goo blog サービス終了のお知らせ 

『そぞろ歩き韓国』から『四季折々』に 

東京近郊を散歩した折々の写真とたまに俳句。

読書感想55   増補倭寇と勘合貿易

2013-02-23 19:09:14 | 日記・エッセイ・コラム

 

Dsc03464


 

著者      :  田中健夫<o:p></o:p>

 

生没年     :  1923年誕生   2009年死去<o:p></o:p>

 

出身地     :  群馬県<o:p></o:p>

 

初版年     :  1961<o:p></o:p>

 

出版社     :  至文堂<o:p></o:p>

 

再版年     :  2012<o:p></o:p>

 

出版社     :  (株)筑摩書房 ちくま学芸文庫<o:p></o:p>

 

定価      :  1,300円(税別)<o:p></o:p>

 

<o:p></o:p>

 

 

感想<o:p></o:p>

 

 本書では13世紀から16世紀にかけての倭寇の行動を朝鮮半島、中国、日本との関係の中で描いたものである。日本の時代区分では南北朝争乱期から文禄・慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮の役)の前までの時期である。朝鮮半島では高麗と李氏朝鮮の時期であり、中国は明の時代である。<o:p></o:p>

 

 倭寇が始まった時期を1350年としている。『高麗史』の中で「倭が寇す」という表現から「倭寇」という固有名詞に変化したことをもって倭寇の始まりとしている。このように倭寇と言う言葉が外国語であり、資料も日本にはあまりなく、朝鮮半島や中国に残っている。そうした朝鮮や中国の資料を使って本書も書かれている。ここでは朝鮮半島と倭寇の関係に絞って推移を見ていきたい。<o:p></o:p>

 

倭寇の活躍する時期は前期後期に分けられ、前期は朝鮮半島で、後期は東シナ海・南洋方面の中国である。<o:p></o:p>

 

主として朝鮮半島での倭寇は初期には、米穀など生活必需物質の獲得が目的で、運搬船や備蓄倉庫が攻撃対象になっていた。また首都開京にも攻撃を加え、船400隻兵員3000名という大規模なものがあったが、人畜を殺すことはなかった。しかし、日本人の籐経光が恐喝して食糧を求めたのに対して、高麗の官吏が酒食を供して謀殺を試み失敗したことをきっかけに、倭寇は狂暴化した。それ以後、入寇の度に婦女幼児を皆殺しにするようになった。この時期は高麗が弱体化し、それにつけ込んで、倭寇は行動範囲を広げ内陸部の奥地まで侵入し、中には大規模な騎馬隊も存在した。<o:p></o:p>

 

朝鮮で「三島の倭寇がわが国に患となって50年にちかい」(定宗実録)と言われた三島は、対馬、壱岐、肥前松浦地方と推定している。日本に来たことのある招撫官の報告書に、この三島は土地が狭く地味がやせていて農業ができず,飢餓から逃れることができず、ほしいままに盗賊を行うとある。さらに日本から帰国した通信使の報告書のなかでは下関を境にした瀬戸内海と九州の海賊の実態報告がある。東西あわせて数万の兵力と1000隻を下らない船があり、東西呼応して兵を起こしたら防ぎきれない。西向きの海賊の集合地は対馬であり、対馬の宗氏や大内氏、宗像氏、大友氏、松浦党諸氏が海賊を統率できる立場にあるとある。<o:p></o:p>

 

高麗と日本の間には外交関係がなかったが、倭寇対策のために室町幕府と外交折衝をもち、また投化勧奨や通商の許可など倭寇を懐柔する対策も立てられた。そうした中で対馬の宗氏は日本と朝鮮の間の通交の仲介者の役割を果たすようになり、朝鮮側から米豆などの食糧を毎年贈られた。対馬の宗氏も禁寇の意を告げた。<o:p></o:p>

 

また軍事的な制圧も試みられた。李氏朝鮮の時代に入り、倭寇は14196月に明の遼東の望海堝を30余隻で襲撃したが、明に撃破され壊滅状態になった。その残党が朝鮮を襲った。それを機に李氏朝鮮の太宗の軍隊が14196月に手薄になっている対馬を襲った。朝鮮では己亥東征、対馬では糠獄(ぬかだけ)戦争、一般には応永の外寇と呼ばれる事件である。上陸したが伏兵にあって朝鮮側は敗退した。宗氏は暴風期が近いことを警告し修好を求めたので7月に朝鮮の軍隊は撤退した。その戦後処理は、朝鮮側の記録によれば対馬を朝鮮の属州とし、印信を賜るなら宗氏は命に従うというものであった。しかしこれは宗氏の本意ではなく、仲介者が適当に組み立てて朝鮮側に伝えたものであった。朝鮮側も対馬の宗氏もどちらも戦いに勝ったと報告をしていた。足利義持将軍も九州の大名少弐氏も宗氏も応永の外寇について深く恨んでいるという報告を日本に遣った使者から朝鮮側は受けた。そして宗氏の使者により、対馬が慶尚道に属すというのは根拠がないことだが、朝鮮側が与えた通交の信符は使用したいと告げられ、朝鮮側はこれを拒否し、対馬と朝鮮の通交は断絶した。次の世宗の時代になって初めて対馬と朝鮮の通交関係は回復を見たのである。<o:p></o:p>

 

 朝鮮での倭寇の襲撃は終息に向かった。一方倭寇の懐柔策として取られた貿易は進奉(一種の朝貢)の形式をとったため朝鮮側に不利な条件での貿易になった。通商を求める日本人は増加の一途をたどり朝鮮政府にとって重い経済的な負担となった。 この時期の貿易品目は綿布や麻布である。朝鮮では鋳造貨幣の外に布貨として綿布や麻布が貨幣の役割を果たした。日本人への回賜品(朝貢の品へのお返しの品)として木綿布の増加は国家財政の半分近くに達していた。朝鮮政府は貿易統制に向かい、最終的には対馬の宗氏が日朝貿易を独占した。<o:p></o:p>

 

 一方日本からの輸出品には南海中継の物質が圧倒的に多かった。胡椒や蘇木、香料・薬材など。明の海禁政策によって明から朝鮮に入るルートは閉ざされていた。また南蛮船や琉球船が朝鮮と直接取引する道も、倭寇によって阻まれた。東アジアと朝鮮海峡の海上権を掌握していた倭寇が朝鮮貿易の仲介者になったのだ。通商が出来る時は商人に、できないときは武力を使う倭寇に随時変身した。<o:p></o:p>

 

 倭寇を契機に朝鮮にも明にも日本の国情について詳しく調べた記録が残っているそうだ。一方日本には殆どないという。以前から疑問に持っていた点がいくつか明らかになった。一つは大航海時代に日本にポルトガル人やキリスト教の宣教師がきていたのに、朝鮮半島に立ち寄った形跡がないのはなぜなのか。答えは制海権を握っていた倭寇(海の領主)によって阻まれていたからである。仲介貿易の利益を独占するためである。また、よく韓国の人々が対馬は我が領土と示威行動を起こしたり、鬱陵島に石碑を立てたりしている根拠は何なのか。答えは応永の外寇にあるのだろう。この戦後処理の過程で対馬が慶尚道に属すという取り決めがあったということだ。これを根拠に言い立てているのだろうと推測がつく。あと、韓国の歴史の教育でどんなことを教えているのかもやはり気になる。<o:p></o:p>

 

 著者の田中健夫氏は1945年の敗戦を期に極端な不振に陥った日本中世・近世対外関係史の分野で大きな業績を残された歴史家だと言う。50年前の名著が復刻されたのも肯ける。<o:p></o:p>