あの日からもう5年たつのですね。
3月11日ということで、やはりあの日を思い出しました。
あの日も寒かったですね。
もの凄い揺れも怖かったですが、地震のあと、急に黒い雲が出てきて、とても気味悪かったのを覚えています。
その後、毎日、親戚や知人の安否確認に追われ、野蒜の知人が亡くなったのがわかったのは何日もあとのことでした。
米など、食料を買い出しに行ったのも、今となっては一つの思い出ですね。
いつも店に行けばものがあるのに、それがないのですから。
あと、空が変で、毎日、気味悪い雲が出ていたのを覚えています。
縞模様の雲が出たりとか、本当に気味悪かったです。
あの震災で、気仙沼の親戚は息子夫婦と別居生活となったため、今はアパートに年寄りだけで暮らしています。
生活が一変してしまい、体調もよくなく元気がないようで心配です。
でも、命が助かって本当によかったです。
目の前が海だったから逃げたんだろうな。
もし、海がもっと向こうにあったなら、大丈夫と考えて逃げるのが遅れたかもしれません。
「地震は怖くないんだ。津波が怖いんだよ」といつも言っていた年寄りがいたおかげでもあります。
早く仮設住宅に住む人が落ち着いた暮らしができるといいのですが。
原発事故による汚染も大丈夫なのか。
この日だけ考えるなんてことのないようにしたいですね。
3月11日ということで、やはりあの日を思い出しました。
あの日も寒かったですね。
もの凄い揺れも怖かったですが、地震のあと、急に黒い雲が出てきて、とても気味悪かったのを覚えています。
その後、毎日、親戚や知人の安否確認に追われ、野蒜の知人が亡くなったのがわかったのは何日もあとのことでした。
米など、食料を買い出しに行ったのも、今となっては一つの思い出ですね。
いつも店に行けばものがあるのに、それがないのですから。
あと、空が変で、毎日、気味悪い雲が出ていたのを覚えています。
縞模様の雲が出たりとか、本当に気味悪かったです。
あの震災で、気仙沼の親戚は息子夫婦と別居生活となったため、今はアパートに年寄りだけで暮らしています。
生活が一変してしまい、体調もよくなく元気がないようで心配です。
でも、命が助かって本当によかったです。
目の前が海だったから逃げたんだろうな。
もし、海がもっと向こうにあったなら、大丈夫と考えて逃げるのが遅れたかもしれません。
「地震は怖くないんだ。津波が怖いんだよ」といつも言っていた年寄りがいたおかげでもあります。
早く仮設住宅に住む人が落ち着いた暮らしができるといいのですが。
原発事故による汚染も大丈夫なのか。
この日だけ考えるなんてことのないようにしたいですね。
あの日から・・・5年・・・ですね。
あの怖さは、忘れることはできません。
福島に住んでる妹たちとなかなか連絡が取れなかったり、東京に勤めてる息子が帰宅できなかったり、と
大変でした。
なんといっても、テレビで見た津波の恐ろしさ、そして
原発事故は信じられない出来事です~。
今日も朝からラジオやテレビで見ましたが、復興もなかなか進まないようですし、原発事故による汚染も心配です。仮設住宅の人たちが1日も早く落ち着いて暮らせる日が来るといいですね。
もう5年たってしまったのですね。
あの日は、本当に大変でしたよね。
家族や親せきの無事が確認できるまでは、本当に心配で、心配で、たまりませんでした。
周りに、結構、帰宅難民になった人も多くいましたから。
ボランティアの数も減ってきたそうですが、まだまだ復興できていない状況なのが心配ですよね。
仮設住宅というのは、住むところが決まるまでの仮りの住居なのですから、5年もたった今も仮設住宅があるのはおかしいですよ。
オリンピックがいけないとは言いませんが、オリンピックよりも先に国がまずやるべきことなんじゃないかと思います。
もう5年なんですね。
怖かったことを思い出します。
テレビを見ると、まだまだ復興は遠いようですね。
こちらに、お金をもっともっと回して欲しいですよね。
あれだけの規模の被害ですから、復興に時間がかかるのは仕方ないですが、どうも上の人たちの顔がほかを向いているように見えて。
あの震災を教訓にして、防災にも力を入れないといけませんね。
私もしばらく触っていない防災リュックの中身をチェックせねばと思っています。