怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

立場をかえりゃあいいのかな?(「教育」の先行き)その2

2006-02-19 05:29:48 | 教育
最近、読んだブログ類の中に、「教科」の解釈のいびつさを感じました。「受験教科」と「指導要領の教科」は概念がことなるのです。当然、指導方法もことなるのです。
この点は「格差社会の解消(緩衝)」を議論するときに、よく誤解されているように思います。
受験社会是認であるなしではなく、格差社会=受験社会という図式にのっとった教育論議をするかしないかは「学校(公)教育」の大前提に関わります。
例えば「国語の読み」において、豊かな解釈力、多様な解釈の理解力、批判的な読解力を身につけさせたいのであれば、「受験」や「学力テスト」にかたよることは許されないことでしょう。

時に、塾講師の方の意見で、学校で行っている「教科指導が間違っている」(塾も教科指導をしているつもりなら間違ったものいい)「実用的でない」(何に対して?)「稚拙だ」(無根拠、対比なし!)などと言われているのを見ます。
これもそういった点の誤解のように感じます。
もちろん、塾が果たす役割について否定するつもりはないです。(塾の「教科」と学校の「教科」は別物がいい例)
ある意味、お互い別業界なのだから、一方を自分の規準で批難して何になりましょうか。
(同じ子どもを抱える点では、大いに議論できる余地はあると思います。)

「教科指導」は端的に「こうだ!」と言えるものは多くなってきたように思いますが、一元的に語れるほど底は浅くないです。
なぜなら、現場の状況は児童の数だけ多様で、教師の個性(年齢、性別等等)も少なからず反映する部分もあり、教材や授業時数の変化だけでも今はとても大きな影響を受けているのですから。

今の「教育」に何が必要かという根本に立ち返った議論は「これから」という点は多いと思います。ただ、昨今の教育施策の変遷は、「教科」の枠組みを壊そうとしているだけに多方面からの議論を呼び、その点を見え難くしているとも感じます。
たかだかイデオロギーレベルでしかないナショナリズムやその多くが日和見でしかないグローバリズムによらない、歴史性を無視せず総括し、独自性を足場にオルタナティヴな立場から将来像を模索するような方法はないものでしょうか。そういった意味では、今の教育施策はたたきがいがあるものだとは思うのですが・・・。

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