goo blog サービス終了のお知らせ 

「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

ダリ展@国立新美術館

2016年12月08日 22時09分08秒 | 美術館
ダリ展@国立新美術館
9月14日~12月12日




サルバドール・ダリ(1904年--89年)は時計が溶解していくような「シュルレアリスム」を代表する画家とだけ思っていた。
2010年8月に法相宗の学僧・徳一(760?年 - 835?年)を辿り会津の「慧日寺跡」と「勝常寺」を訪ねた際に「諸橋近代美術館」に立ち寄りダリの作品をまとめて観た。
精神分析・相対性理論・量子力学・数学・生物学など多方面の知識に長けていたということを知った。
パフォーマンスや挑発的な姿勢の強い人と思っていたが、大間違いで科学と芸術を一体化させようとしたようだ。特に、立体・彫刻作品が沢山あることも驚きだった。
2010年はスペインにも旅し「国立ソフィア王妃芸術センター」にも行ったが、ピカソの作品に目が行って、ダリの記憶が無いのは残念。



本年10月7日、国立新美術館の「ダリ展」に行ったが、全貌展で時代ごとの変化も激しく、もう一度、と思いつつ会期末となってしまった。
「アトデとオバケは出たことない」はその通り。
時間が経過し印象も薄れたが、記憶に留めておくべきと出品目録を基にお浚い。

第1章 初期作品(1904-1922)
スペイン、カタルーニャ地方のフランス国境に近い町フィゲラスで、芸術や文化に造詣が深く自由な気風の家庭に生まれた。
少年時代から絵画の才能を賞賛され、フィゲラスや、夏の休暇を過ごした漁村カダケスの風景を、ポスト印象主義風の様式で描いている。



《ラファエロ風の首をした自画像》1921年頃 カンヴァスに油彩

第2章 モダニズムの探求(1922-1929)
1922年にマドリードのサン・フェルナンド王立美術アカデミーに入学するも、そこでの教育に飽き足らず、反抗的な学生だった。学生寮で、ルイス・ブニュエル(後の映画監督)やフェデリコ・ガルシア・ロルカ(後の詩人)と交友を結ぶ。
キュビスム、ピュリスム、未来派などの新しい芸術の影響を受けた作品を制作する。




《ルイス・ブニュエルの肖像》1924年 カンヴァスに油彩
70.0 × 60.0 cm 国立ソフィア王妃芸術センター


第3章 シュルレアリスム時代(1929-1939)

1929年にブニュエルと共同で脚本を執筆した映画「アンダルシアの犬」がパリで公開され、大きな反響を呼んだ。
アンドレ・ブルトンを中心とするパリのシュルレアリスト・グループに参加し、パラノイア的=批判的方法を生み出して、シュルレアリスムの中心的な画家として活躍するが、ブルトンとの不和も芽生える。




「奇妙なものたち」(1935) 板に油彩、コラージュ 40.5 × 50.0 cm ガラ=サルバドール・ダリ財団蔵

*『アンダルシアの犬』『黄金時代』も上映されていた。

第4章 ミューズとしてのガラ
ダリは、1929年夏に詩人のポール・エリュアールの妻ガラと初めて出会い、すぐ恋に落ちた。以後ガラは、常にダリに寄り添い、ミューズとしてダリの芸術に霊感を与えるとともに、一種のプロデューサーとしてダリを支援し、成功に導いた。
*ガラなくしてダリは生まれなかったかもしれない。

第5章 アメリカへの亡命(1939-1948)
第二次世界大戦が勃発すると、ダリとガラは戦火のヨーロッパを後に、アメリカ合衆国に亡命し、1948年まで過ごす。
1934年以降、アメリカで何回か展覧会を行っていたダリは、すでに有名作家だった。商業的な仕事や出版を通じ、シュルレアリスムを体現する名士としての地位を確立した。

第6章 ダリ的世界の拡張
アメリカ滞在中に、ダリは舞台芸術や映画などの美術の仕事を多く行い、ヒッチコック、ディズニー、マルクス兄弟などにも協力している。
また、ファッションや宝飾の仕事にも手を染め、ダリの芸術から派生したイメージは、大衆的な人気を博した。

第7章 原子力時代の芸術(1945-1950)
1945年の広島と長崎への原爆投下に大きな衝撃を受けた。
新しい原子物理学の知見と宗教的な神秘主義を結びつけることで、核時代の到来によって決定的に変質してしまった新しい世界における、芸術のあり方を探ろうとした。



ウラニウムと原子による憂鬱な牧歌》
1945年 カンヴァスに油彩
66.5 × 86.5 cm 国立ソフィア王妃芸術センター


第8章 ポルトリガトへの帰還―晩年の作品(1960s-1980s)

アメリカから戻ったダリとガラは、カダケスの近くの小さな漁村ポルトリガトに居を定めた。
1960年代以降は古典芸術に回帰し、巨匠たちに触発された作品を描くとともに、ダリ芸術の様々な要素を集大成した《テトゥアンの大会戦》のような一連の大作絵画を次々と制作。
1974年にはフィゲラスに、心血を注いで作り上げたダリ劇場美術館も開館した。

芸術と芸術家のあり方を変革したダリは、まさに現代美術の先駆者の一人ということができる。

新日曜美術館 サルバドール・ダリ
https://www.youtube.com/watch?v=CuQxDYF3hDI





「鈴木其一 江戸琳派の旗手」展@サントリ―美術館

2016年10月14日 21時26分31秒 | 美術館

「鈴木其一 江戸琳派の旗手」展@サントリ―美術館
9月10日~10月30日






桃山時代後期,本阿弥光悦、俵屋宗達に始まり、尾形光琳、酒井抱一と続いた「琳派」は鮮麗な色彩や金泥・銀泥を巧みに用いた装飾的な画風で日本を代表する美術様式。

江戸時代後期に酒井抱一の弟子として、代作もしたと言われる鈴木其一(きいつ)(1796~1858年)の展覧会。

NHKの「日曜美術館」を展覧会の前後に観たので、その影響もあるが、近代日本画の先駆け、で現代においても通用する画家・絵師であったと思う。



「朝顔図屏風」(メトロポリタン美術館所蔵)部分
今回の展覧会の一番の見どころ。






「風神雷神図
テレビでは「朝顔図屏風」との構図の共通点なども取り上げていた。








「富士千鳥筑波白鷺図屏風」(二曲一双・江戸時代後期)。
江戸からの眺めた風景は「西の富士・東の筑波」と言われた。
富士山ほど大きくは望めないが、王子あたりからは今でも見られる。
この作品は僕が見に行った時は展示されてなく、テレビの映像だが、大胆な構図で茨城の人間にとっては嬉しい。




「夏秋渓流図屏風」(部分)
これも現代的、流れの姿は琳派的であるが、新境地。

解説者は若冲に次ぐ、様な発言もあったが、若冲の多彩な技法や表現には及ばないように思えた。

サントリー美術館のある、「ミッドタウン」は防衛庁の跡地。
50年前頃、この辺りに勤務先が在ったので毎日通った。
当時は、住宅地で店などない状態だったが、様変わりだ。



当時から在ったという「檜木町公園」を見渡せる。
再開発などに際し、広い緑地公園を含め、ゆとりある土地計画は必定だ。


草間彌生・魂のおきどころ@松本市美術館

2016年08月16日 20時56分14秒 | 美術館
草間彌生・魂のおきどころ@松本市美術館









美術館正面の巨大モニュメント「幻の華」

現代美術の世界で、一番人気のある日本人作家は「草間彌生」とも言われる。
1929年松本市に生まれ、10歳の頃より水玉と網模様をモチーフに絵を描き始め、水彩、パステル、油彩などを使った幻想的な絵画を制作。
1957年渡米、ニューヨークを中心に世界各国で活動するが、1973年に帰国し、都内にアトリエを構え、本拠地とする。
昨年、テレビの番組で見たのだが、東京の事務所を仕切っている方が水戸出身であることを知って驚いた。

上田薫さんが「フジテレビギャラリー」での個展の際、観客として來廊していた草間彌生を見た時、感激したことも思い出した。



2002年に開館した松本市美術館の開館記念展を開催。
開館後は常設展示室が設けられ「松本でなければ体感できない草間彌生の現在と原点」は

松本時代(1929-1957)
ニューヨーク時代(1958-1973)
帰国後(1973~)



各時代の作品を一堂に観られる良さがある。



人気のある《かぼちゃ》シリーズ



かねてより訪れてみたと思っていた美術館に、水戸ホーリーホックと松本山雅FCの観戦を兼ね実現したのは嬉しい。
Jリーグの良さは、相互の街を訪問し、その土地の食や文化を愉しむことも大きな目的だ。

「乙女デザイン―大正イマジュリィの世界」@茨城県近代美術館

2016年08月04日 06時28分16秒 | 美術館
「乙女デザイン―大正イマジュリィの世界」@茨城県近代美術館
会 期 :7月16 日~9月25 日




近代美術館の夏休み企画は「乙女デザイン―大正イマジュリィの世界」。
「乙女デザイン」は分かるにしても「大正イマジュリィ」とは何?

イマジュリィとは,「イメージ図像」を意味するフランス語で,装幀(ブックデザイン),挿絵,ポスター,絵はがき,広告,漫画などの大衆的な複製としての印刷・版画の総称でもあります。(展覧会・資料より)

複製技術が発達した大正時代,誰もが自分のものにでき,手にとって間近に愉しむことができる印刷物は,美術を運ぶ容れ物として,重要な意味を持つようになった。
藤島武二や岸田劉生ら著名な画家も,本の装幀を数多く手がけた。
またアール・ヌーヴォー様式の橋口五葉、アール・デコの図案に取り組んだ杉浦非水や小林かいちなど,当時の乙女たちの心をとらえたデザイナーが次々と登場した。

竹久夢二や高畠華宵にみられる少女趣味。
小村雪岱の洗練された江戸趣味。
恩地孝四郎,古賀春江らに代表される都市のモダニズム。
また関東大震災やプロレタリア運動といった社会状況を映すように, 先鋭化したデザインが生まれた。

装幀・挿絵・デザイン画・広告・ポスター・絵はがき・版画など約400 点、と記されているが、総数はもっと多い。




竹久夢二「汝が碧き眼を開け」
(セノオ楽譜56番)7版表紙 昭和2年 個人蔵



杉浦非水「初夏」『三越』 22巻第5号表紙 昭和7年 個人蔵



小林かいち『二号街の女』絵はがきセット 大正14-15年頃 個人蔵


本などの小さい展示が多いから、かなり近づいてみる必要がある。
何れにしても、全てが丁寧で手作りの味わがある。

現代のそれらの「何ンと味気ない」かを実感した。

会期中、講演会やワークショップなど幾つかの関連事業が盛り込まれている。



『こどもと ファッション 小さい人たちへの眼差し』@東京都庭園美術館

2016年07月31日 07時28分14秒 | 美術館
『こどもと ファッション 小さい人たちへの眼差し』@東京都庭園美術館
2016年7月16日(土)から8月31日(水)まで。






東京都庭園美術館は 朝香宮[あさかのみや]邸として1933年(昭和8年) に建てられた建物を、そのまま美術館として公開したので、建物を含め庭の散策も愉しいお気に入りの美術館。2014年11月22日にリニューアルオープンした後、訪ねていなかった久し振りの訪問。



玄関の唐獅子。
改めて観ると、面白い。



庭のアカマツ・クロマツの大木が見事。
松は日本の原風景と思うが、松くい虫被害で少なくなってしまった。
何故、全国的にもう少し植えて増やさないのだろうか。



ザッキンの彫刻も。



庭から見た本館、2階のギャラリーから庭を見下ろすのが素晴らしい。
左側に2014(平成26)年ホワイトキューブのギャラリーを擁する新館が竣工し、
ミュージアムショップ・喫茶室・展示室?等が加わったが、活用されていない感じで、ある面でもったいないとおもった。



西洋の18世紀から20世紀初頭 にかけてと、明治以降の日本の洋装こども服を展示する珍しい展覧会。

最近の子供服は少子化のせいもあって、子供のファッションショー・キッズモデルも全盛となった。

資料に
『子どもは、ヨーロッパにおいて、長い間「不完全な、小さい大人」として扱われてきました。大人と区別される「子ども」という概念は中世から見受けられますが、18世紀半ばになると子どもに特別な関心が向けられるようになります。長い間成人の服のミニチュアのように作られてきた子どもの服は、この時期からその身体的心理的発達に配慮した固有のものとしてデザインされはじめ、やがて19世紀後半には独自のスタイルを生み出しました。』

とあるが、子供服の概念は時代とともに変わる。

徳川美術館@名古屋市東区徳川町

2016年04月08日 14時11分06秒 | 美術館
徳川美術館@名古屋市東区徳川町




名古屋駅前。
近年、名古屋駅前は再開発が進行中でお高層ビルが林立している。



博物館に向かうバス乗り場、名古屋グランパスの本拠地で「名古屋のフラッグ」、水戸も駅前に欲しい。Jリーグのある街は大概、この様なフッラッグが在るものだ。

徳川園・徳川美術館



尾張徳川家の邸宅跡で池泉回遊式の日本庭園。
「徳川美術館」は徳川園の一画。



「徳川園黒門」
徳川園の西に開く黒塗りの木割の太い薬医門。
旧尾張徳川家大曽根邸の表門として風格のある趣を持つ。

尾張藩二代藩主光友が、元禄8年(1695年)に自らの造営による隠居所の大曽根屋敷に移り住んだことが起源で、当時の敷地は約13万坪(約44ha)の広大さで、庭園内の泉水には16挺立の舟を浮かべたと言われている。

昭和6年(1931年)、十九代当主義親から邸宅と庭園の寄付を受けた名古屋市は整備改修を行い、翌年「徳川園」が公開された。



昭和20年(1945年)に大空襲により園内の大部分を焼失した後は一般的な公園として利用されてきましたが、平成16年秋に日本庭園としてリニューアルした。

池泉回遊式の大名庭園で、清流が滝から渓谷を下り海に見立てた池へと流れる。



「龍門の瀧」
1998年、尾張徳川家下屋敷跡(現。早稲田大学)からから発掘された「龍門の瀧」の遺構を移転し、2004年再現された。




「徳川美術館」
侯爵徳川義親の寄附により1935(昭和10)年に開館した。
国宝『源氏物語絵巻』を含め国宝9件、重要文化財、重要美術品多数を含み、武家の表道具である刀剣、武具類や家康の遺品、華麗な婚礼調度をはじめとする調度類、服飾品、茶道具、書画など多岐にわたる。





特別展示室は「尾張徳川家の雛まつり」



「旧本館」1935年。


●徳川家康の遺品(駿府御分物)を中核として、徳川家康の九男・徳川義直を祖とする尾張徳川家伝来の大名道具を展示公開。
他にも、徳川将軍家や一橋徳川家、蜂須賀家などの大名家の売立てで購入した作品、名古屋の豪商であった岡谷家や大脇家、高松家をはじめとする篤志家から寄贈された作品も収蔵している。


岐阜県美術館

2016年04月03日 23時04分15秒 | 美術館
岐阜県美術館



水戸芸術館とつながりの深い日比野克彦さんが出身地の岐阜県美術館・館長に2015年4月に就任したことを知り、岐阜に行く際は訪ねたいと思った。

岐阜県美術館は1982年(昭和57年)11月開館した。
岐阜県出身者やゆかりのある画家(大橋翠石、川合玉堂など)・芸術家の作品を多数収蔵する一方、オディロン・ルドンの作品「眼を閉じて」、「あずまやの下の二人の女」などを多数収蔵している。

岐阜駅の隣、西岐阜駅から徒歩約15分、県民文化の森の一画にあり隣接地には県立図書館も在る。



館の内外に彫刻作品が配されてあり、鑑賞しながら散策できる。



多目的ホールにはパイプオルガンと大理石の彫刻が設置されている。



常設展示と企画展示があり、この時は常設展示のみ。



「大きな枢機卿」ジャコモ・マンズー(1908年 - 1991年)



次回の企画展は2016年4月1日~6月5日
「ナンヤローネ No.0」
このタイトルは日比野さんのアイデアか?

2010年(平成22年)から展示室の増築工事が、2012年(平成24年)1月にリニューアルオープンした。





2015年4月から日比野克彦さんが館長に就任「美術館という器にこだわらず、街に飛び出して、土地の力を生かした新しいアートを展開していきたい」と抱負を語った。
古田肇知事は「幅広い活動と人脈を生かし、新しい魅力を発信してほしい」と期待を寄せた。その際のビデオ映像が放映されている。

洋画・日本画・彫刻・陶磁器と総合的な展示の美術館。
特色を出すのは難しそう。
日比野さんの力に期待が集まるだろう。
大胆な改革をしないと、独自色を出すには時間を要する感じがした。

『村上隆のスーパーフラット・コレクション―蕭白、魯山人からキーファーまで―』

2016年04月03日 08時02分00秒 | 美術館
『村上隆のスーパーフラット・コレクション―蕭白、魯山人からキーファーまで―』
 2016年1月30日(土)~4月3日(日)@横浜美術館





古美術、現代アート、その他もろもろ
御開帳!村上隆のスーパーフラット・コレクション

膨大なコレクションの一部に囲まれて座る姿はこの展覧会の全てを暗示する。まさに宝の山をひっくり返したように、ありとあらゆるものが並列で展示されている。




美術館前の道路の改修はほぼ終了。
大好きな紫木蓮の花が素晴らしかった(3月22日)。



アンゼルム・キーファー《メルカバ》2010年



中国漢時代 裸人物像俑(漢時代)
ひと頃、香港の骨董商の店頭で見かけた謎のような俑。



目白の「古道具・坂田」の旧蔵品と思われる品が並んだ部屋。




魯山人のコーナー。





自宅を持たないという村上氏は、「購入した作品は倉庫に直行、愛で楽しむことはない」と人伝手に聞いたことが有るが、この様に膨大の量を買い付けるエネルギーもすさまじい。展覧会の会期中にも展示品は続々と増えたとも。




『村上隆はアーティストとしての精力的な創作の一方で、キュレーター、ギャラリスト、プロデューサーなど多岐にわたる活動も展開している。特に、近年、独自の眼と美意識で国内外の様々な美術品を積極的に蒐集し続け、コレクションは、現代美術を中心に日本をはじめとするアジアの骨董やヨーロッパのアンティーク、現代陶芸や民俗資料にまで及んでいる。』
『村上隆にとって「スーパーフラット」とは、平面性や装飾性といった造形的な意味のみに限定されるのではなく、時代やジャンル、既存のヒエラルキーから解放された個々の作品の並列性、枠組みを超えた活動そのものを示しており、「芸術とは何か?」という大命題に様々な角度から挑み続ける作家の活動全体(人生)を包括的に表す広範かつ動的な概念と捉えられる』

『圧倒的な物量と多様さを誇るこれら作品群を通して、村上隆の美意識の源泉、さらには芸術と欲望、現代社会における価値成立のメカニズムについて考えるとともに、既存の美術の文脈に問いを投げ掛ける、またとない機会となるだろう。』(展覧会概要からの抜粋)



マルティン・ホナートの《巨人》の前の逢坂恵理子館長(横浜美術館FBより)
今回の企画は村上隆氏が逢坂恵理子横浜美術館館長に持ちかけて決定したとのこと、水戸芸術館に在籍していた逢坂恵理子さんの新天地での活躍は嬉しい。


話題を呼んだ『村上隆のスーパーフラット・コレクション』の開催は今日(4月3日)まで。3月22日、横須賀の記念艦・三笠を見学の帰途立ち寄って観たが膨大な質と量に圧倒され、再度訪問してからアップしようとしたが、3月25日から岐阜のホーリーホックの遠征に参戦して3泊4日、岐阜~大垣~名古屋~静岡と巡ったので再訪できないままに最終日。
この展覧会はフェイスブックやユーチューブで沢山の情報が流されたので、1度現物を観ていれば、何度か反芻する機会は出来ると思い、取りあえずアップ。

写真も単体での撮影以外はOK,全てが村上本人の収蔵品と云う事もあろうが、情報が氾濫する現代において、フラッシュや三脚を使用しなければという考えもフラットだ。

カラヴァッジョ展@国立西洋美術館

2016年03月24日 08時36分26秒 | 美術館
カラヴァッジョ展@国立西洋美術館
3月1日~6月12日





カラヴァッジョ(1571-1610 年)の真作は80点くらいと云われ、フェルメールの絵画、汝官窯の青磁が世界中で何十点しか存在しないと同じように希少価値がさらなる名声と伝説に拍車をかけている画家。
存命中は居酒屋を渡り歩き、喧嘩や口論に明け暮れる日々、殺人を犯して逃亡など、スキャンダルが多い画家。くらいしか知らないが全貌を知る機会と出かけた。3月25日は金曜日なので閉館は8時、5時頃に入館し7時半頃まで観ることが出来た。常設が工事中とかで、後日みられるチケットを貰った、

38歳で死去するまでミラノ、ローマ、ナポリ、マルタ、シチリアと各地で制作した11点が展示されているが、あたかも映像のように人間の姿を写実的に描く手法と、光と陰の明暗を明確に分ける表現に憧れた追随者たち=“カラヴァジェスキ”がヨーロッパの各地に誕生した。その作家たちの作品も同時に展示されている。

存命中のカラヴァッジョはその素行から悪名高く、その作品から評価の高い人物だったが、その名前と作品はカラヴァッジョの死後まもなく忘れ去られてしまった。
しかし20世紀になってからカラヴァッジョが西洋絵画に果たした大きな役割が再評価されることになる。それまでのマニエリスムを打ち壊し、後にバロック絵画として確立する新しい美術様式に与えた影響は非常に大きなものだった、と再評価されるようになった。

展覧会の構成は。
Ⅰ.風俗画:占い、酒場、音楽
II 風俗画:五感
III 静物

IV 肖像



作者不詳「カラヴァッジョの肖像」1617年頃

●荒々しい気性の激しさを感じる肖像。イタリアは現在ユーロ紙幣を使用しているが、以前のイタリアの10万リラ紙幣にこの絵をもとにした肖像が採用された。この時「人殺しを紙幣の顔に採用するとはどういうことか」と一部から批判の声があがった。しかし、画家としての業績や時代背景などを考慮して採用されることになった、と言われるくらい人気があるのであろう。

V 光



エマオの晩餐 1606年 ミラノ、ブレラ絵画館

VI 斬首



メドゥーサ 1597-98年頃 個人蔵

VII 聖母と聖人の新たな図像



世界初公開の「法悦のマグダラのマリア」。(1606年・個人蔵)
死んだときに手荷物の中にあった3点の絵画のうちの1点とされた。

史料
裁判や暴力沙汰と云った事件を記録した古文書等も展示されているのは興味深い。doc. 2 刀剣の不法所持(1598年5月4日) ローマ国立古文書館

●展覧会開催資料には
『ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(1571-1610 年)は、西洋美術史上最も偉大な巨匠の1人であり、イタリアが誇る天才画家です。彼の劇的な明暗法によって浮かび出る人物表現とその写実性は、バロックという新時代の美術を開花させる原動力となりました。とりわけ17世紀前半、彼の画法はイタリアのみならずヨーロッパ中の画家たちによって継承され、カラヴァジズムという一大芸術運動に発展し、ラ・トゥールやレンブラントを含む数多くの画家たちに大きな影響を与えました。
本展は、イタリアの代表的な美術館が所蔵するカラヴァッジョの名品と、その影響を受けたカラヴァジズムの作品約50点、その他関連伝記資料などにより構成し、カラヴァッジョの劇的な人生と作品、そして彼の芸術が美術史に与えた影響を紹介します。』


山梨県立美術館@甲府市貢川

2016年02月29日 21時32分08秒 | 美術館
山梨県立美術館@甲府市貢川



山梨美術館の正面に配置されているブロンズ彫刻『四つに分かれた横たわる人体』ヘンリ・ムーア

今日2月29日は4年に1度の閏年で1日多いのはもうけものをした気になる。
明日は弥生の3月1日「青春18切符・春の陣」の使用が始まる。
試用期間は4月10日まで、今回は何処に出かけようとプランを練っている。

前回の冬の陣2枚を購入して9回使用し、期限最終日の1月10日は甲府の「
山梨県立美術館」に行った。

新宿~高尾の電車は頻繁にあるが、それより先は少なくなる。
沿線には猿ヶ京など見所が有るが、特に、塩山辺りから見え隠れする富士山や中央アルプスか南アルプスかは分からないが、雪を頂いた山脈に興奮した。
電車の中を右に左に移動ながら眺めた山々、日頃の風景とは異なる旅の風情。

山梨県立美術館は開館前に、ジャン=フランソワ・ミレーの『種をまく人』を2億円で落札購入したことで話題を呼び、1978年(昭和53年)11月3日に開館した。
開館して間もない頃に訪ねた記憶が有るから35年ぶりの再訪だが、当時の記憶はまるでない。



美術館の敷地に隣接して「山梨県立文学館」(1989年・平成元年開館)も設置されていた。

この辺りを「芸術の森公園」として整備されている。
敷地からは富士山を望むことが出来る。



この日は暖冬の影響で富士山の頂上の雪はまだら。

屋外に彫刻作品が何点か展示されている。



「ゴッホ記念像」オシップ・ザッキン



ロビーのための大作「失楽園」福沢一郎



ロビーコンサートが開催されていた。



2階展示室への階段。

フランソワ・ミレーの「種をまく人」「落ち穂拾い、夏」「ポーリーヌ・V・オノの肖像」などミレーの作品群のほかバルビゾン派の画家の作品。



美術館から「山梨県立文学館」へ。


町田市立国際版画美術館@町田市芹ヶ谷公園

2016年02月25日 09時22分22秒 | 美術館
町田市立国際版画美術館@町田市芹ヶ谷公園



1987年(昭和62年)、日本で唯一となる版画専門の美術館として「町田市立国際版画美術館」が誕生し話題を呼んだ。
町田市は東京都区部の南西30 - 40km圏に位置し、1960年代初頭より東京都区部郊外のベッドタウンとして開発され発展。
町田駅を中心とした原町田地区は、小田急線沿線および横浜線沿線を代表する繁華街で百貨店や専門店等が多く、国道16号・246号線や鎌倉街道などにより東西方向・南北方向との道路交通の便もよく、神奈川県北部も含んだ多摩地域南部(南多摩地域)の商業の中心地だ。



一度は訪ねたいと思っていたが新宿から小田急線、或いはJR横浜から横浜線で行くのだが、水戸から出かけるのにはちょっと不便で躊躇していた。
青春18切符「冬の陣」は両毛線の旅に続いて町田に。
7:22水戸発、上野9:22~品川9:43~横浜~町田10:30



●FC町田ゼルビア
今シーズンからJ2に復帰した。





●町田市立中央図書館
駅から2分、ペデストリアンデッキから入り口。
駅前のビルと云う立地の良さ。
水戸も北口ビル使用の方策の一部として、図書館・博物館として利用もありだろう。





●町田市民文学館「 ことばらんど」
版画美術館は駅から徒歩15分の「芹ヶ谷公園」に在るが、途中に文学館が在った。



●町田市立国際版画美術館
は水戸の「西の谷」と同様「芹ヶ谷」と云う谷間。
幅も長さも西の谷よりはかなり大きい。



ロビー



館蔵品の展示が主で、大規模な企画展は開催されていなかった。
ミニ企画展は「花開く明治の版画」(この会場は撮影可)

高崎市タワー美術館@高崎市栄町

2016年02月24日 09時25分35秒 | 美術館
高崎市タワー美術館@高崎市栄町





両毛線の旅の終着として降り立った高崎駅。
北関東の水戸、宇都宮と並ぶ北関東の中核都市。
高崎は古くから交通の要衝で、中山道の分岐点、関越自動車道と北関東自動車道の分岐点、上越新幹線と北陸新幹線の分岐点など、全国有数の交通拠点都市。新幹線の停車する高崎駅は群馬県の県庁所在地前橋市の玄関口で、群馬県の交通の中心地で人口は37万人。
水戸市は27万人だから10万人の差があるが、駅前に立った印象ではそれ以上の違いを感じた。1982年(昭和57年)の上越新幹線開業に伴う新駅舎の完成によるのだろう。



「高崎市美術館・旧井上房一郎邸」は駅の西口の近くだったが「高崎市タワー美術館」は東口からペデストリアンデッキで結ばれている「高崎タワー21」(下層階がテナントスペース、上層階が住居型マンションスペース)に在る。



高崎市タワー美術館は、
日本画を中心に展示する美術館として、平成13年11月15日に開館した。
市立の美術館で 横山大観や平山郁夫など、近現代の日本画家の作品を収蔵・展示する専門美術館は珍しい存在。
この時は「企画展 トップランナーII 日本画の若き力」(12月5日~平成28年1月31日)が開催されていた。
若手日本画家を特集した「トップランナー」展の第2弾。







積極的な活動を展開する狩俣公介・川又聡・松岡歩・松村公太の4人展だが、
伝統的な技法と現代的な感性を融合し、これからの日本画の在り方を示す展示で、心強く感じた。

市立の美術館が駅の東西に併存している。
しかも、展示・収蔵の範囲が専門的ではっきりしている。
高層ビルの一部を使用し、広い敷地ではない。
しかも狙いがはっきりしている。
これこそ、コンパクトシティーの実践だ。

現在の水戸市の「新市民会館計画」時代錯誤としか思えない計画が進行中だ。水戸の良識は何処に行ってしまったのか、残念でならない。

旧井上房一郎邸@高崎市美術館

2016年02月22日 19時44分53秒 | 美術館
旧井上房一郎邸@高崎市美術館



高崎駅西口からほど近いから街中に「高崎市美術館」があった。
1991年7月、高崎の技術・文化の主要発信施設としてオープンし、絵画、彫刻、版画など約1300点の所蔵品を中心に幅広いジャンルを展示している。



コンクリートに覆われた6階建て美術館と、四季折々の庭園風景を見せる木造平屋の旧井上房一郎邸。
対照的な建物が共存している。

井上房一郎は建築会社の社長で、今井正監督の名画「ここに泉あり」で知られる「群馬交響楽団」の草創期の理事長をつとめた。

1952年(昭和27)、高崎の自邸を焼失してしまった井上は、世界的建築家アントニン・レーモンド(1888~1976年)の東京・麻布の笄町(こうがいちょう)に、1951年(昭和26)に建てられたレーモンドの自邸兼事務所を写した建物を再現しようと計画し、レーモンドの快諾を受け建てられたのが旧井上房一郎邸で、いわゆるレーモンド・スタイルがよく表れている建築。
レーモンドの設計によるイタリア大使館の日光の別荘も訪ねたい場所(日光市が修復して公開している)。














細い間伐材の柱や、コンパネの壁面など。
ガラス戸が完全に収納でき、外部と一体となる。
バリアフリーで高低差が無い。
いい家に住みたいという欲はないが、この様な家には住んでみたいと思った。

本館では「犬塚勉展 永遠の光、一瞬の風」が開催されていた。



美術教師をしながら山野を歩き、渓流を遡行して描き続け、ついに38歳で逝った夭折の画家、犬塚勉(1949-1988)の展覧会。
自然を凝視するそのまなざしによって描かれた細緻な描写は、写真以上の感動。



山歩きの用具なども展示されていた。
亡き吉野満彦さんを思い出した。

大塚勉が画面に取り込もうとしたのは永遠の光、そして一瞬の風。

岡山市立オリエント美術館@岡山市北区天神町9-37

2016年01月23日 15時46分02秒 | 美術館
岡山市立オリエント美術館@岡山市北区天神町9-37




大阪~姫路は新快速などが頻繁に走っているので問題はない。
姫路~岡山は相生経由の赤穂線も並行して走るから本数が少なくなる。
瀬戸内海に沿って走る赤穂線の相生~東岡山は播州赤穂・備前福岡・伊部・長船など歴史的な街を通るが時間がかかる。
往路・復路の何れかを通ることが出来ればラッキーだ。

朝6時頃に十倉氏に茨木駅まで送って頂き、乗り継いで岡山駅に。
岡山は2014年11月19日から22日に倉敷の大原美術館への旅で立ち寄った。
「後楽園」を訪ねたが「オリエント美術館」は休館日で入場が出来なかった。



桃太郎伝説は全国に在るらしいが、岡山県(吉備)が有名で、駅前には桃太郎の像が。





岡山駅東口より路面電車「東山」行きで約5分、「城下(しろした)」下車、左手すぐに「岡山市立オリエント美術館」が在る。
この近辺は文化施設が多い。
「後楽園」もこの停留所からだが、今回は高松まで行くのでパスすることに。



「岡山市立オリエント美術館」は学校法人岡山学園理事長・安原真二郎より、古代オリエントの美術品が1,947点寄贈された事を機に1979年(昭和54年)に開館した。現在の収蔵品は5000点以上で、大原美術館の別館倉敷アイビースクエア内の「児島虎次郎記念館」内の「オリエント室」と共にオリエント美術の宝庫だ。



吹き抜けのエントランス。

シリア文化財救済支援・寄付・協力を。

シリアの内戦は激化の一途を辿っている。
それに伴い多くの文化財が破壊・強奪・盗掘されるという痛ましい事態が発生している。

現状を伝え支援を呼びかけるパネル展示がなされていた。
破壊されれば戻ることはない。

アッシリア時代のレリーフ「有翼鷲頭精霊像」をはじめ、現在の中東地域に興った古代文明・古代オリエントの土器や陶器、ガラス器、装身具などの収蔵品の数々の館蔵品の展示されている。



浮出切子碗 イラクまたはイラン 6世紀

彩文土器のメッセージ
土器の形や装飾は地域や時代によって特徴があるが、世界中の土器は共通の要素があるのも面白い。



彩文土器 シリア 紀元前4500−4000年


和泉市立久保惣記念館@大阪府和泉市内田町

2016年01月21日 21時36分38秒 | 美術館
和泉市立久保惣記念館@大阪府和泉市内田町







奈良や京都、大阪などには大小さまざまな美術館が在る。
私立美術館は蒐集家の個性が際立ち、特色となっている。
交通の便が良くない所に立地していることもある。
昨年9月には琵琶湖畔の「佐川美術館」を訪れることが出来た。

十倉氏のお宅に泊めて頂き、翌日どこに出かけようかと相談した。
未だ行ったことのない、信楽の山中の「MIHO MUSEUM」や灘の「白鶴美術館」も考えたが、1時間程度の運転で到達できる場所として、彼が挙げてくれた「和泉市立久保惣記念館」は、僕も行ってみたい所だったのでお願いした。

和泉市で約100年綿業を営んできた久保惣は、泉州有数の企業だったが、昭和52年に繊維業の衰退とともに廃業した。
昭和57年、四代に渡った当主の蒐集品と土地建物と運営費と共に市に寄贈された。当初は地域文化の発展と地元への報恩の意を込めて、国宝2点、重要文化財28点を含む500点だったが、さらに第二次~第五次コレクション等も順次寄贈され、収蔵品約11,000点、敷地5,000坪の今の姿に至った。




これだけの品々や土地、建物を寄贈する剛毅さには頭が下がる。
昨今の、拝金主義の横行とはまるで逆で、日本人の美徳は何処に行ってしまったのかと、嘆かわしくなる。

コレクションは東洋美術が主だが、西洋美術も含まれ幅は広い。




(国宝)「青磁 鳳凰耳花生 銘万声」中国・南宋時代



(重要文化財)「枯木鳴鵙図」宮本武蔵筆 江戸時代



音楽ホール(昭和62年(1987)8月完成)







展覧会を中心に茶会やコンサート、市民の創作活動並びに発表等が行われる市の文化振興の拠点となっている。

大阪府和泉市は不便場所でもないが、記念館までは私鉄やバスを乗り継がなければならない。十倉氏による自家用車で案内頂けたのは幸いだった。