かけて巡る旅だが、途中で休憩すると大勢の村人が興味深そうに集まってくる。
老若男女、特に子供たちの目の輝きは日本とは比べようもなく純粋な眼をしていた。今回の旅で、一番印象的だったのは人々の瞳であったように思う。







喧騒と混沌の街・ダッカ。

特に首都ダッカが顕著だが、人口密度の高い都市部は“人と人力車”で溢れ、小さな露店が軒を連ねた“混沌と喧騒”の街だ。
更に、世界的にみても貧しい国と云われる。

近年は若年労働力の豊富さ、アジア最低水準の労働コストの低廉さに注目した、多国籍製造業の進出が著しい。
農業と繊維産業から脱却し、スマートフォンなどのIT立国を目指し、新興国として期待される「NEXT1」の一つに数えられ国となった。
バングラデシュに旅してから16年。
あいまいな記憶と乏しい資料で振り返ったが、現在は日本とバングラデシュは多くの分野で重要なパートナーなってきたように感じる。
バングラデシュについてもう少し知る必要があるようだ。

パハルプールの仏教寺院遺跡群(バングラデシュへの旅 其の3)

2022年01月23日 12時48分27秒 | 
パハルプールの仏教寺院遺跡群(バングラデシュへの旅 其の3)
2006年1月20日~27日。










バングラデシュはイスラム教国であるが、8世紀~9世紀に北部にはパーラ王朝の支配を受け、仏教が大いに栄えた。これと共に、この地域には多数の仏教寺院が建設され、その最大級のものがパハルプール。
東インド最大の仏教遺跡群で177の僧院と1000人もの僧を収容することが出来る仏教寺院であった。この施設配置は、インド仏教末期の典型的な配置であり、当時の中核的な仏教施設であったと言われている。
広大な敷地には、煉瓦の礎石と中央に小高くそびえる大仏殿の跡が残るだけだが、当時は壮大な伽藍が聳えていたことを偲ぶことが出来る。





ボレンドロ研究博物館
仏跡巡りが目的の「パンカジ会」の旅行だから、幾つかの博物館を訪問するのがお約束だが、バングラデシュに関しては1910年 に設立したボレンドロ博物館( ラジシャヒ大学管理)だけだった。
博物館というより研究資料の展示室という感じで、残念ながら今回の全行程を含め魅力的な仏様との出会いは無かった。



ベンガルを代表する吟遊詩人ラロン聖者廟を見学した後、ラロン聖者の崇拝者達が演奏する音曲を聞く。楽器を背負ったバングラ人も多く、宗教法人的な要素が有りそうな感じだった。



観光客誘致には政府としても力を入れているからなのか、安全を考慮して警備はかなり厳しく、移動のバスを先導するように警護の車両・警官が付いた。
長距離だと区域が変わるごとに警護も交代する。

「黄金のベンガル」バングラデシュへの旅 其の2

2022年01月22日 17時47分46秒 | 
「黄金のベンガル」バングラデシュへの旅 其の2
2006年1月20日~27日。


ガンジスデルタの悠久の大地。



バングラデシュの田園地帯を走っていると、釈尊の時代とさして変わらないのではないか思える風景が続く。
ヒマラヤ山脈をいただく国々を源流とするガンジス川を含めた河口付近のデルタ地帯は豊富な水を利用した田圃が延々と続く。









モンスーン地帯なので雨季と乾季(12月から4-5月まで)がある。
雨季は洪水による氾濫の被害もあるが、同時に土壌の更新がされる利点もある。
乾季は灌漑用水により、3期(通年)の耕作が行われている。
刈り取られたモミは道路やコンクリートの上で自然乾燥される。
車が走る車道にもモミが干されていることが有ったのにはビックリ!

日本のコメとは種類が異なるインディカ米、モミを何らかの加工(蒸す・加熱など)をして保存する場合もあるらしい。

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収穫と同時期に苗が植えられていた。

乾季の灌漑用水や溜池では供給が間に合わず、深井戸による大量の地下水の汲み上げにより飲料用、生活用の井戸が出なくなった。
しかも、砂層にヒ素を多量に含有した層が形成されていることによる被害が生じていることが、1970年代から問題となっていた。

我々が訪問した2006年頃も問題は解決されていなかったが、
現在はどのようになっているのだろうか。



田んぼの隣の沼地や川で捕れた小魚を干す台も多く見かけた。
たんぱく源として貴重なのだろう。
その後は、はこの様な「天然の魚」が手に入らなくなった、とも。

南の河口辺りの地域でエビの養殖池を多く見かけた。(写真に撮れなかったが)
ガイドさんの説明では多くが日本向け、エエこんなところで!と驚く様な場所。帰国後、暫くの間は養殖エビを食べたいとは思わなかった。

何れの國の農業・水産業の共通する問題だが、同一で大量の換金作物から昔ながらの多種の作物を時期に応じた栽培することが重要と分かっていながら出来ない現状、安価な商品に依存する日常生活、考えれば考えるほど道は遠い。

「黄金のベンガル」バングラデシュへの旅 其の1

2022年01月20日 15時58分46秒 | 
「黄金のベンガル」バングラデシュへの旅 其の1
2006年1月20日~27日。




カンタノゴル寺院前で参加者全員で記念撮影。

バングラデシュの90㌫はイスラム教徒だが「カンタノゴル寺院」はイスラム建築の影響を受けたヒンドゥー寺院。
内外装にイスラムとヒンドゥーの神話などを題材のテラコッタが多用されているのが壮観。
「ヒンドゥー」はインドやネパールで多数を占める民族宗教で、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの三大神が一体を成すとされる。
輪廻・解脱を信じ、河川崇拝、菜食主義、聖牛崇拝の宗教で神や祭祀は一部形を変えながらも、日本の仏教に影響を与えている。



バングラデシュの略図

今を去る16年前の1月下旬「パンカジ会」(蓮の花を意味する・仏跡を巡るグループで、その時点で約20年間続いていた)からのお誘いで、バングラデシュへ旅することになった。
「バングラデシュ」はベンガル語で「ベンガル人の国」を意味する。
元々はインドの一部で、インドが1947年にイギリスから独立するに当ってイスラム教徒とヒンドゥー教徒との対立が深まり、イスラム教徒地域を「パキスタン」として独立させることになり1955年に東パキスタンとなった。
パキスタン本土とは遠く離れており、統合は無理な話で1971年にパキスタンから独立した。



かつては「黄金のベンガル」と称された豊かな地域であったが、人口密度が高くインフラも未整備で、アジアの最貧国に属していたが、近年は労働力の豊富さ、アジア最低水準の労働コストの低廉さに注目した、多国籍製造業の進出が著しい。
今では、多数のバングラデシュ人が、農林水産・建築土木・インド料理店などに従事するために日本に在留しており、「バングラ」と略称する程の身近な国となった。しかし、16年前は馴染みがなく、日本から訪れる人は稀だった。

我々が休憩のために立ち止まると大人から子供まで、興味深々に集まってくる。
道路沿いの田園風景は、釈迦の時代から幾らも変わってはいないのでは、と思えるほどだった。
恐らく、僅かの年数で大幅に変化したであろうことは想像に難くない。



パハルプールの仏教寺院遺跡群
バングラデシュは8世紀後半から12世紀後半まで、東南アジア(特にインドネシア、ミャンマー、カンボジァ)西インド、ベンガルに影響を与えた仏教の一大中心地であった「大東西域記」の三蔵法師もパハルプールに立ち寄った。

村松虚空蔵尊と大神宮@那珂郡東海村村松

2022年01月15日 20時45分28秒 | 
村松虚空蔵尊と大神宮@那珂郡東海村村松







村松山虚空蔵堂は日本三体虚空蔵尊のひとつで、平城天皇の勅額により、平安初期大同二年(807)弘法大師によって創建されたと言われる。

数え年の13歳は生まれ年の干支が初めて戻ってくる、いわば「十二支の還暦」。この年に、虚空蔵菩薩をお詣するとご利益があると言われ中学一年生、或いは二年生の春休みに「十三詣」として行くことが当たり前のことだった。
友人と連れ立って参詣したのは70年近い昔の話、現在の「JR東海駅」当時は「国鉄・石神駅」を下車して結構な距離を歩いた記憶がある。或いはバスが在ったのか?
今でも普通に行われているのか?はともかく、「元屋敷」の5の日の骨董市のサービスランチを共にした3人組で村松虚空蔵尊に初詣した。

駐車場から山門にかけての参道の傍に沢山の露店が出ていたのには驚いた。
大晦日から元旦に掛けて社寺の参道に初詣の客を相手の露店が並ぶのは珍しくないが、既に5日なのに露店・参詣客も沢山なのだ。







虚空蔵尊は丑年・寅年の守り本尊と云われるので丑年・寅年の参詣客も多い。
現在は真言宗豊山派に属している。
本堂より鐘楼・山門を望む。
正月五日、ともなれば混雑はしていない。







隣接する「大神宮」は、和銅元年(708年)の創建と伝えられ、伊勢神宮の分霊が祀られ「茨城のお伊勢さん」とも言われる。
近年に境内が整備され参詣客が多くなったが、知らない方も多いようだ。



ここから海岸に向かった砂浜に「村松晴嵐」の碑が在る。
天保4年(1833年)水戸9代目藩主徳川斉昭(烈公)は、中国の瀟湘八景にならい、藩内の子弟に自然鑑賞と健脚鍛錬とを図るために、水戸八景を設定した。
砂浜をしばらく歩くことになるので今回はパスしたが「十三詣」の際は海岸までの砂浜を歩くのもお約束だ。

「よみがえるポンペイ」NHK BS

2021年08月08日 22時31分31秒 | 
「よみがえるポンペイ」NHK BS









ポンペイは、イタリア・ナポリの対岸23キロに位置し、紀元前8世紀に建設され、その後ローマの支配下に入り発展した港町であり商業都市。
79年のある(8月とも10月ともいわれる)昼過ぎ、ヴェスヴィオ火山噴火により町全体が5m以上の火砕流に飲みこまれた。其の後は当時の人々の生活をそのままの状態で10m以上も埋もれたポンペイが人々の前にその姿を再び現したのは、1748年ナポリ王カルロス7世が発掘して以来、現在に至るまで続けられている。









最新の技術を投入した大規模な発掘調査の記録が2020年放送されたが、本日(8月8日)13:59〜15:30にNHK/BSで放送された。

およそ2000年前、突然の悲劇に襲われた人々は最期の瞬間をどのように迎えたのか?最新の技術を投入した1年がかりの調査のドキュメントと再現ドラマを含めた1時間半の番組から謎に包まれた古代都市の姿が次々と明らかになった。



ポンペイ遺跡はピーター・オトゥール主演の『チップス先生さようなら』(1969年制作のアメリカ・イギリス合作映画・原作はジェームズ・ヒルトンが1934年に発表したイギリスの小説)で≪チップスは夏休みを利用してイタリアへの旅に出かける途中、ロンドンで女優のキャサリンと知り合う。その後、ポンペイの遺跡で再会した2人はたちまち恋におちた。》
映画はポンペイ遺跡の随所で撮影された。



映画を観て以来、訪れたいと願っていたが2010年11月にポンペイを含むイタリアツアーに参加でき、夢がかなった。
広い面積で、ほんの一部しか巡ることが出来なかったが、現場に立てたことは素晴らしい体験で、今回の番組も興味を持って観ることが出来た。

ウィリアム・モリスのケルムスコット・マナー

2021年06月09日 23時43分11秒 | 
ウィリアム・モリスのケルムスコット・マナー







1999年6月にコッツウォルズを訪ねた古いビデオが出てきた。
画面から撮影したので、甚だピンボケな映像。
カントリーサイドを車で巡った、22年前の旅の続編。

ウィリアム・モリス(1834-1896)がケルムスコット村のマナーを友人でビジネスパートナーでもあるダンテ・ガブリエル・ロセッティ(1828-1882・ラファエロ前派の画家)と借りて活動の拠点とした屋敷。
現在、ウィリアム・モリス・ソサエティの博物館及び事務所となっている。

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入り口が閉まっていたので裏に回わると、係員がでてきた。
「今日は休館日だから、別な日に改めて来なさい。内部を見せることは出来ないが、庭や外観を見るならいいでしょう、的なことや概略」の説明を受けて入場し、庭を案内された。



米語に馴染んだ日本人には英国人の英語は聞き取れない。
テオ・ジョンソンさんが、ゆっくりと分かるように再度話してくれるが、それも英語だから推測の域を出ない。



モリスに関して「アート&クラフト運動」の家具・壁紙・ステンドグラス「ラファエロ前派の画家との交流」「ケルムスコットプレス」の出版活動「古き佳き建築の保存活動」等々、宿題は沢山残った。




裏まで広がった庭は多くの花々が。



何か所か村や町を巡ったが、名前は忘れた。
イギリスは古い町並みが当たり前に残されているのは、大きな魅力だ。



どこかの町の広場で昼食に「ケバブ」を食べたあとだったか。
コロナ禍が収束したら、再度イギリスを訪ねたいと切に願う。


バイブリー(Bibury)@イギリス・コッツウォルズ地方。

2021年06月08日 23時52分29秒 | 
バイブリー(Bibury)@イギリス・コッツウォルズ地方。



1999年6月にコッツウォルズを訪ねたビデオが出てきた。
再生した画面を写したので、ピンボケが甚だしい。
カントリサイドをドライブして巡った22年前の思い出を掲載。





石橋の下の小川は、底の藻まで透き通って見える。
ハクチョウも泳いでいる。





アーリントン・ロー地区の中世に建てられた石造りの家屋。
穏やかに続く小道沿いの家々は、素朴ながらも歴史が感じられ佇まい。
かなり傷んでいるようにも見える。



ガイドブックに必ず紹介される名所だから観光客がチラホラと。



レデイング在住のテオさんの運転で。
イギリスを訪ねる度に、あちらこちらを案内して戴いた。
テオさんのお嬢さんが水戸市で英語講師として働いていた縁で交流が始まったが、当時で70代。暫く音信が途絶えているがお元気だろうか。





イギリスの田舎道をオープンカーでドライブするのが夢だが赤い「ロータス7」が停まっていたのには驚いた。
観光客が乗りつけることはないだろうから、住民の車なのか?









イギリスの6月は美しい。
色とりどりのバラの花が主だが沢山の草花が寄せ植えされてある。
取り合わせが眞に絶妙でガーデニングに拘るイギリス人ならではだ。
通行人の目線で構成されているのでなことに素晴らしい。

コッツウォルズ (Cotswolds) は、イングランド中央部に広がる標高300m以上に達する丘陵地帯で、時にイングランドの中心と呼ばれる。
5つの州( ウィルトシャー州、グロセスターシャー州、オックスフォードシャー州、ウァーウィックシャー州、ウスターシャー州)にまたがる広い地域。
ストラットフォード、オックスフォード、バースにチェルトナムと主要都市に囲まれたこの地方は12−18世紀の間に羊毛加工産業の交易で栄えた。
トレードマークの蜂蜜色ライムストーン(コッツウォルズストーン)で建てられたコテージやマナーハウスの多くはこの時代から残存している。

日光田母沢御用邸記念公園(日光の旅・其の4)

2020年09月19日 19時58分02秒 | 
日光田母沢御用邸記念公園(日光の旅・其の4)





明治32(1899)年から昭和22年まで3代にわたる天皇・皇太子が利用した御用邸で、江戸・明治・大正と三時代の建築様式をもつ集合建築群。

2000年(平成12年)に修復工事が完了し、「日光田母沢御用邸記念公園」として開園した。
修復工事に関する説明がなされた展示室があった。
全てを解体し、部材を取り替え、新築以上の手間隙を掛けた大工事であったことが分かる。
最高の素材と技術が費やされ、御用邸ならではの細部にわたる職人技。
もう少し良く見て、写真を撮っておけばよかったと反省。





記念公園の名が付せられているように、建物ばかりでなく、様々な草花や花木が植えられている。



10棟に分かれた建物は、廊下でつながれて統一的な内部空間を構成し、屋根も一つながりになっている。



謁見所 - 大正時代増築部



3階御展望室 - 旧紀州徳川家中屋敷部分の3階にある。
(畳敷きで、他の部屋と異なり、数寄屋風のくつろいだ造りになっている。)
ここだけは通常は拝観不可、冬季限定で特別公開。



庭からの建物群。



航空写真による全体像。



日光湯葉御膳
「日光名物の湯葉料理」日光駅に向かう途中、適当に見つけた店に入店。
一通りの湯葉料理を堪能した。

遅めの昼食を済ませて、散会し、各自のルートでご帰還となる。





僕はJR「日光駅」で降ろしていただき、FさんTさんは高速のインターに。



JR日光線で宇都宮、宇都宮からは北関東ライナー・宇都宮線で水戸着。





●英国の外交官アーネスト・サトウが明治5年(1872年)に奥日光を初めて訪れ、3年後には英文のガイドブック「日光案内」を刊行し、広く日光を紹介。
明治29年(1896年)に中禅寺湖畔に山荘を建てた。
後に山荘は、英国大使館別荘として平成20年(2008年)使用された(現・英国大使館別荘記念公園)。
アーネスト・サトウの山荘には英国人女性旅行家イザベラ・バードも滞在し、明治6年(1873年)創業の日光金谷ホテルとともに国際避暑地の起点となった。

英国大使館別荘に隣接して、昭和3年(1928年)にイタリア大使館の別荘として建てられ、平成9年(1997年)まで歴代の大使が使用していた「イタリア大使館別荘記念公園」が在る。
今回、両方ともパスということになってしまったが、機会があれば訪れたい。

奥日光・湯ノ湖~光徳牧場(日光の旅・其の3)

2020年09月17日 19時51分45秒 | 
奥日光・湯ノ湖~光徳牧場(日光の旅・其の3)



奥日光の概略図。





湯ノ湖
戦場ヶ原の奥に在り、湯川の水源となる湯ノ湖。
三岳の噴火でせき止められ、三方を山で囲まれ周囲は約3km。

昨年の9月の青空と湖面。
何か俳句を1句、と思ったが何も浮かばず。
ただ眺めていた。
お二人さんは何を感じていたのでしょう。

この辺りは日光の奥座敷といわれ、約1200年前に日光開山の祖・勝道上人が発見したとされる白濁の硫黄泉が湧く名湯として知られる。



周囲は山野草や野鳥の宝庫。



可憐な小菊、既に秋の気配。



湯滝
湯ノ湖の南端にある高さ70㍍、長さ110㍍の滝。

湯川をせき止め、湯ノ湖をつくった三岳溶岩流の岩壁を滝となって流れ落ちる。



滝を眺めるFさんTさん。



滝を背に。



光徳牧場。
明治30年に開場されたという歴史ある牧場。
この牧場を知ったのは1970年(昭和45年)頃。
今はレジェンドとなった、水戸の「ジャズ喫茶S&F」が開業して間もない頃、毎晩のように通いつめ、音楽を聴き多くの客と話をした。
今年は「S&F」開業50周年ということで、多くの取材を受けている。
中でも『茨城の魅力☆再発見?』と言うブログは、時代背景を含め丁寧に書いてある。

マスターの塙耕一さんと、泉町の老舗「いづみや食堂」の茅根稔さんの2人は同級生で22歳頃、仕事の合間に日光方面に良く出かけていた。
「光徳牧場」の風景写真が素晴らしいので、お供を願った。
8月頃だったろうか「歌が浜」で泳いだり、キャンプをしたが時間の都合で「光徳牧場」には行けなかった。

半世紀ぶりに「光徳牧場行き」が実現した。
売店でアイスクリームを食べながら、辺りを見回したが思い描いた風景には出会えず、牛を見ることも出来なかった。



●「三爺の旅」のお宿は、いつもFさんの奥様がアレンジして下さる。
コロナ禍の今年と違って、昨年は「湯ノ湖温泉」は満室だった。
次善の策と選んでくれたのが「大江戸温泉物語・霧降高原」で、体育館も付いた超豪華な建造物で驚いた。
聞くところによれば、霧降高原スキー場の跡地の一部に「厚生年金事業振興団」が作った健康福祉施設のひとつだったらしい。
世界的建築家であるロバート・ヴェンチューリの代表作の一つと言われ、
外観・内装は彼のイメージした「日本」とのこと。
多数の施設が、整理に依って売却されたころは大きな話題であったことを思い出した。

明智平~戦場ヶ原(日光の旅・其の二)

2020年09月15日 19時51分39秒 | 
明智平~戦場ヶ原(日光の旅・其の二)





第2いろは坂(1965年完成)をほぼ上りきったところにある明智平。
ドライブインとしての休憩施設とロープウェイの乗り場。
乗って3分で到着する標高1373メートルの明智平展望台からは中禅寺湖そして中禅寺湖から流れ落ちる華厳ノ滝などの大パノラマが一望らしい。(残念ながら、乗ったことがない。)



男体山は奈良時代の782年(天応2年)に勝道上人らにより開山され、古くから山岳信仰の聖地とされる。
明治時代初期まで男体山は女人禁制、牛馬禁制となっていたので麓に「馬返し」の地名が在る。
中禅寺湖から見る端麗な姿とは異なって、荒れた山肌の姿に驚いた。



治山工事が行われているが、自然の力は無限。



ケーブルカー「明智平駅」軌道の遺構。





日光 鋼索鉄道(ケーブルカー・路線距離:1.2km、高低差:428.1m)日光市の馬返駅から明智平駅までを結んでいた。
1932年(昭和7年)に開業し、1970年(昭和45年)に廃止。
第2いろは坂の開通後、車による観光客が増えて利用が少なくなって廃線。(このケーブルカーにも乗ったことがない。)

小学校6年生の遠足が「日光」だった。
水戸から未舗装の砂埃舞う砂利道を走るバスの旅。
「いろは坂」を登って中禅寺湖まで往復日帰り。
今にして思えば良く行ったものだと思うが、記憶がほとんどない。





戦場ヶ原。
中禅寺湖から湯の湖に向かう途中に広大な戦場ヶ原が在る。
湿原をぐるりと囲むように自然研究路が整備されているが、それ以外は立ち入り禁止らしい。
日光国立公園の特別保護区域で湿原性植物や湿地帯に生息する野鳥の種類も多いとのことだ。
何度かこの辺りを通過しているが、足を踏み入れたのは初めて。
木造のデッキから垣間見ただけだが、広がる湿地や遠望の山々は果がない。

●8月下旬から、中学・高校時代を共にした3人で2泊3日の旅をするのが恒例となっている。
本年は四国辺りを計画していたが、新型コロナウイルス感染症のパンデミックで見送った。
昨年(2019)の「日光の旅」の記録が未だだった。
写真も殆ど撮らなかったが、数少ない何枚かを基に雑駁な思い出を。