紘一郎雑記帳

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松下幸之助の凄さ 第5部 紘一郎雑記張

2011-11-08 03:57:53 | Weblog

 松下幸之助の凄さ 第5部 
紘一郎雑記張

 では松下幸之助にもパートナー経営者となる人物がいたかとなると、意外と直ぐに名前が出てくる人は少ないかもしれないが、ちゃんといた。創業時は義理弟の井植歳男(いうえとしお)である。幸之助は体が弱く病気がちでもあったこともあり、井植が幸之助の分身となり指揮をとることも少なくなかった。

松下電器(現・パナソニック)の東京進出の土台をつくったのも井植である。また昭和恐慌の煽りで経営危機に直面した時、幸之助は病気で西宮の自宅で静養していた。「一人たりとも、社員を解雇したらあかん。給与かて、全額支給や」と決断こそ幸之助がくだしたが、実際に陣頭指揮をとり会社の危機を乗り越えたのは井植であった。井植は戦後に松下電器を辞職して三洋電機(現・パナソニック子会社)を創業するが、井植にもやはり後藤清一という大番頭的存在のパートナーがおり、三洋電機を大企業にすることができた。


 

    そして最後に世界的な大企業になった3つ目の理由は何かといえば、業種が良かったことである。幸之助が最初に奉公したのは火鉢屋であった。幸之助のことだから火鉢屋をやっていたとしても恐らく日本一の火鉢屋になっていたと思う。次の奉公先は自転車屋であったが、恐らく自転車屋をやっていたとしても日本一の自転車屋になっていたであろう。では何故、世界の松下になれたのか?それは家電を選んだからにほかならないと思う。


井植が去った後に幸之助が絶対的に信頼したのが高橋荒太郎という人物である。高橋はもともと朝日乾電池の常務を務めていたが、昭和11年、松下電器に吸収合併されると高橋も松下入りすることになった。高橋は得意の複式簿記による組織づくりを目指し、独自の「経営経理制度」を確立。株式会社に生まれ変わった松下電器の経理システムの近代化に大きく貢献した。幸之助を心から心酔し寝食を忘れて奉公したことから、幸之助イズムの伝道師とまで言われた。高橋は女婿の松下正治が社長に就任すると副社長となり今度は正治を支えた。松下家2代にわたり名番頭として松下電器を支えたことになる。井植と高橋がいなければ、やはり松下電器も大企業にはならなかったのではないかと思う。

この項終わり

 


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