Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

2011年の終わりの日に

2011-12-31 13:02:21 | 日記


今日が、大晦日だろうと関係ない。
紅白歌合戦など、もう何十年も見ていない。
AKB48???など、名前さえ不確かである(笑)


けれども、このぼくも、2011年の日本国で生きたのである。
そして、この<ネット>で、いろんな人の“世間話”を垣間見たりするわけだ(下記ブログに“引用”した)

しかし当然、現在の(今日の)ぼくには、“2011年”という現在だけが関心事では、まったくない。

本を読むことは、時空を超えることであるというより、歴史に参加することである。

個人的な問題(関心)があり、地理的な“世界”空間があり、これまでの長い具体的な出来事の連なりがあった。

私が、直接体験しうることは、きわめてわずかだが、たぶんぼくたちには、それ以外の世界への触手があり、私の世界とその外部とは、つねに浸透している。
だから私は、世界に含まれている。

ぼくたちは、この世界という夢を見ている。

個人的な問題は、ぼくにとって、たとえば、老年と死といってもよい。
最近のぼくは、“伝記”とか、ある人のインタビューを読むことが多い。
むかし読んだ本も読み返している。
たとえば、
* エリボン『ミシェル・フーコー伝』
* エリボンによるレヴィ=ストロースへのインタビュー『遠近の回想』
* デリダへのインタビュー『言葉にのって』
* ドゥルーズの発言集『記号と事件』
* エドマンド・ホワイトによる『ジュネ伝』
* サイード『ペンと剣』、『文化と抵抗』
* 野村修『ベンヤミンの生涯』
* ギュンター・グラス自伝『玉ねぎの皮をむきながら』(これから読む)
などなど

これらの人々が“外国人”であるのは、ぼくの趣味(偏向)である。

これらの外国人のかたわらに、刊行中の見田宗介著作集、柄谷行人の文庫本(講談社学術文庫)、立岩真也の本、東浩紀の本を置いてみる。
大江健三郎と中上健次を置いてみる。

おおざっぱには、そのような図式である。

(これらの背後に、ヒューズ思想史3部作(『意識と社会』-『ふさがれた道』-『大変貌』や加藤周一『日本文学史序説』を置こう、山本義隆『磁力と重力の発見』も読もう)



昨夜読んだ、1988年に書かれた柄谷行人の“同一性の円環”という文章。
これは、大江健三郎『懐かしい年への手紙』をめぐって書かれた;


『懐かしい年への手紙』からの引用;
《年をとる、そして突然ある逆行が起こる。非常に荒々しい悲嘆(グリーフ)というものが自分を待ちかまえているかも知れぬと、Kちゃんよ、きみは思うことが無いか?》


これを受けて柄谷は書いている;

★ この「悲嘆」は、先にいったように、一般的なものに到達すればするほど、直接的で個別的なものが失われていくということであり、明視に到達すればするほど盲目的な行動性がうしなわれていくということである。それはまた、いいかえれば、一般性や必然性に「内面化」しえない個別性や偶然性があるということに気づくことでもある。


★ たとえば、ここにシロという猫がいる。これは「猫」という類に属する個である。われわれは、「猫」という概念など見たこともない。誰でも、個々の猫を見て、そこから「猫」という一般性に至る。シロという猫もそのような個体である。認識は、あれやこれやといった個体からはじまるとしても、一般性にいたらなければならない。その場合、ヘーゲル的にいえば、個々の猫そのものがすでに類をはらんでいることになる。

★ しかし、シロという猫は、けっして猫一般に解消されないようなこの猫である。飼い主にとっては、この猫はけっして取り替えがきかない。固有名はまさに「他ならぬ」このものという事柄と結びついている。たとえば、この猫が死んだとき、飼い主の「悲嘆」はどのように癒されるだろうか。「悲嘆」は、それがシロというこの猫であるから生じるのだ。

★ ヘーゲルにおいては、固有名を忘れ一般的なものに向かうのが「老年」であり、「絶対知」なのである。したがって、彼にとって、ナポレオンという名の個体は、たんに世界史的な理念(概念)のあらわれであり、あるいは個体そのものに理念がはらまれているということになる。ナポレオンという名は、ヘーゲルにとってたんに個別性を示すものであり、それゆえ一般性のなかに解消されるべきである。だが、ナポレオンという固有名を捨てれば、歴史も消える。ヘーゲルにおいて歴史が終焉するというのは、まさにこの意味である。実は、それは真に個別的・偶然的な出来事、すなわち歴史に対する抗い(あらがい)なのだ。

<柄谷行人“同一性の円環”―『終焉について』(講談社学術文庫1995)>



さて、“ぼく”の挨拶。

ぼくのブログおよび引用を読んでくださったなら、ありがとう。

ぼくのブログもしくは引用は(画像もふくめ)、“これが良いから(正しいから、善いから)読め(見よ)”というものでは、ありません。

基本的には、これは、ぼくの“日誌”です。

すなわち、自分のために書いている。

けれども、幸運ならば、ここに書かれていること“から”、そのものそのものに、向かってほしい。

“引用”されたものは、断片なのだから、そのオリジナルへ向かってほしい、のです。







希望なき人びとのための希望;本でも読もうかな

2011-12-31 10:42:13 | 日記


★内田樹
levinassien 内田樹
おはようございます。神戸は快晴です。今日は年賀状書くだけ(あと100枚くらいかな)。宛名書いて、ネコマンガ書いて一筆。1枚2分として3時間か・・・午前中に何とかしたいです。門松も飾ったし、お掃除も終わったし。年賀状終わったら、本でも読もうかな。
32分前


★ 丸山健二
maruyamakenji 丸山健二
 忘年会という名目で大っぴらに酔いつぶれることができ、歳末という浮かれ気分に煽られて実際にはさほど必要でもない商品を購入し、そうすることで奴隷の身であることの空しさを束の間解消したところで、心底充実感を味わえない、面白くも何ともない、誤魔化しだらけの人生が逆転するわけではない。
12月29日

maruyamakenji 丸山健二
 壊滅的打撃によって幕を閉じたあの太平洋戦争からすでに七十年ほど経とうとしているのに、敗戦のおかげで帝国主義から民主主義へとすんなり移行できたというのに、様変わりしたのは社会の上っ面のみであって、国民性の本質はまったく変わっていない。そのことを明白にしたのが今回の大震災だった。
22時間前


★ 茂木健一郎
kenichiromogi 茂木健一郎
よか(3)あれだけのことがあったから、今度こそ日本は変わるだろう、変わるべきだと多くの人が思ったろう。しかし、変わりなどしていない。政治も、メディアも、そして何よりも大切なことだが我々自身も、相変わらずの日常を過ごしてしまっている。そこに、考えてみるべき出発点がある。
1時間前


★ 東浩紀
ところで北海道にスキー来た。
posted at 08:56:38


★ 高橋源一郎
takagengen 高橋源一郎
というわけで、夜中に起きたれんちゃんをやっと寝かしつけました。いや、セットしてるところを見られなくてよかったです。では、世界中のこどもたち、メリークリスマス! 世界中のぱぱとまま、メリークリスマス! それ以外のみなさん並びにサンタさん、メリークリスマス!
12月25日


★ 平野啓一郎
ぎっくり腰気味。前になった時も、特に「ぎっくり」という衝撃はなかったけど、今回もいつの間にか。前よりは軽いので、どうにか歩ける。が、横断歩道を信号が変わる前に渡りきるのに一苦労。年寄りの気持ちがわかる。
posted at 01:31:15


★ 矢作俊彦
orverstrand 矢作俊彦
朝飯は餃子。大連風餃子だということをつい忘れ、ガブっとかじったら熱く濃厚な汁が噴出、新聞紙をブチやぶった。その先では、ガラステーブルの縁が弾け飛んでいたのだが、いくらなんでも、これはね。お手伝いが大掃除のときに破壊して、誤魔化して行ったものらしい。
12月30日


★ 津田大介
tsuda 津田大介
年末だし年末ジャンボ宝くじでも買うかな。
1時間前


★ 田原総一郎
namatahara 田原総一朗
今年は「乱」、来年は「建」にしたい。 RT @tos1yay1: 今年の漢字は「絆」でしたが、間もなく今年も幕を閉じようとしている今日現在、田原さんにとって今年の漢字は何ですか?また来年の漢字は何になりそうですか?それぞれ理由も教えてください。よろしくお願いします。
12月29日


★ 青山真治
cooff 青山真治
@ElleaWatson かあさんたちとともにこの国を自殺から救いたいと心から願ってるんだよ、おれは。
12月29日


★菅啓次郎
よいお年を
そして今年も最後の一日。でも一年の最大の区切りを冬至と夏至に定めているぼくには、これはカレンダーのトリックでしかありません。きょうも通常業務です。いつまでも終わらない仕事ばかり。

年賀状を書く習慣を完全に失ったので、どなたにも出しませんが、悪しからず。いただいた方にも返事も出しませんが、悪しからず。またどこかで会いましょう。

ともあれ、明日からの年もよろしくお願いします。むりやり希望を作り出すことにしましょう!

(なお、大学院2期入試受験希望者のみなさんは出願スケジュールを再確認してください。待ってます。)
Posted by KS at 8:32


★ 天木直人
武器輸出三原則の緩和はもっと深刻だ。
国際共同開発への参加であるとか人道目的の供与に限るなどという子どもだましの口実をならべて、歴代政権がためらった武器輸出三原則をついに放棄した。
日本がつくった武器がやがて戦争に使われることになる。
こんな重大な憲法9条違反がどじょう内閣にやられてしまった。
 
それを防げなかった責任は政権政党である民主党の斉藤や平岡といった護憲政治家にある。
護憲を党是としてきた社民党や共産党のすべての政治家にある。
いくら政権政党の議員だといっても譲れないものはあるだろう。
いくら少数野党であるといっても政治は国会内だけではない。
街頭に出て平和を願う国民を奮い立たせ、反対運動を起こすことも政治家の立派な仕事だ。
それを行なおうとする政治家はただの一人もいない。
憲法9条が泣いている2011年の年の瀬である。
                                      了
今年のブログはこれが最終です。


★ゴダール
godard_bot Jean-Luc Godard
私が観客のことを考えるようになったのは、たとえば『カラビニエ』の場合のように、自分がつくった映画が興行的に大失敗におわったとき…とてつもない失敗におわったときです。『カラビニエ』は、二週間で十八人の観客しか入らなかったのです!―ゴダール
12月29日

godard_bot Jean-Luc Godard
《その十八人というのはいったいどういう人たちなんだろう? ぼくはどうしてもその人たちのことが知りたい! ぼくはこの映画を見にきたその十八人の人にどうしても会ってみたい。あるいは、その人たちの写真を見てみたい》―ゴダール
12月29日



以上ぜんぶ引用です。