Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

快楽

2009-06-30 20:58:58 | 日記
“快楽”という言葉を最近よく目にする;

★ その場合には、私はもう同じ言葉を繰り返さなければならない。
他のすべての場合に妥当することがこの作品にも妥当すると教えてもらったことによって、私たちのこの作品についての理解はどれだけ深まるのか。私たちがこの作品から引き出すことのできる快楽はどれだけ増大するのか。私たちの世界の文学的生成力はどれだけ賦活されるのか。(内田樹ブログ)

★ 「ご飯を作る」というのは、原理的には「ありもの」を使って、そこから最大限の快楽を引き出すということである。
★ そして、この「ご飯を作る場面」を村上春樹は実に丹念に、ほとんど愉悦的に書き込んでおり、読者もまた、その場面を読むことからつよい快楽を引き出している。(内田樹ブログ)

★ ひょっとすると、大衆の快楽というのは幻想に過ぎないのかもしれない、大量生産とエレクトロニクスで幻想を煽り続けてきたのがアメリカかも知れない。だがそれは寂しい考え方だ。快楽は確かにあるし、それについて考える時はすでに快楽は遠ざかっているので、寂しい考え方が生まれたりするのだろう。何度でも言おう、快楽は存在する。快楽は言葉を必要としない。快楽には時間と金がかかる。快楽は疲れる。だから貧乏人には快楽はないのだ。(村上龍 「アメリカン★ドリーム」;先日、不破利晴ブログに引用されていた文章)


さて。

ぼくも、“快楽”がないよりあったほうがよい(さびしく笑う)

だが、快楽には、“言葉を必要としない”ひとと“必要とする”ひととがいるようである。

“快楽は言葉を必要としない”と言葉で書くひとより、“ご飯を作る場面”に快楽を感じる人の方が“素直”であるわけでもない。

というか、なんで、この人たちは、快楽について、ひとに向かって、“なにかを言う”のだろうか。

それが、“快楽”なんだろうか(爆)

せめて、“自分の快楽”について、具体的に語ってほしい。

ぼくがほんとうに、快楽のさなかにあるなら、つまらないおしゃべりは、しない。


不破利晴ブログにこたえる

2009-06-30 08:33:01 | 日記

不破君が“中上健次と村上春樹”というブログを、“warmgun宛て”に書いているのを今見た。

ただちに“返信”の必用を感じる。
しかし今日もぼくは仕事に行く(笑)
9時に出ればよいので、まだ時間はあるが、考える時間がない。

この不破君のブログに応えるためには、東京新聞にのった、柴田勝二というひと(ぼくは知らない)の『中上健次と村上春樹』という本と、それに対する井口時男(名前はきいたことがある)の書評と、それにたいする不破君の感想の、すべてにたいして“反応”しなければならない。

だがそれよりも問題なのは、もしいま、中上健次と村上春樹ということについて、総括的に書くなら、ぼくにとっては、“ほとんどすべて”を書くことになるということ。

“ほとんどすべてを書く”ことは、ひとつのブログで不可能なだけでなく、現在のぼくには不可能である。
あるいは、ぼくの毎日書いているブログは、“ほとんどすべて”、この“中上健次と村上春樹”に関与していると言ってもいい。

ぼくはこの“中上健次と村上春樹”ということを考えるために、日本人以外の人による“相対化”を必用としているので、“外人”の本“も”読んでいる。

“中上健次と村上春樹”以外の“日本人”など、どうでもよい(爆)

つまりぼくとしては、この二人が“全共闘世代”であるなどという、“非歴史的”認識に賛同することはできない。

もし“全共闘世代からポストモダンへ”というような認識が意味あるなら、それは全歴史過程の問題である。
いや“全歴史過程”などという大仰なはなしではなく、ただの“歴史”である。

つまり、ある書物の書き手が(というよりあるひとがなにかを言うなら)、そしてそれに“意味がある”と感じられるなら、その意味を現在において自分が読んでいるなら、そこにすべての“歴史”は存在するのではないだろうか。

ぼくにとっては、そういう“作家”が、“中上健次と村上春樹”なのであって、それが客観的に正しいかではなくて(彼らを代表させることが正しいかではなくて)、ぼくにとってはそうだったから、ぼくはそれを“主張する”のである。

つまり“現在”というのは、あるいは“現代作家”を読む(小説に限らない)ということは、それまでの“歴史的言説の蓄積”をも読んでいるのである。
たとえば中上健次を読むならば、夏目漱石も読んでいるのである。

なぜなら中上が漱石を好きだったり影響を受けたかは不明だが、中上も漱石を読んだからである。
あるいは、“ほとんど読まなかった”にしても、漱石の書いたものをから断絶して、中上の日本語は存在し得ない、村上春樹も同様である。

ぼくはこのことを“歴史”というのであって、“影響関係”ではない。

もっと極端に言えば、中上や村上が漱石を1冊も読んでなくてもよいのである。
つまり、ぼくたちは、“先人の日本語”に拘束されている。
またこの近代においては、“先人の日本語”というのは、外国で書かれたものの“翻訳語”であった。

たとえば、ぼくたちは(つまり現代に生きているぼくたちは)『源氏物語』を、それが書かれた時代のようにも、それ以後の江戸時代までの人々が読んだようにも、けっして読み得ない。

なぜなら、日本近代初頭の“言文一致”や“口語体”によって、日本語は決定的に変質したからである(柄谷行人や小森陽一を参照せよ)

たしかに、まさに“今”において、この日本語が、明治初頭以来の、決定的変換期にさしかかっているということは、言えるかもしれない。

大江健三郎、中上健次、村上春樹のような人々が、後世から“歴史的に回顧”すれば、その“さきがけ”であったというふうに。

しかし村上春樹という個人の作品の“歴史”にみられるように、その“変化”は、逆行することもあるので、こういう変化が直進するわけではない。
むしろ現在、ぼくなどが知らない、ぼくが読んでも違和感を感じる日本語こそが、未来の日本語である可能性がある。

そのうえで、いったいこの変わるものに対して、“変わらないことの意味”というものが、あるのかという根本問題が提起される。

たとえば“人間が依拠すべき人間的本質=意味”のようなものが。

不破君自身の中上健次への感想;
《 鉈に打ち付けられる”感触”とは、ポストモダンの感受性とは相容れない遠い地平にあるものだ。中上健次はその時々において、ズドンと鉈を振り落とすように作品を書いていた。ただそれだけのような気がする》

というのが、印象に残った。

ただし、中上が“ポストモダンの感受性とは相容れない”というのは、“時代性や思想性はない”ということではない。
逆に村上春樹に“時代性や思想性がある”のでもない。

まあ冗談を言えば、“時代性や思想性はない”ということが、“時代性や思想性”であることもあるのである。

結局、対象がなんであろうと、なにかを読んでいるとき、そこに書かれている“言葉”とその“つらなり”が、ぼくのこころに、なんらかの“小波”を立てるのであれば、“それはなんだろう?”と“考える”わけである。

つまりそれが、“奇蹟”である。

とりあえず、即興で(いつもそうだが)書いてみた。

この“問題”には、何度も戻っていくだろう。


・・・とは、そんなもんだ

2009-06-29 21:44:11 | 日記

<核持ち込み黙認、米と密約「文書あった」と元外務次官>アサヒコム2009年6月29日20時54分

 1960年の日米安保条約改定の際、核兵器を積んだ米艦船の日本寄港や領海通過に事前協議は必要ないとする秘密合意を日米両政府が結んだとされる問題で、元外務事務次官の村田良平氏(79)が29日、朝日新聞の取材に「そうした文書を引き継ぎ、当時の外相に説明した」と述べた。
 核密約については、米側公文書などで、すでに存在が裏付けられているが、日本政府は一貫して否定してきた。外務省の事務次官経験者が証言するのは初めて。
(以下略)


<政府高官「密約はないことになっている」 核持ち込みで>アサヒコム2009年6月29日20時27分

日米両政府の「核持ち込み密約」の存在を河村官房長官が否定したことについて、政府高官は29日、記者団に対し「政府見解だからしょうがない。文書そのものがないことになっている。ないものは出せない」と、政府見解が建前とも受け取れる発言をした。
 元外務次官の村田良平氏が密約に関する文書を引き継いだと証言したことについては「政府見解として固まっているから、その人の言っていることは正しい、なんて言えない。本当に証拠を出してくるなら別だが。外交とはそんなものだ」と指摘し、政府として調査する考えがないことを強調した。



はてさてみなさん、“外交とはそんなものだ”ということだそうです。

ところでこの“政府高官”とは誰なんですか。
朝日新聞は誰をかばっているんでしょう?

“外交とはそんなものだ”というなら、“政党政治とはそんなもんだ”ということになる。

今日も“日本人とはそんなもんだ”というニュースがアサヒコムだけでめじろ押しです;

<JAL副操縦士、立ちションで連行 ハワイ、1便欠航>

<「人事は考えてません。はっはっはっ」(29日の首相)>

<橋下知事「自公の議員パーティーも、しばらく出ません」>

<金融庁長官「とても悔しい」 シティバンク銀不祥事続き>

<「僕でいい?」球宴出場選手ひとこと集〈パ・リーグ〉>

<集団強姦の疑い 専門学校生4人を逮捕 群馬県警>


笑っていいかい?  いいとも!

“日本人とはそんなもんだ”!!!(涙)



セザンヌの疑惑

2009-06-29 21:07:48 | 日記
サイード『故郷喪失についての省察1』の最初に収録されている“受肉の迷宮-モーリス・メルロ=ポンティ”の最後にメルロ=ポンティの“セザンヌの疑惑”からの引用がある。

この翻訳は、これで三つ目となった。
読み比べるとかなりニュアンスがちがうので、比較してみる。
ぼくは原文と比較したのではないし、仏文の読解力にも乏しいので、どの訳が“正確”かは判定できないが、“外国語を翻訳した日本語”というものが、いかに微妙であるかを知った(サイードの引用からの翻訳の原文は、当然、英語であろう)

A:サイード『故郷喪失についての省察』に引用された翻訳:大橋洋一ほか共訳

けれども彼が、キャンバスの上の色彩によって、おのれの自由を実現せねばならなかったのは、まさにこの世界においてである。彼はみずからの価値の証を、他者の賛同に求めねばならなかった。そうであるがゆえに、彼は、おのが手の下でかたちをなしてゆく絵画に問いかけたのだ。なぜわたしは、他人がわたしのキャンバスに向ける眼差しに一喜一憂するのか、と。まさにこれゆえに、彼は作品を最後まで完成しなかった。わたしたちは人生から逃れることはない。[人生に捕われた]わたしたちは、自分の観念や自由を、面と向かって見ることはない。


B:『メルロ=ポンティ・コレクション』(ちくま学芸文庫):中山元訳

セザンヌは相変わらず世界において、キャンバスの上に、色彩を使って、自分の自由を実現しなければならなかった。彼は自分に価値があるという証拠を、他者と他者による同意に求めざるをえなかった。彼が自分の筆の下で生まれてくる絵に疑問を抱き、他人がキャンバスに投げ掛けるまなざしを盗み見したのはそのためである。彼が制作をやめなかったのもそのためである。わたしたちは自分の生から離れることがない。観念も自由も、そのものを直視することはできないのである。


C:『メルロ=ポンティ・コレクション4 間接言語と沈黙の声』(みすず書房):粟津則雄訳

だがそれでもやはり、彼は、この世のなかで、カンヴァスの上に、色彩によって、おのれの自由を実現しなければならないのだ。彼はおのれの価値の証しを、他人に、彼らの同意に期待しなければならぬ。それゆえ彼は、おのれの手もとで生まれ出る絵に問いかけるのであり、おのれのカンヴァスにそそがれる他人のまなざしをうかがうのである。また、それゆえに、彼は、けっして制作をやめなかったのである。われわれは、けっしてわれわれの生を離れ去ることはない。われわれは、けっして、観念や自由を、差しむかいで眼にすることはないのである。


上記引用で、ぼくがいちばん好きな“日本語”は、さいごの“C”である。

いや、この翻訳が、いちばん“正確な”日本語だと思う。
メルロ=ポンティの思想にも忠実だと思う。


いったい“このひとたち”は何を言っているのか!

2009-06-29 07:44:34 | 日記

先日、
“約3万5千年前の楽器がドイツの洞窟で出た”
“同じ場所では先に、マンモスの牙でこしらえた最古の裸婦像が出た”
という記事と写真にはぼくも注目した。

天声人語氏の感想は以下の通り;

▼ どんな音色にせよ、節をつけて鳴らすことにある種の快感が伴ったと思われる。旧石器時代、生活の傍らにすでに音楽があったことになる。同じ場所では先に、マンモスの牙でこしらえた最古の裸婦像が出た。骨笛もまた、芸術の起源か、信仰や呪術の道具だったのだろう▼戯れから娯楽が生まれ、やがて美意識や祈りに昇華する。そんな「音の出世」は確かにあるけれど、記憶の入れ物、運び手としての役割も心にとめておきたい。ほこりまみれの木琴に、大切な人を過去から招く力が潜むのだから。(引用)

いったいこのひとは、何を言っているのか。
“音の出世”とは何か?
無意味なことを言って、商売をしないでほしい。


じゃあ読売は“意味あること”を言っているだろうか;

6月29日付 編集手帳
 17世紀の恋愛小説「クレーヴの奥方」が、最近フランスで政治的抵抗のシンボルになっている。この作品についての設問が公務員試験に出題され、サルコジ大統領が、何の意味があるのかと疑問を呈したことが発端だった◆古典や教養を重んじる知識人たちは強く異議を唱えた。大統領が進める成果主義を重視した大学改革への反発もあったようだ。学生や教員が各地で開いた抗議集会では、いわば“よろめき”を描いた「クレーヴの奥方」が朗読された◆たたき上げから米国の鉄鋼王の地位を築き上げたカーネギーはその昔、大学でシェークスピアやホメロスを学ぶのは時間の浪費だと批判した。実学と教養とのバランスは、古くて新しいテーマでもある◆経済学者の猪木武徳さんは、近著「大学の反省」(NTT出版)で本格的な教養教育の復活を提唱している。専門教育は重要だが、人間の深い洞察力は古典教養を通じてこそ培われるのだ、と◆実用研究が奨励される最近の大学では、人文系の研究者が育たないとも憂える。思えば、日本が世界に誇る恋愛小説「源氏物語」も世界の人々を魅了しつづけている。(引用)

この書き手は、ほんとうに“古典教養”が必用だと思っているのだろうか。
古典教養というと『源氏物語』しか思い浮かばないひとが。
なぜ“現代教養”ではないのだろうか。
ぼくは、「クレーヴの奥方」、“シェークスピアやホメロス”、「源氏物語」を今読むためには、“戦後に書かれたもの”をもっと読む必要があると思う。

つまり、古典だけを読んでいては、わからない。

以上、出勤前なので、とりいそぎ。


不破ブログに触発される

2009-06-29 00:22:46 | 日記
今日は夕方寝たとはいえ、もうミッドナイトである。
が、いま不破利晴ブログ(“マイケル・ジャクソンと「快楽」”)を読んで触発された。

いくつかの論点を箇条書きにする(これは問題提起である)

★まず不破ブログ最初に引用されている村上龍発言である;

《ひょっとすると、大衆の快楽というのは幻想に過ぎないのかもしれない、大量生産とエレクトロニクスで幻想を煽り続けてきたのがアメリカかも知れない。だがそれは寂しい考え方だ。快楽は確かにあるし、それについて考える時はすでに快楽は遠ざかっているので、寂しい考え方が生まれたりするのだろう。何度でも言おう、快楽は存在する。快楽は言葉を必要としない。快楽には時間と金がかかる。快楽は疲れる。だから貧乏人には快楽はないのだ。》~村上龍 「アメリカン★ドリーム」~

“寂しい考え方”というのは、ここでの村上龍のような考え方である。

村上龍は、“ジャパン資本主義”の広告塔である。
彼の感性はデビュー当時から“オキュパイド・ジャパン”(占領された日本)の奴隷根性でしかなかった。
初期はそれを文学的レトリックで隠していたのだが、歳とって“羞恥心”もなくなった。

★ ついでにもうひとりの“村上”についても言っておく。
“こっちの感性”は、不破ブログが展開している“アメリカ・セレブ・カルト”に関与している。
『1Q84』は、“偉大な愛の物語”ではまったくなくて、“カルト”である。
ぼくは、めんどうで今これを論証する根気がないが、絶対の確信をもっている。

★ アメリカの“地域的問題”
ひとつにはロス-ハリウッド”カルチャー““と”ニューヨーク“カルチャー”の対比が必要である。
もちろん“覇権は”ニューヨークからロス-ハリウッドに移行して、爛熟し腐敗した。
さらに、“アメリカ”というのには、ロス-ハリウッド-ニューヨーク“しかない”のではない。
南部(フォークナー)があり、中西部があり、北部(メイン州-スティヴン・キング、ジョン・アーヴィング)がある。
このことについては、“キリスト教原理主義”や“移民”や“ブラック・ピープル”や“ネイティブ・アメリカン”の問題として“まだ”検討すべきである。

★ ロス-ハリウッド“セレブ人生-カルチャー“こそ不破ブログのテーマである、引用する;

《「金」と「時間」を手にした「物事を考える頭」をもつ人間は、倒錯した「セックス」に耽り、自分の体をいじり、自分の精神をいじり、ついには「カルト」にまで行き着いてしまう。彼らが個人的な生活の中で追い求めるのは金に裏打ちされた肉体的・精神的「快楽」そのものなのである。これがアメリカン・セレブの辿る形態の一つでもあり、その内の何割かは経済的、もしくは肉体的破綻のために社会的に消えてしまうか不幸な死を遂げている》(不破ブログ)

まさにここで問題になっているのは、“資本主義とセックス”の相関である。
ここから、“異常セックス-”倒錯“-カウンセリング-整形-異常死”の問題群が浮上する。
“精神を癒す”カルト集団の乱立が、現れる。

もう一度不破ブログから引用する;

《セックスに耽るということは、相手の肉体を見つめ、ひいては自身の肉体を見つめなおすということでもある。自分の肉体の一部に何らかのコンプレックスを見いだした時、セレブはそれを見過ごすことなどできなくなる。金さえあれば思うような肉体が手に入るといった幻想を、セレブ達は刷り込まれているからだ。よってここに整形手術という選択肢が生まれてくる》(引用)

不破君は“無意識”かもしれないが、
《セックスに耽るということは、相手の肉体を見つめ、ひいては自身の肉体を見つめなおすということでもある》
というのは、“アメリカ的セレブ”に対する最大の皮肉である。

まさに、《金さえあれば思うような肉体が手に入るといった幻想を、セレブ達は刷り込まれている》ということそのものが、
《相手の肉体を見つめ、ひいては自身の肉体を見つめなおす》
ことに反しているからである。

ぼくもアメリカ・セレブは、ぼくの下記ブログの“ように”、サイードのように、メルロ=ポンティぐらい読め、と皮肉を言いたい。

本を買うカネと、本を読む時間は、あるはずである。

しかし問題は、“日本人”が“アメリカおよびアメリカ人”を“トンと認識していない”ことのみにあるのではない。

分かりもしない対象を、ひたすら“マネッコする”根性の卑しさそのものが問題ではないか。

“異常である”ことは、罪でも悪でもない。

だがそれを“認識しないこと”(認識しないで放置すること)は、かなり恥ずかしいことである。





<追記>

なおこのブログ(“日本が異常な国であることのひとつの証拠”)の日経社説について、ツナミンから適切なコメントがよせられている。
コメントを参照してほしい;

《それほどまでに、日本社会は“世間的規範”とは違う生活形態を理解しえない社会なのです》



メルロ=ポンティからグレン・グールドまで

2009-06-28 12:53:55 | 日記
サイードの“エッセイ集”『故郷喪失についての省察1』(みすず書房2006)を買った、高い本である(笑)

最近までぼくは、この本の存在を知らなかった。
書店の棚を見ていても、なるべく高そうな本は見ないようにしていたからである(爆)
(たとえばドゥルーズの『感覚の論理―画家フランシス・ベーコン論』(法政大学出版局)などという本は9000円以上するのである)

ごく最近『『故郷喪失についての省察2』の刊行案内を読んで、この本の存在を知った。
紀伊国屋書店で“1”を見たら、帯にこう書いてあったのだ;
“メルロ=ポンティからグレン・グールドまでを論じた17篇を収録”

ああ!
“メルロ=ポンティとグレン・グールド”というのは、ぼくがもっとも好きな少数の人々うちの二人なのだ。
これを買わずにはいられない。
“しかも”これを書いているのは、“サイード”なのだ。

しかし、なんと! “本体4500円+税”なのである。

みすず書房さん、“あなた”がよい本を出しているのは存じております。
こういう良い本ばかり出していては少数の販売しか予想できず(図書館とか)、経営が苦しく、価格を高くせざるを得ないことも想像できます。

しかし、  ナントカして!(笑)

こういう本が、手軽に買えなければならないのです。

こういう本こそ、“多くの人に”読まれるべきなんです。

まだ現在、ぼくはこの本を読みはじめたばかり(昨日購入後に、いつもの紀伊国屋書店そば喫茶店で“序 批評と故郷喪失”の一部は読みました)

この本を買えない(笑)方々のために、引用予定なので、ご期待ください!




<追記>

そういえば、現在爆発的ベストセラー中の某有名作家(たしかハルキ君)の本も上下巻で4000円近くするんです。

まだ買ってない方は、1000円足してでも、“この本”を買いましょう。

もしそれであなたが不満なら(ちゃんと全部読んだ上でよ)、“ぼくが全額をお返しします”と言いたいが、ぼくも貧乏なので、許してほしい。



空へ B

2009-06-28 10:55:39 | 日記
ぼんやりと浮かんだ
雲のように
さまよいたいと
おもったころから

遠くささやくおまえの声が
いつもあたしをささえた
いつかはきっとおまえのように
ほん泣きするよあたしも

あんたの好きなように
生きてゆけばいいと
すり切れたレコード
おまえのブルース

なにもかもなく生まれてきたのは
誰のせいでもないし
おまえのあとをたどっていた
夢をたぐりよせて

遠くささやくおまえの声が
いつもあたしをささえた

いつかはきっとおまえのように
飛んでみせよ私も
あしたはきっとおまえのように
飛んでみせるよ私も イェ~

イェ~、イェ~、イェ~





ぼくもさっき知ったのだが、カルメン・マキは、ブログを書いている。
最新ブログから一部引用させてもらう;

<ふつうでよかった 2009年06月26日>

6/23(火)、今日は中目黒「楽屋」で新澤健一郎君とのDUOだ。
梅雨真只中にあって珍しく朝から青空が広がっている。
でも、今日はお客さんが集まらないような気がする。
そして私のその嫌な予感は当たってしまった。。。
10分押しで開演してステージに出てみると店内に座っていたのは15人。

昔OZで行ったどこだったか地方での、あるコンサートでのワンシーンが一瞬頭をよぎった。
あの頃、ライブの1曲目はいつも「閉ざされた街」で、
あの地響きのするような重低音のユニゾンのイントロが始まると
私は客席に背を向けてこぶしを握った両手を大きく広げ
緞帳が上がり切るとそのまま客席を向く、
という大見栄を切った演出をしていた。
すると客席からどよめきが起こり、
さぁ、これからショーが始まるのだという期待と緊張感が
会場全体を包み熱く盛り上がるのだった。

ところがある時、
いつものように力を込めてこぶしを握りしめ大きく両手を広げたまま客席を向くと
そこに見えたのは、大ホールに数えるほどのまばらな観客、
どよめきどころか虫の音も聞こえぬ静けさだった。。。
拍子抜けとはこのこと、
ヘタヘタとそのままステージで座り込んでしまいたくなる自分を奮い立たせて
勿論最後まできっちりやったけど・・・。

話は前後するが、そのもっと前、
「時には母の~」がヒットして有名になった数年後、
OZを結成してロックを歌い始めた頃も嫌というほど同じような経験をした。

新しいことを始める時はいつもそうだ。
以前との落差が大きければ大きいほど受け手は戸惑い、
結果、付いて来る者もあれば去って行く者もある。
私はもう永いこと、それを繰り返している。。。

けれども、いつだって音楽は、ただ音楽としてそこに在るだけだ。
そこには昔も今もない、私がどういう人間でどんな生活をしているかも関係ない。。。
というより、そうした全ては音楽の中に反映されているはずだ、と言うべきか。
(以上引用)




《けれども、いつだって音楽は、ただ音楽としてそこに在るだけだ》





空へ

2009-06-28 10:52:54 | 日記

ぼんやりと浮かんだ
雲のように
さまよいたいと
おもったころから

遠くささやくおまえの声が
いつもあたしをささえた
いつかはきっとおまえのように
ほん泣きするよあたしも

あんたの好きなように
生きてゆけばいいと
すり切れたレコード
おまえのブルース

なにもかもなく生まれてきたのは
誰のせいでもないし
おまえのあとをたどっていた
夢をたぐりよせて

遠くささやくおまえの声が
いつもあたしをささえた

いつかはきっとおまえのように
飛んでみせよ私も
あしたはきっとおまえのように
飛んでみせるよ私も イェ~

イェ~、イェ~、イェ~




* ぼくはカルメン・マキのアルバムを持っていないので、上記はYou Tubeからの聴き取りです(マキさん、ごめんね;笑)
もしぼくの聴き取に誤りがあれば、指摘してください。


日本が異常な国であることのひとつの証拠

2009-06-28 08:38:09 | 日記
今日の日経社説に注目した。

この社説全文を最後に掲げるがその要旨は以下の通り;

★ 法的に結婚していない両親から生まれる「婚外子」の割合が欧米諸国で増え続けている。フランスでは、昨年生まれた赤ちゃんの53%が婚外子だった。2007年の統計をみても、スウェーデン55%、米国40%、ドイツ30%などとなっている。
これに対し日本は2%と格段に低い。なぜか。少子化対策を考える時、婚外子やその背景にある結婚の多様化の問題を避けては通れない。
日本に婚外子が少ない一因は「非嫡出子(婚外子)の相続分を嫡出子の2分の1とする」という民法の規定にある。法務省によると、相続で婚外子が法的に差別されているのは日本とフィリピンぐらいという。
★日本の結婚のあり方が少子化の一因となり出生率上昇の妨げになっているとすれば、障害を取り除く必要がある。それは、婚外子の相続差別をなくさねば始まらない。


ぼくはこの“論旨”に賛成であるが、この社説が“産業界の要請”として出てきたことは皮肉である。

つまりここにも、“資本主義”を考えるひとつの“要請”があるのだ。

“資本主義”は、自明の(わかりきった)ことでも、“変化しない”(保守する)ことでもない。

“マイケル・ジャクソン”も資本主義の問題なのだ。

あなたは(ぼくは)このあまりにも身近な(日常的な、空気のような)資本主義について、まったく無知である。

今日の天声人語は“クレオパトラ”について語り、編集手帳は“林芙美子”について語るけれども、そこにまったく欠けているのは、この“資本主義”に対する視点なのだ。

つまりあらゆる文化と資本主義との“関係”に対する認識である。

あなたは、以上のぼくが言っていることが、“わからない”であろうか。

もしそうなら、あなたは“資本主義”について、考えたことがないからである。

空気が見えなくても、空気はあるのである。

あなたにとって、あまりにもあたりまえであるものを、認識=想像できなくては、あなたは永遠に“無知”にとどまり、夢まぼろしとしての人生をすごすだけである。

少なくとも、次ぎの選挙でどの“党”が勝つかなどという“問題”より、こういう問題が“具体的”である。

それどころか、現在のマスメディアの腰巾着“知識人”と“お笑い芸人”(タレントともいう)が、毎日喋りちらしている“言葉”は、こういう具体性を誤魔化すためだけに機能している。


“知を愛する”ということのみが、たぶん、“人間的”である。



<参考:今日の日経社説全文引用>

”社説 日本の「結婚」は今のままでいいのか チェンジ!少子化”(日経6/28)

 法的に結婚していない両親から生まれる「婚外子」の割合が欧米諸国で増え続けている。フランスでは、昨年生まれた赤ちゃんの53%が婚外子だった。2007年の統計をみても、スウェーデン55%、米国40%、ドイツ30%などとなっている。

 これに対し日本は2%と格段に低い。なぜか。少子化対策を考える時、婚外子やその背景にある結婚の多様化の問題を避けては通れない。

婚外子の相続差別放置
 日本に婚外子が少ない一因は「非嫡出子(婚外子)の相続分を嫡出子の2分の1とする」という民法の規定にある。法務省によると、相続で婚外子が法的に差別されているのは日本とフィリピンぐらいという。

 この規定はかねて「法の下の平等」を定めた憲法14条に違反すると批判されてきた。法制審議会も1996年に規定を撤廃するよう答申を出している。しかし、最高裁大法廷が95年に合憲の判断を下したこともあって、答申は13年間たなざらしになったままだ。政治の怠慢であり、異常なことである。

 最高裁決定を読むと、非嫡出子を基本的に「既婚者が配偶者とは別の相手との間につくった子ども」ととらえている。法改正に自民党が動かないのも、家族の外にできた子と家族内の子には相続で差があって当然との意見が根強いからだ。

 しかし、大法廷の決定の時点ですでに15人の裁判官のうち5人が「違憲」だと厳しい意見を述べている。婚内子と婚外子で異なっていた戸籍や住民票への記載方法は改められ、記述上の区別はなくなった。婚外子の相続差別には、国連の規約人権委員会、子どもの権利委員会も撤廃を求める勧告を出している。

 そもそも、結婚していない両親の子どもを指す「非嫡出子」にあたる言葉は、差別的な意味があるとして国際的には死語になりつつある。民法の規定は、婚外子が社会的に差別される原因にもなっている。まず民法を改正する必要がある。

 欧米で婚外子が増えているのは、法的な差別がなくなったから、だけではない。結婚とは別の形のカップルを法的に認める仕組みが生まれ、婚外子の概念そのものが変わったことが大きい。

 例えばスウェーデンにはサンボ(同せいの意)、フランスにはPACS(連帯市民協約)という仕組みがある。いずれも、結婚より緩やかな結びつきをカップルに認め、生まれた子どもには相続も含め婚内子とまったく同じ権利を与えている。男性が父親になるためには認知が必要だが、法の枠組みにしたがった同居という意味では結婚に近い。

 スウェーデンではサンボがカップル全体の3分の1を占め、0~17歳の子どもの親の3割はサンボのカップルだ。スウェーデンでも晩婚化が進んでいるにもかかわらず出生率が上昇しているのは、サンボの間に出産するケースが多いためだ。

 フランスでは昨年、結婚が26万7000組、PACSが13万7000組だった。サルトルとボーボワールのように、かつて未婚のカップルは社会規範への異議、反抗ととらえられていた。もうそうした意識はない。

 こうした仕組みには、互いに相性を判断する「試行結婚」の意味合いがある。法律婚に比べ解消が簡単だからだ。婚外子の割合が増えたからといって、出生率が高まるとは必ずしも言えない。ただ、フランスの昨年の出生率は2.02、スウェーデンも1.91と先進国の中で高い。

今も影落とす「家」制度
 日本では婚外子の相続差別撤廃とセットで法制審が答申した選択的夫婦別姓制度の導入も実現していない。夫婦で別姓を名乗ると家族のきずなが弱まるという意見があるためだ。「家」を基本にした戦前の家族制度が今も影を落としている。

 06年の内閣府の世論調査では、58%が婚外子を法律上不利に扱うことに反対しながら、民法の相続規定に対しては41%が「変えない方がよい」と答え、「相続額を同じにすべきだ」の25%を上回った。これも日本人の家族観、結婚観の表れである。

 結婚の形は国の文化や伝統、国民の価値観にかかわる問題だ。しかし、日本の国際結婚は70年の5500組から07年には4万組に増えた。日本人の価値観だけで結婚を考えることは、もう実情に合わない。

 日本・東京商工会議所は少子化問題に対する提言の中で「伝統的な法律婚以外に事実婚や婚外子が受け入れられる社会のあり方について検討すべきだ」と訴えている。

 日本の結婚のあり方が少子化の一因となり出生率上昇の妨げになっているとすれば、障害を取り除く必要がある。それは、婚外子の相続差別をなくさねば始まらない。


もう“人気者”はウンザリだ

2009-06-27 10:09:12 | 日記


<「私なりに危機感」石原知事、都議選での自民応援に本腰>2009年6月27日09時00分 読売新聞

 自民党の応援に全力を挙げます――。麻生内閣の低支持率で、東京都議選に臨む自民への逆風が吹く中、石原慎太郎都知事が26日の定例記者会見で、応援に本腰を入れることを明らかにした。

 自民都議からは「人気のない麻生首相より大歓迎」との声が出る一方、野党の民主都議からは「かつてほど票には結びつかない」と冷ややかに受け止める声も。知名度が高い石原知事の応援効果が注目される。
 「国政の自民のへまのあおりを、都政の自民が食うのは非合理な話だ」。会見で石原知事は、都議会与党の自民をかばった。麻生首相が今月20日、都議選の応援で立候補予定者の事務所を訪れた際、「惜敗を期して」と間違えた発言も引用した上で「必勝を期して頑張ります」と、皮肉交じりに応援への意欲を見せた。
 最近は、新銀行東京の経営問題などで批判を受けることもある石原知事。だが、自民都議の多くは、「ほかの政治家とは知名度が全く違う。人気は底堅い」と応援を熱望する。
 「私なりに危機感を持っている」。石原知事は会見で、こうも語った。定数127の都議会では現在、48議席の自民と22議席の公明の両党で与党を形成。選挙の結果、両党で過半数の64議席を下回るようなことがあれば、都政運営への影響は避けられないからだ。
 一方、民主都議は「知事の応援で、逆に有権者は、新銀行問題などを思い出してくれるのではないか」と話した。
(以上引用)


ぼくがウンザリしているのは、石原慎太郎や麻生太郎だけではない。

ぼくは“あらゆる政局”にウンザリだが、都議選に行く。
けっして棄権はしない。
人気者でないひとに投票するためである。



異星人死す

2009-06-27 08:55:19 | 日記

昨日、マイケル・ジャクソンの死を知っても、なんの感動もおこらなかった。

なによりも、ぼくは彼のファンではなかった。
彼のCDを2枚持っているが、ほんとうに聴き込んだことはない。

自分が、“聴いてこなかった”音楽家の死について、あれこれ言うことはない。
しかし、なんというニュース(言説)の氾濫であろうか。
なぜマイケルの“死因”などに、人々は関心をもつのだろうか。

いま天声人語と読売・編集手帳がともに、この死について書いているのを読んで、ぼくも黙っていることはできない。

このふたつの“論説”を比較するなら、読売のほうがマシである。
天声人語はマイケルについてわかりきった“事実”を書き並べたあとで、こう結んでいる;

《▼かつてこう語っていた。「僕はステージの上が一番安心できる。出来ることならステージで眠りたいぐらいさ。本当に、まじめにだよ」。享年は50。実際の人生より、舞台という虚構に住まって夢を見ていたい人だったかもしれない》(引用)

つまらない“感想”である。
この文章は、“音楽”についてなにも語っていない。
しかも“音楽以外のこと”も語っていない。
つまり音楽と人生の関係について、語っていない。
なぜそうなるのだろうか。
この書き手にとって、音楽が自分の人生だったことがないからである。

この書き手は、
《実際の人生より、舞台という虚構に住まって夢を見ていたい》
と書きながら、“夢を見ていたい”ということについての感受性をまったく持ったことがないのだと思う。

編集手帳は言う;
《◆宇宙から来た異星人のように歌い踊る若きスーパースターは当時29歳、社会面の短い記事を読み、優しい心に感じ入った覚えがある。奇行の噂と、醜聞と、孤独の影を身にまとうのは40代を迎えてである◆急逝の知らせを聞く。50歳という。〈人生でいちばん危険なことは、かなえられるはずのない夢が、かなえられてしまうことなんだよ…〉。富と名声を極め尽くし、傍目には生きていく愉しみを見つけあぐねて苦しんでいるようにも映った後半生を思うとき、ミヒャエル・エンデの童話「モモ」の一節が浮かぶ◆あまりに早すぎる――と書きかけて、ためらうものがある。痛ましいほどに長く生きてしまった人を見ているような、奇妙な錯覚が脳裏を去らない》(引用)

ぼくはこの文章を、“天声人語よりはマシ”と書いたのであって、まったく感心しない(笑)
なぜこの書き手は、“スーパー・スター”に対して“痛ましい”などという感想を“持てる”のだろうか。
好き勝手をして死んだ男に対して。

要するに、普段、“普通の人々の平常心“を規範としてかかげる、天声人語と編集手帳は、この”異星人“に、どんな共感が可能なのだろうか。
急に、異星人を理解し、共感したり、悼んだり“できる”ようになったのだろうか。
まさに“ムーン・ウォーク”を見るような奇術である。

笑わせては、いけない。
音楽としてのマイケル・ジャクソンなど、よくって、二流である。
マジに評価すれば、無意味である。

彼が論評に値するなら、それは、アメリカ文化の“ビョーキ”としてである。
つまりマイケルは、なんの“異星人”でもなく、ひとつの“症例”である。
そういう症例としては、たしかに興味深くなくもないが、音楽のはなしとしては、あまり面白くもないのである。

それにしても、このマイケルという記号は、徹底的な空虚だね。

もちろん、ぼくに関心があるのは、“別種の異星人”である。


自分のために語る

2009-06-26 08:35:55 | 日記

“あらたにす・新聞案内人”で鷲田清一氏が“臓器移植法「改正」について”書いている、一部を引用する;

「そもそも」の問題というのは、他の患者からの臓器提供を期待する、つまりは他者の「死」を前提とするような医療が、そもそも医療として適切なものかどうかという問題である。じっさい、わが国の難病、心臓病、人工透析患者を救うには、それに見合う怖ろしい数の脳死者が必要となる。が、ほんとうは交通事故の防止対策と、より充実した救急医療体制の確立によって、そうした脳死者の増加を(待望するのではなく)防ぐのも、わたしたちの社会に迫られたもう一つの課題であるはずである。

 このように、一方には、なんとしてもこの人、この子のいのちを救いたいという、待ったなしの切なる要請がある。他方には、なんとしてもこの人、この子の死を、十分納得したうえで認めたいという思いがある。あるいは、納得できないまま、長期脳死状態にいる人の傍らで懸命に生きている家族の姿がある。臓器移植が医療の課題であるとしたら、それはそもそもこうした二律背反に引き裂かれざるをえないものである。

 いいかえると、それらは両立しがたい要請である。それはまず、「時間がない」と「時間が要る」との背反だからである。それはまた、たんなる臓器の問題ではなく、いずれもたがいの要請に反するかたちで「だれ」という名をもったかけがえのない存在を(それぞれ反対方向から)護ろうとしているからである。

 臓器移植という先端医療は、このように二つの生命のどちらかを二者択一しなければならない状況を生みだしている。あるいは、「人としての幸福」への希求と、「人としての尊厳」という倫理的要請とがここでは二者択一という対立関係に入っている、と言い換えてもよい。

 臓器移植法改正の前と後にある二つの重大な問題を、次に指摘しておきたい。
 まず事後の問題として危ぶまれるのは、これにより脳死が一律に人の死とみなされることによって、今後、移植を前提にしない治療でも脳死判定し、死亡宣告できるという事態が起こりうるということである。人の死が法律によって規定されることによって、本来、こうした医療従事者のうちにあるはずのジレンマが解消されてしまわないかということを、わたしは怖れる。

 つまり、「このことで、失われゆくひとつの命が救われるのだからやむをえず」という、脳死者の臓器を待望してしまうまさにその苦渋がしだいに薄まり、「法律に則っているのだから問題はない」というふうに、その苦渋が免除され、「人としての尊厳」に無感覚になってしまいかねないということである。法律化されることによって、もやもやした倫理的な責めの意識が医療従事者からすっきり免除されることのほうを、わたしは怖れる。
(以上引用)


もっともな意見だと思う。

しかし、鷲田氏のような“哲学者”(肩書きにそうある)の“前提”はただしいであろうか。

つまり上記引用でいえば、《「法律に則っているのだから問題はない」というふうに、その苦渋が免除され、「人としての尊厳」に無感覚になってしまいかねないということ》と鷲田氏が書くとき、それは“これからのこと”(未来)として書かれている。

意地悪く言えば、現在はまだ“「人としての尊厳」に無感覚になって”いないことになる。

そうだろうか?
ぼくはすでに、“「人としての尊厳」に無感覚になって”いると思う。

そうでなければ、この上記引用のあとで、鷲田氏自身が書いているように、この法案が長い間放置され、“国民的論議”がさっぱり盛上がらなかったことを説明できない。

現在もそうではないか。

“難しい問題”については、だれも自分の意見を言わない。

ほんとうにその“問題”について考えてなにかを言うのではなく、自分の言ったことがマヌケに聞えることを恐れて、他人の顔色を見ているだけではないか。

自分が“正解”からはずれて、×をつけられるのに脅える小学生並である。

こんな状態では、どんなディスカッションもありえない。

まさにこのこと自体が諸悪の根源である。

ぼくは“民主主義”というのは、すべてのひとが、自分の意見を言う(言える)状態だと思う。

昨夜読んでいたドゥルーズの対談集で、彼は、フーコーについて述べるなかで、自分とフーコーの“共通する態度”として以下のように述べている;

《他人を代弁するのではなく自分のために語る》


仕事に行きます!(笑)



建築への意志

2009-06-25 22:14:45 | 日記

★ われわれの観点からみれば、プラトンはけっしてイデア的なものの「存在」を、あるいは知の基礎を安易に提示したのではない。実際、彼は哲学者=王を実践しようとして惨めな失敗をしている。彼は「不可能なもの」を想像的に実現したのである。この点からみれば、プラトンがその対話篇を、ソクラテスの殺害からはじめていることは象徴的である。以後の著作にソクラテスはさまざまなかたちであらわれる。しかも、われわれはたえず、そのソクラテスがすでに殺されたのだということを想起させられるのだ。そして、ソクラテスは彼を処罰した「法」の不滅性を証明するためにあえて自殺したことになっている。そのことは、イデア的なものの実現の「不可能性」を示すことであり、同時に、それを実現せねばならないという建築への意志を反復的にかき立てるものである。要するに、たんにイデア的なものの不可能性をいうことは、プラトンを否定することにはなりえない。

★ フッサールは、20世紀の形式主義が、数学だけでなく、あらゆる領域に浸透せざるをえないことを察知していたといってよい。それは今日ではコンピュータ科学や分子生物学に典型的にあらわれる。つまり、19世紀の人たちが、最後の牙城として残しておいた、精神、生命、詩といったものにそれが浸透するのである。1930年代には、それに対する反撥が「非合理主義」として爆発した。政治的には、ファシズムである。その渦中においてこそ、フッサールは、この形式のステータスを問うたのである。彼の周りには、社会そのものを党(哲学者=王)によって合理的に建築しようとするスターリニズムと、それに対抗して非合理的な情念的なものを解放するファシズムがあった。フッサールの姿勢は、そのいずれでもない。

★ 実体に対して関係を、同一性に対して差異を優越させる「哲学」は、すでにテクノロジーとして実現されている。われわれは、思弁的なものではなく現実化した「差異の哲学」に追いつめられている。たとえば、人間には機械と異なる「精神」があるということはできない。むしろ、コンピュータ(人工頭脳)を根底におくことによって、人間はいかなる意味で人間的なのかが問われなければならない。ロマン主義が神秘化してきた「生命」は、分子生物学によっていわば徹底的に形式化されてしまった。だが、むしろ、その上でこそ、生命を生命たらしめているものは何かが問われなければならない。

<柄谷行人『隠喩としての建築』(岩波・柄谷行人集2;2004)>