怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

「ゆとり」から「言葉の力」?その2

2006-02-20 00:48:32 | 教育
「言葉の力」と聞くと、
「ああ、コミュニケーション能力ね。」
「論理的思考。説明能力か。」
「PISAのテストを意識してるだ。」
いろいろイメージが先行しそうだし、いろいろなブログを見ると、こういった話題もあがっているのがわかった。

しかし、なぜ「言葉の力」なのだろう?
必然性を考える。
すると、
「さっき言ったものが今の世の中に大切だから。」
とくる。

「学び」をイメージするならば、どういった方向性をもっていると考えるのだろうか?
きっと具体的に答えられるパンピー(死語?)はいないはずだ。

「そんなのお前ら教員が考えるのじゃぁないの?プロでしょう?」
そういうのを責任転嫁と言う。

別に「言葉の力」からイメージされるものが不要なわけではない。
そうではなくて恣意的に決まる方向性に対して誰が責任をかぶっているのかということ。
また、本当は「学び」に関して、構造的な問題を抱えていながら、そこにメスをいれない「聞かザル」の態度を続けていれば、いずれつけはもっと大きくなるよ。
私は姉歯のような立場には立ちたくないから声を上げているが、そのような人を生み出すのと同じような状況はあなたがたが生み出しているよ。
そういいたい。

もうすでに
「あれ?最近、話の分かる人と分からない人と二極分化しているような気がする。」
とかつぶやいている人はいませんか?

(注釈)「学び」は「ごまかし勉強」(藤沢伸介)ではなく、真に「主体的な方向性をもつ豊かな学び」を指す。

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