怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

研究員の地区発表から感じたこと

2006-02-14 06:44:36 | 教育
私の学校から研究員が出ていたので地区発表があった。
国語だったのだが、今年度で研究員制度がなくなるので、国語の王道「読み」がテーマだった。
まさに総決算的な内容を目指したのか、とても盛りだくさんの内容に、ちょっと直接実践では用いられないな・・・という内容だった。
「読む」手立てだけでも、個人、グループ、全体と目まぐるしくかわり、最後に、その「読み」を「台本」という形で再構成するという展開。
これを1時間に収めるのだから強烈だった。
でも、さすがに研究員、できないことはしない。
なんとか授業は流れた。(これは日頃の指導のたまもの的な部分大)
きちんとした形式にまとめるだけでも相当神経を使っただろうという、一年の汗のあとが感じられた。

研究員制度は、研究員が各自治体の研究部との絆をもとに、あるていど自主的な研究が行え、成果もあがっている制度と私は理解している。
が、これが「研究」から「研修」にかわる。
「教師塾」というヤツだ。
トップダウンな研修制度で産み出されるのはキャリアクラスであることはすでに公表されている。
ヒエラルキーを強制的に構築する施策だと、狙いはバレバレだが、教育実践さえ崩壊しかねないことは、優秀な民間教育団体が無認可で無視をされている状態をみるとよくわかる。

さて、蛇足的だが、この地区発表に際して、自治体教育研究部顧問の校長が挨拶した。
「最近、学力が低下しているのだ。」「国語力、読む力が低下しているのだ。」
だから、
「指導要領が変わることは必要だ。」
という理屈。

この人は「国語部」のくせに、何もわかっていないのだろうな。
そう思った。

ところが、講師としてきていた、青梅市のMという女性校長は、その講釈の中で、
「PISAの問題等をみるにつけ、そうそう簡単な解釈(読解力低下など)を許してはいない。」
といい、新聞の切り抜きを示して、
「指導要領改訂について、新聞記事の示唆が見当はずれであるが、国語人としては国語教育が強化されれば・・・。」
と話をもっていっていた。

ははあ。この人は、私からみると誤解をしているように思えるが、自分なりに批判しながら、指導要領改「悪」ともつき合っていく腹づもりなのだな、
そう感じた。
こういう人の下だと、自分にとって有益な研究ができるかもしれないな、
そうも思った。

文科次官、学習指導要領で「06年度中の改訂目指す(asahi.com.2/13)
のような、狂った次官のいうことに一々振り回されたくはない。
拙のブログエントリ:脱「中央」の選択(岩波ブックレット)苅谷剛彦ほか:で書いたことに繋がるが、教委レベルのフィードバックを受け止めるシステムではなく、現場サイドのフィードバックを受け止めるようにしてもらえると、気が楽になるよと思った。
ま、一時しのぎかもね。

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
TBさせていただきました (rabbitfoot)
2006-02-15 23:07:16
すみません。TBが2つついてしまいましたので、1つ削除してください。



考えれば考えるほど、難しいですし、“末端”の国民に何ができるのか、すぐには見えてこない問題ですね。
返信する
見る知る考える (yo)
2006-02-16 05:17:47
私はマスコミも、中教審も文科省も現状認識に関して立場を超えた自由な解釈をしているとは思えません。

特に、文科省はおかしな教育施策を降ろし、責任を現場に丸なげし、総括なく猫の目のように切り替えてくる点は国家犯罪だと思います。



では現場に問題はないのか?と問われれば、ないわけはないですが、少なくとも現場に有効な研究、研修の場を与えない、金は出さない、人も出さない、けれど有用無用の管理だけは厳しくする、では立ち行かないことは明白です。



最近、読んだブログ類の中に、「教科」の解釈のいびつさを感じました。「受験教科」と「指導要領の教科」は概念がことなるのです。当然、指導方法もことなるのです。

この点は「格差社会の解消(緩衝)」を議論するときに、よく誤解されているように思います。

受験社会是認であるなしではなく、格差社会=受験社会という図式にのっとった教育論議をするかしないかは「学校(公)教育」の大前提に関わります。

例えば「国語の読み」において、豊かな解釈力、多様な解釈の理解力、批判的な読解力を身につけさせたいのであれば、「受験」や「学力テスト」にかたよることは許されないことでしょう。

時に、塾講師の方の意見で、学校で行っている「教科指導」が間違っている、稚拙だなどと言われているのを見ます。

これもそういった点の誤解のように感じます。

「教科指導」は端的に「こうだ!」と言えるものは多くなってきましたが、一元的に語れるほど底は浅くないです。

なぜなら、現場の状況は児童の違いの分は多様で、教師の個性(年齢、性別等等)も少なからず反映する部分もあり、教材や授業時数の変化だけでも今はとても大きな影響を受けているのですから。



今の「教育」に何が必要かという根本に立ち返った議論は「これから」という点は多いと思います。ただ、昨今の教育施策の変遷は、その点を見え難くしていると感じます。
返信する
根本 (今日)
2006-02-18 18:14:39
例えば「国語の読み」において、豊かな解釈力、多様な解釈の理解力、批判的な読解力を身につけさせたいのであれば、「受験」や「学力テスト」にかたよることは許されないことでしょう。・・・・・・・・



この通りですね。

ただ、これに(後者)に、振り回されている国語教育がはやっていますね。

返信する
「学び」 (yo)
2006-02-21 06:49:56
最近、KOYASUさんのブログを読んだり、いろいろな本を読んだりしながら「学び」というものを再考しています。

「豊かな学び」というものの持つ意味、将来性、方法などです。

簡単に現実社会(受験の学び)とのバランスといってしまっていいのかと最近思うのです。

私は公立の教員ですから、限られた時数の中で子どもに教科を教えているわけですが、安易に「バランス」の名の下に自分のスタンスをくずすべきではないと感じています。

藤沢伸介の「ごまかし勉強」に触発されたわけではないですが、が、プロの教師ならば(豊かな)「学び」に対する追求はやめてはならないなというのが実感ですし、それを阻止されるような議論には反ばくしていかなければならないと思っています。



最後に、今日さんのコメントは、下に絵を利用されているのですが、これは楽しいですね。

自分のブログなのに、私はあまり使っていないのです。(書き込みに夢中で・・・)でも、いいですね。ちょっと心がなごみます。
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