Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“権力に対して真実を語る”

2010-07-16 00:16:32 | 日記


★ 私見によれば、知識人の思考習慣のなかでももっとも非難すべきは、見ざる聞かざる的な態度に逃げこむことである。たしかに、いかに風あたりが強くても、断固として筋をとおす立場というものは、それが正しいとわかっていても、なかなか真似のできないことであり、逃げたい気持はわかる。

★ あなたは、あまり政治的に思われたくないかもしれない。論争好きに思われたらこまるかもしれない。欲しいのは、上司あるいは権威的人物からのお墨つきである。そのためにもあなたは、バランスのとれた考え方の持ち主で、冷静で客観的、なおかつ穏健であるという評判を維持していたいかもしれない。あなたが望むのは、意見を打診されたり諮問されたりする立場となり、理事会や高名な委員会の一員となること、そして、責任ある主流の内部にとどまりつづけることである。そうすれば、いつの日か、名誉職にありつけ、大きな賞をもらい、さらには大使の職まで手に入れることができるかもしれない。

★ 知識人にとって、このような思考習慣はきわめつけの堕落である。情熱的な知識人の生活が変質をこうむり、骨抜きにされ、最後には抹殺されてしまうときがあるとすれば、それは、こうした思考習慣が内面化されたときである。

★ 個人的なことをいうと、現代世界の諸問題のなかでもっともやっかいな問題のひとつであるパレスチナ問題において、わたしはこうした思考習慣にはいやというほどお目にかかっている。というのも、現代史における最大の不正のひとつについて語ることに対する恐怖が蔓延しているため、本来なら真実を知り、また真実に奉仕する立場にある多くの人びとが発言を自己規制したり、みてみぬふりや、沈黙にはしるからである。パレスチナ人の権利や民族自決権をはっきりと支援すると、さまざまないやがらせや中傷を覚悟せねばならないのだが、それでもこの真実は、語るにあたいする真実である。なぜなら、怖れを克服し共感を失わぬ知識人たちによって、この真実が代弁=表象(レプリゼント)されているからだ。

<エドワード・W・サイード『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー1998)>






この世界を肯定することについて

2010-07-15 07:18:13 | 日記


ぼくの生活は単調である。

もう現役サラリーマン時代のように、日々“仕事に追われる”わけではない。
たくさんの人に会うわけではない。
かなり“自分の時間”があり、それをいかようにも使用できる。
“いかようにも使用できない”限界があるなら、それはやはり“おカネ”である(笑)

こう今思うのは、ここ1ヶ月くらい、仕事の日が多く、ここ数年続けてきた生活のペースがくるったからだ。
端的に言って、まとめて本を読めなかった。

はっきり言って、そうなると“あせる”のである。
ぼくが本を読んでも、一銭にもならないが、ぼくはやはり本を読むことが、自分の<仕事>だと思っている。
それはまったく個人的な義務である。
ぼくが本を読まなくても困るひとはいない。
ぼくが本を読まないことが、“外部”に関連することがあるとすれば、“このブログ”くらいだ。

ならば、なぜ本を読むことがぼくの義務であるかを、いぶかるひともいるだろう。
一般に本を読むことは、気晴らし・息抜き・エンタメであるか、“スキルを身に付ける”ことの一環であることもあろう。

本を読むことが“仕事”であるのは、学者やガッコの先生であることになっているが、ぼくはそのいずれでもない。
もちろん他者が気晴らしや知的生産のために本を読むのは勝手である。
というか、ぼくにとっても、本をよむことが“エンタメ”であってもいいとは、思う。

あるいは、エンタメ“として”本を読んできた経験もぼくにはある。
いまだって、面白い本を読みたいとは思うのだが、年を取るとなかなか、“ただ面白い”ということはないのである(これは本に限らない、はなはだ残念なことに;笑)


ここ1週間くらいにぼくが感じたこと。

ぼくは今度の選挙で“政治”がつくづく嫌になった。
端的に、このブログでも政治(というより政局だが)について、いっさい書かないことにしようかと思った。
しかし“政治の範囲”はどこまでだろうか。
政局について書かないなら、<社会>についても書けなくなる。
天声人語や読売編集手帳や、大新聞“社説”も批判しない(笑)

もちろん“そういうこと”もこれまで何度も考えたことだった。

ぼくは“空の写真”や“花の写真”を出し、デュラスやル・クレジオの“非政治的”文章に対する愛を書いていればよいのだ。
しかしすでに、もちろん、デュラスやル・クレジオの<小説>が“非政治的”であるはずがないという疑念が生じる。
大江健三郎や中上健次が“非政治的”であろうか、村上春樹さえも(笑)


そういうときにかぎって(つまりまとめて本が読めないときにかぎって)、サイードの『オリエンタリズム』というような本を読み始めてしまう。
まだ“序説”を読んだだけだ。

しかし、“この本”は序説だけでも衝撃であった(この有名な本に対して“いまさら”言うのははずかしい)

まさにぼくが、“非政治的な”ものに惹かれていきそうなとき、サイードは“そのこと”の欺瞞を語った。

すなわち“オリエンタリズム”という問題の設定によって、この世界が(歴史が)完全に政治的であることを記述することによって、逆に<政治>についての認識のラジカルな変更を迫る。

もっと単純に言えば(サイードは単純に言っていないが)、あらゆる<文学>は政治である。

しかもこの場合の<文学>の範囲は広大である、たとえば<映画>や<写真>も含まれる(サイードはそういうことは直接言ってないと思うが;笑)


さて、以上の記述(ブログ)に対して、<この世界を肯定することについて>というタイトルが付けられたことを“説明”する必要があるだろうか?

‘あーもんど’というひとの掲示板で、<心の平安について>の応答が出ている。

たしかに誰もが“心の平安”を求めるし、ぼくや‘あーもんど’も求めないわけではない(なぜ‘あーもんど’さんがそうであるかぼくが知っているかは、ぼくが彼女と暮らしているからだが)。

しかし、この<世界>を遮断して、“心の平安”を求めることはできない。






in the sky - e

2010-07-14 20:53:25 | 日記





★ 「真の」知識が基本的に非政治的であるとする(逆にあからさまに政治的な知識は「真の」知識ではないとする)一般的でリベラルな多数意見というものは、知識の生みだされる時点でその環境としてある、たとい目には見えずとも高度に組織化された政治的諸条件を、いかにして覆い隠すものとなっているのか。本書が明らかにしようとしているのはその点である。

★ 実は私が本当に言いたいことは、オリエンタリズムが、政治的であることによって知的な、知的であることによって政治的な現代の文化の重要な次元のひとつを表現するばかりか、実はその次元そのものであって、オリエントによりはむしろ「我々の」世界のほうにより深い関係を有するものだということなのである。

<エドワード・W・サイード『オリエンタリズム』序説(平凡社ライブラリー1993)>






タルコフスキー;ポラロイド

2010-07-12 13:47:09 | 日記




ぼくもポラロイド・カメラが欲しくなった。








<ポラロイド復活、プリンタ一体型デジカメのほかフィルムカメラも投入>“+D” 2009年12月03日 18時17分 更新

ポラロイド、復活――サミット・グローバル・ジャパンは12月3日、「ポラロイド」ブランド製品を12月4日より販売開始すると発表した。まずはデジタルカメラ、ミニプリンタ一体型デジタルカメラ、デジタルフォトフレームなどを投入し、2011年にはフィルムを使うインスタントカメラ“ポラロイド”も投入する。

米ポラロイドは2008年12月に米破産法11条(チャプター11)を申請し、事実上の営業停止状態となったが、2009年4月にGolden brothers GroupとHilco Consumer Captalが合同で同社を買収し、その後、サミット・グローバル・グループが両グループとポラロイドブランド製品の生産/販売に関する独占契約を締結するに至っている。今回、国内で販売を開始するサミット・グローバル・ジャパンは、サミット・グローバル・グループの日本におけるポラロイド製品の独占販売権を所有している。

インスタントフィルムカメラならびにフィルムについては、2010年春以降にモノクロフィルム、夏以降にインスタントフィルムカメラ「ポラロイド1000」、秋以降にカラーフィルムを販売する。フィルム/カメラともに価格は未定だが、「(生産中止によってプレミア価格がついてしまっている)過去製品よりも安価に提供したい」としている。




危機に鈍感な“政治家”と“有権者”

2010-07-12 13:42:59 | 日記


2010年の梅雨時は、W杯によって記憶されるのか、参院選挙によって記憶されるのだろうか。

ぼくの“予想”では、半年後には、両方とも忘れられている。
ひょっとしたら1年後の梅雨時には、“去年はW杯があったな、ところで優勝チームはどこだっけ?”と思う人もいる(笑)

つまり、すべてが“その程度”なのである。

これらの人々にとって“現実的”なのは、“次にはどんなパンツを買おうか?”ということである。
“パンツ”には、いろいろな“モノ”が代入可能だ。
ぼく自身も例外ではない。

すなわち“パンツを買う”ことは、“必需品”を買うことではなく、“幻想”を買うことである。
ぼくたちは、この幻想を買わないでは生きていけなくなった。


まさに“幻想を売る”人々は、あらゆる現象を商品に変える。

この民主党大敗の日、自民党応援団=読売新聞の“はしゃぎぶり”が伝わってくる;

《大変なことになりました。参院選は民主党が大敗し、改選議席を大幅に下回る44議席しか取れませんでした。与党が参院で過半数を割り、衆参ねじれ国会となります。政権運営は厳しさを増し、重要法案の成立は困難になるでしょう。消費税の引き上げ論議も難航が予想されます。民主党は他党に政策ごとの連携を呼びかける方針ですが、連立の組み替えや政界再編が起きる可能性が高まってきました。ふたたび政界大乱の季節です。》
(‘あらたにす’の読売・編集局から)


《大変なことになりました》
と、読売新聞は、はしゃいでいる。

《大変なこと》になると新聞は売れ、テレビ視聴率は上がるからである。

《ねじれ国会》も、《消費税の引き上げ論議の難航》も、《政界再編》も、売りである。

《ふたたび政界大乱の季節です》

なんかスンゴクうれしそうですね。

しかしわれわれ貧乏人は、これら政治屋の椅子取りゲームと、このゲームに便乗し、このゲームを煽ることによって商売する“メディア”を生存させるために、税金やらなんやらを払っているわけである。

もちろん“新聞社”は、もはや貧乏人を当てにしていない。
最大の経営基盤は、大企業スポンサー(広告主)である。
“購読料”は、あるていどの“小金持ち”を狙う。
小金を貯めた隠居老人とかであって、老人であってもぼくのような貧乏人は眼中にない。
新聞を購読しない(できない)“若者”も対象外である。

ゆえに、現在の新聞は、ああも“ジジ・ババ臭い”のである。

逆に“テレビ”は、もともと、スポンサー収入で成り立っている、NHKのスポンサーは“国家”である(そのくせ受信料まで取るのは、二重の詐欺である)


菅直人首相が、“消費税”を言い出したのは、“ギリシア財政危機”に直面したからだという。

“これから”ニッポンが財政危機に陥らないために、消費税を上げるのである。

しかしまさに現在進行中の<政治危機>にたいして、いかなる“対処法”を、“首相”は示したのだろうか。

あるいは、自民党や公明党は、示したのだろうか、共産党や社民党は示したのだろうか。
みんなの党は、示せるのであろうか。

とうてい無理である。
かれらこそ、その<政治危機>の当事者、まさに<政治>を、理念(理想)なきドタバタ田舎芝居の無限循環にした張本人たちである。

これらの、既成政党と、そこからの“おちこぼれ”で再編された“新党”など、みな同じ穴のムジナであり、おなじ屑である。

これら、椅子ゲームのみに奔走する政治屋とその談合組織が解体しないかぎり、日本には“政治”などというたいそうなものが、生まれるはずがない。

しかし、歴史(世界史よ!)の教訓では、このような“泥沼”を一掃する“新党”が現れるとき、それはヒットラーの“ような”顔をしている。

もちろん歴史は繰り返さないから、こんどのヒットラーは、“ソフトな顔”(カワイイ顔)をしてやってくる。

いや、もうそのような顔は、いたるところに“潜伏”している(笑)

だから“たたかい”は、いたるところで、地道に持続しなければならない。

負けるとわかっていても、持続しなければならない。





<追記>

今朝上記ブログを書いたのち、立岩真也『希望について』を読んでいて、上記の(ぼくの)最後の一文が、“まちがっている”と思った。

すなわち“負けるとわかっていても”である。

立岩は《勝てなくても負けないために、できることを私はしよう》と書いている。

《勝てなくても負けないために》

ぼくが言いたかったことも、これである。

念のために断っておくが、立岩真也の現状認識は、“ヒットラーはカワイイ顔をしてやってくる”というような“粗雑”なものではない。

つまり、彼を読んでいると、ぼくは、自分の“粗雑さ”を反省する。

しかし“ひとこと”自己弁護させてもらうなら、ぼくには立岩氏のように、
《だから私は私で、わりあい悠長に、どれほどの人が読んでくれるかわからないけれど、考えられるところまで考えを進めていこうと思う》
というような余裕がないのである。

ただもちろん、このことに関しても立岩氏の言っていることの方が、“ただしい”。





タコ

2010-07-12 02:20:49 | 日記


ニッポンの選挙じゃ、タコの出番もない。

みんなタコだもん。

たぶんいまのニッポン人って、なにひとつ変わらないことがすきなのね。

ぜんぶわかりきったことを、たたただ騒ぐのが、快適なんだろうなー。

さすが”苔のむすまで”だよ。

テレビから聞えてくる言葉に新鮮なものは、まったく、ぜんぜん、すこしも、ない。







<後日注記>

このブログに掲載した”タコ”は、ぼくが撮ったタコです(笑)





不破利晴への手紙;10-07-11

2010-07-11 16:40:12 | 日記

★不破利晴からの<善良な市民>へのコメント;

Unknown (不破利晴)  2010-07-11 10:20:22

おはようございます。不破でございます。

今日は参院選ですが、warmgunさんは棄権のようですね。まあ、それもいたしかたないですね。ここまで腐ってくると選挙だか政治家の資金パーティーだか訳がわからないですね(笑)

ところで、田原牧。
彼女と言って良いのか彼と言うべきかは非常に微妙ですが、それもひっくるめて僕は大ファンですよ。
東京新聞の記者の顔写真入りでの論説にたびたび登場します。初めて見て以来、ビジュアル的な部分と切れの良い文章に虜になりました。
彼女は中東の専門家ですが、それ以外でも、社会的な視点は我々にとって非常に共感するものがあると思います。



★warmgun返信

不破君

《投票所は異様な熱気》(不破Twitter)ですか(笑)
投票率も高いみたいだ。

どうもぼくの感覚は、世間とは完全に“反対”になったね(“ズレ”たんじゃなく)
ぼくはほんとうに、この選挙には何も心が動かない。

ただただ、“くだらない”、“つまらない”と感じるだけ。
そもそも、この選挙結果がどうだろうと、なにも現状が変わることは起こらない。
いまある政党や政治家をどう“組み合わせても”なにも変わりようがない。

もちろん、ここ何年もつづいている“社会の陰湿なメルトダウン”が進行するだけだと思う。

だいたい、政治家・官僚やメディアをいくら非難しても、自分の生活(とくに消費生活と安全信仰)を変えることをヒステリックに拒否するだけの“国民=善良な市民”による“社会”で何が“変われる”んだろう?
これは、ぼく自身にも、問われるけれど。

ただ、ぼくは《悪を根絶するには人類を根絶やしにしなければならん!人類の中に悪があるのではなく、人類そのものが悪なのた!!》(あるツイッター)とも思わない。

つまり“人類”は、<悪>でさえない。
ただ<おろか>だと思う。

大部分の<おろかなひと>のなかから、天才的なひと(良くも悪くも)が“たまに”出てくる。
そのひとが、<悪>か<善>かも両義的だよね。
たとえば、“イエス・キリスト”。

あるいは“天才(とても才能のあるひと)をいつもいつも理解しそこねる”弟子“の問題ね。
たとえば、<教会>、たとえば<マルクス主義>。
しかももともと天才も、両義的なんだ。

もちろん問題は、“ぼくら”のような普通の人々が、形式的であっても“権力を持つ”という、この<近代>以降の事態だね。

まさに、<愚民政治>(笑)

ぼくは、日本も世界も滅びないと思うが、むしろ滅びたほうがよいような“愚劣な世界”が、このままではどうしても来ると思う(現在、あらゆるところにその徴候を見る)

ぼくのこういう感覚は、ぼくにとっては“ぺシミズム”じゃないね。

“リアリズム”だと思う。

ただ立岩真也のように“現実的な問題”(まさに税制)に取り組むことも、郡司ペギオ-幸夫のように“生命理論”に取り組むことも、押井守のように“恋愛映画”に取り組むことも、“同じようにリアル”だと思う。





民主主義の肝(キモ)

2010-07-11 12:55:42 | 日記


ぼくは絶対的正義も、絶対的真理も、絶対的公正も、絶対的平等も、絶対的規範も、絶対的安全も、絶対的自由も、絶対的友愛もないと考える。

だがあきらかに間違ったことを言う人がいる。

ぼくはなにかを規準にして、それを間違っていると、“判定”するのではない。
ぼくに判定基準となる“内部の法”あるいは“外部の法”が、あらかじめあるのではない。

なにかが間違っているということは、むしろ“直感的なもの”としてやってくる。
だから、そこから考えることははじまる。

すべては、この繰り返しであり、プロセスであるから、ぼくは自分の“意見や批判”が絶対に正しいと確信しはしない。
もし“ぼくの現在の認識”が間違っているなら、修正したり、撤回する。

ぼくは外部に神のような規準を持たないし、内部にも神のように絶対の根拠をもっていない。
だから、死ぬまでの、<学ぶ―考える>のプロセスはある。


“立岩真也サイト”で2010/05/27“朝日新聞』 私の視点”に載った発言を見た;

★ 政権の選択とは、基本的にはどんな社会にするかの選択である。公正・平等の方向に行くのかそうでないか。対立軸をはっきりさせた方がわかりやすい。本当に財源が足りないなら必要なものも我慢しよう。だがそんなはずはない。この素朴だがまともな認識からこれからの社会を構想しよう。税制の改革はその重要な一部である。
(引用)


《政権の選択とは、基本的にはどんな社会にするかの選択である》
《この素朴だがまともな認識からこれからの社会を構想しよう》


ぼくは怠惰で、まだ立岩真也の<税>に関する仕事を読んでいない。

立岩真也『税を直す』は雑誌現代思想に連載され、青土社から単行本として出た(2009)、続いて斎藤拓との共著『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』も青土社から今年3月に出ている。

『税を直す』の書評により、この立岩のモチーフがどこにあるかを、ごく大雑把にだが知ることができる;

★徴税とは、何らかの価値観に少なからず裏打ちされ、強制力を伴う行為だから、経済の問題ではなく政治の問題である。立岩の強みは、「多くを得たところから少ないところへ移すことをするのがよい」という視座が、決して揺るがぬことにある。
(引用)



さて今日の衆院選投票日に当り、天下の朝日新聞は以下のような社説を掲げた;

☆任せて安心、というようなバラ色の選択肢はありえない。それでも私たちは品定めし、選ばなければならない。
税金は民主主義社会では本来、お互いのために「出しあう」ものなのに、なぜか「とられる」ものと感じがちである。どう使われるかわからないという政治への不信をぬぐえないからだ。
しかし、政治はひとごとではない。私たちの暮らしを支え、時に掘り崩す営みであり、逃れることはできない。選挙に背を向け投票所に行かなくても政治は刻々、ものごとを決めていく。
「代表なくして課税なし」
この民主主義の肝を語る古い言葉をかみ締めながら、一票を投じたい。
私たちは昨年、その気になれば政治を大きく変えられることを学んだ。
政権交代したからといって突如として景気がよくなったり、政治がクリーンになったりはしないことも学んだ。
民主主義は、終わりのない学びのプロセスでもある。
「とられる」から、「出しあう」へ。私たちは今回、苦い現実を直視し発想を変える必要を学んだのではないか。その成果を一票に託したい。
(引用)


この社説の<キモ>はなにか?;

《「とられる」から、「出しあう」へ》


この<主張>はただしいか?

ただしくない。

貧乏人からこれ以上カネを取るな。

これがぼくの主張である。

貧乏人からカネを取らないために政治はある。
その政治のために、“政治家や官僚”はいる。

そのための“仕組み”を、<民主主義>という。

だからまさに、《民主主義は、終わりのない学びのプロセスでもある》のではなく、《民主主義は、終わりのない学びのプロセスである》。


立岩真也はかつて言っている;

《正義に繊細で不正に反省的でいられないほど私たちは余裕のない状態に置かれているでしょうか。そんな余裕はない、自分のことで精一杯だと思う心性が、かえって自分をつらくさせているのだと思います。》(引用)


絶対的な正義はない。
しかし、《正義に繊細で不正に反省的で》あることは可能だ。

あなたにとって<デモクラシー>が貴重であるだけでなく、<この人間>が貴重であるならば。

《素朴だがまともな認識からこれからの社会を構想する》

すなわち、<認識>があり、<社会の構想>がある。

<認識>がなければ、<構想>はない。

また、<構想>をめざさない<認識>は、永遠の自己満足(ひとりごと-自己肯定-自己循環の閉域)でしかない。

政治家と学者とマスメディアが、あのテレビとタレントどもが、この閉鎖社会を保守するとき、そしてその言説をオウムのように繰り返す素人たちがこの閉鎖社会を保守するとき、まさにゼロ地点から(この荒涼たる廃墟から)、認識と構想に取り組む<愚者>たちが現れなければならない。


<社会の構想>と<私の人生の構想>は、いかに“かかわる”のか?

<結論>はなくてもいい。

あるはずがない。

だが今日、あなたが一票を投じても、投じなくても、この<問い>を、みずからに発するべきである。







<追記>

今日天声人語にはこうある;

《▼国民は程度に応じた政府しか持てない、と古くから言う。だが先日の小紙に、作家の池澤夏樹さんが「どうも政府のレベルは国民のそれを下回ってきたようだ」と寄せていた。「われわれの実力からすればもう少しましな政府は持てないものか」と。肯(うなず)く向きもおられよう》(引用)

ぼくは先日書いたように、池澤夏樹の“個人編集”による河出世界文学全集の選択には、“それなりに”納得している。
その“選択”よりも、今どき、“世界文学全集”を出すという意図に(ならば出版社を褒めるべきか)

ここでの池澤夏樹発言には賛同できない。

池澤氏の周りには、“理性的なひと”が多いのであろうか(もちろん皮肉だ)

《われわれの実力》など、たかがしれている(この場合、“われわれ”とは日本人のことではない、世界中の“われわれ”である)

すなわち、《国民は程度に応じた政府しか持てない》という“古くからの認識”が、ただしい。




どこの誰だか知らないけれど

2010-07-10 12:56:09 | 日記


前にも言ったがぼくは相撲界の不祥事とやらに何の関心もない。

“相撲”に関心がないからである。
いくらぼくに“大相撲が国技だ”などと言っても無駄である。

また“関心がない”ことと、“嫌いである”ことは、必ずしも一致しない。
厳密に言えば、“関心がないこと”は、“嫌いでさえない”ことである。

しかしたとえば、ニュースで以下のようなことが報じられると、それの“一般的問題”については関心がある;

<大相撲独立委にワタミ会長、角界通の学者ら就任へ>アサヒコム2010年7月10日11時11分

大相撲の組織運営の改革について検討する「ガバナンス(統治能力)の整備に関する独立委員会」のメンバーに、居酒屋チェーン大手ワタミの渡辺美樹会長(50)ら11人が就任することになった。日本相撲協会の10日の理事会で正式に決まる。名古屋場所中にも活動を始め、暴力団排除や危機管理、広報体制の強化、親方への指導制度のあり方などについて提言をまとめる。
(引用、以下略)


すなわち、“改革”を提言する人々の顔ぶれである(笑)

上記記事の最後には、この“改革委員会”(それにしても“ガバナンス(統治能力)の整備に関する独立委員会”という名称は大げさかつワケがわからない)のメンバー名と“肩書き”がのっている。

しかしぼくが世間にうといせいか、どなたも存じ上げない。

上記引用部分にある“居酒屋チェーン大手ワタミの渡辺美樹会長”というひとは、どのように“良識あるひと”であるかも知らない。

しかもこの“改革委員会”メンバー11人リストには、“大学教授”が4人もいらっしゃるが、ぼくはひとりも知らない。

《メンバーの人選は、野球賭博問題を検証している協会の特別調査委員会(座長=伊藤滋・早大特命教授)が行った》とあるので、特別調査会座長も“早大特命教授”なのである。

ぼくが早稲田大学を卒業したのは、何十年も前であるが、ぼくは在学中、“大学の先生”という人種には、まったく幻滅したものだった。

ぼくの卒業後、“大学の先生”は、劇的に改善したのだろうか(爆)

たしかに現在にいたるまで、本を通して“お世話になった”大学先生もいる。
そういう方々には尊敬の念を禁じえない(ひともいる;笑)

しかし学者として優秀なひとが、“人格者”であったり、“社会的常識に富む”ことは例外的事実ではないのだろうか。

あるいは、近年の“大学先生”は、学者としては無能だが、“社会的常識のみ”ゆたかな、例の“根回し人種”に進化したのであろうか!

この“ガバナンス(統治能力)の整備に関する独立委員会”(長たらしい)メンバーには、(ナント)、弁護士もノンフィクション作家もいるのである。

そもそもこの委員会(“ガバナンス(統治能力)の整備に関する独立委員会”だよ)の目的は、《批判を浴びている閉鎖社会の活性化に役立てたい》ということなのである。


しかし、
しかし(笑)、

この<閉鎖社会>を形成しているのは、これらの“有識者”と呼ばれる人々の群れではないのでしょうか。

こういう“大学で若者を指導”なさったり、“業界のリーダー”だったり、“暴力対策の専門家”だったり、“辣腕弁護士”だったり、“ちょっと売れてきたナントカ作家”たちが、この《閉鎖社会》を“担って”(つくりあげて)いるよーに、ぼくには見える。

まあここで、ぼくがいくら吠えても、彼等は、そんなことにはまったく動ぜず(アラ負け犬の遠吠えよ)、この<閉鎖社会>を強固にするため、大活躍を続けるであろう。

お勤め、ご苦労さん!






<追記;“日本人”とヤクザ>

上記ブログとはちがう観点であるが、“日本人とヤクザ”というテーマがある。

つまり“日本人”はヤクザが大好きである(ぼくもある意味ではそうだ)

そもそも“ヤクザ”とか“暴力団”とか“裏社会”とかを、どう捉えるかは、複雑な問題である。

ある意味では、企業も政治家も警察も、“ヤクザ”と関係している。
つまり“この社会構造を成り立たせている”ヤクザの役割というものが、たしかにある。
(たとえば、ヤクザはどこにも雇用されないものを雇用している;笑)

それと“心情的美意識”として幻想化されたヤクザ像があり、また“ホンネで生きる人々”というような誤解もあるようだ。

卑近な例では“ビートたけし”というキャラは、“ヤクザ”を売り物にしてきた。
彼の映画は、“ヤクザ映画”である。

それどころか、彼は自分の背後にヤクザがいるという“イメージづくりで”で、だれからも自分を批判させないポジションを築いてきた(つまり“オドシ”をかけてきた)
あるいは“自分自身がヤクザ体質だ”と匂わせてきた(本当にそうである可能性もある;笑)
最近は功なり名をとげて、“毒”も消え、間抜けな“好好爺”になったらしいが。

不破利晴ブログに最近の発言が引用されている;

《政治とカネだって、相撲界で問題になっている暴力団とのつながりだって、日本社会そのものが、なあなあでもってきたのは間違いない。メディアも、大きなものに対して闘うと言っている割には、広告主に対してはずいぶん弱気だったりしてね。最近はそれがばれちゃっているんで、メディアに対してみんなの意見が冷たいんじゃないですかね》(2010年7月3日 ZAKZAKから引用)


まさに《なあなあでもってきた》のは、北野武自身である(笑)

しかしなぜか、《メディアに対してみんなの意見が冷たく》なっても、“タケシ・ファン”はまだいる模様である。

これが<矛盾>である!

いったいいつ“タケシくん”は、《大きなものに対して闘った》のだろうか。

自分こそ、メディアに乗り乗りで、“小股すくい”言説をまき散らす“テレビ村村長”でしかないのに。

テレビとともに消えちまえ。


だがこのテレビ村には、ぼくが’たけし’より嫌いな古株がいる―”タモリ”というイモリの一種である(笑)






大人はわかってくれない、いや、大人はわかっちゃいない

2010-07-10 08:22:31 | 日記


この史上空前の愚劣選挙を前にして、ついに、朝日新聞は“言うことがなくなって”、子供の振りをすることにした。

今日朝日新聞社説である;

《わあ、どうしよう! 目覚めたら、子どもになっていた。あすは選挙だというのに。でもせっかくだから、子どもの立場になって考えてみた――。》

《政治家が子育て、子育てって言うのは「少子化対策」のためだって。弟や妹はたくさんいたら楽しいけど、父さん母さんには、そんな余裕もトキメキもなさそうだからね。
 でも、ただ子どもが増えればいいのかな。政府が調べたら、子どもの7人に1人は貧しい家庭なんだって。ショックだった。不幸せな子を減らすことにも、力を入れてほしいんだけど。
 えっ? 選挙権がないくせに、ナマイキな口をきくなって……。
 ――あなた、変な夢でも見てたの。さあ、大事な選挙。投票に行くわよ! 》
(以上引用)


子供の口真似をしても無駄である。
子供は子供のようにしか考えない。
大人の口真似をするのも、子供である。

ぼくは明日の選挙は棄権する。
怒りを込めて棄権する。
(といっても、ぼくはあなたに棄権せよとは言わない)



天声人語はシャガールの話題。

《上野の東京芸大美術館でシャガール展が始まった(10月11日まで)》だそうだ。
ひさしぶりに見に行こうか、と思う。

解説はいらない、エピソードもいらない、絵を見たい。