Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

音楽の自由

2009-11-28 07:55:49 | 日記





<再録:21世紀へようこそ Welcome to the Machine 09/10/28>

現在、2009年も末に向かい、21世紀になって10年近くが経過しようとしている。
にもかかわらず(笑)、21世紀が“なんであるか”を理解しているひとが少ないように見受けられる。

またしても“おせっかい”(つまり“ある意味知ったこっちゃないんだけど”)であるが、21世紀になってから“書かれた言葉”のサンプルを、“新書”として出版された本からピックアップしてみよう(1冊だけ“文庫”である)

もちろんこれらの引用は、“断片”である。
その本の“核心”がその引用部分にあるという“確信”をもって引用しているわけでもない。
ぼくとしては、これらの引用個所に少しでも“ひっかかる”なら、これらの新書は1000円以下であるので、あなたが、購入して読むことを期待する。

なお、著者の生まれた年を著者名の後にカッコで記入し、引用をこの著者の生年順とした;

★ 徳永恂(1928):『現代思想の断層』(岩波新書2009);
私たちは天使ではない。「歴史の天使」としてではなく、歴史の中にいる人間として、私たちは歴史を振り返る。そこに見えてくるのは、たんなる事実の集積ではなく、また鳥瞰図でもない。一見、廃墟と見える20世紀の景色の中に、私たちは縦横に走る幾筋もの活断層と、たとえ行く末は涸れて消えかかっていようとも、幾筋もの水脈を見ることができる。


★ 見田宗介(1937):『社会学入門』(岩波新書2006);
それでも「愛」や「闘争」というものは、あることをぼくたちは確信している。どこにあるか、というと、心臓(ハート)にあるわけではなく、大脳皮質とか脳幹のどこかにあるわけでもなく、人と人との間にあるのです。間といっても前方50センチの所とかいうことではなく、正確にいうと、人間と人間との関係としてあるのです。


★ 柄谷行人(1941):『世界共和国へ』(岩波新書2006);
私が本書で考えたいのは、資本=ネーション=国家を超える道筋、いいかえれば「世界共和国」に至る道筋です。しかし、そのためには、資本、ネーション、国家がいかにして存在するのかを明らかにする必要があります。資本、ネーション、国家はそれぞれ、簡単に否定できないような根拠をもっているのです。それらを揚棄しようとするのであれば、まずそれらが何であるかを認識しなければならない。たんにそれらを否定するだけでは、何にもなりません。結果的に、資本や国家の現実性を承認するほかなくなり、そのあげくに、「理念」を嘲笑するに至るだけです。


★ 内田隆三(1949):『社会学を学ぶ』(ちくま新書2005);
社会記述の方法にかんして、ベンヤミンの方法は示唆的なものを含んでいる。ひとついには、彼が群集なるものを社会秩序や理性の立場から外在的、批判的に眺めるのではなく、むしろ内在的な仕方で、歴史的な生の様態として、また同時にメディアや技術に媒介された経験の構造として分析したからである。もうひとつには、システムの概念やそれが導入する予断――物事の可能性の条件を確定しようとする超越論的な思考――に依拠しなかったからである。それは彼が自分の「運命」を生きていくなかで、歴史の現在や時間に対する関心と考察を深めていったからでもある。そこにはシステム論的な単位としての社会(の同一性)に準拠する確定的な記述とは異なり、さまざまなテクストの引用からなる「蓋然性の空間」が記述されている。人間の生の諸形象が星座をなしてたわむれる不確定な場がそこに浮かびあがってくるのである。


★ 徐京植(1951):『ディアスポラ紀行』(岩波新書2005);
マジョリティ(多数者)の大半は「先祖伝来の土地、言語、文化によって構成された共同体」という堅固な観念に安住している。そうしている限り、マジョリティたちにはマイノリティの真の姿は見えず、真の声を聴き取ることもできないであろう。
固定され安定しているように見える対象も、それを見る側が不安定に動いていれば別の見え方をする。マジョリティたちが固定的で安定的と思い込んでいる事物や観念が、実際には流動的であり不安定なものであるということが、マイノリティの目からは見える。


★ 小森陽一(1953):『村上春樹論』(平凡社新書2006);
逆に、言葉を操る生きものとして、他者への共感を創り出していきたいと思うなら、私たちは怯えることなく、精神的外傷(トラウマ)と繰り返し向かい合いながら、死者たちとの対話を持続していくべきでしょう。死者と十分に対話してきた者であれば、生きている他者と向かい合って交わすことができる、豊かな言葉を持ちうるはずです。豊かな言葉は、死者と対話しつづけてきた記憶の総体から産まれて出てくるのです。漢字文化圏における「文学」という二字熟語は、漢字で書かれた死者たちの言葉すべてについての学問のことです。21世紀こそ、「文学」の時代として開いていくべきなのだと思います。


★ 岡田温司(1954):『処女懐胎』(中公新書2007);
その女性の名前を知らない人はいない。だが、その女性ほど神秘と謎に満ちた存在もおそらくないだろう。処女にして神の子イエスを宿したとされる不思議な女性。そもそも聖母マリアとは何者で、なぜ処女でありながら妊娠したとされるのだろうか。もとより、人工授精などもありえない時代に。誰もが幼い頃に懐いたであろう素朴な疑問――身に覚えがあるはず――から、わたしたちの話を始めることにしよう。「赤ん坊はどうやってできて、どこから来たの?」と。


★吉見俊哉(1957):『ポスト戦後社会』(岩波新書2009);
都市空間の面で「夢」の時代を象徴したのが、1958年に完成した東京タワーであったとするならば、「虚構」の時代を象徴するのは、間違いなく83年に開園した東京ディズニーランドである。
そして、東京タワーに集団就職で上京したての頃に上り、眼下のプリンスホテルの芝生やプールのまばゆさを脳裏に焼き付けていた永山則夫は、68年秋、そのプールサイドに侵入したのをガードマンに見つかったところから連続ピストル射殺事件を起こしていく。永山の犯罪は、「夢」の時代の陰画、大衆的な「夢」の実現から排除された者の「夢」破れての軌跡の結末であった。これに対し、この事件の20年後に起きた宮崎勤による連続幼女誘拐殺人事件では、殺人そのものが現実的な回路が失われた「虚構」の感覚のなかで実行されている。


★ 大澤真幸(1958):『逆接の民主主義』(角川Oneテーマ新書2008);
しかしグローバル化を受け入れながら、われわれは皆、他方では、それが、根本的な困難を抱え込んでいることを、半ば意識的に、半ば無意識のうちに知ってもいるのだ。たとえば、地球環境への破壊的なダメージということを考慮に入れてみたらどうであろうか。グローバル化は地獄への道に見えてくる。われわれは、この道がそれほど遠くない将来、地獄へたどり着くことを知っているのに、これしか道がないと思って歩いているのである。(略)
このとき真に求められているものは何か。個別の要求ではなく、普遍的な要求、社会の普遍的な構想を含んだオールタナティヴ(選択枝)ではないか。行政的な選択ではなく、(社会体制の全体としての改変に関わるという意味での)真に政治的な選択ではないか。要するに、<ユートピア>を指向した選択ではないか。(略)
つまり、それは、グローバル化に普遍化を対置する試みである。


★ 福岡伸一(1959):『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書2009);
時間が止まっている時、そこに見えるのはなんだろうか。そこに見えるのは、本来、動的であったものが、あたかも静的なものであるかのようにフリーズされた、無惨な姿である。それはある種の幻でもある。私たち生物学者はずっと生命現象をそのような操作によって見極めようとしてきた。それしか対象を解析するすべがなかったからである。


★ 郡司ペギオ-幸夫(1959):『生きていることの科学』(講談社現代新書2006);
このような物語が、ホンネと建て前のダブルスタンダードに回収される理由は、モノそれ自体もしくは、マテリアル概念の不在にあると思います。現実世界なんてよくわからないのに、自分の自由にならなさ加減を、簡単に世界の実在で説明づけようとする。こうして素朴な実在論を手にいれる。まさに通常、大人になることって、こう理解されているのではないでしょうか。しかし素朴実在論(認識されたモノは実在すると考えること)は、あまりに早急で、あまりに単純なモデルです。自由に振る舞おうとする私と、それを許さない外部=世界との微妙な関係、すなわち、互いに通訳不可能であるのに、どうやって調停されるか、といった問題は、何も理解されないままです。二つが共立するということ、両者が場合によっては矛盾するにもかかわらず同時にそこにある、という様相が、決して理解されません。だから二つは、各時点でいずれか一方のみが存在し、使われることになる。都合に合わせて適宜使い分けられる。共立ではなく、使い分け、それがダブルスタンダードの本質です。なぜそうなるのか。まさに媒介するもの、マテリアルの欠如によるのです。


★ 青山真治(1964):『ホテル・クロニクルズ』(講談社文庫2008)
気がつくと、運命から切り離されたエメラルド色の蜥蜴へと三たび姿を変えていた。開きっぱなしのその瞳孔は、何万回目かの雨が砂浜にどっと降りつけるのを、灌木の枝間から動くことなく見つめている。雨はやがて琥珀となるだろう。
もうどこへも行かないし、砂浜には誰もいない。




<追記;環境と人間>

今日(09/11/30)の“天声人語:11月の人と言葉”は、“100歳で他界した人類学の泰斗、フランスのレビストロースさん”の言葉を引用している(“レビストロース”というひとはいない、レヴィ=ストロースである);

《名著『悲しき熱帯』を翻訳した東京外大名誉教授の川田順造さん(75)は「先生の言葉で心にしみているのは『世界は人間なしに始まったし、人間なしにおわるだろう』という一節です」。人間のおごりを静かに戒める言葉である、と》

《世界は人間なしに始まったし、人間なしにおわるだろう》

“人間のおごり”を、反省すべきなのは、この天声人語の書き手ではないだろうか。
あるいは、レヴィ=ストロースのような<言葉>を、真摯に受け取ることが決してない、われわれが日々発している愚劣な言葉の群れではないだろうか。

今日も言葉は殺到し、ぼくたちはこの言葉の海でおぼれる。
その泡のような言葉で、ぼくたちは、窒息寸前である。

言葉を選び、考え・感じる時である。

映画を選び、考え・感じる時である。

音楽を選び、考え・感じる時である。




エグザイル;本当の日記;航海日誌;“ストラッグル・フォア・イグジスタンス”

2009-11-19 13:00:53 | 日記

この8月に(2009年8月に)、ぼくはこのブログをやめて、“本当の日記”(すなわち公開しない自分だけの“ための”日記“を書こうとした。

<航海日誌>と名づけた。

しかし、その時は、すぐブログに復帰したので(なぜだったのだろう?)、航海日誌は“三日坊主”となった。
現在、また<それ>を試みようと思う。

それでその“3日間”の日記を今読み返した(それ以来はじめて読んだ)
この航海日誌とぼくの<ブログ>には、あんまり“差異”がないかもしれない。
しかし、たぶん、差異があるとすれば、“説明していない”ことだと思う(ぼくはそういう<ブログ>=“説明しないブログ”も書いたが)

しばらく<このブログ>を中断するにあたり、この<非公開航海日誌>を公開する。
おどろくべき<極私的>なことが書いてあるわけではない(笑)

そういう意味では“期待はずれ”であろう。
しかし、少しでも<ぼく>に関心をもってきてくださった方々には、この航海日誌を読んでいただきたい。

ぼくの<ブログ>が現れなくても、ぼくが日々<航海日誌>を書き続けていることを<想像>していただきたい。
もちろん今後の航海日誌は、この<8月の日誌>の認識を超えるために持続する。

このブログが更新されないあいだ、以下の言葉を、読んでくださることを望む;



航海日誌09-08-02

★ 航海日誌を8月からはじめるのは、よい。

★宇波彰『書評の思想』に書評されていた本に、“日本は海からつくられた”ということを書いた本が2冊あった。

★ 理想がなければ現実認識はない(理想からフィードバックする)

★ 物理学的基本法則があるように、人間の関係についても法則はある。

★ それは(当然)物理法則にちかい。
すなわち“力と力の関係(支配-被支配の関係)”である。
男女関係を見ればよくわかる。

★ “リアルな認識”というのは、“私は下世話な人間です”と“言う”ことではない。

★ 互いが下世話であることによる“共感”(お笑い世界)

★ アメリカの退廃とキリスト教とユダヤ人の“関係”。

★ 荒野のイメージと、出現する都市と、都市を歩く人々のフィーリング。
海は?

★ ひとは自分の“分”に合わせたものしか理解できない。
しかし自分よりすぐれたものを理解することがあるように思えるのは、なぜか。

★ 風景-自然(映画)
ぼくたちが今見ているのは、すべて、人工的な自然-風景なのだ。

★ “ヒューマニティ”という感覚の、変質は、“どこから”おこったのか?

★ なぜ“家族”ではなくて“家族主義”なのか。
  もちろん、“それ”を掲げなければ、やっていけないほど“家族の自然性”が破壊されたから。
  しかし、それなら“家族の自然性”とはなにか?

★ ほんとうに“すべては言葉”なのだろうか。
“言葉”でないものは、ないのだろうか。


★ いつも“些細なこと”が、そのひとの息の根を止める。

★ “持ちこたえるために”、やはり“イメージ”が必要なのだ。
   砂漠、荒野、海、小雨の街路。
   半端な場所はだめだ。
   この意気阻喪させる郊外、この“都会”。
   東村山、新宿、渋谷。
   音楽と映画と本で風景に出会う。

★ 啓蒙しない、解説しない、説明しない。
しかしすばらしい“ガイド”はいる。

★ 『大江健三郎 作家自身を語る』(2006年のインタビュー)
1944年、大江小学4年生のとき、父を亡くす;

嵐が多い年、とくに秋の台風の季節には毎週のように大雨が降り、大風が吹いた。家の裏の小田川がすぐにも氾濫しそうになってくる。その頃は、雨が降るとすぐに停電ですからね。真っ暗な中で母親を中心に、私ら子供らが座っている。暗い蝋燭をつけて。外では風が吹いて、森の全体が風に鳴っている。川が大きい音を立てて流れている。昭和19年で、国のやっている戦争が恐ろしい状態になっているのは、子供らにも伝わってくるんです。母はそのころよく、ひとり帳簿をつける部屋で「どうしようぞのう?」と嘆いていましたが、私は「どうしようもない!」と心の中でそれに答えていました。父が亡くなって、自分らの生活はどうなるかわからない、国がどういうふうになるかもわからない。そういう不安な、恐ろしい、こちらの抵抗などすぐにもはねつけてしまいそうな、暴力的な「現実」。そういうことを知ったのが、昭和19年と20年の2年間でした。


★言葉の流星群追記

ぼくには人生は長い学校のように思える。

ぼくは現実の学校があまり好きではなかった。
しかし、夏休みがあったのだ。
これが、たぶん、唯一、よいことであった。

まあ人生にくらべて(つまり会社生活とか)、現実の学校の方が、人間の関係がリアルだったような気はする。

他の方はどうか知らないが、なぜか、大人になってからの“関係”は、ぼくにはさっぱり手応えがないのだ、ブログもそうだ。

非常に不充分(不満足)ながら、本を読んでいる方が、まだましだ。


★ ねえきみ、ぼくはたぶんきみの倍くらい生きている。
だから、いま見えるものが、ちがうんだよ。

★ 「物事は変わる」ということを子供の頃に知る、それは想像力の成長には有効なことだと思いますね。(『大江健三郎 作家自身を語る』)

★だが、大江さん。
 たしかにあなたにとってはそうだった、ひょっとしてあなたの世代には。
 しかしぼくらの世代にとっては、60年代後半の体験は、その後の人生の想像力の空回りをもたらしたよ。


★ 大江-サイード
エグザイル(故郷喪失)
“故郷を失ったエグザイルは、いつまでも安住しないで中心に向かって批判する力を持続する”(サイード)
晩年のスタイル
“年をとる、そして突然ある逆行が起こる。非常に荒あらしい悲嘆(グリーフ)というものが自分を待ちかまえているかも知れぬと”(大江『懐かしい年への手紙』)
<『大江健三郎 作家自身を語る』(新潮社2007)>



航海日誌09-08-04

★ なぜ普通の人々は、“おはなし”が好きなのだろうか。

★哲学=科学的な認識の、すぐれたものは、この“おはなし”ではない認識の次元を開いている。
もちろんすぐれた“文学”こそ。

★ それは、“事実主義”とか“現実主義”とは、ちがう。

★“アフォーダンス”
 環境⇔生命(人間)

★ “環境-内-生命”としての人間存在(という意味)

★ 《他者と意味を共有できる可能性》(佐々木正人『アフォーダンス入門』)

★佐々木正人『アフォーダンス入門』の刺激的な‘まえがき“から;
たとえばこの本では、意味がぼくらの脳にあるのではないと言っています。眼や耳などの感覚器官から入ってくることと、まわりにあることを知ることとはあまり関係がないとしています。身体とまわりの世界には境がないと書いてあります。「自己」はどこにも定まっていなくて、世界の中に刻々とあらわれるものだとしています。ぼくらが一つではなく多数の身体を持っているとしています。遺伝か環境かという議論は、人の発達を説明できないとしています。ぼくらのしていることには正しいこともまちがいもないのだとしています。ぼくらが生きつづける理由はぼくらの中にではなくて、外にあるとしています。

★ さらに引用;
(ダーウィンのメッセージは)
《ぼくらが行為に観察できることは「はじまり」と「まわり」と「はじまりからの変化」しかない、ということである》

《身体は環境と多重に接触している》

《最初に世界にあったのは、動物の知覚システムではなくて、環境の方であった》

《彼(ダーウィン)は、「存在のためのもだえ・あがき(ストラッグル・フォア・イグジスタンス)」という言葉で、種の間の関係がいかに複雑で予想外のものであるかを強調した》
(容易に「原因」と「結果」のようなことを探してはいけない)

《この複雑さ(人間の知覚システムを超えた複雑な情報)をテーマとするために、身体を単数ではなく、相互に関連するものの集合として描き変える必要がある》



航海日誌09-08-10

この国に暮らしてきての不快。

“ここでは”、ひとひととが出会えない。

“だから”、家族関係だけがある。
家族内関係だけがリアルなのだ。

だから家族から一歩で出て“出会う”関係は、擬似的関係でしかない。

あるいは、もうひとつの家族を形成する関係である。

それに成功したひとは、自分の家族をつくったことに満足する。
しかし、その新しい家族にとっても、家族外の関係は擬似(うわの空!)である。

もちろん、“いわゆる社会関係”というのは(たとえば会社)完全な役割行動である。

もちろんそういう“家族関係”ではない関係を求めるひとはいるのだが、この社会の構造的壁を乗り越えることは決してできない。

それはあらゆる制度・システムに浸透している。
制度・システムは客観性を装いながら、実はすべての関係を“家族の比喩”として組織する。
たとえば、日本の政治である。

いっぽう、過剰な“関係”を負荷された“家族”も、それゆえに、そこでの関係ははげしく歪む。

というか本質的精神分析的理論や臨床では、そもそも親子関係-家族関係とは“危機”を内包している。

まさに“日本的関係”の葛藤のなさを理想とするような関係が、“虚偽”である。
アメリカホームドラマ的関係も、別種の虚偽である。

戦後日本の“アメリカ化”というのは、この日本の“伝統的関係(感受性)”と“アメリカホームドラマ的関係(これにはキリスト教が関与している)”との、奇妙な混交・癒着だった。

どんどんリアルな関係が失われた。
なにが“リアルな関係”であるかを感じること、そのものの“機能”が失われたのだ。

もしこの日本にリアルな関係があるなら、それはマスメディアやオカーサン(マイホームパパ)の理想とはまったく隔絶したところに、ある。

もちろん“文学”はそういう関係を描いた(村上春樹でさえ!)

しかし、文学も描いたことのない、“関係”が、日本のどこにもないかどうかは、わからない。



航海日誌09-08-10 B

コントラスト

おなじ“日本語”で書かれている文章の、おどろくべき差異を理解すること。

例1;

では、ダーウィンの「自然選択」というアイディアの、どこがそんなに革命的だったのでしょうか?確認しましょう。神の意志によって何でも説明する古い宗教的な考え方にせよ、あるいはある意味それと対極的な社会契約論的な発想にせよ、それらにおいては「秩序だった複雑なシステムは、意図的な設計によって構築されるものだ」という発想が、その大前提として潜在している。それが大前提、つまり暗黙の常識となっているならば、意図的な設計が一見したところ介在していないにもかかわらず、複雑精妙なシステムができあがっているとしたら、それはとても不思議なことで、解明を必要とする謎となります。そして生物世界は、科学革命・ニュートン力学以降の世界においても謎であり続けました。なぜなら天体の運動をはじめとして、物質の機械的な運動はシンプルな物理法則によって説明できても、生き物の振る舞いやその多種多様性は説明できなかったからです。
<稲葉振一郎『社会学入門』>


例2;

女は手紙を渡した後で窓を眺めて、これではここは涼しくならないの、と風の通し方を教えた。暑い日には遠慮はいらないので、と自分で二階のほかの二間の窓も障子もすっかり開けて来て、ここの部屋は窓をいっぱい開けると内も外も暑さが一緒になって御利益もなくなるので、と細目に引くと風がすっきりと通った。地獄に一抹の涼風でしょう、と女は壁ぎわの風の路に座りこんで、そちらのほうがもっと気持が好いわ、と向かいの壁際を指で指した。涼しさを試して、もうひと月近く前になる間違いの、そのあたりの畳を挟んで向かいあうかたちなった。ここから上野の山の鐘や汽車の音が聞えたものです、と女は寛いで話した。池の蓮の音も聞えると言ったら、白いような眼でみられました、風が渡って池一面に蓮の葉がさあっと鳴る音のことを言ったのに、蓮の蕾がひらく音と取られたようで、でも、ここを通る風ばかりは昔と変わらない、と窓へ眼をやった。そこへ口笛が鳴った。
<古井由吉『野川』>











<Down by the river>

I’d better have pity
I’d better have easy
I never will lay down
While my heart still beating
― ROXY MUSIC


I am just a dreamer
But you are just dream
― NEIL YOUNG


One more cup of coffee for the road
One more cup of coffee ‘fore I go
To the valley below
― BOB DYLAN


Happiness is a Warm Gun
― JOHN LENNON


Down by the river
I shot my baby
Down by the river
― NEIL YOUNG




無題

2009-11-19 11:25:20 | 日記



人間が意志をはたらかすことができず、しかしこの世の中のあらゆる苦しみをこうむらなければならないと仮定したとき、彼を幸福にしうるものは何か。
この世の中の苦しみを避けることができないのだから、どうしてそもそも人間は幸福でありえようか。
ただ、認識の生を生きることによって。
良心とは認識の生が保証する幸福のことだ。
認識の生とは、世の中の苦しみにもかかわらず幸福であるような生のことだ。世の中の楽しみを断念しうる生のみが幸福なのだ。
世の中の楽しみは、この生にとって、たかだか運命の恵みにすぎない。

<ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン“草稿1914-1916”>





See the sunrise over her skin
・・・・・・
She feels like water in my hand

―U2





ああ、今日も、明日も、あさっても同じ言葉

2009-11-19 11:14:12 | 日記


《◆せっかくの斬新にして有意義な試みである。品位を欠く、知識を欠く、展望を欠く――の“三カク”を排し、各仕分け人にはもうひと汗、かいていただこう》


こういうエラソーなことを今日も言っている“読売新聞”というのは、何様であろうか。

もちろんこの<読売新聞>には、あらゆる“主語”が代入可能である。

つまり、こういうことを言っている=書いている当人が、《品位を欠く、知識を欠く、展望を欠く》のである。

こういう“お笑い”を、毎日、“笑っていいとも”ですごしているのが、現代のスタンダードな生き方であるらしい。

つまりほぼすべての人々が、

《品位を欠く、知識を欠く、展望を欠く》

のである。

この“三カク”のなかで、ぼくにとっていちばん重要なのは何であろうか?

もちろん<品位>である。

<下衆(ゲスと読む)>とはつきあいきれない。





家の者の敵

2009-11-18 13:11:44 | 日記




★ 私が来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と仲たがいさせるためである。そして、家の者が、その人の敵となるであろう。私より父または母を愛する者は私にふさわしくない。

★ もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝をもつようになろう。

<マタイによる福音書>








”We weブログ”の<星が見える言葉>にあった;

「女をよくいう人は、女を十分知らないものであり、
女をいつも悪くいう人は、女を全く知らないものである。」…モーリス・ルブラン