Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

狼が連れだって走る月

2012-01-31 16:16:29 | 日記


★ チェロキー族は冬の旅に出るとき、両足に灰をすりこみ、狼の歌をうたいながら狼の歩みをまねた。そうすれば凍傷を避けることができる。

★ 平原インディアンのあいだでは、「ポーニー族」をさす手話の単語は「狼」をさすそれとおなじだった。右手の人さし指と中指でVを作り、それを耳元にあげ、ついで前方に動かす。コマンチェをはじめとする周辺の部族は、ポーニーのことを狼のような旅の達人だと見ていたのだ。

★ 北米先住民のうちもっとも精緻な宇宙観をもつそのポーニーは、南東の空に現われる「死の赤い星」(シリウスのこと)を「狼の星」と呼び、それがトウモロコシとバッファローの収穫を左右すると考えた。かれらは天の川を「狼の道」と呼んだ。

★ そしてラコタの人々、スー族は、さえざえと輝く12月の冷たい月のことを「狼が連れだって走る月」と呼んだ。

<菅啓次郎『狼が連れだって走る月』>








非人間

2012-01-31 16:09:12 | 日記


★ 両アメリカに話をかぎっても、ラブラドル半島やソノラ砂漠、ブラジル高原にパタゴニア。どこも欠乏と露出と、すさまじい広大さの土地だ。そしてわざわざそんな壮大な土地をひきあいに出さなくても、たとえば州土の97パーセントが農夫たちの支配下におかれた典型的農業地帯ネブラスカ州にだって、むきだしの平原、人間の土地の終わりは、よく残存している。

★ その指標となるのは、あちこちにごろごろと転がる巨大な花崗岩の丸石だ。夕暮れ、地平線近くから低く扇状にさす一日の最後の光りが、これら花崗岩の巨石を紅に染める。周囲はおびただしい静寂に水びたしになり、旋回する鴉だけが生命を感じさせる。人はいない。農夫たちの住む小さな町からさして遠くはないのに、ここに浮上する風景は徹底して非人間的なものだ。

★ 夏は暑く冬はきわめて寒いこの北アメリカ大陸中央部の大平原は、はるかなむかしには海底だった。やがて土地は隆起し海は消失する。けれども海はそれからも回帰した。北から降りてくる氷の舌、青い固形の水が、大きな石をゆっくりと運び、変形させ、この大平原にばらまく。大洪水の記憶だ。われわれはいまなお間氷期に住んでいる。忘れるな。いつか必ずこの平原にも、ふたたび海は帰ってくる。

★ 旅する巨石たちは、そんな氷の海流に乗って移動を開始するまでの時を、こうして夕日を眺め休息しつつ待っているのだ。かれらには人間の時間、農夫たちの経営、白人たちの侵略、インディアンの放浪生活、すべてはまるで無意味だった。そして地球は、人間よりはむしろ岩石のものだ。

★ しかし時間は、生物とともにはじまる、くりかえされる四季や水の循環に法則性を見出し、経験から得たその法則を未来に投影し、生きるための戦略を予測する。時間をおりかえし、過去を未来にくりのべる。生命とは時間の蝶番だ。すべての植物と動物は、時間のサイクルをよく知っている。

★ でも時間そのものの意味を展望し、時間と自分のずれを意識し、そのことに絶望しあるいは高揚を覚える奇妙に壊れた生物は、やはり人間だけだ。

★ われわれはどこからきたのか、何者なのか、どこへゆくのか。
この根源的な疑問をつきつめてゆくとき、意識についての意識はたちまち「歴史」の境界をつきぬけ、「人間」という輪郭からあふれでてゆく。

<菅啓次郎『狼が連れだって走る月』(河出文庫2012)>







墓標のない死

2012-01-29 12:55:38 | 日記


★ 奇妙な駅だった。たしかにトンネルを出たのだが、降り立ったところはまた地下室のように閉ざされている。長いホーム。それに劣らず長く見える、カマボコ型の天井。ホームの、線路とは反対の側には、窓はあるが壁がずっと続いていて、出口が見あたらない。国境検査官か警官と思える制服の男に、出口をたずねる。かれが指差すほうを見ると、なるほど、壁に一ヶ所、めだたぬドアがついていた。ドアを押す。ちょっとしたホールに出る。切符売場、小さな売店。そこからは、たった一筋の、細い、コンクリートで固められた壁のなかの通路になる。ここには窓はまったくなく、壁は古びている。しばらく歩いたところで道は右へ折れ、やっと出口が見えてくる。なんの装飾も文字もない。外へ出てから降りかえると、丘の斜面に伸びる巨大な壁のなかに、いま抜け出てきた暗い穴がひとつ、小さく口をあけているのが見える。

★ バルセロナから数時間、わりと混んだ急行列車に乗ってぼくはここへ来たのだが、この国境の駅でおりた旅客は、数えるほどでしかなかった。さっさとどこかへ、行くべきところへ行ってしまったのか、もうかれらの影はない。

★ 穴のまえからは、急斜面の細い坂道がくだっている。屋並は淡い霧のなかだ。海からあがってくる霧。そちらへ向かって、ぼくはゆっくりと歩きだす。つつましやかな宿屋や、みやげもの屋のまじる、家と家のあいだを。思っていたよりもずっと、町は小さい。道で子どもが遊んでいる。そうだった、今日は日曜日だった。

★ 大きく迂回する道を辿って、墓地のほうへ登った。霧がうすれて、ぎらぎらした陽光が照りつけてくる。眼下は紺碧の海。岬の鼻を道が曲がりこんだところで、山の斜面に、墓地が全景を現してくる。スペインからフランスにかけての地中海沿岸でいくつか見たのと同じ、海に向かう階段状の墓地で、コンクリート・ブロックか家具ユニットを連想させるコンクリート箱が幾段か積重ねられたものが、幾列も連なって並んでいる。

★ 長田弘によれば、ベンヤミンの遺体はたしかにここの箱型の一区画、563号におさめられたのだけれども、数年後には同じ区画は、別人の所有に帰している。だがかれの遺体がどこか別の土地へ移されたのか、それとも、同じ墓地のどこかにいまも名もなく横たわっているのかは、少なくともさしあたり、誰によっても語られていない。

★ 翌日ぼくは、あの国境要塞めいた駅から、フランスへ向かう列車に乗った。国境検査官はいまは(1974年春には)あいそよく、およそなにも調べない。徒歩で山を越えれば数時間の行程というフランス領セルベールまで、列車はやすやすとトンネルを抜けてゆく。2分とかからなかった。

<野村修“ポル・ボウにて―三分の一世紀ののちに” 『ベンヤミンの生涯』>




★ かくして、深い逆説をもった意味において、災禍と救済は同じものであり、完結のない無限の儀式的反復は、手段ではなく、目的なのである。(・・・)真の詐欺は、まさに死者の復活を信じることにある。あるいは、「犠牲」と称されるものを正当化し、彼らの回復不可能な苦痛を無視しようとする共同体的な努力をつうじて、彼らを象徴的に回復させるのだと信じることにある。

★ まさにこの理由で、象徴的な癒しや肯定的な記念式典に対するベンヤミンの妥協なき抵抗は、いまなお、深く考えるに値する。というのも、たとえユートピア的な普遍救済を信じる彼の信念を分かち合うことができないとしても、それでも、以下のことは認められねばならないからである。つまり、戦争の犠牲者たち――あるいは、より深いところでは、戦争を起こすことにつながった神話と不正によって支配された社会の犠牲者たち――は、高貴な理由のために死んだ英雄的な戦士としてこそ最もよく理解されるという考え方に対して、ベンヤミンがその虚偽を証明したということは、認められねばならないからである。これは、皮肉にも、ベンヤミン自身が第二次世界大戦の前夜にこうむった運命からも学び取ることのできる教訓である。というのも、フランスとスペイン国境での彼の自殺も、象徴的な完結を拒むからである。

★ じっさい、彼の眠りは、1914年のフリッツ・ハインレとフレデリカ・ゼーリヒソンの眠りと同様に、平安なものではなかった。この論文の最後の言葉として相応しく使うことのできる言葉を、ピエール・ミサックが次のように述べている。

彼の死後・・・・・・彼の遺体は消え去った。われわれに残されているものといえば、他 の多くの死のなかの、埋葬されることのないひとつの死にすぎない。共同墓地に彼の名はない。生きているときに無名の人に名前を与えた当人の名はない。ヨーロッパと太平洋のあちこちに置かれた軍人墓地の白い十字架さえない。だから、墓がベンヤミンの記憶を喚起することはないだろう。ただ、バベルの塔以後の終わりなき散文作品たちだけが、それを喚起する。

<マーティン・ジェイ“慰めはいらない―ベンヤミンと弔いの拒否” 『暴力の屈折』(岩波書店2004)>




★ そのさいにぼくは、歴史過程にかかわってのベンヤミンの態度に、及ばずながら倣おうとつとめたつもりでいる。なぜなら、ぼくらの死者たちもまた危険にさらされており、そして「敵は、依然として勝ちつづけている」のだから。

<野村修『スヴェンボルの対話―ブレヒト・コルシュ・ベンヤミン』あとがき(平凡社選書1971)>







希望という手仕事

2012-01-26 17:36:42 | 日記


★ 「未来の世界では何もかもが、ぼくらの世界でと同じようすだろう。部屋のようすもいまと同じだろうし、いま眠っているぼくらの子どもは、そこで同じ場所に眠っているだろう。ぼくらはこの世界で身にまとっているものを、未来の世界でも着ているだろう。何もかもここと同じだ――が、ほんの少しだけちがう。それは想像力のせいだ。ただ一枚のヴェールを、想像力ははるかなものにかぶせる。何もかもかつてと同じかもしれない。しかし、ヴェールのゆらめきのもとで、ひとの目にとまらぬ移動と交換が生じている。」(ベンヤミン“日を浴びて”)

★ 当時のかれの主要な仕事は、「1900年前後のベルリンでの幼年時代」を執筆することと、1783年から1883年にいたる100年間の「ドイツのひとびと」の、「ドイツ的な意味で人間的と呼ばれうるひとつの態度をまざまざと見せている」数々の手紙を発掘して編集すること、だったといってよいが、それらはまさに<アゲシラウス・サンタンデル>の手に成る仕事である。かれは、未完了にとどまっている過去、しかも現在の危機のなかで現在とともに滅びてゆきかねないその過去の破片を、危機に内在する者の眼をもって発見し、想像力のヴェールのもとに再構成したのだ。

★ いまブルジョワジーの「文化遺産」をめぐる論議が起こっているけれども、その論議のおおかたは、「文化遺産の現在高は完全に管理可能であり、もれなく記帳されている、という観念から距離をとる」ことができていない。しかし、問題はできあいの遺産をとりこむことなどではありえない、ということこそがかんじんなのだ。というのも、「すでに達成されたもののすべて」は、そのまま継承しうるものとしてではなく、「消滅しつつあるもの、おびやかされているものとしてのみ、現在にあたえられて」いるのだから。根源的であってアクチュアルなものをそこから救出する作業は、いまアカデミズムから左翼亡命文学にまで浸みついているかに見える「是認的な文化概念」をもってしては、なされない。

★ 「民主主義社会の崩壊過程から、その初期とその夢とに結ばれた諸要素、きたるべき社会との、人類そのものとの連帯を否認しないような諸要素は、分離されうるか?この問いに肯定をもって答ええなくては、国を去ったドイツの研究者たちは、多くのものを救えなかったことになろう。歴史のくちびるからこの問いへの肯定を読みとる試みは、アカデミックなものではないのだ。」(ベンヤミン“あるドイツの自由な研究所”)

★ 完結しきっているといわれるどんな作品であっても、その前史と後史をふくむ状況のコンテクストのなかに置かれれば、いずれも断片にすぎない。他方、日常の片々たる表現も、同様のコンテクストのなかでは、重大な意味をはらむことがありうる。やがてぼくらひとりひとりがおこなう批評は、断片を読むように作品を読み、作品を読むように断片を読むだろう。そしてぼくらの表現は、批評を内在させつつ、しかもなお途上の表現であることを自覚してなされるだろう。

★ かれは、畢生の仕事として選んだ<パリのパサージュ>論を、日々の手仕事としてつねに眼前におきながら、迷宮の都市パリを歩きまわっていた。その仕事がかれの支えだった。「この仕事のなかに、ぼくが生存競争のなかで勇気を失わずにいることの、唯一のではないまでも、本源的な根拠がある」、とかれはある手紙に書いている。それが発表できるような状況は、当分は来るとも見えず、未来は暗澹たる雲に閉ざされていたけれども、仕事を続けうるかぎりは、困難ではあれ希望があった。ややのちにかれの友人のブレヒトが、北辺のフィンランドにのがれて書きとめたつぎの二行の詩句を、もし知る機会がかれにあったとすれば(しかし、その機会はついに来なかった)、かれは大いに共感したことだろう。

    亡命者ははんのき林の奥に坐して、とりあげる
    ふたたびかれの困難な手仕事を――希望を。


<野村修『ベンヤミンの生涯』(平凡社ライブラリー1993)>







パタゴニア

2012-01-22 23:53:54 | 日記


★ 1940年代の終わり、クレムリンの食人鬼が人々の生活に影を落とすようになった。スターリンの口ひげが歯に見える。私たちは、彼が計画している戦争について講演を聴いた。民間防衛を説く講師が、徹底的に、あるいは部分的に破壊されるだろうヨーロッパの都市を、丸で囲んで私たちに見せた。それらの地域は隙間なく続いていた。講師はカーキ色の半ズボンをはき、膝は白く、骨ばっていた。状況は絶望的と思われた。戦争は間近に迫り、なす術はなかった。

★ 次に私はコバルト爆弾の記事を読んだ。それは水素爆弾よりもたちが悪く、果てしのない連鎖反応を起こしたあげく、この地球をまっ平らにすることもできるというものだった。

★ それでも私たちは核戦争を生きのびる望みを捨てなかった。移住委員会を設立し、どこか遠くの、地球の片すみに移り住む計画を立てた。地図を詳しく調べ、おもな風向きと死の灰の降下地域を研究した。戦争は北半球で始まるだろうから、私たちは南半球に目を向けた。太平洋の島々は、小さくて動きがとれないから除外した。ニュージーランとオーストラリアも除外し、地球上でいちばん安全なところとして、パタゴニアを選んだ。

★ 嵐に備えてコーキングを施した板葺き屋根の家。中では薪が赤々と燃え、壁には最高の書物が並ぶ。世界中が吹き飛んだときに住む場所を、私はそんな風に想い描いた。
やがてスターリンが死に、私たちは教会で喜びの賛美歌を歌ったが、パタゴニアは心のすみに取っておいた。

<ブルース・チャトウィン『パタゴニア』(めるくまーる1998)>







HUMAN NATURE

2012-01-21 09:59:49 | 日記


★ 個体という主体であることじたいが、すでに<さまよい出た>存在である。Ecstasyの状態である。つまり自分が本来あるはずのところの外部に解き放たれてある仕方である。一度さまよい出た者はどこへでもさまよい出ることができる。

★ 個体を主体としてみれば、個体はその<起源>ゆえに、自己の欲望の核心部分に自己を裂開してしまう力を装置されている。個体にとって、性はなくてもいいはずのものだ。個体の長寿にも安らぎにも幸福にとってもない方がいいものである。それでも個体は不可解な力に動かされるように性を求める。この不幸を求める。この不可解な力は個体自身のいちばん核芯からくる。個体は自分自身の中核によって自分を解体される。

★ けれど個体の、この自己裂開的な構造こそは、個体を自由にする力である。個体のテレオノミー的な主体化が、自己=目的化、エゴイズムという貧相な凝固に固着してしまうことがないのは、個体のこの自己裂開的な構造のためである。個体は個体自身ではない何かのためにあるように作られている。法王と王たちという中世の二重権力がやがて権力一般の相対化に向かうダイナミズムを生むように、生成子(遺伝子)と個という目的論の二重化がテレオノミーの相対化に向かうダイナミズムを生む。

★ 個体はじぶんの身体の中心部分に自己を超越する力を装置してしまっている故に、この超越する力をもまた自己自身を目的化してしまう力も、共に相対化することができる。つまり自由であることができる。

<真木悠介『自我の起源』(岩波現代文庫2008)>



★ 時代の商品としての言説の様々なる意匠の向こうに、ほんとうに切実な問いと、根柢をめざす思考と、地についた方法とだけを求める反時代の精神たちに、わたしはことばを届けたい。

★ 虚構の経済は崩壊したといわれるけれども、虚構の言語は未だ崩壊していない。だからこの種子は逆風の中に播かれる。アクチュアルなもの、リアルなもの、実質的なものがまっすぐに語り交わされる時代を準備する世代たちの内に、青青とした思考の芽を点火することだけを願って、わたくしは分類の仕様のない書物を世界の内に放ちたい。

<1993年、真木悠介『自我の起源』あとがき  この本は“詩人にして科学者であったM.K.(1896~1933)”に贈られている>







川久保玲;コムデギャルソン

2012-01-19 17:40:21 | 日記


<川久保玲さんロングインタビュー ファッションで前に進む> (アサヒコム2012年1月19日9時21分)

 世の中に漂う閉塞(へいそく)感、そして無力感。ファッション界のフロントランナーとして時代の最先端を鋭敏な感覚で嗅ぎ取り、あるときは時代の風潮にあらがってきた川久保玲。「鉄の女」とも称される彼女は「今」をどうとらえ、どのように前に進もうとしているのか。

■新しさのもつ力 「なんとなく」の風潮に危惧

 ――出口のない不況が続き、世界中で格差批判も広がっています。高級ブランドを扱う業界には逆風ではないですか。
 「どの分野でも、商品の値段や製作費用をいとわず、新しいものを作り出そうとしている人はたくさんいます。そうした姿勢は、どんな状況であっても人が前に進むために必要なものだからです。私にとってはファッションこそが、そうした場なのです」
 「一般の人には高くて買えない服でも、新しい動きなり気持ちがみんなに伝わっていくことが大切です。作り手が世界を相手に一生懸命に頑張って発表し、それを誰かが着たり見たりすることで何かを感じて、その輪が広がっていけばいい。新しいというだけでウキウキして、そこから出発できる。ファッションとはそういうものです」

 ――川久保さんの真骨頂は前衛的なデザインです。でも、世の中の風潮は安定感や着やすさを求める傾向にありますね。
 「すぐ着られる簡単な服で満足している人が増えています。他の人と同じ服を着て、そのことに何の疑問も抱かない。服装のことだけではありません。最近の人は強いもの、格好いいもの、新しいものはなくても、今をなんとなく過ごせればいい、と。情熱や興奮、怒り、現状を打ち破ろうという意欲が弱まってきている。そんな風潮に危惧を感じています」
 「作り手の側も1番を目指さないとダメ。『2番じゃダメですか』と言い放った政治家がいました。けれども、結果は1番じゃなくても、少なくともその気持ちで臨まなければ。1番を目指すから世界のトップクラスにいることができる。日本は資源がないのだから、先端技術や文化などのソフトパワーで勝負するしかないのです」

 ――ファッションで個性を表現する必要はない、と考えている人が増えているようです。
 「ファッションの分野に限らず本当に個性を表現している人は、人とは違うものを着たり、違うように着こなしたりしているものです。そんな人は、トップモード(流行の最先端)の服でなくても、Tシャツ姿でも『この人は何か持っているな』という雰囲気を醸し出しています。本人の中身が新しければ、着ているものも新しく見える。ファッションとは、それを着ている人の中身も含めたものなのです。最近はグループのタレントが多くなって、みんな同じような服を着て、歌って踊っています。私には不思議です」

 ――同じといえば、大量生産された安価なファストファッションをどう思いますか。
 「いろんなニーズに合った様々なビジネスの形態はあってもいい。強力なクリエーション(創造性)があるものも、即席のファストファッションも、その中間もあるでしょう。でも、ファッションのすべてが民主化される必要はありません」

 ――「ファッションを民主化する」というのは、ファストファッションの代表格であるH&Mの基本姿勢ですね。
 「そういう傾向がどんどん進むと、平等化というか、多様性がなくなり一色になってしまう恐れがある。いいものは人の手や時間、努力が必要なので、どうしても高くなってしまう。効率だけを求めていると、将来的にはいいものが作れなくなってしまいます」

 ――そのH&Mと数年前にコラボレーションをしました。葛藤はなかったのですか。
 「全然なかった。たった2週間のイベントでしたが、私が手がける『コムデギャルソン』の服がマスマーケットにどうアピールできるかに興味があったので」

 ――かつての流行は世相を切り取るようなものでした。しかし今、ファッションも社会状況も混沌(こんとん)としています。そんな中でのクリエーションとは?
 「8年前から、様々なクリエーターたちを集めて自由に表現してもらう『ドーバー・ストリート・マーケット』をロンドンなどに出店しています。価値観や手法が違っていても、集まることで一つのパワーになる。カオス(混沌)の中から相乗効果やアクシデントが起きて、それぞれの作品やブランドも輝きを増しました。同じコンセプトの店を今年3月に東京・銀座にも開店して、6階まで全フロアで展開します」
 「世界中のいろんな情報がすぐ手に入る時代ですから、組む相手も探しやすいし、理解もされやすくなっている。それに、ひとひねりした表現の方がファッションとして成り立ちやすく、人の気持ちを浮き立たせます。ファッションはもはや洋服だけを意味しているのではなくて、音楽でも絵でも生活用品でも、新しいことはすべてファッション。インターネットショップにはない刺激が味わえると思います」

■自ら外へ飛び出せ 競争が力を生む

 ――環境意識が高まり、大量消費への疑問が広がっています。新作を発表し続けるファッション界は、エコと対極では。
 「私が新しい服を作るのは、何かを発信し続けることで、地球のどこかで少しでも何かを変えられるきっかけになるのではないか、と考えるからです。環境保護を直接訴えたり、活動に参加したりするやり方もあるでしょうが、私はそういう方法はとりたくない。ちょっと遠回りかもしれませんが、作ったものを通して感覚的に揺さぶる。そのことで問題に気づいてほしいのです」
 「物をどんどん作ってちょっと古くなったらもうおしまい、という考え方も持っていません。年2回ずつ新作を出すわけですから、在庫は残ります。売れ残った商品も同じ価格で売り切るように努力しています。東京にリサイクルとデザインを融合した店を出しました。この5年間、在庫を売るためにベルリンなど世界各地に約40店の期間限定ストアも開きました。ビジネスとしてはちょっとつらい面もある。クリエーターというものは真面目にやれば、たいていは貧乏になってしまうものです」

 ――長引く不況で、消費者やマーケットが保守的になり、業界は挑戦しなくなったと言われます。
 「1990年代あたりから、強いもの、新しいものを求めるムードがなくなってきました。それがどんどんひどくなってきて、特にここ5年ほどは業界はすっかり内向きになってしまった。変化を求める気持ちも弱くなった。そんな流れの中で、私は『どこかで見たことがあるようなものはダメ』と自分を懸命に追い込んできました。ところが、それを理解して認めたり、着てみようと思ったりしてくれる人がだんだん減ってきたと肌で感じています」

 ――川久保さんは31年前、糸がほつれたボロルックでデビューし、世界のファッション界に衝撃を与えました。しかし、いまだに山本耀司さん、三宅一生さんとともに「御三家」と呼ばれ、後に続く世代が出てきません。若い才能を受け入れる土壌が今の業界にはないのでしょうか。
 「当時は、作品を発表するたびに強い反応があり、今よりも理解されやすかった。ヨーロッパのファッションはそれほど現代的とはいえなかったので、変化を求める気分があったのでしょう。私も若かったし、反応があったからこそ、さらに強気にチャレンジすることができたのかもしれません。それにパリ・コレでどんなに批判されても、『ああ、そうですか。ではみなさんのお望みのものを作りましょう』とは思いませんでした。『どうしてこれがわからないのか』とさえ感じていました」

 ――フランスやイタリアは国家をあげてブランドイメージの確立に取り組んでいます。日本でもようやくそうした動きが出てきました。
 「それは違うな、と私は思っています。まずは身一つで世界に飛び出して、道ばたでもいいから作品を見せること。世界の人に見てもらうだけでも緊張するし、自分にハッパをかけられる。無駄や失敗があっても、それが次に突き当たった壁を乗り越える力になるのですから」
 「社会が豊かになって、そういうガッツがなくなるのは仕方がありません。でも、あえて困難なことに挑戦する強い意志が今こそ必要なのではないでしょうか。『海外』とか『外国』とか、もうそんな時代ではないでしょう。どの国でどういう人たちと仕事をしても土台は違わない。それなのに外に目を向けようとしなくなっている若者が増えています。外へ自力で行って、なるべくたくさんの人と競争しないと、新しい力は生まれません」
 「日本国内にだって織りでも、染めや縫製でも素晴らしい職人技術があります。でも効率的な物作りや価格志向が優先される中で、そんな技術や工場がなくなりつつある。彼らと協力するためのデザインやシステムを考えることで世界に発信できる、新しい優れた物作りができるはずです」

■黒から白へ 強さ・希望込めて

 ――最新コレクションは白一色。驚きました。どんな意味を込めたのですか。
 「15分間のショーで表現できることは限られています。今回は、白だけに絞り込むことで、もっと強さを打ち出したいと思ったのです。そこに込めたものは、希望のような気持ちかもしれません。現実は良いことばかりではなく、悪いこともあって、それも人生。そこから解き放たれることがいま大事なのではないか、という問いかけです」

 ――ウエディングドレスの袖の部分が拘束され、マスクのような帽子があり……。東日本大震災後の日本を表現したという見方もあります。
 「それは考え過ぎです。状況が窮屈であれば、自由の意味がわかりますよね。人は自由にならなければ一歩も進めない。それを拘束という形で反対に表現しただけです。新しいことイコール自由、自由イコール前に進むこと。一歩前へ進めば、物事はかなり解決できるものですよ」

 ――これまでの西洋的な美の基準にあえて異を唱え、新しい美を追求する姿勢から「反骨の母」と呼ばれています。その反骨心はどこからくるのですか。
 「世の中の不公平や不条理なことへの憤りでしょうか。本当は私だってそんなに強くはないですよ。ただ、強気のふりも時には必要です。ふりでいいのです。そうしないと前に進めないから。大変だな、どうしよう、としょんぼりしているだけでは何も変わらない。私も毎シーズン、自分の発表した作品が不十分だったのではないかと一度は落ち込んで、それからなんとか立ち直ったつもりになるのです」

 ――ファッションがあらゆる分野の流行に影響を与えた時代がありました。もはやそんな存在ではないのでは。
 「それは時代の変化で、そういうものかもしれない、もう負けかな、と思うこともあります。状況を変えられていないのは事実ですから。けれども、ファッションにはなお、人を前向きにさせて、何か新しいことに挑戦させるきっかけになる力があると信じています」
 「ファッションは非常に感覚的なものなので軽く見られがちですが、実は人間に必要な力を持っています。理屈やデータではなくて、何か大事なことを伝えて感じてもらう。アートとも違って、人が身につけることで深い理解が生まれます。軽薄とみられがちな部分も含めて私はファッションが好きです。ファッションはたった今、この瞬間だけのもので、それを今着たいと思うから、ファッションなのです。はかないもの、泡のようなもの。そんな刹那(せつな)的なものだからこそ、今とても大切なことを伝えることができるのです」


■取材を終えて
 ファッション界では珍しく、写真の被写体になることを強く嫌い、また寡黙なデザイナーとして知られる。今回も作品と震災の関係については、言葉少なかった。その代わり、発表する作品はいつも全く違ったテーマや新しい手法で、世の中に強く訴えかける。見るものを戸惑わせ、深く考えさせ、心を揺さぶる。
 ぼろぼろにほつれた服を引っさげて、パリモードの伝統に風穴を開けたパリ・コレデビューから31年。その間ずっと反骨の精神を貫いてきた。サングラスを好み、近寄りがたい雰囲気を漂わせる。だがインタビューではサングラスを外し、「時には強気のふりをしているだけ」とは意外だった。
 大量消費社会が行き詰まりをみせ、既存の価値観が壊れる中、「ふり」をしながらでも自らを鼓舞して前に進むこと、それが新しい流れを生み出すためにきっと必要なのだろう。(編集委員・高橋牧子)


川久保玲(かわくぼ・れい)さん
 1942年、東京生まれ。慶応義塾大学文学部卒業後、大手繊維メーカー宣伝部に入社。69年、「少年のように」を意味する仏語「コムデギャルソン」の名称で婦人服の製造・販売を始め、73年に会社を設立。75年、東京で初のショーを開き、81年からパリ・コレクションに参加。同時にデビューした山本耀司さんと共に、オートクチュールを頂点とする西欧モードを揺るがす「黒の衝撃」と騒がれた。その穴のあいた黒い服は日本でも「カラス族」「ボロルック」として流行。その後もパッドを体につけた「こぶドレス」(96年)、縫製の代わりに粘着テープで接着したジャケット(00年)など次々と話題作を発表し、前衛派の旗手として不動の座を保つ。朝日賞、毎日ファッション大賞、英国王立芸術大学名誉博士号、仏国家功労章などを受けた。

(以上引用)





ネット圏外

2012-01-18 08:31:34 | 日記


ぼくはツイッターもフェイスブックもやんない。

が、ひとのネット言論(一般意志2.0)は見ている。

今朝、不破利晴ツイッターで見た言論は面白い、三つ引用;


① yukawareiko 湯川れい子
確かにご正解です。RT @fujinamicocoro 脱原発世界会議大成功というツイートをよく見るけど、申し訳ないけど、ぶっちゃけ日本の未来、ヒトの命がかかっている問題に、2日で来場者1万2千人というのは少なすぎると思う。
7時間前
@Toshiharu_Fuwa がリツイートしました。

② iwakamiyasumi 岩上安身
「無税国家論」を唱えていた松下幸之助氏。その理念を実現するため、気鋭の政治家を育てようと開いたのが松下政経塾だった。その第一期塾生として入塾したのが野田佳彦氏。松下幸之助氏の薫陶を受けたはずの野田氏が、皮肉なことに今や大増税内閣の首班。
7時間前
@Toshiharu_Fuwa がリツイートしました。

③ bianc0_ner0 しろくろ
作家にTwitterやらせたら先陣切るのは正岡子規。漱石に勧めると140文字いっぱいツイット、月に3回位の頻度なのにその全てを芥川にRTファボされる、当の本人は番付の常連で、菊池寛がそれに対抗。鷗外は軍医の公式アカ、太宰は夜中に連投。宮沢賢治はそもそもネット圏外。
9時間前
@Toshiharu_Fuwa がリツイートしました。

(以上引用)



三つ目のツイートにある《宮沢賢治はそもそもネット圏外》という言葉に打たれる。

だから、宮沢賢治は、ぼくが近代で唯一興味を持てる<日本人>なのだ。

なかなか賢治を“読む”ことはできないけれど。

以上でこのぼくの“ブログ”は完結している。

しかし、“上記”のように書いたところで、“伝わらない”だろう。

“伝わらないこと”を書けるのも、“ネット言論”である。





<追記>

上記を書いたあとに、‘あらたにす=新聞案内人’で水木 楊(作家、元日本経済新聞論説主幹)とかいうひとの、“新聞に期待する”という文章を読んだ。

こういう文章こそ“伝わる(はずの)”文章なのだ(もちろん皮肉だ)

そういう文章の一部を“例文”として引用しておく;

《 論理が弱いことは、ツイッターやブログも同じようなものです。人間はよほど面白いものでないと、パソコンのモニターに長い間、目を凝らし、論理を追うことなどできない。(というと、この「案内人も同じ電子メディアではないか」と言われそうですが、この欄は幸い、筆者の好きなだけの長さで原稿を書くことを許されていますので、論理展開が可能です)
 論理が溶けていく―これはなかなか由々しい問題で、私たちや次世代の人々は論理的に物事を考える頭の働きを失いつつあるのではないか。
 私はたまたま学生の作文や論文に触れる機会があります。そこで気が付くのは、ただ仲間内と話しているような、論理構成が乏しい、いわばツイッターのような作文や論文が多くなっているということです。
 論理を失うと何が起きるか。結論を先に言うなら、人は歴史観を失います。過去には無数の事実があります。その無数の事実の中から、自分が重要だと思う事実を取り上げる。なぜ重要かを説明する。これこそが歴史観であり、論理なのです。
 歴史観を失った民族は、過去から学ぶことをしないわけですから、必ず衰退します。いや、日本はすでに衰退しつつあるのかもしれない。》(引用)


ぼくは上記の“論理展開”に反対ではないし、ネットより“旧大メディア”(熟議!)がいいとかわるいとか、言っているのではありません。


正しい論理展開をするひとが、その論理展開のように生きる意志(方向)があるかどうかだけが問題のように感じるだけです。






ゲット・バック

2012-01-15 11:18:46 | 日記


★ ビートルズが歌った「ゲット・バック」の歌詞は、だれでもすぐにおもいだせるとおもう、ジョジョはアリゾナ州トゥーソンの故郷の家を離れ、当時のすべての欲望の風見鶏たちがこぞってめざしたカリフォルニアに、商品化された草(グラス)の文化を求めていった。でもジョジョのその選択はまちがっていた、カリフォルニアにあるのは夢の茶色の残骸、荒れはてたプラスチックの文明のがらくたばかり、ほんとうに驚くべきことは大洋の果ての流行の都会ではなく、内陸の姿を変えた大洋、欠乏の大地である砂漠のまっただなかの彼のホームタウンの周辺で、つねに起こっているのに。

★ 人間の時間とはくらべものにならない尺度にたつ地質学的時間、人間の快適とは無縁のもっと裸の生命力がむきだしになる砂漠で、惑星という一者の途方もない現存をまえにして、人はたちまち自己の無意味、存在のどうしようもない軽さを知る。

★ いかなる擬人化、いかなる人間世界への類比もこばむような、徹底して非人間的な風景に、ただひとりむきあう。風景のエレメンタルな実質、存在のマテリアルな表層に、じかにふれ、ふれつづける。人間が伝統的におこなってきた感情的描写の外部で、ジュニパーの木を、ひとかけらの石英を、一羽の鷲を、一匹の蜘蛛を、そのものとして見る。

★ あらゆる存在の連続的な基底に降りたちながら、たとえもはや「人間」ではなくなったとしても、なおあるレベルの「この私」が崩壊することなく、その融合状態を強く体験する。世界とのマテリアルな一致の先に、泡だつように生まれてくる意識の出生を、もういちどその起源から見つめなおす。

★ いつか砂漠が死ぬなら、われわれはこの惑星で起こりつつあるもっとも本質的なできごと群を、喜々として忘却することになるだろう。人でなしの世界は人間化され、地球は多くの真実を失うだろう。そのとき人間が手に入れるつねに新しい殺戮・拡大・蓄積の生活の、はたしてどこにどんな優美さがありうるだろう?

<菅啓次郎『狼が連れだって走る月』(河出文庫2012)>







歩く人

2012-01-14 09:45:01 | 日記


★ 「おまえの宗教は何か?キリスト教徒なのか?」
ぶっきらぼうに投げかけられた問い。そこまでは、ちょっとした旅行の中でだれにでも起こりうる、ありふれた状況だ。でもそんな問いに対する答えが、われわれひとりひとりを大きくお互いからひきはなすものになる。筋金入りのタフな旅人ブルース・チャトウィンなら、信仰をめぐるこの微妙な問いに、こんなふうにすっきりと答えてみせるだろう。「今朝のところ、ぼくはこれといった宗教をもっていない。ぼくの神は<歩く人々>の神だ。もしきみがじゅうぶんに真剣に歩きぬくなら、たぶんそれ以外の神さまなんて、必要ないんじゃないかな」

★ 「ぼくの広大なさびしさに似あうのは、もはやパタゴニア、パタゴニアしかない・・・・・・。」片腕のスイス人の世界放浪者、ブレーズ・サンドラールの『シベリア横断鉄道』からとられたこの詩句を冒頭にかかげた『パタゴニアで』が、チャトウィンの最初の本だった。97の断章からなるこの恐るべき旅行記は、意志的な眼をした物静かなブロンドのイギリス人青年の、目をみはるべき広大さをもった特異な精神の風景を、いっきょに明らかにした。

★ 旅をめぐる記述、さらには旅そのものをつねに模倣しながらすすんでゆく記述について考えようとするとき、ぼくの弱い視力の眼には、第二次世界大戦のさなかに生まれた世代の三人の作家の後ろ姿が大きく、輝かしく、はるかな前方をすみやかに逃げ去ってゆくのが映っている。彼らの歩みは音もなく、急いでいるとも見えず、気負いもなく、けれども力強く、ためらいを知らず、けっして追いつくことができない。三人とは、1940年生まれのJ.M.G.ル・クレジオ、いずれも1942年生まれのペーター・ハントケと、このチャトウィンのことだ。

★ でもいくつもの土地をつぎつぎに遍歴してはそのつど深い傷を負ったり原因不明の熱にとりつかれたりするかれらのような旅人のことを、エグゾティシズムに放埓に身をまかせる無自覚な旅好きのコスモポリタン作家たちと同一視してはならない。国境と故郷を温存しつつ異邦のもっとも好ましい部分だけをかすめとってくる国際主義的世界旅行者たちの残忍さ、ロマンティックな故郷喪失の感傷と盲目的な放浪への衝動にかられた潜在的な帝国主義者である越境する偽ノマドたちの気楽な退廃は、かれらのきびしく内面的な旅とは、まったく相容れないからだ。

★ かれらはよく歩く。自分自身の足で、どこまでも、ただひとりで。

<菅啓次郎『狼が連れだって走る月』(河出文庫2012)>







夜がまた来る

2012-01-11 14:38:33 | 日記


★ あかく焼けただれた雲間に、幾条ものサーチライトの柱がはりついていた空襲下の東京の夜。雪に埋もれた街並みの、そこだけが進駐軍のクリスマスツリーで華やいでいた北陸の小さな町の夜。夜どうし松に風がさわぎ海が鳴きつづけて、火廻りの拍子木が淋しかった山陰の村の夜。家近く酒場とパチンコ店から「上海帰りのリル」と「芸者ワルツ」がひっきりなしに枕もとまでひびいてきた京都の夜。と、おぼろげながら、すごしてきた町々の夜の残像が思い出される。

★ しかし少年のころの僕は、実際以上にもっとたくさんの夜を持っていた。それは想像(イメージ)のなかの夜である。夜ふとんのなかで、見知らぬ他国の夜をつぎつぎと空想する。少年雑誌で読み、挿し絵や写真で見た行ったこともない異郷のロマネスクな夜の町への憧れ。夢想のなかの夜は、なんと甘美にもさまざまな友だちを僕のかたわらにつれてきて、僕の実際の夜のわびしさを忘れさせてくれたことだろうか。少年時代の夜は、百鬼夜行する闇の魔界でもあれば燦然と灯のまたたく不夜城でもあった。

★ 1968年。時代は騒然と脈打っていた。反70年安保、学園紛争の両頭が一体に呼応し合って権力へ、その支配する時代へと熾烈な闘争をくりひろげていた。街頭を、東京を、日本中を、<反戦!>のシュプレヒコールが席巻し、路上で、広場で、キャンパスで、デモ隊と機動隊とが衝突をくりかえしていた。

★ 反面東京の夜は、あざむくような灯火が氾濫し、商品(もの)とアルコールの海のなかに人々はどっぷりとまみれ酔いしれていた。街々には反戦歌(プロテストソング)が流れ、しかしその裏では、デスペレートな歌声が聞こえていた。青江美奈が逃げてしまったしあわせは、と。黛ジュンがおしえてほしいの涙のわけを、と。高倉健が親の意見を承知ですねて、と。それぞれの夜をくりかえし歌いつづけて不思議なコントラストを持った時代だった。僕は連日夜の街に向けてシャッターを切りつづけ女と酒を飲みつづけていた。

★ 当時僕の身近には、学園闘争に加担していた知識人たちがいて、そのスローガンが「夜明けを見るのは俺たちだ!」であった。僕はそうした一連の心情三派風(ムードミュージック)が大きらいで、うそつけ<朝はもう来ない>のよと強い反感をおぼえていた。じっさい僕にとってそのころは、むろんいまもそうなのだが、釈然としない焦燥感と索漠とした気分のまま、ひたすら写真を撮り、やみくもにプリントすることだけが唯一の救いであった。

<森山大道『犬の記憶』(河出文庫2001)>







WALKING ON THIN ICE

2012-01-10 01:51:01 | 日記


薄氷の上を歩く
私は支払った
さいころを空中にほおって

なぜそんなにきびしく学ばなければいけなかったの
そしてあなたの心臓で人生というゲームをした
私はあなたにわたしのナイフをあげた
あなたは私にわたしの命をくれた
私の髪の中のひとにぎりの風のように

なぜわたしたちあの言葉をわすれたの
そしてわたしたちの心で人生というゲームをした
わたしはいつか泣くだろう

でもいずれ涙は乾く
わたしたちの心臓が灰に帰るときには
それがわたしたちのお話し
それだけがわたしたちのストーリー

“ああその娘なら知ってるよ
 湖を歩いて渡ろうとしたんだ
 冬で一面氷が張っていたから
 でもばかげたことじゃん
 この湖は海みたいに広いんだ
 彼女はそれをわかっていたんだろうか?“

<ヨーコ・オノ:”WALKING ON THIN ICE”>





誤り(エラー)と真理

2012-01-09 23:06:29 | 日記


★ そしてこれらの問題の中心には誤り(エラー)の問題がある。というのは、生命のもっとも根源的なレベルにおいて、コードと解読の働きは偶然にゆだねられている。それは病気や欠陥や畸型になる以前の、情報システムの変調や「取り違え」のようなものだ。極端な言い方をすれば――そしてそこから生命の根源的な特徴が生じるのだが――、生命とは誤ることができるようなものである。異常の概念が生物学全体を横断している理由はこうした前提条件、いやこうした根本的な偶発性に求められるだろう。こうした偶発性ゆえにこそ、突然変異や進化のプロセスが導き出される。同様に、こうした偶発性があるからこそ、生命は人間の出現とともに、けっしておのれの場に落ち着けないような生体に到達する。それは「さまよい」、「誤る」よう運命づけられている。だからこそ、特異でもあり遺伝的でもあるこの誤りを問題にしなければならないのだ。

★ そして概念とは、生命みずからがこの偶然に与える答えであるということを認めれば、誤りとは人間の思考と歴史をかたちづくるものの根源だと考えなければならない。真と偽の対立、真偽に付与される価値、さまざまな社会や制度がこの分割に結びつけて考えている権力効果など、すべてが生命に固有な誤りの可能性への遅ればせながらの回答にすぎないのかもしれない。科学史は非連続なものであり、それは「訂正」の系列として、真と偽の新たな配分としてしか分析できず、真理の最終的な瞬間を解放してくれることもけっしてないとすれば、やはり「誤り」は約束された完成の忘却や遅れではなく、人間の生命や種の時間に固有な次元をかたちづくることになるだろう。

★ 真理とはこのうえなく深い嘘である、とニーチェは言っていた。ニーチェから近いと同時に遠いカンギレムは次のように言うだろう。真理とは、生命の長い年代記において、もっとも新しい誤りである。さらに正確に言うならば、真と偽の分割や真理に付与された価値は、生命が発明し得たもっとも特異な生き方をかたちづくっているのだ。生命はその究極の起源以来、誤りの可能性をみずからのうちにはらんでいるのだから、と。カンギレムにとって誤りとは、生命と人間の歴史が巻き付いている恒常的な偶然のことである。この誤りという概念によって、カンギレムは生物学についての知識とその歴史の方法とを結びつけることができる。ただし、進化論の時代のように、生物学からその歴史を演繹しようなどと考えることはない。誤りの概念によって、カンギレムは生命と生命の認識の関係を見きわめ、価値と規範の存在を導きの糸のようにたどっていくのである。

<ミシェル・フーコー“生命―経験と科学” 『フーコー・コレクション6』(ちくま学術文庫2006)>








パサージュ

2012-01-09 15:15:18 | 日記


★ ボードレールの文学のもつ無比の特徴は、女と死のイメージが、第三のイメージ、すなわちパリのイメージのなかで浸透しあっていることである。彼の詩におけるパリは沈める都市、しかも地中にというよりは水中に沈める都市である。この街のもつ地下的要素―――パリの地誌学上の地層、つまりセーヌ川がかつてそこを流れていた河床――は、たしかに彼のなかに跡をとどめている。

★ しかしボードレールの場合、都市がもつ、「死の影がさす牧歌的雰囲気」において決定的なのは、ある社会的な基層、近代的な基層である。近代的なものが、彼の詩の主アクセントのひとつである。彼は理想を寸断して憂鬱と化する。しかしまさに近代こそが、たえず原史を引用するのである。それがここで起きるのは、この時代の社会的諸関係および社会的所産に特有の二義性による。

★ 二義性とは弁証法がイメージとして現われたものであり、静止状態における弁証法の定則である。この静止状態がユートピアであり、弁証法的イメージはしたがって夢のイメージということになる。そのようなイメージをなしているのがたとえば商品そのもの、つまり物神としての商品であり、またたとえば家屋でもあり街路でもあるパサージュ、またたとえば売り子と商品を一身に兼ねる娼婦である。

<ヴァルター・ベンヤミン“パリ―19世紀の首都” ベンヤミン・コレクション1(ちくま学芸文庫1995)>







対話

2012-01-05 16:46:35 | 日記


★ さらに、完全に独居して孤独の対話にいそしんでいるときでも、私は複数性から完全に切り離されることはない。というのもその複数性とは、まさに人間の世界のことであり、もっとも一般的な意味で「人間性」と呼ばれるものだからである。

★ この人間性、いや、むしろこの複数性と呼ぼうか、これはすでに、私は一者にして二者である、という事実の内に暗示されている。(略)人間は、あらゆる地上的存在と同じように複数性において生存するだけでなく、自分自身の内部にこの複数性を暗示するものをも持っているのだ。

★ しかし、私が独りでいるときに一緒にいる自己は、それだけでは、他の人々すべてが私に対して抱くのと同じような、明確で、独自な形とか特徴を持つことは決してできない。むしろこの自己は、つねに変わりやすく、少々怪しげなままであり続けるのである。

★ まさにそうした可変的で曖昧な形で、私が独りでいるとき、この自己は私にとってはすべての人間、すべての人間の人間性を象徴する。私が他の人々にしてほしいと期待すること――そしてこの期待はあらゆる経験に先立ち、あらゆる経験を乗り越えて残る――は、大体において、私が共生している自己の変幻自在の可能性によって決定されるのである。

★ 言い換えれば、殺人者は彼自身の殺人鬼的自己と永遠に交際し続けることを運命づけられるだけではなく、彼自身の行動を雛形にしてありとあらゆる他人を見ることにもなるだろうということだ。彼は潜在的殺人者の世界に住まうようになるのだ。

★ 人間は思考と行動が一体となった存在――言い換えるなら、思考が、つねに、不可避的に、行動に同伴している人間――であるという自覚こそ、人間と市民を改良するものであると彼(ソクラテス)は考えたのである。この教えの基調を成す前提は思考であり、行動ではない。なぜなら、ただ思考においてのみ、一者における二者の対話は実現可能であるからである。

<ハンナ・アレント『政治の約束』(筑摩書房2008)>