★ 私見によれば、知識人の思考習慣のなかでももっとも非難すべきは、見ざる聞かざる的な態度に逃げこむことである。たしかに、いかに風あたりが強くても、断固として筋をとおす立場というものは、それが正しいとわかっていても、なかなか真似のできないことであり、逃げたい気持はわかる。
★ あなたは、あまり政治的に思われたくないかもしれない。論争好きに思われたらこまるかもしれない。欲しいのは、上司あるいは権威的人物からのお墨つきである。そのためにもあなたは、バランスのとれた考え方の持ち主で、冷静で客観的、なおかつ穏健であるという評判を維持していたいかもしれない。あなたが望むのは、意見を打診されたり諮問されたりする立場となり、理事会や高名な委員会の一員となること、そして、責任ある主流の内部にとどまりつづけることである。そうすれば、いつの日か、名誉職にありつけ、大きな賞をもらい、さらには大使の職まで手に入れることができるかもしれない。
★ 知識人にとって、このような思考習慣はきわめつけの堕落である。情熱的な知識人の生活が変質をこうむり、骨抜きにされ、最後には抹殺されてしまうときがあるとすれば、それは、こうした思考習慣が内面化されたときである。
★ 個人的なことをいうと、現代世界の諸問題のなかでもっともやっかいな問題のひとつであるパレスチナ問題において、わたしはこうした思考習慣にはいやというほどお目にかかっている。というのも、現代史における最大の不正のひとつについて語ることに対する恐怖が蔓延しているため、本来なら真実を知り、また真実に奉仕する立場にある多くの人びとが発言を自己規制したり、みてみぬふりや、沈黙にはしるからである。パレスチナ人の権利や民族自決権をはっきりと支援すると、さまざまないやがらせや中傷を覚悟せねばならないのだが、それでもこの真実は、語るにあたいする真実である。なぜなら、怖れを克服し共感を失わぬ知識人たちによって、この真実が代弁=表象(レプリゼント)されているからだ。
<エドワード・W・サイード『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー1998)>