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「西の谷緑地公園」を美しく!

「公園都市水戸」の街造りを考える人達と協働したいと思っています。

藤田嗣治、全所蔵作品展示 @東京国立近代美術館

2015年11月08日 12時15分10秒 | 美術館

藤田嗣治、全所蔵作品展示 @東京国立近代美術館




世界に通用する日本人の洋画家として、藤田嗣治を挙げるに異存はないと思う。晩年、フランスに帰化したから日本人ではなくフランス人かもしれないが。

東京国立近代美術館が収蔵する全ての作品と資料など展示した特別展。
しかし、常設展と同じ扱いで入館できる。
4階、3階の2フロア約1500㎡を使い、所蔵する藤田嗣治の全作品25点と特別出品の1点、計26点を展示された。

特に戦争画14点が一挙に展示されるのは初めてだ。
戦時中の絵画が戦後に非難されて、結果とし母国を離れフランス人となった。

始めてみる作品や書籍資料や監督した映画などもあり見所は満載だ。


《自画像》1929年

この作品も藤田らしいが、自画像では「笠間日動」の大作が代表作だろう。



《五人の裸婦》1923年
五人は視覚・聴覚・味覚・臭覚・視覚を象徴しているとのこと。
日常生活で、五感を働かせることは少ない、反省したい。



《猫》1940年
フジタは猫をモチーフとした作品が多いが、この作品は特別。



《アッツ島玉砕》1943年

画面を観ると、戦争絵画は単に戦争協力とは言えない。
西欧の古典に学んだ技法や場面がフジタなりの咀嚼を経たうえでの表現が感じられる。
多くの画面は暗く、目を凝らさねば良くは見えない。



近美の前でフジタに似た人に遭遇「似てると言われるでしょう」とお声をかけたら、「幾らか意識してます」との答え、気楽に撮影に応じてくれた。


佐川美術館@滋賀県守山市水保町北川2891

2015年09月20日 08時02分37秒 | 美術館
水の上に浮かぶ美術館





琵琶湖畔・琵琶湖大橋の近くに1998年(平成10年)、佐川急便創立40周年を記念して開館した「佐川美術館」。
収蔵作品は日本画家・平山郁夫と彫刻家・佐藤忠良を中心として発足した。
敷地の大部分が水庭(人工池)になっており、水の上に浮かぶように見える2棟の切妻屋根の展示館(竹中工務店設計・施工)は、デザインが高く評価されている。

2007年9月、十五代樂吉左衞門の陶芸・樂茶碗などを展示する「樂吉左衞門館」が敷地内に新館として併設された。



地下の展示室と池に浮かぶような茶室が話題を呼んで、多くのメデアで報道された。僕が知ったのはその際で、どの様な処か、一度は訪れたいと思っていた。
「青春18切符」で奈良博の「白鳳展」を観た後、足を延ばす計画をした。

琵琶湖畔とは言え、JR湖西線 「堅田駅」 下車 バス で15分 。JR琵琶湖線 「守山駅」 下車 バス で30分 。どちらからも時間がかかるし、バスの便もさほど良くない。

奈良から近鉄で京都に、京都からJR湖西線 で「堅田駅」に。
ここまでは約2時間。



「堅田駅」に着くころは台風の影響で風雨が強くなった。
この台風が、後日に関東に向かい鬼怒川の氾濫を招き大きな被害を出した。
とにかく、バスの便が悪く、この時間帯は美術館までの直行便が無い。
やむなく、琵琶湖大橋に近いバス停で下車して風雨の中を歩くこと30分。



開館時間の9時30分にずぶ濡れで到着した。
この雨の中なので、来場者が少なく、ゆっくりとした時間をすごすことが出来た。

平山郁夫記念室の『平和の祈り サラエボ戦跡』、『楼蘭の朝』『楼蘭の夕』『楼蘭の月』等の大作も素晴らしかったが、ブハラやサマルカンドなどの風景は訪ねたことのある場所ゆえに、当時を思い起こした。
シルクロードを旅したルートや日程が記された地図が掲示されていたが、再三に渡って現地を踏破、よくも歩いたものと感心した。
更には、財団を作り各地の遺跡保存の基金を援助するなど、画家に留まらない活躍も見事だ。

佐藤忠良室の『帽子・夏』、『スイス帽の未菜』、『ボタン』など、おなじみの作品が並ぶ。



池にも建つ佐藤忠良の作品。

宮城県立美術館の佐藤忠良記念館を訪ねたことを思い出した。
2年前のことだが、あの日の記事はまだ書いてない。



常設に加え「キースヘリングの特別展」が9月31日まで開催されていた。

佐川美術館の目玉と云えるのが2007年9月2日に新設された「樂吉左衞門館」。十五代樂吉左衞門の作品を展示する特別室だが樂吉左衞門が自ら構想し、5年の歳月をかけたと云うだけに、見事、としか言いようがない。





地下に、天井が高い広々とした展示室。



場所によっては、池の間からの自然光が降り注ぐ。
展示室は無垢の木材が多用されているが、如何なる技法なのか、まるで古材のようだ。
作品も従来の「楽焼き」とは異なる。
現代の「茶道」、はどうあるべきなのかを問うような作品。
楽代々の家に生まれ育ったからこそ、その意義は大きい。
とは言え、我々、一般の人にとっては縁のない世界にも思える。

普通は入場できない、水面に浮かぶ茶室。
庭から一部を覗き観ることは可能だが、これもまたしかり。
夜間、月明かりの中での茶会であれば、正に夢幻の世界だろう。

通常の世界と異なった空間、唯々、感心するばかりでした。

観終る頃には雨もやみ、美術館前からJR琵琶湖線 「守山駅」 行きのバスに乗車した。バスで約30分守山駅に。
次の目的地彦根に向かう。

「鎌倉からはじまった。1951-2016 」展、PART 2

2015年07月27日 22時08分58秒 | 美術館
「鎌倉からはじまった。1951-2016 」展、PART 2
@神奈川県立近代美術館<鎌倉館>



FC横浜との試合の前に北鎌倉の東慶寺と円覚寺に詣で、鎌倉の神奈川県立近代美術館<鎌倉館>を観た。
サッカー観戦の楽しみはアウェー戦で対戦相手の街を歩き、ご当地のグルメを味わい、美術館や博物館を廻るなど、人それぞれの楽しみがある。

神奈川県立近代美術館は、日本で最初の公立近代美術館として鎌倉の鶴岡八幡宮の境内に1951年に開館した。
20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエに学んだ坂倉準三の設計による建築も話題を呼んだ。

敗戦まもない時期、新たな文化の発信地として次々に打ち出された斬新な企画は、その後の公立美術館のモデルとなった。

開館以来60年以上に渡って活動しているが、本館の敷地は鶴岡八幡宮からの借地で、契約は本年(2015年度)で終了し2016年1月末をもって閉館することになった。

今年度は「近代美術館は鎌倉からはじまった」として1951-2016の活動を振り返る企画展が開催される。



7月4日~10月4日は「PART 2:1966-1984 発信する近代美術館」とし、新館が増築されて展示面積が広がり、展覧会の規模も大きくなった1966年。ムンクやクレーの回顧展など、記録的な入館者数の海外展が本格的に始まった。1966年から1984年の鎌倉別館開設までの約20年の美術館活動を所蔵作品とともに検証している。

展示を回顧する展覧会ではあるが、間もなく姿を消してしまうかもしれない建物や環境も心にとどめておきたかった。











鎌倉には多くの文人や芸術家が住んでいたので、鎌倉近代美術館の支援や作品の寄贈も行われた。



川端康成もその一人、古賀春江の作品を寄贈。

鎌倉近代美術館が「近代美術館は鎌倉からはじまった」と言えるのは、開館時は副館長、後に館長を務めた土方 定一の運営方針による。
土方定一(1904-1980)は旧制水戸高等学校時代から文学活動を開始し、東京帝国大学文学部美術史学科を卒業後1930年にドイツに留学し、詩誌『歴程』発足(1935年)とともに同人となり、美術批評を執筆。
日本における美術評論の先駆者で、長らく美術評論界に君臨した。

旧水戸高等学校在学時(1924年頃)彫刻家・後藤清一などとの交友が生まれた。水戸を離れた後も、茨城の美術界との繋がりは継続し、顧問的な立場で貢献した功績も大きい。

『鴨居怜』展 @東京ステーションギャラリー

2015年07月20日 15時39分37秒 | 美術館
『鴨居怜』展 @東京ステーションギャラリー





気象庁は19日午前、「関東甲信が梅雨明けしたとみられる」と発表した。
とは言え、昨日はにわか雨がぱらつくなど定まらない感じもしたが、今日は35度以上の猛暑日となりそうだ。

5月30日から東京ステーションギャラリーで開催されていた「没後30年鴨居怜展 踊り候え」本日(7月20日)が最終日を迎えた。
2012年10月、修復工事を終え、重要文化財にも指定された東京駅が姿を現し、同時に開設された「東京ステーションギャラリー」を訪れる機会が無かった。



今回の「鴨居 玲展」で初めて訪れたが、作家の生き様とレンガの建物を上手く取り入れたギャラリー空間に魅了され、再度訪れてから書きたいと思っていたが、「後でとお化けは出たことない」のたとえの如く機会がなかった。
常に「一期一会」の気持ちでなければならない、と再認識。

鴨居 玲(かもい れい、1928年~1985年)の作品をまとめて見るのは初めてだった。
スペインの田舎町に滞在していた際の村人の老人や老婆、酒を飲み踊り狂ったような姿は、作者の自画像でもあるようだが、己が身に置き換えてもいいような題材。限りない反省と自己嫌悪、アルコール依存からの脱却の願い。



《自画像(絶筆)》1985年 笠間日動美術館所蔵、
《遺品一式》石川県立美術館所蔵





3階と2階をつなぐ階段にレンガ造りの跡が遺され、それらを上手く利用し歴史を感じる。
壊して建て直すのでなく、残しながら新たなものを作るのがこれからの時代のあり方だろう。

丸の内の中央郵便局跡地,丸ビル跡など、丸の内界隈の再開発にはそれらの精神が取り入れられているようだ。

「神奈川近代美術館葉山」@神奈川県三浦郡葉山町一色

2015年04月27日 20時21分09秒 | 美術館
「神奈川近代美術館葉山」@神奈川県三浦郡葉山町一色







神奈川県立近代美術館は、日本で最初の公立近代美術館として鎌倉の鶴岡八幡宮の境内に1951年に開館した。
敗戦まもない時期、新たな文化の発信地として多くの人の共感と支持を得ることと成った。
鎌倉と云う「文化的」なイメージと、20世紀建築の巨匠ル・コルビュジエに学んだ坂倉準三の設計による建築も話題を呼んだ。

開館時は副館長だが、後に館長を務めた土方定一(1904年~1980年)の運営方針が人気を集め、日本における公立美術館の基準となった。
土方は旧制水戸高等学校時代から文学活動を開始し、東京帝国大学文学部美術史学科を卒業。1930年にドイツに留学し、詩誌『歴程』発足(1935年)とともに同人となり、美術批評を執筆。以来、日本における美術評論の先駆者となった。
旧水戸高等学校在学時(1924年頃)水戸の彫刻家・後藤清一などとの交友が生まれた。水戸を離れた後も、茨城の美術界との繋がりは継続し、顧問的な立場で貢献した。

鎌倉近代美術館は1966年に新館を増築、1984年に鎌倉別館、2003年に葉山館を開設し、60年以上に渡って活動している公立美術館。
本館の敷地は鶴岡八幡宮からの借地で、契約は本年(2015年度)で終了し2016年1月末をもって閉館することになった。誠に残念なことだ。
今年度は「近代美術館は鎌倉からはじまった」として1951-2016の活動を振り返る企画展が開催される。

この展覧会も是非見たいところだが、2003年開館の「葉山館」には一度も行ったことがない。念願が叶って、訪ねることが出来た。






葉山の御用邸の近く、一色海岸の風光明媚な公園の一郭に在る。



《ふたたびの出会い 日韓近代美術家のまなざし―『朝鮮』で描く》
と題し、20世紀前半の日本と韓国の美術、美術家同士の交流に焦点をあてた展覧会。 藤島武二、土田麦僊、山口蓬春、浅川伯教・巧、山口長男など日本近代美術を代表し韓国に縁の深い作家たち、高羲東(コ・フィドン)、李仁星(イ・インソン)、李仲燮(イ・ジュンソプ)、李快大(イ・クェデ)、金秉騏(キム・ビョンギ)ら、日本との交流をもつ韓国近代美術の巨匠たち。
さまざまな矛盾に満ちた「近代」という時代の中、芸術の力で個々の世界を深めていった日韓120余人、それぞれの美術に隠された物語の数々がある。
1922年、朝鮮総督府による統治政策の一環としての文化交流・美術交流。



その時代のエピソードで、今回の展覧会と関係は無いが、後藤清一が1941年の新文展に出品した『薫染』が李王家の買い上げとなり、「李徳寿宮美術館」に展示された。
この作品は行方不明であったが、ソウルに2005年開館した「韓国国立中央博物館」3階の日本室に展示されていることを知り、2011年12月に対面出来たのは嬉しい思い出だ。


1945年の日本の敗戦による植民地支配からの解放。
1965年、日韓国交正常化を経て、現在に至っているが、最近の両国の関係はぎくしゃくしている。
この様な機会をとらえ、お互いを分かり合えればいいのに、と切に感じた。


児島虎次郎記念館・オリエント室@倉敷アイビースクエア

2015年01月29日 10時18分34秒 | 美術館
児島虎次郎記念館・オリエント室@倉敷アイビースクエア








大原美術館は想像以上の広さと広範囲なコレクションであったが、倉敷アイビースクエア内の「児島虎次郎記念館」内の「オリエント室」にも驚いた。

倉敷アイビースクエアは1889年(明治22年)に建設された倉敷紡績創業の旧工場で、1973年(昭和48年)に改修され、観光施設として再生された。
児島虎次郎記念館はその一部で、大原美術館の共通券で入場できる。


児島虎次郎(1881年– 1929年)は、1902年(明治35年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科選科に入学。
倉敷の実業家大原家の奨学生となる。のち、大原家当主となった1歳年上の大原孫三郎とは生涯親交を持ち、経済的援助を受け続けた。

かねてよりわが国には本格的な西洋絵画のコレクションや美術館がなく、西洋画を学ぶ人たちにとって極めて不便な状況であることを残念に思っていた児島は、その収集を孫三郎に進言する。

その結果、自身の留学と絵画買い付けのため数度ヨーロッパに渡りモネ、エル・グレコ、ゴーギャン、ロダンなどの作品を購入した。
その行きと帰りにエジプトに立ち寄りカイロ、ギザのピラミッドなどを訪れ、非常に感銘を受けた。1923年3月の復路では、カイロ、ギザのほかルクソールなどにも訪れている。 この時、児島は骨董店などをめぐり、エジプト古美術を収集した。
「児島虎次郎記念館・オリエント室」には、この時に購入されたエジプト・オリエント美術のコレクションが展示されていた。
現在は、世界中の国が文化財の持ち出しが禁止されている。
当時は、その様な状態でなかったから、購入した大量の品々を持ち出すことが出来た。



女神イシス、または女神ネフティス。木製・金彩:高さ34,5㎝。
プトレマイオス期(紀元前304年-紀元前30年)



猫・ブロンズ 高さ17㎝ エジプトファラオ時代の末期(紀元前663-525)


この収集品が後の大原美術館建設の礎を築いたが、児島虎次郎が将来した古代エジプトやペルシアの古物は当事国内最大のコレクション。
蒐集品から児島虎次郎の卓越した審美眼と学術的先見性が窺える。

素晴らしいコレクションだが、展示室内の照明や展示の什器等改良すべき点を感じたが、予算の面等で致し方ないのかもしれない。

とは言え、100年近く前に西欧の近代美術、中近東・エジプト美術、中国美術などに対する炯眼に驚くほかない。


「やきものって何ダ?」@茨城県陶芸美術館

2015年01月22日 20時42分17秒 | 美術館
「やきものって何ダ?」@茨城県陶芸美術館
1月2日~3月8日



日本には数多くのやきものの産地があり、土地ごとに特徴のあるやきものが作られている。食のための器ばかりでなく、茶の湯や生け花など伝統文化にも大きな役割を果たしてきた。
現代は器という枠を超え、新たな造形表現が生まれている。



「やきものって何ダ?」は国内の「やきもの」産地の有田、萩、丹波、信楽、越前、美濃、瀬戸、笠間においてやきものを専門的に収蔵し展示・公開する美術館・博物館8館による共同企画で、過去から未来への陶磁器のありようを探る展覧会。何れもこの8館の所蔵品で構成されている。

紀元前3,000年頃に制作された縄文式土器から現代までの約130点。
国内のみならず、中国や朝鮮半島まで含まれている。



縄文土器「深鉢」紀元前3000-2500年頃 愛知県陶磁美術館
縄文土器の造型の豊かさは世界的な評価を受けている。

有田や九谷など青白磁や色絵の華麗な作品も多いが「六古窯」と云われる中世の焼き物が好きなので、どうしても、そちらに目が行く。



越前「三筋文壺」12世紀(平安時代末期) 福井県陶芸館



越前 大壺13世紀 福井県陶芸館蔵



瀬戸「灰釉草花文四耳壺」 鎌倉時代(13世紀)愛知県陶磁美術館



渥美「灰釉蓮弁文壺」12世紀(平安時代末期) 愛知県陶磁美術館 

蟹江良二「チェルノ・ブイリシリーズ」
松田百合子「ヒップシリーズ」
等の現代美術家の作品は、陶磁器を通した新たな世界。

3階展示室の「いばらきの伝統工芸・常陸の巧みと手仕事」展は織物、塗り物、和紙など県内の匠の仕事が紹介されている。

陶磁器に限らず工芸の世界の展示も大切で「陶芸・工芸美術館」のほうがより適切か、と感じた。

大原美術館@岡山県倉敷市・倉敷美観地区

2015年01月22日 00時19分11秒 | 美術館
大原美術館@岡山県倉敷市・倉敷美観地区



一度は訪ねてみたい、という街は沢山あって何処から先にとも言えない。
幾つかの偶然により実現することがある。

倉敷の美観地区と大原美術館は、是非とも訪ねたい場所だった。
旅行社のパンフレットで、茨城空港から神戸に行き新幹線を経由して岡山・倉敷へのルートを辿れば、岡山の後楽園も周遊圏と知った。
偕楽園は、金沢の兼六園、 岡山の後楽園と共に日本の三公園(「三名園」「三庭園」)の1つと云われる。
金沢の兼六園 には行ったことがあるが、岡山の後楽園は未だ。
昨年11月19日から22日まで、神戸~倉敷~岡山~姫路~神戸の3泊4日の旅を計画した。



倉敷の美観地区の広範囲に及ぶ歴史的な建造物が健在で、しかも、実用に供されていたのを目の当たりにし、驚くと同時に嬉しかった。
水戸は残念ながら、戦災に遭ったので残されている町並みや建築は殆んどない。



美観地区の一角を占める大原美術館も想像以上だった。

大原美術館は、倉敷の実業家大原孫三郎(1880年–1943年)が、自身がパトロンとして援助していた洋画家児島虎次郎(1881年–1929年)に託し、収集した西洋美術、エジプト・中近東美術、中国美術などを展示するため、1930年に開館した。
西洋美術、近代美術を展示する美術館としては日本最初と云われる。

イオニア式柱を有する古典様式の本館。



玄関にはロダン「カレーの市民―ジャン=デール」像。
開館当時からの建物だが、展示室は何度か改良が加わっているのだろう観やすい空間となっている。
エル・グレコ「受胎告知」、モネの「睡蓮」モロー「雅歌」モディリアーニ「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」など印象派を主体とした名画が展示されている。



本館隣の中庭に面してコの字型の工芸館が在る。
浜田庄司室、バーナード・リーチ室/富本健吉室、棟方志功室、河井寛次郎室、芹沢介室、など民芸運動に携わった作家の展示。
これらの木造建築は大原家の米蔵を利用し芹沢介がデザインした。
従って、作品と展示空間が見事に調和している。
倉敷は柳宗悦が展開した「民芸運動」の一大拠点だ。

工芸館に連なって、東洋館は中国を中心とした東アジアのコレクション。
児島虎次郎は中国に3回出向き、陶磁器や仏像を収集している。
北魏時代(386-534年)の「一光三尊仏像」は見事だ。

本館裏に「新渓園」と称する庭園を挟んで分館がある。





分館前の芝生にはヘンリー・ムーアの像など。

熊谷守一「陽の死んだ日」はじめ、近・現代洋画の傑作。



水戸出身の中村彝(つね)(1887-1924)「頭蓋骨を持てる自画像」(1923)
この自画像は彝の代表作で度々紹介されている、

更に地下室には現代美術まで幅広いコレクションだ。

聞きしに勝る美術館で更に、1972年開設の「倉敷アイビースクエア」には「児島虎次郎記念館」にもオリエント・エジプト美術のコレクションが展示されている。


天心の思い描いたもの@茨城県近代美術館

2014年03月07日 23時33分39秒 | 美術館
天心の思い描いたもの@茨城県近代美術館

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3月になったが、連日寒い日が続いている。
水戸市内の賑わいもいま一つ物足りない。
さすがに今日(7日)は金曜日とあって人の動きも出てきた感じだ。
偕楽園を含め、市内の各所で週末を中心に催事が行われている。

千波湖畔の茨城県近代美術館では3月21日迄『岡倉天心没後100年記念展 天心の思い描いたものーぼかしの彼方へ』が開催されている。

1階の常設展の会場が今回の特別展の第一部展示室。

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横山大観「或る日の太平洋」 昭和27年(1952) 東京国立近代美術館蔵

天心の指導のもと北茨城の五浦の地で研鑽を積んだ横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山の作品が紹介されている。
菱田春草の屏風「落葉」明治42年(1909)、木村武山の「阿房劫火」明治40年(1907) など。
第二部は第一部の明治期の新しい表現に対し100年後の現代の作家たちの作品を展示している。

2階展示室では「日本の近代美術と茨城の作家たち」と「木内克を愛したコレクターたち」として彫刻家・木内克の自刻像や裸婦像などが展示されている。
1階入り口脇の「アートフォーラム」では日本美術院・五浦研究所や岡倉天心の写真資料などが展示されていたが、この展示が参考になった。

最近の県立近代美術館の企画展、なかなか良いと思っていたが、今回の企画展は観光客に対するサービス精神なのか、あれもこれも焦点が定まらない感じがした。何れにしても、会期中に再度訪れたい。


鎌倉県立近代美術館鎌倉別館@鎌倉市雪ノ下

2014年03月05日 20時25分30秒 | 美術館
鎌倉県立近代美術館鎌倉別館@鎌倉市雪ノ下

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鎌倉市雪ノ下・鶴岡八幡宮境内「鎌倉県立近代美術館」
建築家ル・コルビュジエの弟子に当たる坂倉準三が設計。


「東慶寺仏像展2014」を観るため2月下旬に鎌倉を訪れたが、古都ゆえに行きたい所は沢山あった。
社寺も多いが新しい施設もある。
古いものと新しいモノやコトが混在するところに街の魅力がある。

鶴岡八幡宮境内の「神奈川県立近代美術館は、日本で最初の公立近代美術館として1951年に開館した。
次々に打ち出された斬新な企画は話題を呼んだ。
美術館はどうあるべきかを考えた活動は、国内での先導的な役割を担ってきた。これらは、開館時は副館長、後に館長を務めた土方 定一の考えに基づいていると思う。

鎌倉館から北鎌倉方向に徒歩で350メートルほど行ったところに、1984年開館した「鎌倉別館」。
設計者は、大高正人。
北鎌倉に通じる道路際、山に挟まれた住宅地に建設された。

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庭には屋外彫刻が展示されている。

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「ロダンからはじまる彫刻の近代」展が開催されていた。
HPには
『近代彫刻の父と呼ばれるフランスの彫刻家オーギュスト・ロダン(1840-1917)による《花子のマスク》とその弟子エミール・アントワーヌ・ブールデル(1861-1929)の《帽子を被った自刻像》、彼らから影響を受けた高村光太郎(1883-1956)、戸張孤雁(1882-1927)、中原悌二郎(1888-1921)らのほか、海外の20世紀彫刻からは、ジャン・アルプ(1886-1966)、アルベルト・ジャコメッティ(1901-1966)など、当館の所蔵作品から選りすぐりの彫刻作品と彫刻家による素描や版画、約40点を紹介します。
 併せて、チェコスロヴァキア出身の彫刻家ズビネック・セカール(1923-1998)の作品約20点による特集展示をいたします。』
とあるが、チェコ出身のズビネック・セカールの抽象彫刻に親しみを感じた。


1923年 プラハ生まれ。
1941-45年 パンクラーツ、テレジンスタット(チェコ)、マントハウゼン(ドイツ)の政治収容所にいれられる
1950年 プラハ工芸美術院終了後、本の編集や翻訳、グラフィックの仕事。
1961年以降 チョコ、オーストリア、ドイツにて個展開催。
1969年 西ベルリンを経て、ウィーンへ亡命。
1998年 ウィーンにて永眠。


鎌倉近代美術館分館とし、神奈川県三浦郡葉山町に「葉山館」が在る。


元の高松宮家別邸であった地に2003年開館した。
海岸沿いに位置し、自然光や風景を展示室に取り込むなど、多くの実験的な要素を持つ美術館として人気が有る。
残念なことに、未だ訪ねたことがない。
春の暖かい日に行きたい、と思っている。


東京都現代美術館 @東京都木場公園

2011年10月10日 21時26分12秒 | 美術館
東京都現代美術館 @東京都木場公園



水戸芸術館の現代美術ギャラリーは1990年に開館した。
以来21年、現代美術専門の公立美術館として、実績を積み上げている。
その後、東京都現代美術館や金沢21世紀美術館なども開館したが、水戸芸術館の先見性を水戸市民は誇るべきと思う。

東京都現代美術館は木場が移転した跡地、木場公園の整備計画の一環として計画され、1995年(平成7年)3月に開館した。





エントランスにヤノベケンジノ「ロッキング マンモス」



巨大化する現代美術作品が展示可能な、広大な吹き抜け空間。

木場公園の北辺に位置し、日本最大の美術館建築だそうだが、木場公園の大きさから見たら、ほんの少々と云う印象だ。
今回、自転車で木場公園全部を回ってみたが、余りの広大さに驚いた。
敷地全部が、≪木場≫だったとしたら、想像以上の面積だ。



植物園・球技場・ジョギングコース。
バーベキュー広場まであった。

震災などの避難広場を兼ねているのだろうが、広大な緑地だ。
数十年以内に発生が予想される大震災に対しては、これ程であっても、万全とは言えないだろう。


「土門拳記念館」 山形県酒田市飯森山2-13(飯森山公園内)

2010年08月13日 10時28分33秒 | 美術館
「土門拳記念館」 山形県酒田市飯森山2-13(飯森山公園内)

 「古寺巡礼 ―京都編―」展
 「土門拳の絵と書」展


水戸京成百貨店での催事を終えた眞壁明吉良さんの帰りの車に同乗し、横手市を訪ねた。
倫理法人会の記念式典の懇親会に出席させて戴き五日市剛さんの講演を聞くことが出来た。
「ツキを呼ぶ魔法の言葉」と題した講演は『有り難う』と云う感謝の言葉を多く発することによって、幸せになれる、という。
総てに、感謝の気持ちを持って接することが大切だと思った。
翌朝、早朝6時からの例会にも出席させていただき、自分を磨きながら、社会を明るく人たちの活気にみちた姿に接することが出来た。



今回の旅の大きな目的が酒田市の「土門拳記念館」を訪ねること。
記念館は、土門拳(1909年-1990年)から作品を寄贈された酒田市(土門の郷里)が、1983年に開館した写真作品を所蔵・研究・展示するための美術館。
日本最初の写真専門の美術館として、7万点におよぶ土門作品を所蔵している。
谷口吉生が設計した建物は話題を呼び、第9回吉田五十八賞を受賞した。

記念館の在る飯森山公園は広大な敷地で、大学もあるし、酒田市美術館もある。



背後は小高い丘と松林、前面の池に白い建物が映える。

「古寺巡礼 ―京都編―」展

土門拳40年の写真家人生を代表するのが奈良・京都を中心とした全国各地100箇所以上の寺社を撮影した『古寺巡礼』。今回は京都を撮影地とした作品が紹介されていた。
何度か雑誌などに掲載されているから、観たことがあるな。と云う作品も多い。
土門拳は開放に近いシャッタースピード撮った写真が多いようだ。
技術的なことは良く分からないが、一瞬の感じというより深さを感じさせる。
勿論、光は一番重要で自分が思う映像になるまで、根気強く待っていた。


「土門拳の絵と書」展


土門拳は子供の頃から絵と習字が得意で、中学に入学した時の将来の志望は画家だった。
その後、画家の道は断念したが、生涯、絵に対する興味を喪うことはなかった。

書に対しても、折にふれ筆を手にしている。
写真集の題字も自分で書いたものが多い。
一目で“土門拳”と分る独特で豪快な書風は書家としても1流だ。

昭和43(1968)年58歳の時2度目の脳出血で右半身不随となり、リハビリのため左手で絵や書を描いている。
右手の時とは一味違う出来栄えだ。
土門拳の作品、特に骨董や古美術に関する写真やエッセーを雑誌などで観たのは、2度目の脳出血で右半身不随になった頃なのだろうか?
助士がセットし自分がファインダーで確かめ、シャッターを切っていたのだろうが、障害を持ちながら撮影したとは全く感じなかった。
今回、書の作品をたくさん観ることが出来たのは幸いだ。

草月流創始者・勅使河原蒼風は独特な書風で知られるが似た雰囲気がある。
蒼風の長男・勅使河原宏も華道家であるが、映画監督や陶芸まで幅広い活躍をした。



「土門拳記念館」の奥の庭園は石と竹を組み合わせ、斜面を使用した勅使河原宏の作品。



前の池に流れる、水を取り込んだ石庭はイアサム・ノグチの作品。

土門拳の作品と同時に、庭や彫刻も愉しめる。

「土門拳記念館」は何度も訪れたい魅力がある。


諸橋近代美術館  @福島県耶麻郡北塩原村

2010年08月08日 00時22分13秒 | 美術館

諸橋近代美術館  @福島県耶麻郡北塩原村



それ程、期待しないで行った美術館だが、予想以上にすばらしかった。
広大な敷地の中央には小川が流れ、風光明媚な美術館だ。
しかも、五色沼のすぐ近く。
最高のロケーション。





サルバドール・ダリのコレクションが有名だ。

ダリは精神分析・相対性理論・量子力学・数学・生物学の知識に長けていたということを始めて知った。
パフォーマンスや挑発的な姿勢の強い人と思っていたが、大間違い。
科学と芸術を一体化させようとしたのだ。

特に、彫刻作品が素晴しかった。

さらに、『絵画紀行ーパリからモンパルナスへー』は僕の大好きな世界。

充分に堪能した。

ユトリロやフジタの作品を始め、青春時代が甦る。
水戸から200kmだ。那須までの倍の距離にもかかわらず時間は同じ。

歴史的な背景を考えると、那須よりは磐梯と思った。

川崎市岡本太郎美術館   @生田緑地の敷地

2010年06月20日 23時18分04秒 | 美術館
川崎市岡本太郎美術館   @生田緑地の敷地

「続・99歳、あっぱれ太郎 ―太郎 * 神話」 展
「前衛下着道 ―鴨居羊子とその時代
  岡本太郎・今東光・司馬遼太郎・具体美術協会」展






川崎市岡本太郎美術館は『芸術は爆発だ』など幾多の名言を残した岡本太郎が没後に出身地の川崎市に寄贈した主要作品1779点を保有・展示している施設。

小田急線の向ヶ丘遊園で下車して、徒歩20分。





生田緑地の敷地内にある。
ここには、国内の民家を移築した「民家園」や菖蒲園もある。
菖蒲やアジサイが見頃、奥まった岡の上に岡本太郎美術館がある。

蒸し暑い日であったが、緑に囲まれた緑地は爽やかだった。

高麗美術館(こうらいびじゅつかん)@京都市北区紫竹上岸町15番地

2010年03月14日 11時18分55秒 | 美術館
高麗美術館(こうらいびじゅつかん)@京都市北区紫竹上岸町15番地

京都には小さな個人美術館も多い。
洛北、北山通りに近い住宅地の一角に高麗美術館が在る。



柳宗悦が「朝鮮半島の美術」を紹介してから、李朝の白磁や高麗青磁に魅せられる人は多い。

僕もその内の一人で「日本民藝館」やソウル・慶州の博物館を訪ねた。

1988年に開館した、高麗美術館の存在を知ったのは最近のこと。
2年振りに京都に立ち寄ったので、訪ねることが出来た。





高麗美術館創設者の鄭詔文氏は、陳列の美術工芸品を通して祖国の歴史と文化を正しく理解して欲しい。
陳列品の背後にある民族の伝統と文化、さらに生活の息吹を知る場にしたい。と念じていた。
その一環として、雑誌を発行していたことを知った。

朝鮮半島の美術工芸や文化を知りたく何冊かの本や雑誌を読んだことがあり、その中の1冊が『日本の中の朝鮮文化』であった。



館蔵品はすべて朝鮮の考古美術品であり、その数は1700点。
種類は多岐にわたり、青銅器や金銅製品、陶磁器や彫刻、絵画など。
小さな美術館だが、そこにはきらりと光るものがある。

道路の反対側には高麗美術研究所が在る。
館蔵品の台帳の整備と一品ごとの調査表の作成。
朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国における考古美術品の展示施設および調査研究機関との交流。
そして、日本における同種の施設および機関との交流が行われている、とのこと。

日本の文化の多くは朝鮮半島を経由しもたらされた。
いわば、兄貴分の国と思うが相互理解は未だ出来ていないのが現実だ。
この美術館を通し、創立者の思いが伝わるれば。
と、切に感じた。