<再録:21世紀へようこそ Welcome to the Machine 09/10/28>
現在、2009年も末に向かい、21世紀になって10年近くが経過しようとしている。
にもかかわらず(笑)、21世紀が“なんであるか”を理解しているひとが少ないように見受けられる。
またしても“おせっかい”(つまり“ある意味知ったこっちゃないんだけど”)であるが、21世紀になってから“書かれた言葉”のサンプルを、“新書”として出版された本からピックアップしてみよう(1冊だけ“文庫”である)
もちろんこれらの引用は、“断片”である。
その本の“核心”がその引用部分にあるという“確信”をもって引用しているわけでもない。
ぼくとしては、これらの引用個所に少しでも“ひっかかる”なら、これらの新書は1000円以下であるので、あなたが、購入して読むことを期待する。
なお、著者の生まれた年を著者名の後にカッコで記入し、引用をこの著者の生年順とした;
★ 徳永恂(1928):『現代思想の断層』(岩波新書2009);
私たちは天使ではない。「歴史の天使」としてではなく、歴史の中にいる人間として、私たちは歴史を振り返る。そこに見えてくるのは、たんなる事実の集積ではなく、また鳥瞰図でもない。一見、廃墟と見える20世紀の景色の中に、私たちは縦横に走る幾筋もの活断層と、たとえ行く末は涸れて消えかかっていようとも、幾筋もの水脈を見ることができる。
★ 見田宗介(1937):『社会学入門』(岩波新書2006);
それでも「愛」や「闘争」というものは、あることをぼくたちは確信している。どこにあるか、というと、心臓(ハート)にあるわけではなく、大脳皮質とか脳幹のどこかにあるわけでもなく、人と人との間にあるのです。間といっても前方50センチの所とかいうことではなく、正確にいうと、人間と人間との関係としてあるのです。
★ 柄谷行人(1941):『世界共和国へ』(岩波新書2006);
私が本書で考えたいのは、資本=ネーション=国家を超える道筋、いいかえれば「世界共和国」に至る道筋です。しかし、そのためには、資本、ネーション、国家がいかにして存在するのかを明らかにする必要があります。資本、ネーション、国家はそれぞれ、簡単に否定できないような根拠をもっているのです。それらを揚棄しようとするのであれば、まずそれらが何であるかを認識しなければならない。たんにそれらを否定するだけでは、何にもなりません。結果的に、資本や国家の現実性を承認するほかなくなり、そのあげくに、「理念」を嘲笑するに至るだけです。
★ 内田隆三(1949):『社会学を学ぶ』(ちくま新書2005);
社会記述の方法にかんして、ベンヤミンの方法は示唆的なものを含んでいる。ひとついには、彼が群集なるものを社会秩序や理性の立場から外在的、批判的に眺めるのではなく、むしろ内在的な仕方で、歴史的な生の様態として、また同時にメディアや技術に媒介された経験の構造として分析したからである。もうひとつには、システムの概念やそれが導入する予断――物事の可能性の条件を確定しようとする超越論的な思考――に依拠しなかったからである。それは彼が自分の「運命」を生きていくなかで、歴史の現在や時間に対する関心と考察を深めていったからでもある。そこにはシステム論的な単位としての社会(の同一性)に準拠する確定的な記述とは異なり、さまざまなテクストの引用からなる「蓋然性の空間」が記述されている。人間の生の諸形象が星座をなしてたわむれる不確定な場がそこに浮かびあがってくるのである。
★ 徐京植(1951):『ディアスポラ紀行』(岩波新書2005);
マジョリティ(多数者)の大半は「先祖伝来の土地、言語、文化によって構成された共同体」という堅固な観念に安住している。そうしている限り、マジョリティたちにはマイノリティの真の姿は見えず、真の声を聴き取ることもできないであろう。
固定され安定しているように見える対象も、それを見る側が不安定に動いていれば別の見え方をする。マジョリティたちが固定的で安定的と思い込んでいる事物や観念が、実際には流動的であり不安定なものであるということが、マイノリティの目からは見える。
★ 小森陽一(1953):『村上春樹論』(平凡社新書2006);
逆に、言葉を操る生きものとして、他者への共感を創り出していきたいと思うなら、私たちは怯えることなく、精神的外傷(トラウマ)と繰り返し向かい合いながら、死者たちとの対話を持続していくべきでしょう。死者と十分に対話してきた者であれば、生きている他者と向かい合って交わすことができる、豊かな言葉を持ちうるはずです。豊かな言葉は、死者と対話しつづけてきた記憶の総体から産まれて出てくるのです。漢字文化圏における「文学」という二字熟語は、漢字で書かれた死者たちの言葉すべてについての学問のことです。21世紀こそ、「文学」の時代として開いていくべきなのだと思います。
★ 岡田温司(1954):『処女懐胎』(中公新書2007);
その女性の名前を知らない人はいない。だが、その女性ほど神秘と謎に満ちた存在もおそらくないだろう。処女にして神の子イエスを宿したとされる不思議な女性。そもそも聖母マリアとは何者で、なぜ処女でありながら妊娠したとされるのだろうか。もとより、人工授精などもありえない時代に。誰もが幼い頃に懐いたであろう素朴な疑問――身に覚えがあるはず――から、わたしたちの話を始めることにしよう。「赤ん坊はどうやってできて、どこから来たの?」と。
★吉見俊哉(1957):『ポスト戦後社会』(岩波新書2009);
都市空間の面で「夢」の時代を象徴したのが、1958年に完成した東京タワーであったとするならば、「虚構」の時代を象徴するのは、間違いなく83年に開園した東京ディズニーランドである。
そして、東京タワーに集団就職で上京したての頃に上り、眼下のプリンスホテルの芝生やプールのまばゆさを脳裏に焼き付けていた永山則夫は、68年秋、そのプールサイドに侵入したのをガードマンに見つかったところから連続ピストル射殺事件を起こしていく。永山の犯罪は、「夢」の時代の陰画、大衆的な「夢」の実現から排除された者の「夢」破れての軌跡の結末であった。これに対し、この事件の20年後に起きた宮崎勤による連続幼女誘拐殺人事件では、殺人そのものが現実的な回路が失われた「虚構」の感覚のなかで実行されている。
★ 大澤真幸(1958):『逆接の民主主義』(角川Oneテーマ新書2008);
しかしグローバル化を受け入れながら、われわれは皆、他方では、それが、根本的な困難を抱え込んでいることを、半ば意識的に、半ば無意識のうちに知ってもいるのだ。たとえば、地球環境への破壊的なダメージということを考慮に入れてみたらどうであろうか。グローバル化は地獄への道に見えてくる。われわれは、この道がそれほど遠くない将来、地獄へたどり着くことを知っているのに、これしか道がないと思って歩いているのである。(略)
このとき真に求められているものは何か。個別の要求ではなく、普遍的な要求、社会の普遍的な構想を含んだオールタナティヴ(選択枝)ではないか。行政的な選択ではなく、(社会体制の全体としての改変に関わるという意味での)真に政治的な選択ではないか。要するに、<ユートピア>を指向した選択ではないか。(略)
つまり、それは、グローバル化に普遍化を対置する試みである。
★ 福岡伸一(1959):『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書2009);
時間が止まっている時、そこに見えるのはなんだろうか。そこに見えるのは、本来、動的であったものが、あたかも静的なものであるかのようにフリーズされた、無惨な姿である。それはある種の幻でもある。私たち生物学者はずっと生命現象をそのような操作によって見極めようとしてきた。それしか対象を解析するすべがなかったからである。
★ 郡司ペギオ-幸夫(1959):『生きていることの科学』(講談社現代新書2006);
このような物語が、ホンネと建て前のダブルスタンダードに回収される理由は、モノそれ自体もしくは、マテリアル概念の不在にあると思います。現実世界なんてよくわからないのに、自分の自由にならなさ加減を、簡単に世界の実在で説明づけようとする。こうして素朴な実在論を手にいれる。まさに通常、大人になることって、こう理解されているのではないでしょうか。しかし素朴実在論(認識されたモノは実在すると考えること)は、あまりに早急で、あまりに単純なモデルです。自由に振る舞おうとする私と、それを許さない外部=世界との微妙な関係、すなわち、互いに通訳不可能であるのに、どうやって調停されるか、といった問題は、何も理解されないままです。二つが共立するということ、両者が場合によっては矛盾するにもかかわらず同時にそこにある、という様相が、決して理解されません。だから二つは、各時点でいずれか一方のみが存在し、使われることになる。都合に合わせて適宜使い分けられる。共立ではなく、使い分け、それがダブルスタンダードの本質です。なぜそうなるのか。まさに媒介するもの、マテリアルの欠如によるのです。
★ 青山真治(1964):『ホテル・クロニクルズ』(講談社文庫2008)
気がつくと、運命から切り離されたエメラルド色の蜥蜴へと三たび姿を変えていた。開きっぱなしのその瞳孔は、何万回目かの雨が砂浜にどっと降りつけるのを、灌木の枝間から動くことなく見つめている。雨はやがて琥珀となるだろう。
もうどこへも行かないし、砂浜には誰もいない。
<追記;環境と人間>
今日(09/11/30)の“天声人語:11月の人と言葉”は、“100歳で他界した人類学の泰斗、フランスのレビストロースさん”の言葉を引用している(“レビストロース”というひとはいない、レヴィ=ストロースである);
《名著『悲しき熱帯』を翻訳した東京外大名誉教授の川田順造さん(75)は「先生の言葉で心にしみているのは『世界は人間なしに始まったし、人間なしにおわるだろう』という一節です」。人間のおごりを静かに戒める言葉である、と》
《世界は人間なしに始まったし、人間なしにおわるだろう》
“人間のおごり”を、反省すべきなのは、この天声人語の書き手ではないだろうか。
あるいは、レヴィ=ストロースのような<言葉>を、真摯に受け取ることが決してない、われわれが日々発している愚劣な言葉の群れではないだろうか。
今日も言葉は殺到し、ぼくたちはこの言葉の海でおぼれる。
その泡のような言葉で、ぼくたちは、窒息寸前である。
言葉を選び、考え・感じる時である。
映画を選び、考え・感じる時である。
音楽を選び、考え・感じる時である。