Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

顔-目-女の美しさ-手-沈黙;悪魔を祓われた肉体

2010-07-23 20:44:15 | 日記


★ それぞれ謎めいた顔をもつ遠くの葉。沢山の顔がある!大きな花びらをもった花々。花びらは毒のある性器の上に開いている。まったく沢山の性器があるものだ。さまざまに異なった、知ることのできない何千もの道。庭で、切手ほどの大きさしかない所に、何千もの生物が姿を隠している。大地は絶え間なく腐る。このこと、つまり腐ることしかしていない。水は、小さな丘からにじみ出る。ぽたぽたと空から落ちる。目は見ているようで、じつは見ていない。目は、暗闇を映している潜水艇の二つの窓のようなものだ。

★ 秘密がないということ、これが秘密だ。外側から見られた世界が、どうしようもなくそこにある。というのも、内面と呼ばれたもの、思想と呼ばれたものは、世界の外面にすぎなかったからだ。色のついた表面、一種の表皮のようなもの。本当の肉、部屋の内部、言葉と魂とはなにかといえば、それはあらゆる花と葉と果実と、皮膚と、小石と、足跡からなるもの、不可解なしるしに満ちたあの現実なのである。

★ 根と蔓と茎と枝と葉脈のほぐしようのない絡みあい。鏡はない。(自分の姿は見えない)。まなざしは、例外的な地点、支点とすべき唯一の場所を空しく求める。まなざしはそれを見つけられない。目は果実なのだ。



★ 女の美しさ。はじめは理解できず、困惑させられ、不安にさせられてしまう美しさ。その美しさはあまりにも奇蹟的だし、だれもみなひとしく美しいので、まるで、まやかしのように思えてしまう。どうしてこんなことがあり得るのか。腹いっぱいに食べることなんかほとんどなく、現代栄養学の基本的な成分には、おおむね事欠いている民族がここにいる。

★ わたしたち、肉をくらい、牛乳を飲み、ビタミン剤をとるものたち。あまりにも豊な富にあふれているので、その富を世界中に、飢えた民族や栄養不良の子供たちに分け与えることのできるわたしたち。しかもこれらの民族は、美しいということだけで復讐しているのだ。



★ インディオの女の美しさは光り輝いている。美しさは、内面から来るのではなく、肉体のあらゆる深みからやって来る。それは、果実の肌の美しさが、果肉全体で照らされ、樹木全体のあらゆる肉で照らしだされているのと同様である。

★ インディオの女の美しさは、自由の結果である。道徳や宗教の禁制を恐れることなく、あるがままであるという自由。自分の肉体と精神のために、労働と交合と分娩を選ぶ自由。愛さなくなった男から逃れ、気に入った男を求める自由。堕胎用の煎じ薬を飲む自由。子供が欲しくなければ、分娩の際に毒殺してしまう自由。気に入った家に住み、欲するものを所有し、憎むものを拒む自由。肉体の自由と裸身の自由。自分の顔を手入れする自由。競争相手もなく、自分自身の姿態以外には、他の何物とも競うことがないという自由。不品行の自由と分別の自由。

★ 躍動し、敏捷で、生々とした人間的な美の姿。水と太陽と蔓と樹木の美。肉体は逃れもしないし、隠れもしない。それは生命の恐るべき力のすべてを発散する。手は活動する。扇や、笊(ざる)や、籠を編むために、ナワラ織りの繊維が織りなす模様を、手は心得ている。肉体の内部にあり、樹々の葉や、鹿の皮や、蛇や魚のうろこの上にも記されている模様を手は知っている。



★ なにものももはや目をだますことはない。インディオの女たちの目は、黒い入り江のようだ。青銅色の顔のなかで静かにきらめきつつ、見つめている。目は《魂》にいたる扉として見開かれることなど決してない。

★ わたしたちの目の残忍さと貪欲。
しかしここには、河のほとりに立って動かない若い女の、見つめている目だけがある。(見つめている目)。



★ 言葉を沈黙に満ちたものにすることは容易ではない。わたしの喉の中につながれたスピーカーをにわかに止め、わたしの目の中に隠されたレンズに覆いをかけ、耳の底で振動している膜に穴を開けるのは容易ではない。わたしがやってみたいと思うのはそういうことだ。言葉はわたしの中で跳ねまわり、わたしの体のあらゆる穴からほとばしり出て、空間をおおいつくそうとしている。言葉による征服、言葉や、形容詞という蟻のあらゆる小さな咬み傷。話すことを学びつくしたとき、残るものはなにか。沈黙する術(すべ)を学ぶことだ。



★ インディオたちは沈黙につきまとわれている。いつの日か、たぶん沈黙は、わたしたちのところまでやって来るだろう。たぶん沈黙は、わたしたちをおおい、わたしたちの肉体の内部に入り込むだろう。沈黙がやって来て、無数の電球や、ヘッドライトやウィンカーや、照明に輝く陳列窓を壊すだろう。もし沈黙がやって来れば、それはわたしたちの言葉の多くを殺し、それらの言葉を支えているコンクリートやガラスから言葉をひき離して、絶滅させてしまうだろう。沈黙は、わたしたちの書物の多くを、意識が発信するものを混乱させるのに役立つだけの書物を破壊するだろう。沈黙は、囚われの身となっていた多数の言葉と影像を解放するだろう。たぶん沈黙は、これらすべてのことをわたしたちと一緒に行なうだろう。

<ル・クレジオ『悪魔祓い』>




地デジ難民

2010-07-23 09:41:45 | 日記


アンテナ未設置で視聴できない世帯が200〜400万、受信障害を起こす世帯は319万、電波が届かない山間などの世帯が70万、対応テレビなど機器がない世帯も800万……。地上デジタル放送移行まであと1年の現状です。国や放送局は周知に努めるものの、「地デジ難民」を防げるか、お寒い限りです。(あらたにす・朝日新聞編集局から)



この際、テレビやめたら。

これ以上、田舎芝居は見たくない。







悪魔祓い

2010-07-22 21:57:00 | 日記


★ どうしてそんなことがあり得たのかよくわからないのだが、とにかくそういう具合なのだ。つまりわたしはインディオなのである。メキシコやパナマでインディオたちに出会うまで、わたしがインディオであるとは知らなかった。今では、わたしはそれを知っている。たぶん、わたしはあまりよいインディオではない。

★ すなわち、これらインディオの種族に出会ったとき、それまでわたしには家族があるなどとことさら思ったことはなかったのに、不意に何千人もの父や、兄弟や、妻たちにめぐり会ったようだったと。しかしだれかがある民族について語り、自分が属していない社会の情念や意図をおしはかってみたいなどと思うといつもそうなるのだが、その個人がかならずしも自分の知識を信用していない場合でも、大きな危険をおかすことになる。こういう次第で、人を近づけないこと、および沈黙することをもって偉大な徳としているような人々について書かれた以下の文章は、残念なことに、著者自身についてしか語り得ていない。

★ しかしほかのこともある。この本が完成しかかっていたころ、わたしは気づいた。この本が、わたしの知らぬうちに、たまたま、タフ・サ、ベカ、カクワハイという呪術的治療の儀式の順序を追ってしまったことにである。インディオを病気と死から奪い返すためのこれら三つの段階は、あらゆる創造の小径の道しるべそのもの、すなわち、秘法伝授、歌、悪魔祓いなのであろう。芸術というものはなくて、あるのはただ《医術》だけだということを、いつの日か人々は悟るにちがいない。


★ インディオの世界との出会いは、今日もはや贅沢ごとではない。現代世界に生じている事を理解しようと望むものにとって、それは必要事となった。理解することはなんでもないことだ。そうではなく、あらゆる暗い通路の果てまで行こうとすること、扉をいくつか開けてみようと試みること。つまり結局は生き延びようと試みることだ。

★ コンクリートと、電線の網の目からなるわたしたちの世界は単純なものではない。それを説明しようとすればするほど、その世界はわたしたちの手から逃れてしまう。その中に閉じこもって生き、これらの壁や天井に穴を開けようともせずに、その世界の機械的な刺激に盲従することは、単なる無意識以上のことだ。それは、堕落させられ、殺され、呑みこまれてしまう危険に身をさらすことだ。

★ 今日、わたしたちは、真理は存在しないということを知っている。爆発と変容と疑惑があるだけなのだ。出発すること。わたしたちは出発したいと思う。しかしどこへか。すべての道は互いに似ていて、すべては自己自身への回帰にすぎない。それならほかの旅を探さなければならない。


★ この体験については、たとえば海について語るように語らねばなるまい。海はそこにあった。人々は、日々それと隣り合わせ、眺め、それについて考えていた。しかし海がなにを意味するかは知らなかった。しかし海のほうでは知っていた。都市をとり囲み、人間の思想を組織し、音楽と絵画と詩を律していたのは海だったので、その逆ではなかった。どうしてそんなことが想像できよう。人々が言葉を使用し、それを白い紙の上に並べたとき、人々はそのことに気づかなかったが、じつは紙の上に並べていたものは貝だった。


★ 錠前はもう沢山だ!壁も窓ガラスも沢山だ!管制塔の上から、どこかの専制君主たちによって発せられる耳に聞えない指令も沢山!城壁と門は、たやすく壊れるものだ。城砦、要塞、塹壕の陣地、それらは長いあいだもちこたえはしない。それらは、まるで狂人の手が不意に起爆装置のレバーに触れたかのように、自然に爆発する。自律性の境界は、打ちくだかれた。つまり、精神と言語を保護していた、魂の古く、うす汚れた境界は。私有権は侵害され、とっておかなければならないものはもはやなにもない。


★ 世界の模様は、いつの時代でも恐ろしいものだ。ただ一つの細部、一枚の葉、一つの跡、一つのしるしだって、無償のものはない。世界はユーモアを解さない。笑う暇などはないから。世界は、戯れのために作られたものではない。自然の広大な領域は、恐怖と神秘に満ちている。生きとし生けるものは、すべて軽やかではなく重い。樹々は、影をいだいて重く、植物は有毒な香気に満ち、厚ぼったい葉は、毒のある乳をたたえている。

<ル・クレジオ『悪魔祓い』(岩波文庫2010)>





“おしゃべり”する人々

2010-07-22 12:23:07 | 日記


昨日、仕事の昼休みに入った定食屋のワイドテレビは、“軽井沢”を写していた。

ぼくにとって軽井沢(のごく一部)は、自分の“ふるさと”のような場所である。
鳩山のように“別荘族”だったからでなく、そこが“母の職場”だった故に小学生の夏から滞在したからである。

そしてここ2日、ぼくは細見和之の『「戦後」の思想 カントからハーバーマスへ』をぼくとしては、“まとめて”読んでいる。

その第4章“第二次世界大戦後の思想”には、ベンヤミンからアドルノとアーレントへ“引き継がれたもの”が書かれている。

すなわち、<ベンヤミンの遺言>はいかにこの“戦後の思想家たち”にひきつがれたか。

そのアドルノについての部分に、“おしゃべり”という言葉が出てくる。
アドルノの言葉は“かたい”のであるが、引用する;

★ 社会が全体的になればなるほど、精神もまたいっそう物象化され、この物象化から自力で身を振りほどこうとする精神の試みは、いっそう背理的となる。宿命についての極限的な意識さえも、おしゃべりへと変質する危機にたえず曝されている。文化批判が直面しているのは、文化と野蛮の弁証法の最終段階である。すなわちアウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮であり、そしてこのことが、こんにち詩を書くことがなぜ不可能になったかを語り出す認識をも蝕むのである。物象化は精神の進歩を飲み込もうとしている。自己満足的な観照という姿で自らのもとにとどまっているかぎり、批判精神はこの絶対的な物象化に太刀打ちできないのである。
<アドルノ『プリズメン』細見訳>


まあ“物象化”というような概念になじみのないひと(ぼくもそうだが;笑)には、とっつきにくい文章だが、ポイントは以下にある;

《宿命についての極限的な意識さえも、おしゃべりへと変質する危機にたえず曝されている》

《すなわちアウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮であり、そしてこのことが、こんにち詩を書くことがなぜ不可能になったかを語り出す認識をも蝕むのである》

《自己満足的な観照という姿で自らのもとにとどまっているかぎり、批判精神はこの絶対的な物象化に太刀打ちできない》


この《アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮であり》という言葉は、とても“有名”である(笑)

“このこと”については、この発言に対する(当時の)若き詩人・評論家エンツェンスベルガーの“反論”も掲げられている;

★ 哲学者テオドーア・W・アドルノは、われわれの時代に下されうるもっとも厳しい判決の一つである命題を語った。すなわち、アウシュヴィッツのあとで詩を書くことはもはや不可能である、と。もしわれわれが生きのびようと望むなら、この命題は反駁されねばならない。それをなしうるのはわずかの者である。ネリ・ザックスはそのわずかのひとりだ。彼女の言葉には救出する何かが宿っている。彼女は語ることによって、われわれがいまにも失おうとしているもの、すなわち言葉を、一文ごとにわれわれ自身にあたえ返してくれるのである。
<エンツェンスベルガー、細見訳>


ネリ・ザックスという詩人をぼくは知らなかった。
この本には、こう説明されている;

★ 彼女は元来、典型的な同化ユダヤ人の家庭に育ち、むしろキリスト教的な教育・文化のもとに自己形成を遂げていたのだが、1940年5月にナチスの手を逃れて、年老いていた母とふたりストックホルムへ渡り、以後そこに暮らしつづけた。彼女がユダヤ的なものを獲得してゆくのは、この迫害と亡命をつうじて、同胞の運命に痛切な形で接したことが決定的だった。彼女は直接的また間接的に、「アウシュヴィッツ」にいたる同胞の運命を神話的な形象世界のなかに描きつづけた。まさしくツェランがそうであるように、彼女は、アウシュヴィッツのあとで詩を書くことが不可能などころか、アウシュヴィッツのあとだからこそ詩を書かねばならなかった、まちがいなくそういう詩人のひとりである。


さて、このブログのテーマは、“おしゃべり”であった(笑)

すなわち、アドルノもエンツェンスベルガーもネリ・ザックスも“おしゃべり”をしていたのではない、ということである。
あるいは、ベンヤミンもアーレントもこの後の章に登場するハーバーマスも。

もちろん、“おしゃべり”ばかりしていなかったのは、これらドイツの思想家や詩人だけではない。
ゆえに、ぼくは<思想史>と言っている。

またぼくは、“パレスチナの詩人たち”の言葉が、

《われわれがいまにも失おうとしているもの、すなわち言葉を、一文ごとにわれわれ自身にあたえ返してくれる》

ことを“希望”する。



このブログの最後に、“典型的なおしゃべり”を掲げよう。

こういう“おしゃべり”に怒りを感じないひと(そのひとの“政治的立場”がいかようであろうとも)は、ぼくには信じがたい;


《「雁(かり)の使(つかい)」という言葉は万葉の昔から歌に詠まれている。秋の空に飛来する雁は古来、懐かしい人の消息をもたらす使いだとされてきた。だから手紙のことを「雁書(がんしょ)」とか「雁の文」とも呼び習わす▼由来は中国の故事にさかのぼる。漢の武将の蘇武は使者として匈奴(きょうど)に赴き囚(とら)われた。匈奴側は蘇武は死んだと言い張ったが、漢の側は「天子の射止めた雁の脚に蘇武の手紙がゆわえられていた」と譲らず、ついに身柄を取り戻した。話はどこか、北朝鮮による拉致事件に重なり合う▼その国の工作員だった金賢姫元死刑囚が来日した。超法規的な入国とものものしい警備は「雁の使」という雅語からは遠い。だがベールの向こうからもたらされる、どんな消息も情報も、被害者の家族だけでなく日本にとって貴重である▼世論が冷めたとは思わない。だが核にミサイル、哨戒艦沈没と続く北の無法ぶりに、ときに拉致問題の影は薄くもなる。この2年は政府間の動きも止まったままだ。今回の来日を、夏の避暑地のいっときの話題で終わらせてはなるまい▼金元死刑囚は昨夜、横田めぐみさんの両親と会った。父親の滋さんは「世論を喚起するきっかけになれば」と話していた。邪悪な国家犯罪を忘れないことが、家族を支え、政府を動かし、ひいては北への圧力にもなる▼「雁書」の蘇武は19年の幽閉ののちに帰国した。その歳月をとうに超えて、めぐみさんは今年で33年、金元死刑囚に日本語を教えた田口八重子さんは32年になる。消息より被害者の身柄を、一日も早く迎えたい。》(今日天声人語)






不破利晴への手紙10-07-22

2010-07-22 07:46:32 | 日記

☆Unknown (不破利晴) 2010-07-21 23:03:09

>ところで君は、なぜ小沢一郎に会いたいの?(笑)

それはきっと僕がへそ曲がりだからでしょう(笑)あれほどなんやかんや言われていると、自分の目で実体を見たくなります。加えて、何となく予感めいたものもあります。





★warmgun返信;

不破君、おはよう。

ぼくは今日は休みなんだが、目ざまし時計が入っていて、起きたよ(笑)
まず“へそ曲がり”、“自分の目で見たい”、“予感”だね。

ぼくと君を比較してもしょうがないが(笑)、君はよくもわるくもジャーナリスティックだと思う。
それも、君とぼくの資質の差というより、歳の差かもしれない。
つまり、ぼくも君くらいの歳の時は、世の中に対して、もっと別のスタンスだったと思う。

ただ“一般的”には、日本には“ジャーナリスティックな感性=資質”を持ったひとが、はなはだ少数だと思う。
たしかに、“メディア”が、そういう人たちを排除しているということもあるだろう。
現在のメディアは、無難なことを言う人、しか使わない。
ということもあるのだが、過剰なまでに“事実を暴く”という情熱が、そもそも希薄だ。

まさに“そういうひと”がいるのなら、ブログやツイッターに“現れる”はずだ。
時の話題でいえば、“拉致問題”。
“この問題ほどわけのわからん問題はない”と書こうとして、じゃあ“オウム”はどうなの?と思う。
つまり、戦後起こったことだけでも、ほとんどが、“わけがワカラン”。

つまり“わけがワカラン”まま放置する人々ばかりである。
まさにテレビ=ワイドショーは、事実を隠蔽するために、ある。

一方、このところ大澤真幸の近年の“大著”『<自由>の条件』と『ナショナリズムの由来』を読み終わってしまおう、と取り組んでいて、たまたま“大澤真幸”で検索していて、彼が京大を辞めたのは、“セクハラ”だったとの“情報”をはじめて知った。
この“事実関係”についてもよくわからない。
が、ぼくは大澤は“セクハラ”をしそうだと思った(笑)
つまり大澤が、もし“セクハラをした”なら、かれの<思想>に対する評価は変わるだろうか(これも純粋疑問だ)

君がツイッターに書いた《Twitterとは猿のマスターベーションだ》という言葉は、まさにぼくも昨日考えた言葉だった。
だが、その後、“マスターベーションではなく”、これも最近よく報じられる、自分の“モノ”を人前で露出して逃げる人々ではないか、と思った。
現実では、男性が多いようだが、ツイッターでは、男性以外の性も露出する(笑)

しかし、もっと“単純”には、ツイッターでの“つぶやき”が他者の反応を当てにしている以上、なぜツイッターをするひとは、“現実に会話しないのか”が、疑問である。
このことは、ツイッターのみでなくブログなどすべてのネット・コミュニケーションにいえる。

すなわち、“メディア上の応答(応答のなさ)”と、“現実の応答(応答のなさ)”を混同する人々の増大こそ、ビョーキである。

前に“ぼくのブログ”に対する、批判コメントのなかに、“あなたのように本ばかり読んでいる人……”というような非難があった。

当然ぼくは、この非難がなにを意味するかを了解する。
しかし、ぼくは“本のみを読んで”生きてきたのでは、まったくない。

“本を読みたくても、読めない”、日々が圧倒的だった。
しかも“その時”、ブログもツイッターもなかった。

“テレビ”とかもそうだが、“なかった時を知っている”ことと、生まれたら“すでに”眼前にある、ことは、まったく異なった<体験>である。

つまり、“あらかじめ巻き込まれたひと”には、世界認識は不可能である。

“本を読む”ことは、一種の離脱であり、その過程を経て、世界(人間)に再会することだと思う。

今日も暑くなりそうだ。

ぼくの今日の読書予定は、大澤 『<自由>の条件』(笑)とビュトール『心変わり』である。


P.S.

大澤真幸が始めた雑誌の第4号の特集は『1Q84』である。
ぼくはこれをAmazonで知ったので、現物を見ていない。
大澤は、『1Q84』を“評価している”のであろうか?

もしそうなら、それは“セクハラ”より問題である(あるいは『1Q84』が、セクハラ的であるのだろうか!)

だが、ぼくの好奇心は、その雑誌を読んでみたい、とは思わない(笑)






ぼくの好きなひと

2010-07-20 12:20:32 | 日記

たとえば、“ぼくはミシェル・フーコーが好きだ”というのと、“ミシェル・フーコーは偉大な現代思想家である”と言うことは、ちがう。

“ぼくはビートルズが好きだ”ということと、“ビートルズは最高の音楽を生み出した”ということは、ちがう。

すでに勘のよい“読者”は、ぼくが言いたいことが、“わかる”。

なに、わからない?!

ここから、“言葉”は、はじまる(爆)

ついでに言っておくと、フーコーというひとは、ぼくにとって、好きか嫌いか、わからないひとである。
こういうこともある。


まあ、あるブログ(このブログの“名”を出してもいいのだが、なんとなく、やめておく)で中学校の国語の先生が書いている;

《まず教材がよかった。まど・みちおの「イナゴ」。教育出版の6年生の教材だそうだが、さすがにまど・みちおといった感じの素晴らしい詩。平易な表現で哲学的。構造主義的な分析にも、実存主義的な鑑賞にも堪えうる、見事な言葉の芸術。戦後の詩人としてはまさしくナンバーワンである。ぼくは「谷川俊太郎よりも5万倍すごい詩人」とよく言う(笑)》(引用)


上記の“ような文章”をどのように“読めば”よいのだろうか?

いちばん“正常な”反応は、“ふ~ん”と思うことである(笑)

ひとの書いた文章に、“いちいち反応して”いては、身がもたない(つまり、疲れる)

しかも<いちいちひとの文章に反応しているひとの文章を読まされるのは、もっと疲れるかもしれない>(この“文章”は自分でも満足がゆく“表現”である;笑)

ぼくは(前のブログ)Doblogのとき、谷川俊太郎の詩をしばしば引用した。
谷川の詩集を何人かのひとに、プレゼントしたこともある。

数年前、辺見庸の講演会で、辺見は谷川を激しく非難した。
当時、谷川の詩が使われていた生命保険会社のCMを非難したのだ。
それ以来、ぼくは谷川俊太郎の詩を“引用”していない。

しかし、“それ”は、辺見の怒りに深く共感したというわけではない(つまり辺見の言っていることは“ただしい”と思ったけれど)

“なんとなく”引用しなくなったのである。
しかし、谷川の“いくつかの詩”が好きであることは、まったく変わらない。

反対に、ぼくは“まど・みちお”の名を知っていても、その詩を“読んだことがない”。

だから、《戦後の詩人としてはまさしくナンバーワンである。ぼくは「谷川俊太郎よりも5万倍すごい詩人」とよく言う》と言われても、わからない。

しかも、谷川より‘まど’が、《5万倍すごい詩人》かどうかを“検証する”ために、‘まど’を読んでみようとも思わない。

まったく、困ったこと、である(笑)

そもそもこの“中学先生”のブログとは、Doblogの時に係わりがあった、このgooになってからも、一度コメントをもらったと思う。
それで、ときどき、彼のブログを見るのである。

そして、“ぼくの偏見”によると、このひとは“まじめで熱心な先生”ではあるが、このひとの<趣味>(おもに“音楽”)というのは、ぼくにはまったく“感傷的”に思えるのである。

“だから”ぼくには、彼の“詩の評価”も信頼できない。

けれども‘まど・みちお’の詩が、‘谷川俊太郎’の詩より“感傷的でない”可能性もあるのである。

けっきょく、自分が好きなものは、たんに好きなのである。

だれがなんと言おうと、好きなのである(笑)

ただこの場合、“問題”なのは、まず、そのことを知っているか(自覚しているか)である。

つぎに、“多くの人が好なものを、私は好きである”という“好き方”である(笑)

つぎに、“私が好きなものは、多くの人が好きになるはずだ”という予断である。

さて、“ひさしぶりに”、谷川の詩を引用しようではないか!;

あなたは二匹の
うずくまる猫を憶えていて
私はすり減った石の
階段を憶えている

もう決して戻ってこないという
その事でその日は永遠へ近づき
それが私たちを傷つける
夢よりももっととらえ難い一日

その日と同じように今日
雲が動き陽がかげる
どんなに愛しても
足りなかった

<谷川俊太郎 “時”― 『手紙』(集英社1984)の最初にある)




さて、Amazonから今、昨日注文した本が届く。

はじめてよむひと、細見和之『「戦後」の思想』(白水社2009)である。

谷川を読まずに、この本を読む(笑)





焦点が合わないカメラと読むことができない本

2010-07-20 09:55:11 | 日記


だいぶ前に読んだフーコーについての解説本で、“フーコーの悪夢”について読んだことを思い出した。

“うろおぼえ”なのだが、フーコーが本を読もうとすると、印刷された活字がバラバラになってくる、というような夢である。

実はぼくはもともと近眼で、近眼のひとなら皆知っているだろうが、近眼のひとが老眼になると、いろいろ視力が混乱するのである。
ぼくも二つの眼鏡を使い分けることによって対処してきたのだが、今年に入ってこのバランスもくずれた。

ちゃんと検眼し、眼鏡を(レンズを)変えなければならないのだろうが、そうしたところで、どれだけ改善するか心許ない。
おっくうだし、おカネもない(笑)

とくに、このパソコン画面の字を読むのがシンドイ。
なにより眼に悪いのは、このブログに“引用”するために打ち込むことである。
ぼくは引用については、一字一句、誤入力しないように、画面を見つめる(それでも誤入力はあるだろう)

ときどき、“なんでこんな労力(眼への負担)をかけて入力しているのか?”という疑問がわくのである。
だれも読んでいないかもしれないのに。

つまり“ぼくのブログ”にアクセスする人だって、ぱぱぱっと“見て”、よっぽど自分に関心がある“テーマ”でなければ、引用まで読まない。

ぼくだって、“ひとのブログ”を、最初から最後までキチンと読んでいるわけでもない。

しかも、当然、<引用>というのは、一冊の本の、ほんの一部なのだ。
本を書く人は、1冊の本の全体が読まれることを“期待”している。

つまり、その本が、“1冊の本”として意味があるなら(意味のある本なら)、それは、断片的<引用>を拒否している。

逆に、部分の引用とか、その本の“内容”を、箇条書きにして“しまえる”本は、有機的全体を構成していない。
さらに、“1冊の本”を書いた人が、“1冊だけ”書いたのでないなら、その人の“他の本”への参照も求められる。

たとえば、“サイード”について、自分がパレスチナ出身だから、“オリエンタリズム”に反対した人、と要約することは、たんなる“まちがい”である。

サイードは、あくまで“文学についての研究者”である。

たしかに“サイードの本”(翻訳された本)のリストのタイトルを見ると、サイードは“パレスチナ問題”ばかりを語っている人に、見える。
もちろんサイードは、“パレスチナ問題”について語った。

あるいはフーコーは、“人間の終焉”について語った。

ぼくが、昨日のブログで、<思想史>と言ったことについて、誤解をおそれる。

<思想史>とは、思考されたものの“つらなり”のレジュメではない。

“マクロに俯瞰する”ことでは、ない(そういう側面も、ある)

むしろそれは、たとえばあなたが、シモーヌ・ヴェーユのある本をたまたま読み、それに感銘を受けたなら、彼女が“思想史の文脈”のどこに位置するかを知ることだと思う。

たとえば、“そのひと”が、ヴェーユであることも、アレントであることも、フーコーであることも、サイードであることも“ある”。

ぼくはシモーヌ・ヴェーユを昔読みかけたことはあったが、読めなかった。
けれどもヴェーユを読む必要がないと思ったわけではない。
なんども言うようにぼくは、“すべて”を読めるわけではない(それは、“あなた”も同じだ)

けれども、ぼくはヴェーユの“肖像”を使った、“ゴダールの映画”は見たことがある。

そういう“切れ切れの”印象によって、おおげさに言えば、ぼくらは、世界を見ている。

世界は、そのようにして、ぼくらにやってくる。

すなわち、ぼくらは、“神の目のように”世界を包括的に“見れる”のでは、絶対にない。

昨日のブログでも書いた『社会科学をひらく』は、アカデミズム(大学)システムの“内部”での、<社会科学の再編>を提言するものであった。

そこで論じられている論点のひとつに、“特殊性と普遍性”の問題がある。

すなわち、なにが<普遍性>であるか自体が、<学の内部>でも確実ではない。

にもかかわらず、マスメディアの言説に“代表される”言説は、いつもいつも、まるで自分が<普遍的>であるかのように語っている。

結局、自分の<公共性>や<正義>を少しも疑わない。

<特殊性>としての個人の思考が、いかに<普遍性>と係わるのか、の、その<歴史>こそ<思想史>である。

<普遍性>の実現ではない。


もし、この<文脈>を見失うなら、ぼくらは、いつも焦点の合わないカメラのように、世界を見ている。





<蛇足;蛇の足>

ぼくはこのブログで“焦点の合わないカメラ”というのを比喩として使った。

そして“書いた後に”考えた。

最近のカメラは、“自動焦点(オート・フォーカス)”である!






ベイシックな認識

2010-07-19 13:38:40 | 日記

ぼくはマルクスをきちんと読んだことがないので、いまその言葉を正確に引用できないが、
マルクスはどこかで、“われわれの五感は人類史の労作である”と言っている。

マルクスの文章は(翻訳でしか読めないが)、かなりわかりづらい。
けっして、名文ではありえない(むしろ悪文であろう)
すくなくともぼくにはそうである。
しかし最近ちょっと読んでいて(長谷川宏新訳の『経済学・哲学草稿』;光文社古典新訳文庫2010)、このひとの文体は“弁証法的”なんだろうなあと思った。

悪文にもかかわらず、マルクスという人は、すぐれた“キャッチフレーズ”を発するひとであったと思う。

《世界のプロレタリアートよ、団結せよ》
《哲学者はこれまで世界を解釈してきただけだ、必要なのは、世界を変革することだ》
《人間の本質とは、個人の内面にある抽象物ではない、それは社会関係のアンサンブルである》

などなど、上記の引用は“うろ覚え”であって、原文(翻訳)に直接当っていない。
しかし、このような“フレーズ”として、ぼくの頭に残ったのである。

もういちど最初の引用にもどる;《われわれの五感は人類史の労作である》

この言葉のポイントは、<五感>と<労作>である。

すなわち、たとえば、あなたは、<感性>と<知性>をどう区別するか?

あるいは、<理性>、<感覚>、<知覚>、<感情>、<合理性>、<論理性>、<実証性>、<倫理性>、<情感>、<情念>を。

厳密にいえば、上記の<概念>を並べることに、混乱があるかもしれない(つまりぼくはわざと並べた)

しかし“厳密であること”は必要であるが、ぼくたちは、“それほど厳密でないこと”を記憶することが多い(のではないか?)

すなわち(この場合)、<五感>という言葉でマルクスが“意味したこと”は、了解できる。

それが、“人類史の労作である”ということは、ただちに了解できることではない。
だからこそ、<この言葉>が、きょうのぼくに、思い出された。

だからといって、ぼくが“マルクス主義者”になるわけではない(笑)

ぼくとしては、<思想史>(<哲学史>でも<文学史>でもなく!)を勉強したい。<注>
<文学史>が無意味とは思わないが、<文学>は、一冊の作品(本)であり、ひとりの作家である。


たとえば、そんなに新しくない本(笑);ウォーラースティン+グルベンキアン委員会による『社会科学をひらく』(藤原書店1996)>をぼくは昨日から読みはじめた。

この本は、まず<社会科学>という“学”の分類の歴史を述べるものである。

なぜ“それ”は、<歴史学>、<経済学>、<社会学>、<政治学>、<人類学>として“成立した”か?
<地理学>、<心理学>、<法律学>は、<社会科学>のなぜ“周辺”なのか。

さらに<社会科学>と<科学(自然科学)>のちがいは何か?
さらに<人文学(人文科学)>とのちがいは何か?

しかしこれらの(大学というシステムでの)<学>の分類は、“正当”であろうか?

この本のタイトル『社会学をひらく』の“ひらく”とは、原著(英語!)では、“open”である。

“オープン”という英語は、小学生でも知っている。

すなわち、“閉じられたもの”があるとき、“オープンしなければナランもの”は、たくさんある。







<注>

ぼくに<思想史>の魅力を告げたのは、スチュアート・ヒューズの現代思想史3部作とヒューズの“弟子”のマーティン・ジェイの“エッセイ”『暴力の屈折』であった。

また、まだ読み切れてない本=ミシェル・フーコー『言葉と物』(のような本)も思想史である。

前にこのブログでヒューズ3部作について書いた時、コメントで“かび臭い本”との非難があった。
しかし、このコメントを書いた人は(どこのどなたか存じませんが)、“この本”を手に取ったことさえないと、思えた。

もし<この本>が“かび臭い”なら、かび臭くない本とは何か、ぜひ指摘してほしい。

まさか“2010年に書かれた本”(2010年に発せられた言葉)でなければ、すべてかび臭いのであろうか!
あるいは、思想史が<あらゆる過去>を“あつかう”なら、それが“かび臭い”のは当然である。

あるいは、“若者の親たち”、よくわからんが、“60歳をすぎたニンゲン”は、みな“かび臭い”のであろうか(笑)

そういう“自然過程”は、自分が60歳を超えてから<批判>してほしい。

“目先しか見えない(見ない)もの”を、<無知=無恥>というのだ。

しかしぼくはヒューズ3部作や『暴力の屈折』、『言葉と物』が“完璧な本”であると言っているのではない。

また、“若者”にもおろかな人とおろかでないひとがおり、“老人”にもおろかな人とおろかでないひとがいる。
同時におろかでないひとも、ときどき、おろかになる(笑)


★ スチュアート・ヒューズ『意識と社会』(みすず書房1970、原著1958)
★ スチュアート・ヒューズ『ふさがれた道』(みすず書房1970、原著1968)
★ スチュアート・ヒューズ『大変貌』(みすず書房1978、原著1975)
★ マーティン・ジェイ『暴力の屈折』(岩波書店2004、原著2003)
★ ミシェル・フーコー『言葉と物 人文科学の考古学』(新潮社1974、原著1966)


もう1冊、むかしむかしにぼくに衝撃を与えた本(”人間の科学ゼロ年”);

★エドガール・モラン『失われた範列』(法政大学出版局・叢書ウニベルシタス1975、原著1973)



また現在日本の著作のうち、

★柄谷行人:『トランスクリティーク』や『世界史の構造』
★ 大澤真幸:『ナショナリズムの由来』、『<自由>の条件』
を、<思想史>として読むことは、もちろん可能だ。


内田隆三『国土論』は、”20世紀日本思想史”である。
この本により、ぼくは日本”戦後”思想史の新しい可能性を見た。






フリーズした世界

2010-07-19 11:37:37 | 日記


たとえば天木直人の最新ブログは、<小沢一郎よ、いまこそ立ち上がれ!>である。
内田樹ブログは、<フリーズする政治>である。
天声人語は、“海の日”の思い出が“死の海”にならないように、という。
読売編集手帳は、“国民負担”の勧めである。
あるツイッターには、《ノーラン監督は今回も期待を裏切らなかった》とある。
あるブログは、記事を更新せず、ブログタイトルを、<ホテル・ノンセックス>から<カフカ的夕暮れ>に変えている。
もうひとり、過去にぼくにかかわりがあったブログは、動物園の虎の写真に<非暴力>のタイトルをつけ、シモーヌ・ヴェーユを引用している。


もちろんぼくは上記を、“たまたま”見たのである。
いずれにも感銘を受けなかった、退屈である。

“たまたま”見たものが、退屈であるからとて、“この日本が退屈”だとか、“この世界が退屈”であるわけではない。

しかし、ぼくが“世界のすべて”を見れるわけではないのだから、いつも世界には“もっと面白いことがあるはずだ”ということも、ぼく自身には意味がない。

なぜなら、ぼくは、<ぼく>を通してしか、<世界>を感受しない(感受できない)

だから、<世界>は、ほっておけば、“フリーズ”するのだ。

フリーズしているのは、<政治>だけではない。<注>

たとえば、<フリーズした政治>を語る内田樹というひと、および、“内田樹的なもの”こそが、フリーズしているのだ。

すなわち、“売れている(人気ある)言説”がフリーズしているのだ。
たぶん村上春樹『1Q84』は、まだベストセラーを続けている。

そして“ひとりごと”が、フリーズしている。


ひしひしとこのぼくを取り巻く、“フリーズさせるもの”に、どのように<抵抗>すればよいのか。

ぼくは<現在の言説>から離脱し、<Base>の構築をめざす。




<注>

現在の”政局”(政治ではない)に対して、”フリーズしている”などという形容は不適切である。

ただどの”政党”の”政治家”も、仕事をしていない、と言えばいいだけだ。










★ 言語もまた、一個の神秘、一個の秘密である。ロドリゲス島の<英国人湾>に閉じこもって過ごしたあのように長い歳月を、祖父はただ地面に穴を掘り、自分を峡谷に導いてくれる印しを探すことだけに費やすわけではない。彼はまた一個の言語を、彼の語、彼の文法規則、彼のアルファベット、彼の記号体系でもって、本物の言語を発明する。それは話すためというよりはむしろ夢みるための言語、彼がそこで生きる決意をした不思議な世界に語りかけるための言語である。
― J・M・G・ル・クレジオ 『ロドリゲス島への旅』




モノクローム

2010-07-19 00:27:08 | 日記






★ 夜のことは覚えている。
空から光が一面の透明な滝となって、沈黙と不動の竜巻となって落ちてきた。空気は青く、手につかめた。青。空は光の輝きのあの持続的な脈動だった。夜はすべてを、見はるかすかぎり河の両岸の野原のすべてを照らしていた。毎晩毎晩が独自で、それぞれがみずからの持続の時と名づけうるものであった。夜の音は野犬の音だった。野犬は神秘に向かって吠えていた。村から村へとたがいに吠え交わし、ついには夜の空間と時間を完全に喰らいつくすのだった。
― マルグリット・デュラス 『愛人』









大男、総身に智恵がまわりかね

2010-07-18 16:13:36 | 日記


★ あらかたろくでもないことであるが、彼に関する伝説は、数かぎりなくあった。人の部屋でウイスキーを二瓶、コーラを飲むようにまたたく間に飲み干し、へべれけになり、人の部屋の押入れをあけて長々と小便したとか、コンパの帰り、新宿駅流れ解散ということでホームにそれぞれ三人、四人かたまって立っていて、彼の意中の女の子が電車に乗ってしまうと、突然、彼は何を思いついたのか、走り出した電車の窓にとりすがり、電車を止めてしまったとか。

★ 大男、総身に智恵がまわりかね、とは、大男が薄のろというのではなく、その大きな身体をもてあまし制御できかねているということだろう。大男とは、体力と生命力がありすぎる者のことでもあると言って良い。

★ 彼は電車の窓にとりすがり、電車を止めて、それでその女と結婚した。女との間に娘二人が出来、女の両親とローンの返済を折半することにして、手狭まになった借家を払い、東京の郊外の建て売りに移った。そこで娘二人と女、その両親と、合計六人で住んだ。
夫婦喧嘩と呼べるようなものではなかった。が、彼は一人暴れまわり、工務店がつけたいかにも当世マイホームのインテリアという感じの、応接間につけてあるシャンデリアをたたき割り、冷蔵庫をぶん投げ、応接セットを壊した。酔っていたのだった。女は彼に殴られ、ボロ雑巾のようになって隅にうずくまり、泣くことも出来ずにいた。

★ もう疲れた、けっして顔も見たくない声も聞きたくないと思わないまでも、もういや、別れる、と言う女との間に仲人夫婦がはいり、その仲介で、ひとまず別居し、彼は会社に休暇願いを出し、故郷である熊野に戻った。

★ 彼は、修験僧のように熊野の山中を歩きまわった。杉木立の根方に眼をこらすと微かに残っている道をさがしながら、蝉の幾重にも入り混った鳴き声の他なにもない山中を、ただ歩いた。光は、頭上に茂った杉の梢で遮ぎられ、ところどころに木洩れ陽だけを残しているばかりだった。その時彼はいったいなにを考えていたのだろう、いや考えることなどなにもない。ただただ心を空ろにしようと、自分の吐く息の音と波をうつ蝉の鳴き声をきているだけだった。

<中上健次“修験”―『化粧』(講談社文芸文庫1993)>





タルコフスキーの思い出-B

2010-07-18 12:25:19 | 日記


妹マリーナさんは語る;

(貧乏について)

★ あの頃は誰もが生活が苦しかったので、私たちが特別貧しいとは思いませんでした。兄は読書家でした。父が残していった書物もあり、母はいつも私たちのために図書館から本を借りてきてくれました。母は子供たちはロシアだけでなく世界の文学を学ぶべきだと思っていました。コンサートにはよく行きました。

★ でも本当は生活はとても苦しかったのです。ある日、母が友人の家を訪問した時、その友人は母が下着をつけていないことに気づいたんです。「まあ、はだかの上に洋服を着てるの」って言われて、母は「そんなことはどうでもいいのよ。下着のかわりに、来年度分のコンサートの切符を買ったわ」と言ったのです。

★ でも本当に貧乏で、たまには駅前に立って花売りもしました。月曜から金曜まで働いて、土曜、日曜は郊外で花を集めて駅前で売ったのです。母は大学で文学を学んだ教養ある人間だったのですが、はずかしがったりはしませんでした。私たちも手伝いました。兄はえぞ桜の木に登って枝を折ったりしていました。映画「サクリファイス」の制作の時、マリアの家の前に兄はえぞ桜の木を植えるように言いました。そして暗闇で白い花が花嫁のように白く光るようにと注文したのです。えぞ桜は兄にとって、純潔のシンボルだったのです。でもその願いはかなわず、映画は桜の木なしで撮影されました。


(家を去った父)

★ 父が去ったのは1936年、アンドレイが4歳、私が2歳の時でした。それは一生の深い傷となりました。(略)父は兄アンドレイにとって「父という人間」というよりもなにか大きな「現象」、「世界」そのものだったのです。

★ 父は、たまにこの家にやって来ました。特に誕生日には必ずやって来ました。(略)
  この建物の廊下は木でできていたのですが、父が来る日、戦争でケガをして松葉杖をついていた父のコツコツという足音が聞えるのを、私と兄は、今か今かと持っていました。

★ 父は変わった人間でした。(略)たとえば、子供の物を買うお金を持って出かけて、途中の骨董屋で素敵な花瓶を見つけると、それを買ってしまうような人でした。


(離婚について)

★ 兄は、自分の子供を妻に残して、離婚した時にひどく苦しみました。私は、兄が自分自身、あれだけ苦しんだ父の不在というおなじ苦しみを、なぜ自分の子供にも味わわせたのかわかりません。

★ 5年間も、最初の家庭と、次ぎの家庭の間とを揺れ動いていたのです。その苦しみは映画「鏡」にも表現されています。それは「良心の痛み」というものです。それは映画「惑星ソラリス」にも顔を出しています。


(“スチリャーガ”について)

★ 1948年にソビエトでは、西側の影響をうけたひとつの流れが当時の若者を熱狂させました。人々は、その流行にのった若者を「スチリャーガ」と呼びました。現在ではそれは、若者の社会への反抗とみなされています。その反抗とは、すべての人が同じような服を着、同じ髪型をし、そして同じ考えを待たなくてはいけないという灰色の社会に対してのものです。若者はその共産主義的な退屈さに耐えきれなくなったのです。

★ 当時、兄は明るい反面、突然自分の内に閉じこもってしまうところがありました。何を考えているのか全然わからなくなり、空を見つめてまるで死んだようにじっとしているのです。「兄さん」と呼ぶと、びくっとして我に返ります。(略)一番ひどいのは恋をしている時でした。
  兄はいつも美しい女性に恋をしていました。

<馬場朝子編『タルコフスキー 若き日、亡命、そして死』(青土社1997)>





*画像は、タルコフスキー「惑星ソラリス」







“hiro.t”さんへの手紙

2010-07-17 09:06:49 | 日記


ぼくの先日のブログ<”権力に対して真実を語る”>について、hiro.tさんからコメントをいただいた;


Unknown (hiro.t) 2010-07-17 00:58:29

Warmgun様

こんばんわ

最近読み終えた本で「ブッダのことば」の中の
物語からかいつまんでまとめますとブッダの弟子の中に邪悪なる存在に対する問いとその問いに対するブッダの回答文がありますがブッダは弟子の3回にわたる問いに対して「邪悪なように見えるが決して
そうじゃない、相手を信じてあげなさい」と3回
明確にその疑いの心を諫めております。

結果的にその弟子はブッダの忠告に同意せず無間地獄に落ちたとのことです。私はこの物語を読んだときすぐイスラエル事が思い出されました

この事は「信頼」と「疑い」についてひとつの見識
と言えるのではないでしょうか。さあ私たちはいか
に対処すべきなのでしょうか。
(以上引用)



hiro.tさま

“信頼”と“疑い”ですか。

まさに<問題>です。

ぼくは“世界を肯定する”というふうに問題を立てます。

たとえば、<疑う>ということには、悪い面と良い面があります。
“疑心暗鬼”という言葉があります。

しかし“疑う”ことが、西洋において<近代>の開始(デカルト)であったことも事実です。

この“西欧近代”に対して、<東洋>に位置する“われわれ”が<疑う>こともできます。
しかし、<日本>は、明治以降、徹底的に“近代化-西洋化”の道を歩んできました。
このことを、ぼくは<混血>(ロックンロール・ニガー)と呼んだのです。

たとえばぼくは、“J-POP”より、ビートルズが好きです。

“西洋原理”が唯一の普遍性でないことは、たとえばサイードが<オリエンタリズム>として探究したことです。

しかしサイードが、カッコつきで“われわれの世界”というときの“われわれ”は、サイードが“アメリカ人として”自己形成し、その世界でキャリアを築いたことを意味します。

すなわち、“われわれ”は、もはや“西洋原理”を規範とするのではなく、逆にその“カウンター”である、“東洋原理”に回帰するのでもない。

目指されるのは、“あらたな普遍性”です。
それは、“歴史的な差異”の具体性を認識することによって、可能です。

差異に敏感でない、“ヒューマニズム”も“ナショナリズム”も、無効です。
(差異を認識することは、“事象そのもの”の具体性をあきらかにすることです)

“われわれ”は、混血であるからこそ、この“差異”に敏感になれる。

そして“この世界”を愛するからこそ、この世界を肯定したいからこそ、この世界を疑い、<批判>するのです。

ぼくは、“マルクス主義者”ではありませんが、マルクスが考えたことで魅力的なのは、“世界のプロレタリアートの団結”を訴えたことです。

すなわち、“プロレタリアート”とは、イスラエルの<人民>、北朝鮮や中国の(あるいはアメリカの)人民のことです、日本の人民のことです。<注>

<国家>と国家にしかアイデンティティを持たない人々が<戦争>するとき、“人民の連帯による平和”を実現しようとするひとびとです。

まさに“マルクス主義インターナショナル”は、第2次世界大戦へ雪崩を打って突入するとき、この<連帯>あっさり放棄し、“ナショナリズム”に奔走したのです。

ぼくたちの時代=戦後は、そこから始まったと認識しています。

しかしぼくの関心は、こういう“いわゆる”政治的次元にあるわけではありません。

ぼくの最終的関心は、哲学や科学と呼ばれるものにも、ありません。

ぼくに関心があるのは、<文学>や<芸術>と“呼ばれる”領域にあります。

つまり、この世界の中での、個人の<表出>に、です。






<注>

ぼくが考える“プロレタリアート”とは、“労働者”でも“抑圧された人々”でも“善良な人々”でもない。

世界(自然-他者-社会)に直面し、関係し、この世界の固定観念を変更する認識を持つことが可能な人々のことだ、そのような<生>だ。




タルコフスキーの思い出

2010-07-16 01:36:03 | 日記


馬場朝子編による『タルコフスキー 若き日、亡命、そして死』(青土社1997)を入手した。

この本は1996年5月にNHK教育テレビ「未来潮流」で放映された「タルコフスキー その初まりへの旅」にともなうものだが、ぼくはこの番組を見損なっている(つまりそういう番組がつくられたことを知らなかった)

最初にタルコフスキーの妹のマレーナさんの証言がある(タルコフスキーは1931年モスクワ郊外の小さな町ユリエベッソで生まれた);

★ そして忘れられないのは、河の光と香り。河を流れる木材の湿った香り、空を飛ぶカモメの鳴き声は格別なものでした。

★ そして待ちわびた春に続く短い夏の夕立と雷。家の前の大きな木の枝が強風でゆれて、その葉の動きがまるで人間が手で顔をおおうように見えたものです。映画「惑星ソラリス」で、クリスが宇宙へ出かける前の父と子の会話シーンでバックに雷が響きます。兄にとっては雷は我々が住む大地のシンボルだったのです。それはここで兄が発見したものでした。

★ 兄にとって子供時代は最も大切なものでした。兄の映画のすべてに子供が登場します。「子供」というテーマが好きで、子供時代がその人の性格を決定すると言っていました。子供の目というのは、すべてを観察し、記憶に打ち込んでしまうものです。そして普通の人はそれを記憶の底に沈め忘れていきますが、兄はそれを自分の作品に再生させていったのです。

★ 兄にとって「家」というテーマも大切なものでした。いつも借り住まいだったことが「家」への思いを強くしていました。そして家の中の小さな道具、アルコールランプや、水差しなど、そんな小さなものが兄の映画の大切な要素なのです。兄は、生活の中の「普通のもの」を映画の「シンボル」にしてしまいます。






*画像はタルコフスキー「鏡」