Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

原発許容の歴史

2011-03-27 09:48:47 | 日記


天木直人ブログで加藤陽子という歴史学者の発言を知った。

検索し、毎日新聞にのったその文章を読んだので、貼り付ける。

ぼくがこの文章で支持するのは、
《敗戦の総括については自力では行えなかった日本。ならば、せめて今回の事故について、同じ過ちを繰りかえしたくはない。》
という発言である;



◇原発を「許容していた」私--東京大教授・加藤陽子

 3月11日午後2時46分。日本人あるいは日本に住む人々にとって、この時刻に何をしていたかについては、これから何度も問い返され、何度も記憶に再生されることとなろう。

 東京都文京区に住まいのある私は、その時、マンション中庭の草花に水をやっていた。しおれ気味の花々に、数日間水やりを怠ったことをわびつつ水をやっていると、自分の視界が、突然、横に引っ張られる感じがした。これから会議が一つあるのに目まいとは困ったことだと思った数秒後、地震だと気づいた。水道栓を閉め、ころがるように部屋に戻るまで、この間5分。

 それ以来、何をしていれば心が休まるかといえば、中庭で水をやることなのだ。あの時、水やりをしていた自分。依然として生きている自分。その単純な関連を、身体が勝手に何度も確認したがっていたようだ。震度5強とはいえ、ほぼ被害のなかった地域において、こうだ。被災された人々の心と身体を思えば暗たんたる気持ちになる。

 地震と津波の直後には、東京電力福島第1原発の複数の炉が制御不能となった。テレビは、首相官邸、原子力安全・保安院、東電等による記者会見の模様や現場の状況を臨戦態勢で報じていた。映像を見ながら私の頭に浮かんだのは、奇妙にも次に引く大岡昇平の言葉だった。

 「(昭和)十九年に積み出された時、どうせ殺される命なら、どうして戦争をやめさせることにそれをかけられなかったかという反省が頭をかすめた、(中略)この軍隊を自分が許容しているんだから、その前提に立っていうのでなければならない」

 「俘虜記」「レイテ戦記」あるいは「花影」で知られた大岡が、自らの戦争体験を語った「戦争」(岩波現代文庫)の一節である。1944年7月、大岡は第14軍の補充要員(暗号手)として門司港からフィリピンへ向けて出発する。

 輸送船に乗せられた時、自分は死ぬという明白な自覚が大岡を貫いた。これまで自分は、軍部のやり方を冷眼視しつつ、戦争に関する知識を蓄積することで自ら慰めてきたが、それらは、死を前にした時、何の役にもたたないとわかった。自ら戦争を防ぐという行動に出なければならなかったのにもかかわらず、自分はそれをしなかった、こう大岡は静かに考える。

 よって、戦争や軍隊について自分が書く時には、自分がそれらを「許容してい」たという、率直な感慨を前提として書かねばならない、と大岡は理解する。その成果が「レイテ戦記」にほかならない。この大岡の自戒は、同時代の歴史を「引き受ける」感覚、軍部の暴走を許容したのは、自分であり国民それ自体なのだという洞察だろう。
 
 以上の文章の、戦争や軍部という部分を、原子力発電という言葉に読み替えていただければ、私の言わんとすることがご理解いただけるだろう。

 原発を地球温暖化対策の切り札とする考えは、説得的に響いた。また、鉄道等と共に原発は、パッケージ型インフラの海外展開戦略の柱であり、政府の策定にかかる新成長戦略の一環でもあった。生活面でも「オール電化」は、火事とは無縁の安全なものとして語られていた。これらの事実を忘れてはならない。私は「許容していた」。

 敗戦の総括については自力では行えなかった日本。ならば、せめて今回の事故について、同じ過ちを繰りかえしたくはない。政府に求めたいのは、事故発生直後からの記録を完全な形で残し、その一次史料を、第三者からなる外部の調査委員会に委ねてほしいということだ。

 公文書管理法は、現在、内閣府の公文書管理委員会において、施行令・各府省文書管理規則等の審議を経て、本年4月から施行予定となっている。
 枝野官房長官は鳩山内閣期、内閣府特命担当大臣として行政刷新の一環としての公文書管理を担当された方である。復興庁を創設するのならば、まさに、震災・事故関係記録の集中保存から入っていただきたい。これが、亡くなった方を忘れない、最も有効な方法だと信ずる。






茂木健一郎ツイッター;

平井憲夫さんのこの文章は、原発に関する立場を問わず必読。特に、「専門性」を重視しない日本のお役所文化が、いかに検査、管理体制をずさんなものにしているかという指摘について、霞ヶ関は悔い改めるべき。 http://bit.ly/f2qABQ










街の灯

2011-03-24 20:18:47 | 日記


★ 日が傾きはじめた。青山通りの隅々が金色に光った。女たちの顔のあちこちで、ラメがそれを反射した。青白く塗った瞼は、夜光時計の文字盤に似ていた。

★ 試合前の練習が終わるところだった。グラウンドでは、着ぐるみ人形が若い娘と一緒に踊っていた。宇宙パイロットみたいな出で立ちの若者が、通路を練り歩き、声を上げた。彼らは銀色の生ビールの樽を背負っていた。やかましい音楽が、スタンドを満たした。野球選手がグラウンドにいなければ、まるでサーカスのようだった。

★ まるでアメリカみたいだと彼は思った。振り返り、絵画館の方向と、店の方向を見比べた。それから苦笑した。いや、アメリカではない。オードリー・ヘップバーンの映画に登場するパリだ。ヌーベルヴァーグのパリでないだけだ。

★ それが映画の一場面を思わせた。あの年に観たSF映画だった。木星探査船の巨大な電子頭脳が暴走する。狂った電子頭脳が、自分自身の体内である宇宙船から人間を排除しはじめる。いくつもの危機を乗り越え、船長はその脳に潜り込んで人造の思念と格闘する。思念は形を持っている。赤く輝く弁当箱ほどの記憶装置。それが隙間なく無数に並んでいる。手で触り、引き抜き、持ち運ぶことができる思念。赤い弁当箱をいくつか移動させ、船長は探査船を乗っ取った電子頭脳をついに停止させる。仏壇の裏に、そんな空間を想像していた。つまらない空想だった。これはただの骨、ただの壺、ただの機械、チャップリンが格闘した油臭い鋳鉄の歯車と何も変わらない。

★ あのころの流行と言えばむしろ逆、筋や義理のために己を殺すヤクザの物語だった。着流しに雪駄、手には長匕首を握り死地に赴く。雪の中、桜吹雪の中、刺青を血に染め展望もなく暴れ回る。死に切れなかった者は、従容として司直の縄を受ける。彼はそんな映画が嫌いだった。任侠道の『道』の字がことさら気に入らなかった。

★ 立て看板がまったくないことが、印象を変えていた。赤旗もなく、ビラも散っていなかった。人気もなかった。髪の毛を赤く染めた学生はいたが、ヘルメットをかぶっている者はいなかった。そこらに座り込んだ学生は本を読む代わり、誰もが携帯電話をかけていた。拝むように持ち、両手でプッシュボタンを押している者もいた。

★ 街灯は明るく、自動販売機の光が華やかだった。どこまで行っても、光が途絶えることはなかった。店が途切れ、道は線路から離れた。住宅地が始まった。夕餉の匂いがした。どの家にも生け垣はなく、庭もなく、窓明かりの中に人の気配もなかった。聞こえてくるのは、遠いエンジンの音だけだった。

★ 三次屋の前を通った。ガラスケースの菓子はどれも売れ残りのように見えた。三次屋とコグマ屋文具と近藤書店、その三つが、物心ついたときから彼と妹の聖域だった。そこで何をせがまれたろうか。冬のお好み焼き。真夏の掻き氷、他になにがあったろう。
角地のちょうど西側に、住居の玄関があった。その真上が妹の勉強部屋だった。夜遅く、息をひそめて抜け出そうとすると、二階からいきなり顔を覗かせ、彼を困らせた。
彼はそこに立ち、目を上げた。ビニールシートがのっぺりと広がるばかりだった。

★ 百年前には何もなかった。百年後には何ひとつなくなっていても不思議ではない。彼は店など継がないと子供の頃から宣言していた。父親も、継がなくてかまわないと言った。こんな商売は、俺でおしまいにしたっていいんだ。決して寂しそうではなかった。むしろ、喜んでいるように見えた。一次志望校に合格した夜、父親と店の酒を飲んだ。二人で酌み交わすのは初めてのことだった。

★ 俺は今、どんな目つきをしているのだろう。彼の膝が、ガラスの傷を強く押した。接着剤があっけなく剥がれた。
足場の鉄パイプを強く握りしめた。その感触が、どうにも心地よかった。彼は思い切って膝に力を込めた。大した音もなく傷はひろがり、ガラスが割れて内側に落ちた。
手を伸ばし、額を取り出した。妹の写真は今、彼の手の中にあった。

<矢作俊彦『ららら科學の子』16-21(文春文庫2006)>






こんなときナンですが

2011-03-23 23:24:56 | 日記


まあぼくもいろいろ不安です。

たとえば、本来のぼくとしては、この期におよんで、嘘ばかり言う“専門家”とか“原子力にくわしいお方”とか、ナントカ電力とか、ナントカ保安院とか、予想通りだめなセイジカ+カンリョウの、<批判>をしたいのだが、いまいちばん怖いのはパニックです。

まあ、自分が住んでいるのが、人がぼくをふくめウジャウジャいる地域=トキオなので、ここでパニックが起これば(どういうパニックが起こるかは、みなさんの想像力によりますが)、放射線のじわじわくる恐怖もさることながら、即効性でありえます。

ぼくは人格者でも悟りをひらいたひとでもないので、訓示はいたしませんが、“みなさん”、落ち着いてください(無理して!)


さて、このブログはいかなる時でも、“読書 → 引用”を看板にしてるんだから、たまたま昨日読んだ“言説”を引用しましょう。

しかし、この引用は現在の状況にたいする教訓をなんら含みません;

★ 意識とは、本来、人と人とのあいだの連絡網にすぎない、――ただそうしたものとしてのみ発達したに違いなかった。つまり、世捨人的な猛獣のような人間なら意識など必要とはしなかっただろう。・・・・・・人間は、最も危険に曝された動物として、救助や保護を必要とした、人間は同類を必要とした、人間は自分の危険を言い表し自分をわからせるすべを知らねばならなかった、――こうしたすべてのことのために人間は何をおいてもまず「意識」を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを「知る」こと、自分がどんな気分でいるかを「知る」こと、自分が何を考えているかを「知る」ことが、必要であった。

<ニーチェ『楽しい知』― D.オーウェン『成熟と近代』(新曜社2002)より引用>






ふるさと

2011-03-22 09:54:25 | 日記


“現地”へ入った、藤原新也氏のブログを読んだ、引用したい;


2011/03/19(Sat)
15時26分

木々たちも青ざめている。

怖かったのだろう。


2011/03/19(Sat)
15時50分

犬猫見ない。
波にのまれた。


2011/03/19(Sat)
18時17分

満月が憎らし


2011/03/19(Sat)
21時04分

走行中。

この大惨状は新聞テレビが報じているように点ではなく線で見なければその巨大さがわからない。

暗闇の中を尽きることなく延々と続く被災荒野。

これが結局青森から茨城、そして千葉まで続くということ。

自衛隊はいまだに死体を捜している。

(略)

テレビは青森から千葉まで延々と映像を流すべき。

だが聞くとことによるとテレビ民放各社は溜まりにたまった録画娯楽番組を便秘のクソのようにいっせいにたれ流しはじめたとのこと。

ニュース以外はテレビを消そう。

ウンコ番組は見ないよう。

それは人間の矜持だ。

赤いテールランプが連なりはじめた。

渋滞か。

メシが遠い。


2011/03/20(Sun)
19時32分

闇の向こうに延々と広大な廃土。

内陸から海岸線に出るたびに驚愕。

普通は一度見た光景は2度、3度見るたびに慣れて来るものだが、何度見ても驚く自分がいる。

原爆の荒野、空襲による大火災ののちの荒野は、燃えたことによって復興が容易になるという皮肉な結果があるが、この津波による荒野は膨大な量の廃物が複雑頑強に絡みつきながら居残っている。

果たしてこれをどこに持って行くのか。

生活ゴミ処理だけでも難儀している時代にこの莫大な量の廃物の処理場や埋却地はないと言ってよいだろう。

今はそこまで考える余裕のない時期だが、やがてそれは御し得ない難題として大きく立ちはだかることは自明である。


2011/03/20(Sun)

1000回の溜息
被災地で吐くいかなる言葉もウソっぽくうつろに響く。

そこにはいなかる修飾も排したぎりぎりの事実の瓦礫のみが広がるからかも知れない。

見て来たことをただ書く気にもなれぬ。

ノーテンキにがんばろうとも言えぬ。

1000回の溜息の方がずっとまし。

だが溜息は1000回を越えてはならぬ。

今日はただ黙して寝る。


2011/03/21(Mon)
10:06

瓦礫の中、所々からムッと腐臭

屍、死してここにいると必死で信号送っているよう。
が、どうしょうもない。


2011/03/21(Mon)
12:58

子手引く、すれ違いし主婦の眼の色、青ざめ哀しみ塞き止めている。


2011/03/21(Mon)
01:55

階上(はしかみ)避難所、家族、冗談ばかり飛びかうのがきつい。


2011/03/22(Tue)
6:48

朝っぱらから流れる耳タコ希望
ラジオテレビから延々と流れる続ける希望の言葉、はげましの言葉。

言っておくがここ被災地の人々がその言葉を聞いている場面に一度も出くわしたことがない。

残念ながら1000回の耳タコ希望は重ねれば重ねるほど浮いてしまい人々にとって鬱陶しいのだ。

つまりそれは安全圏の中に住む人々の間のみで消費されている自慰行為に過ぎない。

ここ数日の経験からするなら、希望言語より人々の心に寄り添ったなげき言語の方がずっと人の心を癒すという不思議な人間の心の綾というものがあるということを希望希望と連発する人々は知って欲しい。

もしその言葉を吐くなら、私はこの震災のために(べつに大げさなことでなくとも)何をしたという小さな行為と事実を述べた上で言って欲しい。


2011/03/22(Tue)
09:11

ふるさと
それでもセブンイレブンの残骸の前にたむろする少年三人。






なによりもだめなメディア

2011-03-20 13:16:36 | 日記


まだ“渦中”にあるときに、“その後”についてなにか言うことは無意味に近い。

だから今日まで、ぼくは“メディア”に通常より張り付きつつ、なにも言わなかった。
もちろん“今”も、“その後”ではない。


しかし、もし“その後”があるのなら、この震災で、決定的に“終わる”ものがある。

たとえば、“原発がなければ日本経済は破綻する”という立場である。

もちろん、それを終わらせるためには、すべての日本列島に居住する人々の省電力生活が必要であり、そのためには“生活を変える”必要がある。
キラキラ、ちゃらちゃらした“街”を変える必要がある。

それは、“日常生活のスタイル”の問題であると同時に、“思想”の問題である。
もしこれまで“思想”に無縁できた人々も、ここから始めればいい。

もちろん“キラキラ、ちゃらちゃらした”ライフスタイルにしがみつく<保守主義者>は、あいもかわらず、自分の馬鹿を棚に上げて《今回のことで分かったことは「バカ」は罪だってことだな》などとつぶやきつづける。

しかし端的に言って、いつの時代も、多数というのはバカである。
それでも、希望に賭けなければならない。

ぼくは自分がバカでないなどと思わない。
だから“他人”からまなぶのだ。

現在進行中の事態に関する“言説”でも、多くのバカげた発言をメディアは流し続ける。

典型的なのは今日の“あらたにす読売編集局から”のような言説である;

《夫はホワイトデーのプレゼントをこっそりと用意していました。「たまには指輪とか欲しいけど」。妻は以前、プレゼントをあまりくれたことがない夫に意地悪を言ったことがありました。そんな夫の贈り物を偶然見つけたのは、津波で犠牲になった夫の遺体と対面した後でした。小さな娘2人と避難所暮らしが続く妻は「この子たちは責任を持って育てる」と指輪に誓います。涙なしでは読めない「夫の最後の贈り物」は社会面です。》(引用)

こんなメロドラマなら、史上空前の災害がなくても、“テレビドラマ”ですでに何万回も見た。

ぼくたちが、今見ているのは(想像力によっても)まったく別の光景である。

しかし今日の読売編集手帳は、天声人語より“マシ”である;

《◆もし我慢や献身が今も日本人の美徳だとすれば、それを最も失わずにきたのは、東北地方のお年寄りだろう。大津波はそんな人々の慎ましい生活を奪い去った◆「物言わぬ」と言われる人たちは、避難先でテレビのマイクを向けられても、救援物資の遅れに怒りやいらだちを顕にすることはまずない。「もう我慢しないでください!」。画面に向かって、思わずそう告げたくなる。》(引用)

《もう我慢しないでください》


さて天声人語である;

《▼がれきの街には、愛する人の記憶をまさぐり、泥まみれの面影を抱きしめる姿がある。「泣きたいけれど、泣けません」。被災者ながら、現地で体を張る看護師長の言葉である。戻らぬ時を一緒に恨み、足元の、そして来るべき苦難に立ち向かいたい▼地震の1週間後、東京スカイツリーが完成時の高さ634メートルに届いた。この塔が東京タワーを超えた昨春、小欄は「内向き思考を脱し、再び歩き出す日本を、その高みから見てみたい」と書いた▼再起のスタートラインは、はるか後方に引き直されるだろう。それでも、神がかりの力は追い込まれてこそ宿る。危機が深いほど反発力も大きいと信じ、被災者と肩を組もう。大戦の焼け野原から立ち上げたこの国をおいて、私たちに帰るべき場所はない。》(引用)


まさに“現場”では、《泣きたいけれど、泣けません》。

この時、

《それでも、神がかりの力は追い込まれてこそ宿る。危機が深いほど反発力も大きいと信じ・・・・・・》(引用)

という言葉の、うそ寒い、そらぞらしさはなにか?

なぜ《神がかりの力》などというオカルト的・原始呪術的な言葉が発せられるのか。

この天声人語の書き手には、近代(モダン)もポストモダンもないのか。

一気に、“近代理性”以前に本家帰りし、近代と近代以後の人類の生活と思考の歴史を、まったく無化(無視)してしまうのか。

まさにこの書き手には、《帰るべき場所》があるのである。
それは“近代以前の”神がかりの非理性の(無思考の)闇である。

まさに“リベラル・ヒューマニズム”の正体である。

この災害後において、死ぬべきなのは、このような<メディア>である。

あるいは今日もツイッターでまったく無意味なことをつぶやきつづける、メディアと大学に寄生し続ける、“寄生虫ども”(”専門家”ども、人間の屑ども)である。



《内向き思考を脱し、再び歩き出す日本を、その高みから見てみたい》(天声人語引用)


まったくちがう。

思考に“内向きも外向き”もない。

自分の“内を”見ない思考などない。
また、自分の外を目指し、自分の外と関わり、自分の外へ溢れ出ない思考は、ない。

《その高み》から見るのではない。

地を這いつつ見る。

そのようにしか生きられない。

けれども、思考は(考えることは)、全世界を見つめるために、はばたく、飛翔する。







なぜ?

2011-03-19 23:51:59 | 日記


なぜ、震災地のテレビ映像は、あんなにも、リアルでないのだろうか?

管理された映像。

《蝿も、白く濃厚な死の臭気も、写真には捉えられない》(ジュネ)

この言葉を、“すでに”ぼくは何度も引用した。

しかしこの言葉は、まったくちがった状況で発せられた。

ここでジュネが目撃した死=死体は、だいいち、“暑さ”のなかにあった。

あるいは、これらの死者を死体とした“もの”は、天災(自然災害)ではなく人災(虐殺)だった。

あるいは、この<文>にさえ、文学的レトリックの浅薄さを感じてもよい。

このおびただしい死者を目撃し、さらに死におびえふるえ、飢餓や寒さ薬の不足に直面するひとびとにとって、まさに《詩を語ることは野蛮である》(アドルノ)

まして、以下の<言葉>をここに引用することは、不謹慎であろうか?;

《愛と死。この二つの言葉はそのどちらかが書きつけられるとたちまちつながってしまう。シャティーラに行って、私ははじめて、愛の猥褻と死の猥褻を思い知った。愛する体も死んだ体ももはやなにも隠そうとはしない。さまざまな体位、身のよじれ、仕草、合図、沈黙までがいずれの世界のものでもある》(ジュネ:“シャティーラの4時間”)


上記《不謹慎であろうか?》は、“不謹慎ではない”というレトリックではない。

ぼくは、現場にいない。

あるいは、ぼくの<ここ>、この時間場所は、この現在においても曖昧である。


もちろん、“その時”には、ぼくは、どんな言葉、どんな本も読めない。

しかし、“いまここ”において、ぼくは本を読み続ける。






多数の声;現実の複数の断片

2011-03-19 23:12:39 | 日記


★ ドストエフスキーのポリフォニー小説において重要なのは、単一の具象的世界の確固たる背景において対象をモノローグ的に認識し、その枠内で展開してみせるという意味での、ありきたりな対話形式ではない。問題は究極の対話性、すなわち究極的な全体にわたる対話性である。

★ 彼の小説は、複数の他者の意識を客観的に自らに受け入れる単一な意識の全体像として構築されているのではなく、いくつかの意識の相互作用の全体としてあるのであり、その際複数の意識のどれ一つとして、すっかり別の意識の客体となってしまうことはないのである。この相互作用の世界は、観察者に対しても、普通のモノローグタイプの小説のように出来事の全体を客体化するための足場を与えず、したがって観察者をも参加者としてしまう。彼の小説は対話の渦の外側に、それをモノローグ的に概観しようとする第三者のための堅固な足場を提供しないばかりか、逆にその全構造が、対話的な対立を出口のないものとするべく仕組まれているのである。作品のどの一つの要素をとっても、無関係な《第三者》の視点から作られたものはない。小説自体の中にも、そうした無関係な《第三者》はけっして登場しないのである。第三者のためには構成上の場も意味的な場も存在していない。それは作者の弱みではなく、非常な強みなのである。それによってモノローグ的な作者の位置を越える新しい作者の位置が獲得されたのだ。


★ ドストエフスキーはゲーテとはまったく反対に、様々な段階を成長過程として並べるのではなく、それらを同時性の相で捉えたうえで、劇的に対置し対決させようとする。彼にとって世界を探究することは、世界の構成要素すべてを同時存在するものとして考察し、一瞬の時間断面におけるそれらの相関関係を洞察することを意味したのである。

★ それゆえにこそ彼の主人公たちは何事も回想しないし、過去において十分に経験し尽くされたものという意味での伝記をもたないのである。彼らが過去の中から思い起こすのは、彼らにとっていまだ現在であることをやめず、現在として経験され続けている事柄、すなわちいまだ贖われていない罪、犯罪、許されざる侮辱などに限られている。


★ 各人が自分なりにドストエフスキーの本音を解釈しながら、異口同音にそれを一つの言葉、一つの声、一つのアクセントとして捉えようとしている。だがそこにこそまさしく根本的な失敗が存在するのだ。言語を超え、声を超え、アクセントを超えたドストエフスキーの小説の統一性は、解明されぬままに残っている。

<ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫1995)>





不破利晴への手紙

2011-03-18 09:41:36 | 日記


☆下記ブログヘの不破利晴コメント;

僕も結構彼女は好きですが、微妙に年をとりましたね。まあ、若ければ良いというものでもありませんが。
「Time after Time」が好きです。



☆ 不破コメントへの返信;

不破 君

《微妙に年をとる》(笑) いいね。

君は記憶していると思うが、Doblogの最後の頃、ぼくはユーチューブを貼りつけていた。

その大部分は、<むかし>好きだったアーティストやグループの映像だった。
それでユーチューブを検索していて、シンディの“シー・バップ”の最近の演奏を見た。
とても好きだった。
つまり“近年”、ぼくは彼女を聴いても見てもいなかった。
それで、“近年”の彼女のCDを買おうと思いながら、結局、買ってもいない。

ぼくの音楽とのつきあいは、現在、その程度のものだ。

<現在>といま書くなら、地震と原発事故について語ることになる。
君のブログとツイッターは見ている。

地震の時は新宿の仕事場にいて、いったんビル外に退避し、また自分の机にもどってからは、ネットニュースと他の人がもっていたラジオで、“情報”を得た。
その時から、<原発事故>に注目、家に帰ってから、テレビ、ネットで原発状況についてチャンネルを切り替えながら、見続けた。

ケーブルテレビで見れる“TBSニュースバード”が、地上波チャンネルではカットされる東電や原子力安全保安院などの記者会見を放映しつづけるのを見た。
CNN映像が、日本のテレビ映像とちがっている(たとえば“遺体”を運ぶ映像)ことも知った。

そして数日、地震情報しか流さなかった民放テレビに不可解なCMが流され、いつのまにか、“通常の番組とCM”が復活していることは、“誰でも知っている”。

この間、ぼくもこのブログで、自分の感想や意見を書くことを考えた。
やまのように、疑問や批判がわきあがった。

ぼくの見た範囲では、ぼくが“共感”できる意見はまったくなかった。

たとえば、“いまネガティブなことを言うべきでない”という<空気>には、反対する。
あるいは、“これが日本復興のチャンスだ”という意見にも、違和を感じる。

たしかに“被災地の人々”に対して、ぼくは“当事者”ではない。
しかし、ぼくも東京で地震の恐怖を感じ、原発事故のさらなる破局におびえ、“計画停電”の闇のなかで蝋燭の灯を見つめた。

君のように通勤さえしていないのに、ぼくは疲れて、寝てばかりいる。

昨日ついに、本を読み始めた。
読みかけのT.イーグルトン『文学とは何か』を終りまで読み続けようと。

たしかに一昨日まで、ぼくは本が読めなかった。

たとえば、当事者であり、渦中にあるとき、本は流され、燃え、消滅し、たとえ手元に1冊の本が残っても、それを読むことはできない。

危機の合い間に読むことができても、そこに書かれているすべては、<そらぞらしい>と感じられるかもしれない。

ぼくは、それを試している。

君は書いている;

《繰り返すが、東電福島原発は大規模爆発する。
 その時、どう行動するかはあなたが決めることだ。僕は東京に残る選択をする。いざとなった時、両親を救出するためだ。それですら時間の問題だ。大規模爆破したら最後、現場は完全封鎖され、目的は達成されないかもしれない。
 これからは自分の運と才覚とひらめきが試されるだろう。”生きる”ということは、本来そういうことなのかもしれない。》(引用)


ぼくには、生きるための《運と才覚とひらめき》が乏しい(笑)
しかも最近疲れやすい。

けれども、たしかに、生きることは、ひとそれぞれの判断と力である。
だれからも指図されない。

楽観(希望的観測)も悲観(他者をあげつらう非難)もいらない。

“情報”も“他人の意見”も(いつも)不確実である。

君と君の家族と君の両親が、生き抜けることを願う。

これが、
《希望なき人びとのためにのみ、希望はわたしたちに与えられている》
という言葉を、すこしは自分の言葉として感受できる機会なら、<幸せ>である。






P.S.

テリー・イーグルトンは書いている;

★ 女性運動のメッセージは、運動の外部にいる人間によって解釈されているような、女性が男性と平等の権力と地位を持つべしということではない。むしろ、女性運動は、そうした権力や地位のすべてに疑問を投げかける。女性運動は、より多くの女性が社会に参加すれば、それだけ世界が繁栄すると言いたいのではない。女性運動は、人間の歴史の「女性化」がなければ、世界は生き残れない、と語っているのだ。
<T.イーグルトン『文学とは何か』(岩波書店1997)―230P>


《女性運動は、人間の歴史の「女性化」がなければ、世界は生き残れない、と語っているのだ》


この言葉を聞くべきなのは、<すべての女性>である。

そして男であるぼくには、(自己批判が必要なだけでなく)、できるなら、<女性>と助け合いたい。






シンディ・ローパ東京公演

2011-03-17 00:23:32 | 日記


たまたま見た記事だけど、シンディ・ローパが好きなので。

ぼく自身は、11日深夜に新宿から帰宅して以来、東京都下の住家に引きこもっております(今夜7時から9時”計画停電”も体験した)



<シンディ・ローパー、16日からの東京公演決行>Jcastニュース011/3/16 17:54

アメリカの人気歌手シンディ・ローパー(57)が、2011年16日から18日まで行う東京公演を決行する。場所は渋谷の「Bunkamuraオーチャードホール」。東京では東日本大震災の影響によってコンサートの中止が相次いでいる。シンディも、公演を行うかどうか悩んだが、自分の仕事である歌でみんなを元気付けたい、募金や電気の節約を呼びかけたい、と開催を決めたという。




<芸能記者Nakapiというひとのツイッター>

☆節電なのに…という意見もあるだろう。でも在日外国人が次々と離日するなか、震災当日に成田に降りられず横田基地を経て来日。以来、余震の揺れや原発事故をものともせず、公演を実現したシンディーに拍手をおくりたい。 16分前 twiccaから

☆シンディー・ローパーの公演。終了後の募金箱の中身は、お札ばかりだった。 31分前 twiccaから

☆シンディー・ローパー終了。何度も客席の中に入ってハグ。元気づけようおいう気力あふれ盛り上がる。照明は大人っぽくムーディーな暗さ。セットもシンプル。声量は絶大。TOKUのフリューゲルホルンがいい感じだった。みんなを勇気づけた。 43分前 twiccaから

☆シンディー・ローパー、7割ぐらいの入りか。あす、あさっても当日券あるそうだ。 約3時間前 twiccaから

☆暗い渋谷の街を通り、オーチャードホール。シンディー・ローパー公演。どのクラシックより客少ない感じだが、ロビーでは熱い募金活動。 約3時間前 Twitter for Androidから





30年がたって;“ららら科學の子”

2011-03-09 11:52:19 | 日記


★ こうして彼は、新幹線“こだま”で日本に帰った。東京駅で降りると、何より先に公衆電話を探した。

★ さて誰にかけるか、どちらにしろ相手は3人しかいなかった。電話帳は何十年も前に焼き捨ててしまった。暗記していた十いくつかの番号を、ときどき思い出し思い出し、忘れないよう頭のなかで復唱していた。その記憶もひとつ消えふたつ消え、今は三つしか残っていない。

★ 昨夜、迎えの車と落ち合えず、右往左往している連中を残して、彼は真っ暗な石ころだらけの海岸を遠い街灯に向かってどんどん歩いた。そこが伊豆半島の西側だということは、初手から判っていた。船が錨を下ろす前に、左舷の水平線上に見事な富士山のシルエットを見た。乗り換えた日本の漁船に揺られながら、そのシルエットまでの距離を油断なく目測していた。

★ 新幹線の窓から銀座が見えたときは、歓声が喉に湧いた。
右の窓に、しかしいつまでたっても日劇は見えなかった。鏡を張りつめた大きなビルがそれだったんだろうと推測するのに手間がかかった。(・・・・・・)沿線からは、記憶にあるものが欠け、無いものが増えていた。空と道が狭くなったような気がした。しかしあるのは、間違いなく銀座であり有楽町だった。

★ 東京で最後となった夜、すぐそこの映画館で時間をつぶした。加山雄三の映画だった。健康なスポーツマンを売り物にしていた映画スターが、珍しく孤独な殺し屋を演じていた。暗く頽廃的な物語だった。すべてを失い、死んでいく主人公に救いは何ひとつなかった。彼は強いショックを受けた。その年、大学は怒号と立て看板とヘルメットに埋め尽くされ、たしかに、そうした映画が時流だった。
いくつかの場面を生々しく思い出した。すると一瞬、その映画館の暗がりで今しがた目覚め、外へ出てきたような錯覚におちいった。
空は晴れ、空気は冷たく、日差しは熱かった。木々は初夏の青葉を繁らせていた。映画館の居眠りのあと歩くには、もってこいの天気だった。

★ 紙袋の形を整え、あらためて本屋に入った。とてもいい匂いがした。いったい何の匂いだろう。レジ脇のディスプレイが目に飛び込んできて、その疑問は置き去りにされた。
大きな白黒写真の埴谷雄高だった。平積みになった本のてっぺんでこちらを凝視していた。
あの長い長い小説は完結したのだろうか。作家は当然、老けているはずだが、どの程度、老けたのかまったく判らなかった。ずっと以前からこんな老人だったような気がした。それは銀座の街並みと同じだった。

★ 外国文学の棚は、知らない名前ばかりだった。『ジェイムズ・ジョイス伝』に手が伸びた。大きく頼もしいほど厚く、そのうえ腰巻まで真っ白な表紙が清潔に見えた。(・・・・・・)
何気なく本を裏返し、値段を見た。笑はさっと引っ込んだ。八千二百円。生涯、手に入れられないような金額に思えた。

★ そのとき、匂いが蘇った。新しい紙と印刷インクの匂いだ。それが彼を取り巻いていた。
30年暮らした中国の村では、活字はどれも黄ばんだ紙に印刷されていた。
もう一度、思い切りその匂いをかいだ。そのとたん、胸がつかえた。胃が暴れ、何かが喉にこみ上げてきた。歯を食いしばってそれを止めようとすると、涙がわっと溢れでた。

<矢作俊彦『ららら科學の子』(文春文庫2006)>







本音と建前

2011-03-09 09:00:02 | 日記


共同通信が“メア日本部長の発言録要旨”を掲載している。

なかなか興味深い発言だ。

“メア日本部長”というのは、“日本を専門としているアメリカ人”であるらしい。

この発言についても、“メディア”はアーダコーダだと怒った振りをしているが、ぼくが注目するのは、以下に引用する発言要旨の最後の部分である。

そこにはこう書いてある;

《日本国憲法9条を変える必要はないと思う。憲法が変わると日本は米軍を必要としなくなり、日本の土地を使うことができなくなる。日本の高額な米軍駐留経費負担(おもいやり予算)は米国に利益をもたらしている。》


“日本人”の<本音と建前(の使い分け)>を批判する“アメリカ人”は、きっと正直なひとなのである。

日本人は、“ポリティックス”に対して、“リアル”であるべきだろう。

まず、“海外の”、スパイドラマからでも学んだらどうか(BBCの「MI-5」はけっこうおもしろい、「24」と比較するならば)

そこにも“フィクション”(虚構=嘘)があるなら(ある)、グレアム・グリーンやジョン・ル・カレを読もう。




<メア日本部長の発言録要旨>

米国務省メア日本部長発言録要旨は次の通り。

沖縄で問題になっている基地はもともと水田地帯にあったが、沖縄が米施設を囲むように都市化と人口増を許したために今は市街地にある。

米国が沖縄に基地を必要とする理由は二つある。既にそこに基地があることと沖縄は地理的に重要な位置にあることだ。 海兵隊8千人をグアムに移すが、軍事的プレゼンス(存在)は維持し、地域の安全を保障、抑止力を提供する。

(米軍再編の)ロードマップのもとで日本は移転費を払う。日本の民主党政権は実施を遅らせているが、現行案が実施されると確信している。日本政府は沖縄の知事に「もしお金が欲しいならサインしろ」と言う必要がある。ほかに海兵隊を持っていく場所はない。

日本の文化は合意に基づく和の文化だ。合意形成は日本文化において重要だ。しかし、彼らは合意と言うが、ここで言う合意とはゆすりで、日本人は合意文化をゆすりの手段に使う。合意を追い求めるふりをし、できるだけ多くの金を得ようとする。沖縄の人は日本政府に対するごまかしとゆすりの名人だ。

沖縄の主産業は観光だ。農業もあり、ゴーヤー(ニガウリ)も栽培しているが、他県の栽培量の方が多い。沖縄の人は怠惰で栽培できないからだ。

日本に行ったら本音と建前について気を付けるように。言葉と本当の考えが違うということだ。私が沖縄にいたとき、「普天間飛行場は特別に危険ではない」と言ったところ沖縄の人は私のオフィスの前で抗議をした。

沖縄の人はいつも普天間飛行場は世界で最も危険な基地だと言うが、彼らは、それが本当でないと知っている。(住宅地に近い)福岡空港や伊丹空港だって同じように危険だ。

日本の政治家はいつも本音と建前を使う。沖縄の政治家は日本政府との交渉では合意しても沖縄に帰ると合意していないと言う。日本文化はあまりにも本音と建前を重視するので、駐日米国大使や担当者は真実を言うことによって批判され続けている。

日本国憲法9条を変える必要はないと思う。憲法が変わると日本は米軍を必要としなくなり、日本の土地を使うことができなくなる。日本の高額な米軍駐留経費負担(おもいやり予算)は米国に利益をもたらしている。
(共同)2011/03/08 18:13 【共同通信】






並木

2011-03-07 13:53:13 | 日記


★ もう10年ほど前のこと、いったい何でそんなところを歩いていたのかもうまったく覚えていないが或る晩遅く榎田は、日暮里駅のあたりから山手線の線路に沿って鶯谷の方へ戻ってゆく途中で妙な喫茶店に立ち寄ったのである。入谷の方へ向かう自動車通りから細い路地を右に折れてゆくともう本当に国電の線路ぎりぎりのあたりに時代から取り残されたような古ぼけた一角があって、建って何十年たっているのか見当もつかないようなせせこましい家がごたごたと立ち並んでいる。しかしそのごたごたした感じが丹精した植木鉢が路地にはみ出していて濃密な生活感の漂っているいわゆる長屋の町並というのとは少し違って、もう住民からも見棄てられ、取り壊されるのを待つばかりの線路脇の一角でそのわずかな猶予の期間だけ影の薄い人々が辛うじて生活を営んでいるといった気配なのだ。そんなところに迷いこんでいくらか当惑していた榎田は、そのくねくね続く路地奥にほんの5坪ほどの小さな公園が不意に現れて、そこには玩具のようなブランコと滑り台がもっともらしく据えられたりしているのを見て、いくらか心が温まるような気持になったのだった。

★ その公園の向かいのどう見ても普通の民家としか見えない一軒に「珈琲 並木」という小さな看板が出ていたのだが、もう深夜といってもいいような時刻だというのに、汚れた曇りガラスの嵌った禿ちょろのスウィング・ドアを押してよくもまあそんな得体の知れない店に入る気になったものだと榎田は後になって自分を訝る気持にならないでもなかった。・・・・・・



★ それにしてもあの「並木」という名前はいったい何だったのだろうかと榎田は訝り、それはこの10年間一度も頭に浮かんだことのなかった疑問だった。並木さんという人が店をやっていたのだろうか。そうでなければ並木とか並木道とかいった概念とあれほど無縁な界隈もなかったような気がする。しかしあれはたしかにあの店にぴったりの名前だったというのが榎田の実感だった。鶯谷のプラットホームで電車を待っていると青空の高みから街の喧騒を貫いてピピピピピというヒバリの長い鳴き声がはっきりと聞こえ、あの女主人は死んでしまったのだという直観が榎田の頭に閃いた。

<松浦寿輝“並木”―『ものの たはむれ』(文春文庫2005)>






エロティーク=レトリーク;性愛=修辞

2011-03-07 13:01:56 | 日記


★ オルガスムスの一瞬に生起する狂的な、また聖的な爆発といったものは、実は性愛現象という広大な全体のほんの一部分をなすにすぎず、むしろより本質的と言うべきは、その決定的な一瞬に到り着くまでの引き延ばされた欲望昂進の道程の方なのではないだろうか。本来は到達不可能であるべき究極の一点へ向かっての漸次的な接近の幻想そのものにこそむしろ性愛の名を与え、その一点への最終的な逢着のありように関してはただ生物学的な必然性としてのみ語ることにした方が当を得ているとさえ言うべきではないだろうか。

★ そもそも人間の性の独自な性格を動物の性と区別するものは、性欲の満足とそれ以後の受精・妊娠の過程ではなく、不充足状態のまま維持される欲望の輝きの方であるはずだ。欲求の充足ではなく欲望の持続そのものに性の本質を見てとり、緊張からの解放つまり弛緩に伴う特権的瞬間の悦楽ではなく、延引されてゆく緊張状態の持続を耐えることの終わりを知らない快楽の裡にこそ、人間の性のもっとも輝かしい側面を感受すべきなのではないだろうか。

★ 欲望とは決して脱=我の拡散のことではなく、そのかぎりにおいてここで「わたし」は完全に消失しさりはしない。欲望する「わたし」は、そこにあくまで在りつづけるのである。「わたし」は欲望し、かつ欲望する「わたし」自身を同時に意識してもいるのであり、その意味で「わたし」が自分を完全に喪失し尽くすことはありえない。

★ しかしまた、「わたし」の現前を前提とはしながらも、欲望とはそこにおいて、人であれ物であれ「わたし」ならざる他の何かを志向する以上、「わたし」の外へ絶えず溢れ出しつづける超出体験であるには違いない。

★ 欲望の中で、「わたし」はたしかに在る。だがそれはもはや堅固な自己同一性によって保障された真正の「わたし」ではない。それはいくぶんか「わたし」ならざるものへと変容しつつある「わたし」なのである。

★ そして、聖者のものでもなく狂者のものでもない、一応は正常と見なされるそうした日々の言語的実践において、人は程度の差こそあれそのつど絶えず「わたし」の新たな生成を生きているはずだと主張してみたい。語りながら、「わたし」は「わたし」の外へと溢れ出す。言葉によって「わたし」の外に連れ出されると言ってもよい。その理由は単純なものだろう。言語が、「わたし」にとって他者のシステムでしかないからだ。言語とはこの場合、日本語やフランス語というような固有の語彙と構文法を備えた記号の装置=体系としての国語(ラング)を指しているが、それがいかに母の国の言語と形容されるにせよ、言語と「わたし」との間には、乳児とその母との間に仮定されうるような想像的な溶融関係など絶えてありえた試しがない。世界を所有するには言語の媒介によるほかないのだが、にもかかわらず言語そのものを所有しみずからに同化し尽くすことはどうしてもできないということの逆説的な事態。象徴体系としての言語との関係を生きるにあたって、日々刻々「わたし」を引き裂きつづけるのはこのパラドックスである。

<松浦寿輝『官能の哲学』(ちくま学芸文庫2009)>