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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

盛岡の街をブラよーちゃん その壱

2023年09月17日 12時43分50秒 | 
盛岡の街をブラよーちゃん その壱



開運橋脇「FPホーム’s自転車駐車場」でレンタサイクルを借りた。
旅先では必ずレンタサイクルを利用するが、1回1日 200円は格安だ。
宇都宮のように無料の街もある。
全国組織のレンタシステムが多くなり、アプリをダウンロードしての利用や支払いなど、年配者には使いにくい。



宮沢賢治が生前に刊行した童話集『注文の多い料理店』を出版した光原社。
道路を挟んで2か所あるが。この隣が元の「シェジャニー」。
ここは大好きな場所で、何度も訪れている。



元「シェジャニー」の内・外装はそのままに、イタリア料理「pullussagio(プラッサッジョ)」になった。夜だけの予約営業らしい。



旧盛岡農林高等学校(現・岩手大学)本部。



石川啄木の像。



啄木も住んだ旧盛岡農林高等学校の寄宿舎の跡地。



山邊の五葉松。
岩手大学の敷地は武家屋敷で植物園の辺りは山邊邸だった。



松の近くの蓮池の睡蓮の前で。



岩手大学旧正門・農学部



旧正門に至る楊柳の並木。
開設時はこちらからが正式ルート。

*ニューヨーク・タイムズ紙が発表した「2023年に行くべき52カ所」に盛岡市が選出されたこともあって、外人さんが多いのではと危惧したがそのような感じはしなかった。
夏の一大イベント「盛岡さんさ踊り」(8月1日~4日)や「お盆」が終わった8月22日~23日だったことだからだろう。
しかし、東北の盛岡でも連日の猛暑だった。

駒形どぜう@台東区駒形1-7-12

2023年07月25日 17時01分29秒 | 
駒形どぜう@台東区駒形1-7-12



40~45年前に浅草在住の友人を訪ねた際に、連れられてこの店の暖簾をくぐった。話で聞いたことがある「どぜう鍋」が、我が家で食していたドジョウとは大違いだったびっくりした。
(末尾に、子供の頃の我が家のドジョウ料理がどうであったか記しておく。)



一階の入れ込みの座敷は、江戸時代と変わらぬ風情を感じる。
座敷に上がるのは下足を預け、木札を貰う。
他の「飯田屋」或いは桜鍋の「中江」や「みの家」なども同じスタイルで、江戸時代からの風情を感じる。
板の間には、竹か籐かあるいは別の素材か分からないが敷物が敷かれた上に客が一列に相席として座るのが宜しい。

この日は東京に住んでいる息子に江戸情緒を体験してほしい、と同伴した。
80を過ぎ、先があまりないと感じるこの頃、一緒に飯を食う・酒を酌む機会を作ろうと思っている。



品書きは沢山あるが、「どぜうなべ定食」と「さきなべ定食」をひとつづつ頼み、両方を味わうことに。
定食は「なべ、田楽、どぜう汁、お新香、ご飯」が付いてくる。



刻みネギが山ほどのり、一味と山椒が置かれた木桶が運ばれる。



先ずはビールで乾杯。
日本酒が良いのだが、この日の暑さでは麦酒だ。



豆腐と蒟蒻の味噌田楽。
江戸時代の居酒屋の人気のつまみは「味噌田楽」と聞いたことがあるが、その名残か。





小さな七輪に熾った炭火、その上に小さな鉄鍋に泥鰌。
「丸のまま」と「割いて骨を外した」は好みによるが、まるでも、生きたドジョウを酒に漬け水分が酒と入れ替わったら、江戸の白みそでじっくりと煮上げるから、骨は柔らかい。
「まあ、こんなに格好よく」と思える程に見事に並んでいる。

浅い小さな鉄鍋を使った「小鍋仕立て」の鍋料理は誠に趣がある。
「どぜう汁」も酒でころして、江戸白みそ仕立て。
コクがあって家でのドジョウ汁とは別物。

*泥鰌は、子供の頃の夏の食卓の定番の一つ。
近所の「八百徳分店」の店先の樽の中で上下に泳いでいる小さなドジョウを鍋持参で買いに行き、お袋が台所で火にかけるとバタバタと跳ね上がり、おとなしくなったら茄子と合わせて炒め煮、味付けは醤油、玉子でとじる。
細くて小さな泥鰌だが、骨も口に当たるし幾らかの苦みも有る。
そんな簡単な料理だが、妻が嫁にきてもお袋のレパートリーで子供たちも食べた。お袋が亡くなった頃にはドジョウも売らなくなった。
当然、丸のままで割いたりしないのが当たり前だった。
細い泥鰌を割くなんて包丁さばきは職人しかできない技だから。

小石川後楽園(3)

2023年06月23日 21時50分13秒 | 
小石川後楽園(3)



後楽園・西門
小石川の後楽園は水戸藩初代藩主徳川頼房が、邸宅のとして賜った土地に造成した庭園。山水を好む頼房の希望に応じたもので、小石川の土地は沼や丘があり起伏に富んだ地形で、樹齢数百年の高木等の自然的要素を備えていた。
頼房より作庭を命じられた徳大寺左兵衛は、この自然的要素を活かし、沼を大泉水として中島(蓬莱島)を配置する等庭園の基礎をつくるとともに、日本各地の景勝地を表現した。その後も、度々改修を重ね、現在の姿となっている。
5月18日に開催された「偕楽園公園を愛する市民の会」主催の「小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる」は小雨模様で、山の方には登れなかったので、6月18日に再訪し清水観音堂跡から得仁堂や八卦堂を巡った。



清水観音堂跡



通天橋
京都東福寺の通天橋を模して造られた。





得仁堂
光圀が18歳の時に史記「伯夷列伝」を読み、感銘を受け、伯夷叔斉の木像を安置した。創建時の建造物で現存するのは「得仁堂」だけだ。
現在、伯夷叔斉の木像は堂内に無いようだが、現在はどこに納まっているのだろうか。





「八卦堂」跡(当初は「文昌堂」)
寛永10年(1633)に6才の光圀が祖母英勝院に伴われて3代将軍家光に拝謁し、賜った「文昌星」の像が安置されていた。
山頂ともいえる場所はかなり広い敷地だが、下から見上げてはみえない。



菖蒲園と田圃。
光圀は、3 代藩主綱條の夫人に民の辛苦を教えるために水田を設け、水田での耕作や収穫の様子を見せたとされる。
現在は小さな田圃と花菖蒲などが植えられてある。
この場所ではないようだが、「動物園」などもあったらしい。



藤田東湖終焉の地碑
藤田東湖(1806~1855)は、 水戸藩上屋敷で安政の大地震に遭った。
その際、 東湖は母を下に囲って肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭へ出したが、 東湖は力尽きて下敷きになり圧死した。 圧死した場所は白山通りの拡幅により道路となったため、記念碑は小石川後楽園の中に移された。



東門
入場口は東門と西門が在る。
飯田橋に近い西門が一般的だが、東京ドームに近いのが東門で水道橋駅が最寄りの駅。

小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる(其の弐)

2023年06月13日 22時35分13秒 | 
小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる(其の弐)

小石川後楽園(2)



「水戸様小石川御屋敷御庭之図」 元禄 13(1700)年頃 明治大学博物館所蔵
5代将軍綱吉が本園をご覧になった際に描かせたとされる絵図。

図には、文昌堂や得仁堂、河原書院、西行堂などの建築物が描かれている。
また、大泉水には長橋や、東西に長い形状の蓬莱島が確認できる。
特に光圀によって建立された文昌堂(後の八卦堂)は、文昌星の像が祀られ、学問推奨の拠点となった。



花菖蒲田・藤棚・稲田の辺り。
花菖蒲は6月が見頃らしいが、5月18日では少し早すぎ。



愛宕坂
愛宕坂は急な石段で真直ぐな階段は「男坂」向かって左の緩やかな階段が「女坂」それにしても急な石段だ。雨の日は滑って危ないから上ることが禁止されて残念ながら上まで行けなかった。



坂を上ると「文昌堂」(後に「八卦堂」に改められた)が在った跡地だ。





「文昌星」の像
寛永10年(1633)、6才の光圀が祖母英勝院に伴われて3代将軍家光に拝謁し、「文昌星」の神像を賜ったもので、中国の明からの渡来品であろう。
文昌星は北斗七星中の第1星、ないしは第1星から第4星までの名で「学問・知識・芸術」を司る。書物を足に据え、筆と硯を手に天空を駆る。
後世とくに科挙試験の受験生に信奉された。



「小石川後楽園唐門」(復元)
唐門は水戸徳川藩邸の内庭から大泉水へ向かう正式な入口。
第二次大戦で焼失したが2020年に景観を再現するため、古写真などの資料をもとに門と脇塀が復元された。





内庭
水戸藩の書院があった場所だが、現在は池を中心とする庭となっている。



焼失前の唐門(昭和13年撮影)

庭園の利用に関しては時代によって異なるが将軍家や他の大名家、様々な文化人や知識人が訪問している。特筆すべきは朝鮮通信使や琉球使節団の来訪など、後楽園を舞台に国際交流が行われていたことは、貴重な歴史的な出来事と言える。
*「偕楽園公園を愛する市民の会」の会員の皆さま方と楽しく有意義な旅が出来ました。有難う御座いました。

小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる(其の弐)

2023年06月07日 20時30分07秒 | 
小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる(其の弐)

小石川後楽園(1)







小石川後楽園は、江戸時代初期の寛永6年(1629年)に水戸徳川家初代藩主・徳川頼房が江戸の中屋敷(明暦の大火後に上屋敷となる)に造営を始め、2代光圀の代に完成した池を中心とした回遊式築山泉水庭園。
光圀は作庭に当たり明の遺臣・朱舜水の意見を用い、円月橋、西湖堤など中国の風物を設け、園名の後楽園も宋の笵仲淹の『岳陽楼記』中の「先天下之憂而憂 後天下之楽而楽」「天下の憂いに先だって憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」から名づけられた。



江戸時代の藩邸絵図。



明治時代の絵図。
明治になって屋敷は召し上げられ、砲兵工廠となったのでかなり縮小された。
庭園も埋め立ての危機に瀕したが、稀代の“庭道楽”として知られる陸軍の重鎮の一人で首相も務めた山形有朋の鶴の一声で庭園は存続した。

小石川台地の南端に位置する起伏に富んだ地形と自然林を活かし、日本と中国の名所や古典になぞらえた見所を配した「後楽園」は文化財保護法により「特別史跡・特別名勝」に指定されている文化遺産。



「小石川後楽園庭園保存会」(庭園ボランティアグループ)の皆さま方による歓迎の言葉、並びに概略の説明を受けた後に2グループに分かれて園内を散策。
生憎の雨模様で清水観音堂跡・得仁堂・八卦堂跡などは危険とのことで、拝観が出来なかったのは残念だった。



西湖の堤
中国の杭州の西湖の堤に見立てたもの。
清掃作業が行われていた。
落ち葉などが溜まるので常時清掃がなされる。



大堰川
徳川家光の好みであった山城国(現在の京都府南部)の大堰川を写した。
家光が川の石に腰掛けて造成の指揮を執ったといわれる。
川の上流には「通天橋」、下流には「渡月橋」がそれぞれ架かる。



円月橋
朱舜水が設計したといわれる石橋。
水面に映る姿が満月のように見えるので、この名がつけられた。

雨のために登れなかったが、円月橋の上の方に光圀の本意を現した堂「得仁堂」が在る。(建立当時の姿を残す園内唯一の建物)
光圀18歳の時、司馬遷『史記』の「伯夷列伝」を読み、伯夷、叔斉の高義を慕い、泰伯の像とともに二人の像を安置した。





神田上水跡

江戸の上水のうち、東北部をカバーしたのが「神田上水」
井之頭池(現在の武蔵野市・三鷹市)を水源とし、寛永年間後期(1620~30年代)までに完成したといわれる。
現在の文京区関口にあった大洗堰(今回訪ねた細川庭園の在るあたり)から取水し、小日向台地の縁を走り、そこから水戸徳川家の屋敷の庭(後楽園)を横断し、邸外に出るところで地下に潜って管路となり神田川を越えて市中に送られた。
江戸の上水は公共のもので武家屋敷内を流れるのは稀、邸内を横断した理由は判然としない。現在の水は井戸から汲み上げたものを使用しているが水路は江戸時代のものがそのまま使用されている。



大泉水に面した一つ松

小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる(其の壱)

2023年06月01日 16時54分29秒 | 
小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる(其の壱)

「偕楽園公園を愛する市民の会」主催の「小石川後楽園と肥後細川庭園を訪ねる」(2023年5月18日)は会員以外も参加可能とお誘いを受け訪ねた。
朝から夕方まで小雨模様であったが、貸し切りバスでの移動並びに現地のボランティアグループの方々の御案内と接待に与かり、ほぼ園内をくまなく見ることが出来た。







肥後細川庭園



江戸時代の切絵図に現在の施設を落とし込みしてある。





肥後細川庭園は、目白台の台地(関口台地)の自然景観を活かした池泉回遊式庭園。この地は、江戸中期以降は旗本の邸地になり、江戸末期には清水家や一橋家の下屋敷となり、幕末には熊本54万石の細川越中守の下屋敷になった。
明治15年には細川家の本邸(現在の目白台運動公園敷地)となり、その後は東京都が買収し昭和36年に「新江戸川公園」として開園し、昭和50年に文京区に移管され、平成29年3月に「肥後細川庭園」に名称変更した。
大地の上には細川家の「永青文庫」や「和敬塾」が在る。



この庭園は京都の嵐山を模して造られたらしい。
熊本藩の最後の御用絵師「杉谷雪樵」が明治27~28年頃に描いた図というが、現状とほぼ変わりない。



池の水の全ては台地の中腹からの湧水による。
湧水を利用した小さな滝の上部が水源地らしい。





松聲閣は細川家の学問所として使用されていたが、一時期は細川家の住まいとして使用されていた。細川護熙元首相も子供の頃に住んでいたとか。
現在は歴史性を生かし保存修理を行い誰もが利用できる文化施設となっている。



抹茶と肥後銘菓の御接待を頂いた。



肥後六花
肥後椿、肥後芍薬、肥後花菖蒲、肥後朝顔、肥後菊、肥後山茶花かの6種の花の総称。
肥後六花の共通の特徴は、花芯(雄蕊)が見事なこと、花形が一重一文字咲きであること、花色の純粋なことの三点がある。



肥後細川庭園ではそのうち4つ(肥後椿・肥後芍薬・肥後花菖蒲・肥後山茶花)を見ることが出来る。
肥後花菖蒲は咲き初めでこれからが本番。
秋から冬にかけて紅葉の樹木と、肥後山茶花・肥後椿の競演は見事です。
とガイドの方のお話。

「永青文庫」の秋期特別展の拝観しながらの再訪を期す。


隅田公園の藤田東湖「天地正気の漢詩」碑など

2023年03月21日 11時19分12秒 | 
隅田公園の藤田東湖「天地正気の漢詩」碑など

「隅田公園」は隅田川をまたがってその川沿いにある台東区・墨田区立の公園で桜の名所。墨田区側の敷地はかつて水戸徳川家の江戸下屋敷・小梅邸があった場所で、現在では東京スカイツリーを間近に楽しめる公園として親しまれている。







入り口の門柱は小梅邸時代のなごり。



公園内に残る池泉回遊式庭園は水戸藩下屋敷の遺構。
改修工事が行われていた。





公園の一画の道路沿いに藤田東湖「天地正気の漢詩」碑
幕末、水戸藩主徳川斉昭が隠居謹慎処分に藤田東湖がこの地に幽閉された際に作った、五言古詩。
天地自然の美しさと、人としての道を説いた内容は「正気の歌」として広まり、明治維新を前に志士の間で愛唱された。
この碑は、昭和十九年六月に東湖会が建立したもの。



今やこの碑の存在を知る人も少ない。
台座に腰を掛けて写真を撮るのは気が引けたが、誠を貫く気概をとの気持ちを込めて。





百花園から墨堤沿いに散策し長命寺の桜餅を味わい「三輪鳥居」が特徴的な牛嶋神社を詣で「正気の碑」まで、今年も桜を愛でることが出来た。



白の「オオシマザクラ」は大好きな桜で、若葉の塩漬けは桜餅を包む皮に使われる。

鎌倉市小町の「穴子ちらし小町」@ 鎌倉市小町2-11-11

2023年03月18日 11時47分51秒 | 
鎌倉市小町の「穴子ちらし小町」@ 鎌倉市小町2-11-11



昼間はFさんの案内で「江の島を観光」して「奥の岩屋」に感激した。
階段や坂道道を歩き、足は棒のようになって、攣る寸前だった。
いったん自宅に戻りFさんがミニコミ紙で見つけた、相模湾の釣りたて地魚を使った居酒屋に出かけた。
略図では鎌倉駅近く小町通の路地奥、という感じだが探しあぐねて電話して迎えに来ていただいた。カウンター5席の小さな店で、釣り仲間が集う店らしい。





ネタケースには、ご主人の小柳鉄平さんが自ら釣り上げた魚や、友人が釣った新鮮な地魚が並ぶ。
無類の釣り好き・魚好きが高じて、父が営む穴子ちらし専門店を夜だけ借りて営業を始めて約10年とか。



酢味噌和え



お造りは
太刀魚炙り・金目鯛炙り・まあじ・締めさば・地だこ・ヤリイカ・真鯛・まぐろぶつ。



太刀魚の塩焼き
南のさかなで関東では馴染みが無かったが、最近は見かけることが多くなった。
淡白な魚と思うが、大き目で脂がノリノリ、塩気も丁度よかった。
「この方が(隣に座っていたお客さん)が釣ったんですよ!」との説明、自分でも釣るが、仲間が持参するらしい。



ウマづらハギの骨を天日干し、熱燗を注いだ骨酒。
イワナほどの旨味はないが、乙な味わい。



金目鯛のカマの煮付け。 



アジフライ。
小さいが、新鮮な地魚ならではのふっくらとした味わい。

旬の地魚を堪能し、ご主人はじめ店のすべてにて大満足。
ご馳走様でした。
次回は昼の「穴子チラシ」を試したい。

●昼は予約なしで入店可能らしいが、夜(17時~22時)は予約をしたほうがよさそうだ。TEL(0467-25-0575)

江の島を歩く・其之弐

2023年03月18日 06時53分16秒 | 
江の島を歩く・其之弐







江の島サムエル・コッキング苑はイギリスの貿易商サムエル・コッキングが明治15年(1882年)に温室を含む植物園を造成した。
関東大震災などにより一度荒廃したものを藤沢市が再興した有料観光施設。
苑内に江ノ島電鉄の経営する江の島展望灯台などを含む。





苑内には藤沢市指定天然記念物のクックアロウカリアやシマナンヨウスギを始めとする亜熱帯植物や椿などの季節の花々を鑑賞できる。



LONCAFE (ロンカフェ)湘南江の島本店
日本で初めてのフレンチトースト専門店。
普通のフレンチトーストとは少し異なり、バリエーションが広い。



江の島海岸をバックにFさんとツーショット。





江の島シーキャンドル(展望灯台・高さ59.8メートル海抜119.6メートル)
ガラス張りの展望フロアと屋外展望台からの眺望は見事だった。
晴天ながら、富士山を拝むことは出来なかった。



下りは石の階段のルートで。
急傾斜の石段を下るのは難儀で、足が棒のようになってしまった。
辛うじて、駐車場までたどり着くことが出来た。

江の島を歩く・其之壱

2023年03月17日 19時09分57秒 | 
江の島を歩く・其之壱

中・高時代の友人で横浜在住のFさんの案内で江の島を歩いた。





江の島弁財天の玄関口となる鳥居。古くは木製だったが、文政4年(1821)に青銅で再建された。両柱には再建に協力した江戸の寄進者の名前が記されている。
参道の両脇には土産物屋や旅館が立ち並ぶ。
中学の修学旅行で島内に1泊したのだが、記憶は全くない。



江の島神社中津宮を目指すには階段・エスカレーター(有料)・坂道の3つがあるが、登りは坂道で帰途は階段を使うことに。
片瀬漁港の奥に富士山が見えるらしいが、この日は霞んで見えなかった。



江島神社・奥津宮





稚児ヶ淵
島の西南端、岩屋の周辺に広がる、隆起現象でうまれた海食台地。
屏風のように連なる断崖の真下にあり、富士山の向こうに沈む夕日の美しさで知られるが、晴天にもかかわらず富士山の姿は見えない。









江の島岩屋
島の最奥部にある海食洞窟で、古くは弘法大師や日蓮上人も修行したといわれ、江の島信仰発祥の地として崇められてきた。
養和2年(1182)には源頼朝が奥州藤原秀衡征伐を祈願したとも伝えられる。奥行152mの第一岩屋と56mの第二岩屋は龍神伝説の地と言われる。
想像以上の奥行きの深さと自然の造形の凄さに感嘆したが、古代においてよくも奥まで到達したものと驚く。

以前の崖沿いの通路はかなり危険そうで、現在は岩屋橋が通って入り口に到達できる。この通路が無ければ難所である。
入場料の500円は高いと思ったが、明るい照明・時にはイルミネーションが輝き・手持ちのロウソクを照らしながらの区間もあり、万端の設備で入場料は安いくらいと納得した。

石切山脈@笠間市稲田

2023年02月23日 09時46分46秒 | 
石切山脈@笠間市稲田







「石切山脈」と呼ばれる山地一帯は、八溝山系の東西約10km、南北約 5km、地下1.5kmに及ぶ岩石帯とされる。
岩石は「稲田石」と呼ばれるが、約6,000万年前に海底の深いところで長い時間をかけ冷えて固まった花崗岩の一種で、世界でも類を見ない真っ白な御影石である。
花崗岩は石英(うすい灰色)、長石(白色)、黒雲母(黒色)の三つの鉱物により構成されるが、稲田石は長石が60%以上を占めるので白い美しい色調となるのだ。

美しい光沢と優れた耐久性を兼ね備えているので、日本橋や東京駅、国会議事堂、最高裁判所など 、全国有数の歴史的建造物に使用されてきた。
1889年(明治22年)に水戸線が開通したことにより、明治32年から採掘が始まって以来100年以上続く「稲田石」の採掘現場として知られる。
美しい光沢と優れた耐久性を兼ね備えているため、日本橋や東京駅、国会議事堂、最高裁判所など 、全国有数の歴史的建造物に使用されている。



現在の水面よりかなり深いところまで掘削されていたが、掘削が中止されると雨水や湧水が溜まって湖のような現状に。





加工工場も稼働している。
現在の採掘場はもっと奥に移動しているが、事務所と工場は従来の場所に。
近年、外国で加工されたものを輸入した製品が多いと聞くが、地元での産業を継続していただくのが何より。







湖面で「スラックライン」に遭遇した。
スラックラインとは、細いベルト状のラインの上でバランスを楽しむスポーツ。綱渡りとトランポリンを合体したような競技で2009年に日本に上陸した。
2021年3月に千波公園・西の谷緑地で開催された「GO OUT PARK! in 水戸の梅まつり」でデモンストレーションを見たが、今回のように高い所での演技は初めて見たが、サーカスを見ているような感じで楽しかった。
(2023年2月19日)

関東鉄道竜ヶ崎線@竜ケ崎市

2023年01月14日 18時57分36秒 | 
関東鉄道竜ヶ崎線@竜ケ崎市





JR常磐線龍ケ崎市駅(旧・佐貫駅)で乗り換え関東鉄道竜ヶ崎線・佐貫駅から竜ヶ崎駅へ。
全長4.5キロメートル、途中駅・入地駅を含めて3駅を片道7分で結ぶ短距離路線だが茨城県では最も古い私鉄で、明治33年(1900年)に開通した。





関東鉄道竜ヶ崎線・竜ヶ崎駅から東に2km位続いている本町商店街を往復した。閉店してしまった店も多いが、江戸時代以前から商業都市として栄えたと言われる面影が残る。
戦後「流通経済大学」の開学や「竜ヶ崎ニュータウン」造成により人口が増加しているが、昔からの商店街は衰退してしまったようだ。
6国道の西側に在る「牛久沼」は河童伝説と鰻で有名だが、隣の牛久市ではなく竜ケ崎市の北西部に位置していることはあまり知られていない。
牛久沼は多くの観光資源が有るのに。



八坂神社



ひときわ目立つ、当時の豪商「小野瀬家」の店舗兼住宅(国の登録有形文化財)



龍泉寺観音堂



友人のEさん達が街おこしの事業として始まった「龍ケ崎コロッケ」を食べながら街歩きをしたい、思ったのが竜ケ崎訪問の理由なのだ。
しかし、成人の日の翌日ということで、商店街がほぼ閉まっていた。
やっとたどり着いた「服部精肉店」では「もう火を落としてしまった」とのことで、残念ながら食べることは叶わなかった。
「宇都宮餃子」を始め、ご当地グルメがブームとなったが伝統的なものより街御輿しとして創られたものが多い。
いかに、それを盛り上げるかの手法に依って、明暗が分かれる。
新住民のEさん達の努力が実って賑わったが、その後は永続できなかった。
問題は大いにしても、商店街や市役所の人達の連携が上手くゆかないことに原因がありそうだ。





土浦で途中下車し「吾妻庵総本店」(土浦市中央1-6-11)に。
創業140年余、大正時代の建築は外観・内装ともに風格がある。
水戸の「吾妻庵」は高校時代からの馴染みの味だ。
直接の関連はないようだが、ルーツといえる店の蕎麦を試してみたかった。

高崎城址公園・高崎市役所

2023年01月13日 10時14分00秒 | 
高崎城址公園・高崎市役所







烏川のほとりに1598年に井伊直政が築城したとされる高崎城。
城郭建造物は既に失われ、現在は三の丸外囲の土居と堀、乾櫓、東門が残っている。
堀の周りには桜が植えられ花見の名所だが、真冬の今は枯木立。
21階の市役所や群馬音楽センターなど公共施設が多く並ぶ。





高崎市役所1階ロビー
気軽に立ち寄れる雰囲気がある。
名物の達磨が飾られていた。





直行エレベーターで21階展望ロビー
望ロビーからは上毛三山などが一望。



昭和11年に建立された白衣観音(高さ41.8メートル、重さ約6,000トン・建設当時は東洋一の大きさを誇ったといわれる)を拝むことが出来る。





東側に広がる商業都市のビル群。
街の規模としては水戸よりかなり大きい。



「群馬音楽センター」は群馬県を代表する文化施設の一つ。
建築家アントニン・レーモンド(1888年-1976年)の設計で、1961年に竣工した。2019年9月まで群馬交響楽団の本拠地でもあったが、老朽化により現在は使用されていない。
上から見た幾何学的な屋根の形状など、名建築であることが一目だ。



城郭の建造物は殆ど失われたが、乾櫓・東門がわずかに残されている。



高崎市内には7か所の自転車駐車場があり、そこに何台かの貸自転車が用意され借りることが出来て、料金は無料。
この日は寒く、風も強かったのと再訪を予定した「高崎市美術館」「旧井上邸」が連休の上りで火曜日が閉館で、残念ながら駅と市役所の往復にとどめた。



「高チャリ」は高崎駅西口を中心に、自由に乗降できる無料の貸し出し自転車。 市街地内に設置された16カ所のサイクルポートで150台の自転車を 借りることが出来る。ハンドル脇のバスケットにヘルメットも用意されてある。

*宇都宮に続いて群馬の高崎を訪れた。
宇都宮・高崎は水戸より人口も多く県の中核都市で経済規模も大きい。
日頃、自転車で移動しているので他所の街でもレンタサイクルを利用する。
両都市に比べ水戸の駐輪場の設置並びに歩道・自転車通路など・貸自転車のシステムなどにおいて各段に劣っていることを痛感した。
水戸は大型プロジェクトで市街地の再興を図っているが、地に着いた街づくり以外に妙手はない。

古河市を歩く

2023年01月09日 16時18分10秒 | 
古河市を歩く







鷹見泉石記念館(鷹見泉石旧宅)@古河市中央町3-11-2
鷹見泉石(1785 – 1858)は、江戸時代の蘭学者であり古河藩主土井利位が大坂城代だった折随行し「大塩平八郎の乱」が発生すると、自らが陣頭に立ち采配を振るい見事乱を鎮めた人物。
蘭学者としても有名で"雪華図説"や"新訳和蘭国全図"は大きな影響力を持ち、広く世界を見つめていた事で開国論を展開、幕府から半ば排斥される形で古河に蟄居した。
住居は古河城の御三階櫓造営時の余材を使用して建てられた武家屋敷。
敷地も当時は現在の4倍以上と広く、建坪も200坪を超え上級武家屋敷の一端を見ることが出来る。



資料のほとんどは道路と濠を挟んだ反対側の「古河歴史博物館」に寄贈され、建物は鷹見泉石記念館として公開されている。



鷹見泉石像・渡辺崋山(1793-1841)筆・絹本着色/縦115.1 横57.1
天保8年(1837) (東京国立博物館蔵・国宝)
古河藩(茨城県)の江戸詰家老で、蘭学の先輩でもある鷹見泉石を描いたこの図は崋山45歳の作。
微妙な陰影法による写実的な顔の描写とおおらかな着衣の表現とが渾然ととけ合った傑作。









隣接して古河出身の南画家・奥原晴湖(1837-1913)の熊谷の旧宅の一部を移築した『繍水草堂』が在る。
旧古河藩領であった埼玉県熊谷を活動の活動拠点とした。



関東平野のほぼ中央、茨城県の西端に位置する古河市は、西側が埼玉県、北側が栃木県、東側が結城市、八千代町、南側が五霞町・境町・坂東市と接している。
東京やさいたま市、宇都宮市までの距離が50~60㎞という地理的条件に加え、JR宇都宮線をはじめ、国道4号や新4号国道等の交通ネットワークが整備されていることから、さいたま新都心、小山、宇都宮との交流が盛んであり、近年、人口・住宅・工業化の集積が進んできた。
東京の近郊という感じだが旧古河藩の城下町としての文化的な香りのする落ち着いた街だ。
古河歴史博物館・古河文学館・永井路子旧宅(古河文学館の別館)・鷹見泉石記念館・篆刻美術館などがある。



幕末から明治期の画家・河鍋暁斎も古河に生まれた。





武蔵屋のミニうな重
旧日光街道沿にある創業百年を誇る老舗のうなぎ屋。
予算の都合でハーフサイズ。



武家屋敷の面影を残す通り。



「日光街道古河宿道標」
城下町は道が直角に曲がるようにつくられている。
日光街道と、筑波道の分かれるところに「日光街道古河宿道標」

(訪問は2022年10月8日)

青春18きっぷ冬の陣の第4弾は宇都宮・其の2

2023年01月08日 23時42分47秒 | 
青春18きっぷ冬の陣の第4弾は宇都宮・其の2



第4代栃木県庁舎 昭和館
栃木県庁は広大な敷地にいくつもの庁舎が建っているが、昭和13年から平成15年まで県庁舎として利用されていた建物を改修、昭和館として内部を一般公開している。
外観は旧茨城県庁舎(現・茨城県三の丸庁舎/昭和5年建設)と同様な雰囲気だ。





オリオン通り商店街
東武宇都宮駅のすぐ脇に全長280mに渡る全蓋アーケードを設置した北関東随一の広域型商店街として有名で、水戸の商人も度々、視察に訪れ参考にした。
日本国中イオンモールの時代となり、往時の勢いは失ったように見えるが、他の商店街を含め水戸よりはかなり賑わっている。







松が峰教会
1932(昭和7)年に竣工した大谷石建築としては現存最大級のロマネスク・リヴァイヴァル建築。スイス人建築家マックス・ヒンデルの設計で、国の登録文化財に指定された。外壁・祭壇・柱など、ほとんどが大谷石造り。







中華料理・香蘭の餃子と焼売
宇都宮と言えば「餃子の街」として知られるが、宇都宮餃子の無人販売店が水戸市内のあちこちに出現するご時世となった。
ここまでくるとどうなの?の感がある。
駅まで戻ってレンタサイクルを返却前に、見つけた中華料理店で餃子と焼売で遅めの昼食。ビールとともにと思いがよぎるが、自転車に乗るので断念。
お肉たっぷりで焼き上がり蒸し上がりでアツアツ。
お値段以上の味に満足した。



紅の蛍光ペンのラインがこの日の主なルートだが、右往左往しながら行こうと考えたところは一応制覇した。
グーグルマップのタイムラインによる走行距離は18㌔。
水戸より車道・歩道ともにかなり整備されている。
市内の活性化を叫ぶなら、人と自転車が安心して通れる道作りを優先してもらいたい。