今日が、大晦日だろうと関係ない。
紅白歌合戦など、もう何十年も見ていない。
AKB48???など、名前さえ不確かである(笑)
けれども、このぼくも、2011年の日本国で生きたのである。
そして、この<ネット>で、いろんな人の“世間話”を垣間見たりするわけだ(下記ブログに“引用”した)
しかし当然、現在の(今日の)ぼくには、“2011年”という現在だけが関心事では、まったくない。
本を読むことは、時空を超えることであるというより、歴史に参加することである。
個人的な問題(関心)があり、地理的な“世界”空間があり、これまでの長い具体的な出来事の連なりがあった。
私が、直接体験しうることは、きわめてわずかだが、たぶんぼくたちには、それ以外の世界への触手があり、私の世界とその外部とは、つねに浸透している。
だから私は、世界に含まれている。
ぼくたちは、この世界という夢を見ている。
個人的な問題は、ぼくにとって、たとえば、老年と死といってもよい。
最近のぼくは、“伝記”とか、ある人のインタビューを読むことが多い。
むかし読んだ本も読み返している。
たとえば、
* エリボン『ミシェル・フーコー伝』
* エリボンによるレヴィ=ストロースへのインタビュー『遠近の回想』
* デリダへのインタビュー『言葉にのって』
* ドゥルーズの発言集『記号と事件』
* エドマンド・ホワイトによる『ジュネ伝』
* サイード『ペンと剣』、『文化と抵抗』
* 野村修『ベンヤミンの生涯』
* ギュンター・グラス自伝『玉ねぎの皮をむきながら』(これから読む)
などなど
これらの人々が“外国人”であるのは、ぼくの趣味(偏向)である。
これらの外国人のかたわらに、刊行中の見田宗介著作集、柄谷行人の文庫本(講談社学術文庫)、立岩真也の本、東浩紀の本を置いてみる。
大江健三郎と中上健次を置いてみる。
おおざっぱには、そのような図式である。
(これらの背後に、ヒューズ思想史3部作(『意識と社会』-『ふさがれた道』-『大変貌』や加藤周一『日本文学史序説』を置こう、山本義隆『磁力と重力の発見』も読もう)
昨夜読んだ、1988年に書かれた柄谷行人の“同一性の円環”という文章。
これは、大江健三郎『懐かしい年への手紙』をめぐって書かれた;
『懐かしい年への手紙』からの引用;
《年をとる、そして突然ある逆行が起こる。非常に荒々しい悲嘆(グリーフ)というものが自分を待ちかまえているかも知れぬと、Kちゃんよ、きみは思うことが無いか?》
これを受けて柄谷は書いている;
★ この「悲嘆」は、先にいったように、一般的なものに到達すればするほど、直接的で個別的なものが失われていくということであり、明視に到達すればするほど盲目的な行動性がうしなわれていくということである。それはまた、いいかえれば、一般性や必然性に「内面化」しえない個別性や偶然性があるということに気づくことでもある。
★ たとえば、ここにシロという猫がいる。これは「猫」という類に属する個である。われわれは、「猫」という概念など見たこともない。誰でも、個々の猫を見て、そこから「猫」という一般性に至る。シロという猫もそのような個体である。認識は、あれやこれやといった個体からはじまるとしても、一般性にいたらなければならない。その場合、ヘーゲル的にいえば、個々の猫そのものがすでに類をはらんでいることになる。
★ しかし、シロという猫は、けっして猫一般に解消されないようなこの猫である。飼い主にとっては、この猫はけっして取り替えがきかない。固有名はまさに「他ならぬ」このものという事柄と結びついている。たとえば、この猫が死んだとき、飼い主の「悲嘆」はどのように癒されるだろうか。「悲嘆」は、それがシロというこの猫であるから生じるのだ。
★ ヘーゲルにおいては、固有名を忘れ一般的なものに向かうのが「老年」であり、「絶対知」なのである。したがって、彼にとって、ナポレオンという名の個体は、たんに世界史的な理念(概念)のあらわれであり、あるいは個体そのものに理念がはらまれているということになる。ナポレオンという名は、ヘーゲルにとってたんに個別性を示すものであり、それゆえ一般性のなかに解消されるべきである。だが、ナポレオンという固有名を捨てれば、歴史も消える。ヘーゲルにおいて歴史が終焉するというのは、まさにこの意味である。実は、それは真に個別的・偶然的な出来事、すなわち歴史に対する抗い(あらがい)なのだ。
<柄谷行人“同一性の円環”―『終焉について』(講談社学術文庫1995)>
さて、“ぼく”の挨拶。
ぼくのブログおよび引用を読んでくださったなら、ありがとう。
ぼくのブログもしくは引用は(画像もふくめ)、“これが良いから(正しいから、善いから)読め(見よ)”というものでは、ありません。
基本的には、これは、ぼくの“日誌”です。
すなわち、自分のために書いている。
けれども、幸運ならば、ここに書かれていること“から”、そのものそのものに、向かってほしい。
“引用”されたものは、断片なのだから、そのオリジナルへ向かってほしい、のです。