Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

家族写真

2013-07-30 12:04:43 | 日記

★ 「あの子は特別な子でした!」とカレン・ジョルダーノは報道陣に語った。両親が自分のこどものことを説明するとき、よくそういう言い方をするが、ふつうはたいてい誇張にすぎない。大部分のこどもたちは、愛する両親の目にはともかく、実際には少しも特別ではないからだ。だが、そんなことはどうでもいい。重要なのは、彼女がカレン・ジョルダーノの娘だということなのだ。

★ だから、あのころ、町の通りを歩いているとき、上空から見れば砂粒みたいに見分けのつかない人々の顔を見ながら、この地上にいる人にとっては、すぐそばにいる人にとっては、どの顔も唯一無二のものだ、という考えをわたしは受け入れた。それは母親の顔であったり、父親の顔であったり、妹や弟や、娘や息子の顔なのだ。それは無数の思い出が刻みこまれている顔であり、だから、ほかのどんな顔とも違う顔なのである。

★ それこそ人を人に結びつけている核であり、人間を人間たらしめているものであり、もしもそれがなかったら、わたしたちはなにも映していない、どろんとした目の、無関心の海のなかを――ただ生き延びていくための最低限の糧を求めて――永遠に泳ぎつづけるだけだろう。それがなければ、歯が肉に食いこむ痛みや、岩や珊瑚にこすられてひりひりする痛みは感じても、身も心も捧げた愛情を知ることはなく、したがって、カレン・ジョルダーノの苦悩の深さも、彼女の心の振幅の激しさも、その癒えることのない傷やけっして埋められない喪失感も知ることはないだろう。そして、のちにあきらかになったように、ニュースまでには帰るというなんでもない約束のなかに、どんな苦悩や暴力が隠されていたかを知ることもないだろう。

<トマス・H・クック『緋色の迷宮』(文春文庫2006)>







COSMOS

2013-07-28 13:58:31 | 日記


晴れた夜空を見上げると、無数の星々をちりばめた真黒な天球が、あなたを中心に広々とドームのようにひろがっている。ドームのような天球の半径は無限に大きく、あなたに見えるどの星までの距離よりも天球の半径は大きい。

地球の中心から延びる一本の直線が、地表の一点に立って空を見上げるあなたの足の裏から頭へ突きぬけてどこまでもどこまでも延びて行き、無限のかなたで天球を貫く一点、天の頂、天頂。

地球を南極から北極へ突き通る地軸の延長線がどこまでもどこまでも延びて行き、無限のかなたで天球を貫く一点、天の北極。

遠く地平の北から大空へ昇って遥かに天の北極をかすめ遥かに天頂をよぎって遠く地平の南へ降る(くだる)無限の一線を、仰いで大宇宙の虚空に描きたまえ。

大空に跨って眼には見えぬその天の子午線が虚空に描く大円を三八万四四〇〇キロのかなた、角速度毎時十四度三〇分で月がいま通過するとき月の引力は、あなたの足の裏がいま踏む地表に最も強く作用する。

そのときその足の裏が踏む地表がもし海面であれば、あたりの水はその地点へ向かって引き寄せられやがて盛り上がり、やがてみなぎりわたって満々とひろがりひろがる満ち潮の海面に、あなたはすっくと立っている。

<木下順二『子午線の祀り』―『子午線の祀り・沖縄 他一篇』(岩波文庫1999)>







無邪気なファシズム

2013-07-26 16:47:35 | 日記

★ 久しぶりにK君からメールをもらった。わたしよりおそらく40歳は若い友人(友人と、わたしはかってにおもっている)である。と言っても、数年前に1回しか会ったことはない。自宅でだ。ずいぶん遠いところから前置きなく私を訪ねてきたかれと、まずインターフォンで話し、なにも疑わず、部屋にきてもらった。なにを話したかはあまり憶えていない。いまもいっしょに暮らしている犬が、まだ子犬だったころである。K君は、華奢で色白でもの静かな青年というより、少年から青年になりかけの、人間がものごとにいちばん敏感で、頭が最も活発にはたらく時期にあって、だからこそ当然、いくぶん思い迷っているようにも見えた。そう見えるかれをわたしは好感した。かれは学生運動をしているようであった。わたしもなにせ半世紀ほど前のことだが、学生運動をしたことがある。K君はかつてわたしがいた党派とはちがうセクトで活動しているようであった。2つの党派(他の党派もだが)は過去に凄惨な殺し合いをしたことがある。それは、この国の学生運動だけでなく、政治、文化、思想の各面に、いまだに視えない死の影を投げている。わたしはそうおもっている。(……)変革をめざすというひとつの政治的党派が、変革をめざすという他の党派の者の殺害または殺害を結果することになるかもしれない暴力と身体の破壊を容認するということ。これはどういうことなのか。それは究極的に死刑容認の思想とまったく、全的に無関係でいられるものなのだろうか。そのことをK君と話してはいない。話せば、かれはかれの言葉で、かれじしんのかんがえを話してくれるかもしれない。脇道にそれた。ほんとうはあまりそれていないが、一応、脇道にそれたと言っておく。

★ K君のメールは、しばらく前にわたしが毎日新聞のインタビューに答え「…日本でもホモ・サケルに近い層、言わば人間以下として放置される人たちが増えている。80年代までは、そういう貧者が増えれば階級闘争が激しくなると思われていたけど、今は彼らがプロレタリアートとして組織化され立ち上がる予感は全くない。それどころか保守化してファシズムの担い手になっている。例えば橋下徹・大阪市長に拍手をし、近隣諸国との軍拡競争を支持する層の多くは非受益者、貧困者なんです」と話したことになっている箇所への反論であった。話したことになっている、などともってまわった書き方をしたのは、同紙の引用がわたしの言葉と多少のずれがあり、話の全体のコンテクストと必ずしも合わないからだが、わたしがおおむねこのような趣旨の話をしたことは事実である。K君はこれにたいしメールで「じつはこの箇所に引っかかりを感じていました。貧困者ほどファシズムに走っているというのは本当なのかと」と反論してきた。貧困者ほどファシズムに走っているというのは本当なのか? わたしは文字どおり「貧困者ほどファシズムに走っている」と言った憶えはないが、K君の「引っかかり」は、わたしの疑問そのものでもあるから俄然身をのりだした。

★ 勉強家のK君は、大阪市長選挙において、平均世帯年収と橋下市長に投票した割合の関連をさぐった客観的データやグラフなどを添付して、平均世帯年収が高い区ほど橋下に投票した割合が高かった事実を教えてくれた。さらに「富裕層が橋下市長を支持していると結論づけるのは早計だが、低所得者が支持層の中核という一般的なイメージと違うのは明らか。中流層のいっそうの分析が必要」とする研究者のコメントも紹介して、「生活に追われて政治的なことを考える余裕もない人たちよりも、新自由主義と右翼的な知識を身につけた中間層とその予備軍(学生)が、維新の会や安倍政権と潜在的に意識を共有している主体ではないか」と問題提起。「いまむしろ一番警戒すべきなのは、橋下市長の慰安婦発言や在特会のような『行き過ぎ』には眉をしかめ『ああいうのを支持する人間は低学歴の貧乏人』と距離を置きながら、それと本質的には変わらない安倍首相の外交姿勢や朝鮮学校の無償化排除を『正論』、『まとも』だと支持するような『普通の人たち』の動き、増大する一方の貧困層に対して、自分だけは堕ちたくないという意識から『自己責任論』を振りかざすような『普通の人たち』の動きであって、いまおこっていることは、貧困者ではなく没落の危機にひんした中間層が保守化・ファッショ化するという古典的な『ファシズム』と捉えるほうが適切なのではないでしょうか」ーーと疑義を呈してきた。

★ わたしはK君に感謝する。そして「これ以上ないくらい無邪気な装いで、原ファシズムがよみがえる可能性は、いまでもある。わたしたちの義務は、その正体を暴き、毎日世界のいたるところで新たな形をとって現れてくる原ファシズムを一つひとつ指弾することだ」というエーコの言葉をおもいだす。原ファシズムはよみがえるのではなく、よみがえったのだ、とおもう。

<辺見庸ブログ;“私事片々2013/07/18”より>



*画像はかつての独裁者の演説練習の写真だそうです。







逃げ場を探して

2013-07-26 11:31:20 | 日記

★ ニッチという言葉がある。生態的地位と訳されているが、生物それぞれに棲みわけている場所のことだ。世界とはさまざまなニッチのモザイク模様だともいえる。
その模様に偶然、空白ができる。たとえば噴火や空襲のあとや、人間が集まって住みついて野生動物が追い払われたあとなど。あるいは生物がすべて海中に生きていた時代の陸地、地上にだけ棲んでいたときの空中、大気圏内だけを飛んでいたときの大気圏外宇宙のように、新たに発見される空白もある。

★ そういった空白のニッチを埋めるようにして、新しい種の生物が進化する。新しいニッチに適合するように体を変化させながら。トリたちは体を軽くするために、折角つくった歯をなくし、膀胱をなくし……。

★ 観念世界のニッチというものもあるだろう。これまでの観念では、からっぽとか向こう側とか不可視の領域とかとしか言えない空白の場。見えない場。だが強烈な牽引力があり、親しみがあり、懐かしささえもある。それを埋めるようにして新しい言葉が生まれ、新しい意識が進化する。

★ だが実は、最初に陸に上った魚のユーステノプテロンも、最初に空を飛んだ動物のランフォリンクスや始祖鳥も、新しいニッチへの好奇心と探究心に燃えてというより、甲冑魚や大型肉食恐竜に追いまわされて、怯えきって、逃げ場を探しただけかもしれない。

★ 17世紀にロイヤル・ソサイエティー(自然についての知識を改善するためのロンドン王立協会)に知識人たちが集まったのも、カトリックとプロテスタントの血で血を洗う宗教イデオロギー戦争の現実からの逃げ場として、脱宗教の自然科学という新しいニッチを見つけ出して棲みつこうとしたためにちがいない。そしてその空白で育った科学という新しい観念の種が、やがて全世界にひろがる。

★ 逃げるのはいいことだ。その結果、新しいニッチが発見、開拓されて、新しい種、新しい意識が生まれるのはもっといいことだ。
進化は空白から生まれる。

<日野啓三『Living Zero』(集英社1987)>







Living Zero リビング・ゼロ

2013-07-25 14:48:46 | 日記

★ 郊外電車の線が二本交差している。都心からそれほど離れていない。若い人たちが集まってくる新しいシャレた町として有名だ。駅の周辺の商店、飲食店は灯が明るく、若い人たちが狭い幾本もの通りを歩き、街角にたむろし、あるいは路地の薄暗がりで肩を抱き合っている。(……)
一年ほど前、この町に引越してきた私。

★ この町の狭い道は平面上で入り組んでいるだけではない。高低がある。上り道と下り道がある。ほぼ平行する二本の道の一方は上り坂、他方は下り坂というところもある。
私の家は下り道の最も低いところにたっている。二年前にこの家ができるまでは荒れた原っぱの中の古池だったという。ツー・バイ・フォー工法で木造ながらしっかりとたてられた二階建てで、外壁も内部も白塗りの瀟洒なアパートだが、そんなモダンな外見にもかかわらず生きものが多いのも、古池を埋めたてたためと思われる。

★ ヒキガエルが多い。玄関の前の植えこみの間によく坐りこんでいる。敷地の中だけでなく、前の道にも這い出ている。
ひと気ない下り坂を降りきって家まで20メートルほどの道の真中に、ヒキガエルが一匹坐りこんでいたことがある。道は狭いが車が時折通る。
「何してんだ、そんなところで」
と私はヒキガエルの傍らに立ちどまって声をかけた。声も出さなければ動きもしないが、生きていることは気配でわかる。傷ついても衰えてもいない。
「車にひかれるぞ」
私は靴の先で軽く触れてみた。だが動き出す様子はなかった。道路のそのあたりがもしかすると古池の岸のお気に入りの場所だったのかもしれない。悠然と落ち着き払ってアスファルトの上に坐りこんでいる。
「悪いけど池はもうなくなったんだ」
私はかがみこんで片方の足の先をつまんで、道端の斜面になった芝生の上にそっと下ろした。つまみ上げても体をもがきもしなかったし、芝生の上に置いても驚いた様子はなかった。ゆっくりと斜面を這い登ってゆく。

★ 決して美しい容姿ではないけれども、それは複雑で精巧な自ら動く物質であり、確率的には本来ありうべからざる奇蹟の組み合わせ、良き混沌からの美しい偶然の産物だ、と私は心の中で言う。
暗い芝生の斜面を這い登ってゆくヒキガエルを眺めながら、まわりの、背後の、頭上の暗く静まり返った空間が、かすかに、だが決して乱脈ではないリズムをもって震えるのが、感じられるように思った。この空間は良き空間だ。原子を、生物を、意識を、私と呼ばれるものを滲み出したのだから。

<日野啓三『Living Zero』(集英社1987)>







ソラリス

2013-07-25 12:31:10 | 日記

★ 目を開けたときは、ほんの数分しか寝ていないという感じがした。部屋は陰気な赤い光に包まれている。涼しくて、気分がいい。一糸まとわぬ裸のまま寝ていたのだ。ベッドの向かいでは、半ばカーテンが開いた窓のそばに、赤い太陽の光を浴びて誰かが椅子に座っていた。ハリーだった。白いビーチ・ドレスを着、素足で、足を組んでいる。後ろに撫でつけられた黒っぽい髪、ドレスの薄い生地が張りつめた胸もと。彼女は肘まで日に焼けた腕を下におろし、身動きもしないで黒いまつげの奥から私を見つめていた。私はまったく心安らかに、彼女をじっと見つめていた。最初に思ったのは、こんなことだ――「すばらしいことだ、自分が夢を見ていると自分でもわかる夢だとは」。

★ 彼女の姿は、私が最後に見たときとまったく同じようだった。あのとき彼女は十九歳だったのだから、いまは二十九歳になっているはずだ。しかし、当然のことながら、彼女はまったくどこも変わっていなかった。死者たちはいつまでも若いままなのだ。彼女は以前と同じように何を見てもただ驚いたような目をして、私を見つめていた。

★ 彼女の上に身をかがめ、ドレスの短い袖をまくってみた。小さな花に似た種痘のすぐ上に、針を刺した小さな跡が赤く見えていた。私はそれを予期していたとはいえ(というのも、あり得ないことの内にも何らかの論理のかけらがないものかとずっと探していたからだ)、それを見て吐き気を感じた。私は指でその注射の跡の小さな傷に触った。その注射のことはあの事件の後何年も夢に現われ、しわくちゃになったシーツの上で私はうめき声を上げながら目覚めたものだった。目覚めるときはいつも同じ恰好で、ほとんど二つ折りになったように身を縮めていたのだが、それはすでにほとんど冷たくなった彼女の体を私が見つけたとき、彼女の寝ていた恰好と同じだった。

★ 「何かを忘れてしまったみたいな……たくさんのことを忘れてしまったみたいな。知っているのは……覚えているのは、あなたのことだけ……それから……その他には……何にも」
私は顔色を変えないように努力しながら、聞いていた。
「ひょっとして……病気だったのかしら?」
「そうね……そう言っていいかもしれない。確かに、しばらくの間、きみはちょっと病気だった」
「やっぱり。きっとそのせいね」
それだけで彼女の顔はすぐに晴れた。

<スタニスワフ・レム『ソラリス』(国書刊行会2004)>








偏狭な人

2013-07-25 08:18:28 | 日記

★平野啓一郎@hiranok
ガザの少女の言葉。「米国やイスラエルに兵器を売らないで下さい。その兵器が私達を殺します。日本の人々がいい人達だと、私は信じています」【日本が「死の商人」にー安倍政権、武器輸出三原則撤廃を目指す(志葉玲) 】 http://bylines.news.yahoo.co.jp/shivarei/2013023-00026687/…

★平野啓一郎@hiranok
勉強の仕方が悪いせいで、ものの考え方がどんどん偏狭になっていく人がいる。自分がどこに立っているのか、それさえも見失っている。

★平野啓一郎@hiranok
国家は一つでも国民は一人一人多様だ、というたったそれだけの簡単な事実が、どうしても理解できない人たちがいる。

<平野啓一郎ツィート 2013/7/23,7/24>







突如として始まる

2013-07-24 11:54:06 | 日記

★ 突如として、古代ギリシアのときに西洋では、学問的研究が始まったといってよろしいと思います。物にはすべて始まりがあるというのが、第一の命題でした。たしかに古代ギリシア以前にも、エジプトの文明やイスラエルの文化などが、ギリシア人たちがまだ文字を知らないころから、文字で書かれた文化財を形成し、独特の宗教的神話を伝承としてもち、見上げるようなピラミッドや、神殿を築いたりしておりました。

★ こういうことは、何らかの意味の知識がなければできないことであります。しかし、なぜそれらの国には厳密な意味での哲学というものがなく、古代ギリシアから学の名に値する哲学が始まるのか、これは大きな問題として、私どもが考えなければならないことであります。

★ 物事をただ記述するだけではなく、物事を説明することは、文化の始まりであるといってよろしゅうございましょう。かりに言葉で記述することはできなくても、犬は自分の前に起きている現象をみて、それなりにそれに応じた行動をとる。ということは、自分の目の前に起きていることを記述する、そしてその記述に対応して行動するということであります。ところが、人間は記述から行動に移るほかに、記述したような事態が、なぜ起きるのであろうかということを問い、これを説明することを求めますが、これが人間の文化の始まりになってまいります。ここで記述とは、事態の状況を知覚することを含みます。

★ 説明は、しかし神話によっても可能ですし、思い込みや、想像でもできなくはないのです。海が荒れれば、海のなかの竜神が怒ったのであるという考え方は、神話的な説明でもありますし、同時に想像によるものであります。およそ、すぐれた文化といわれるもののなかには、こういう、すばらしい想像の力による神話的な説明が含まれていて、そういうものによって人間が現象を説明し、それですませられたということも、時代として、また場所として歴史のなかにあったことでした。ギリシアにも、そういう神話はありました。

★ ところが、ギリシア人たちのなかから、それはもちろんわずかの数の人ではございましたが、物事をたんに説明するだけでは飽き足らずに、物事をその根底から徹底的に考え直そうとして、つまり経過の記述的な説明ではなく、原理の探究に徹しようとした人びとが出てまいりました。それがイオニアのギリシア植民地にあるミレートスという所に生じたミレートス学派といわれる一団であります。

★ この始祖と申しましょうか、ミレートスで最初に学問的な活動を始めた人がタレースという人であります。ふつう日本では「ターレス」と呼んでおりますが、ギリシアでは「タレース」というのです。タレースといえば平面幾何学、つまりユークリッド幾何学の基礎になるいろいろの原理を発見した人としても知られておりますが、哲学は、このタレースから始まるといわれております。タレースは、紀元前640年ころに生まれて、548年ごろ死にました。紀元前6世紀の人、孔子のころの人です。

<今道友信『西洋哲学史』(講談社学術文庫1987)>








精神の台風

2013-07-22 09:44:46 | 日記

★ 1920年代の末に、大学や高校に籍をおいていた青年は、精神の台風のなかに巻きこまれた。マルクス主義の「流行」である。マルクス主義者であることは、知的健在のパスポートであった。
平民社によって紹介され、山川均によって育成された、土着性のあるマルクス主義は、福本和夫によってもたらされたマルクス・レーニン主義に圧倒された。
学生たちの信じたマルクス主義は、このロシア製のマルクス主義であった。このマルクス主義の魅力は、それが僅々十年まえに、ロシアでプロレタリア革命を勝利させた実績にあった。

★ マルクス主義が理論でなく実践だと学生がさけぶとき、実践とは革命であった。
十月革命は、多くの革命家の夢であったものを現実にうつした。資本主義のつぎに社会主義がくるというマルクスの社会発展段階説は、マルクスの自由な構想でなく、歴史の必然であったのだ。ロシアの歴史は必然性の証明であると、学生たちは信じた。
歴史の必然性を実践したロシアの革命家たちを無条件に信用して、学生の少なからぬ部分が、ジノヴィエフ、ブハーリン、スターリンによって組織され、指導されているコミンテルンの指令にしたがった。コミンテルン日本支部を名のる党に身をささげた。

★ 学生たちの献身のことごとくが、治安維持法によって壊滅させられた。日中戦争、太平洋戦争のさなか、転向者の演技を強いられなかった、臆病なマルクス主義学生は冬眠した。自分の臆病への罪の意識を一日も忘れることなく。

★ 戦後の解放がやってきた。冬眠から醒めた私の第一着手は、ソ連社会主義の実体をつかむことであった。冬眠中にけいこしておいたロシア語は、そのためだった。ソ連から刊行物が自由にとれるようになるとすぐに、歴史、経済、哲学、医学、文学の雑誌の定期読者になった。思想家の全集もほとんど予約した。
数年して私の感じたソ連は、停滞の一語につきる。日本のなかのマルクス主義者との距離を感じるのと、それは並行した。

★ 『社会主義リアリズム』(1958年)、『マルクス主義と社会主義』(1965年)のなかの「人民のなかへ」の章をかくことで、ロシアのレーニン以前の社会主義者、民主主義者について、多少まなぶことができた。
河出書房から「世界の歴史」の近代ロシアのところをかかないかといわれたのは、その頃であった。引きうけたのは、日本のマルクス主義がロシア製であることと、十月革命が歴史的必然でないことを、いいたかったからだった。
初版の「あとがき」に、この本の執筆を不運だと思っているとかいたのは、1920年代の精神の台風を経験した仲間の誰もが、日本マルクス主義の反省として、十月革命にいたるロシアの思想をかいてくれなかったことへのうらみをいったものである。

★ もともと私はアカデミーとは無縁であり、アカデミーの人がめずらしく私のかいたものを引用するときは「アカデミズムの枠外では」という但し書きがつけられる。アカデミズムとは無縁でも、この本はペレストロイカに関心をもつ市民には役に立つところがあるだろう。

<松田道雄『ロシアの革命』文庫版あとがき(河出文庫1990)>








選挙ビジネス

2013-07-19 12:12:47 | 日記

ぼくは最近(だいぶ前から)自分の意見をこのブログに書かない(書けない)

たいして自分には“自分の意見”がないことが(この歳になって!)わかったからであるが、<引用>を続けることも(ある意味では)自己の表明でありうると、考える。

さて、あさっての“選挙”であるが、ぼくはもともと選挙が好きでなく、近年ますます投票に行きたくない。
しかし、イヤだが棄権はしないことにする。

自分が“投票したいひと”が皆無であっても、多数を集めていい気になっているバカどもに従わない意思を表明するためである。

さて、政治家と同じくらい不快な“メディア”について今日の天木直人ブログが書いているので、引用する;


<選挙で一番得をするメディアのマッチポンプ>
 
★ つまらない参院選挙がまもなく終わる。
そんなつまらない参院選でも連日大騒ぎして報道するテレビや新聞を見ながら私はつくづく思った。
政治をつまらなくさせたのはメディアの政局報道であり、その結果今度の参院選もかつてないほどつまらなくなった。
それにも拘わらず各局とも選挙報道を競い合い、今度の選挙は日本の政治の将来を決める重要な選挙と繰り返す。
だから有権者は選挙に行こうと連呼する。
しかしメディアが本気で日本の政治を憂え、今度の選挙が重要だと本気で思っているのだろうか。
決してそうではないだろう。
それではなぜメディアはそんなに騒ぐのか。

その事を見事に見抜き、そしてそんなメディアの政治報道を批判する記を見つけた。
きょう7月19日発売の週刊ポスト8月2日号に掲載されている「大新聞・テレビの『選挙ビジネス』」という特集記事がそれである。
これは常日頃からメディアの政治報道はくだらないと感じてきた者にとっては必読の記事である。

政党・政治家はメディアの報道に敏感である。ましてや選挙ともなるとメディアは格好の宣伝媒体だ。
そこで各党、政治家がこぞってメディアに広告を競い合う。
この費用は全部で約100億円という。
その原資は政党交付金などの税金がほとんどだ。
これを要するにメディアは選挙のたびごとに選挙報道を通じて我々の税金から100億円を分捕り合戦しているのだ。
政治評論家や政治記者OB、タレントたちは、その片棒を担いで、これまた稼いでいることになる。
政治メディアはマッチポンプである。

政局をつくり、煽り立て、そして政治がつまらなくなったら、なったで、騒ぎ立て、そして視聴率を上げる。
視聴率の上がった局には各党、各政治家が広告を出したがる。
かくして選挙ビジネスは花盛りだというわけだ。

参院選が終われば、メディアは、今度は政界再編を騒ぎ立て、そして次の選挙に備える。
そんな政治メディアこそ政治を悪くした元凶だ、そう週刊ポストの記事は教えてくれているのである(了)

(天木直人ブログ 2013/7/19)







“おもしろい”とは?

2013-07-19 11:41:57 | 日記

★ ぼくにとって小説というものの定義はきわめて明瞭だ。「最後の一行に向かってゆっくりと導かれていくもの」、それが小説だ。これはもっとやさしく言ってしまえば、「理由はよくわからないが、なんとなくおもしろくて気がつけば最後まで読んでしまったという、そういうもの」ということになる。

★ しかし、この「最後まで」というのがクセモノで、読み手はつねに途中で読み飽きる可能性を持っている。
人はいつ飽きるのか?飽きるのにどれくらいの時間がかかるのか?
人は、いや、ぼくは――ぼくはいつだって突然飽きる。ぼくは一分もしないうちに飽きている。

★ ある種の人がぼくに向かって熱心にしゃべっていても、ぼくはたいてい話のはじまりのところで飽きていて、それから先は聞いていない。その人は自分のしゃべっていることが、聞き覚えのある紋切型ばかりで的はずれの一般論でしかないことに気づいていない。その人のしゃべることには、彼独特の身体性の反映もないし、言葉への感受性もない。そして、ぼくがとっくに飽きていることにも気づいていないから、突飛な身振りや発声でぼくを不意打ちすることもない。

★ これは小説を読むときも同じで、ぼくは読みはじめた小説をほとんど読み通したことがない。いわゆる「おもしろい読み物」でもぼくはまず間違いなく飽きて放り出す。おもしろいと言われているものはパターンが同じで、そのパターンの同じことに飽きる。よく知っているセンチメンタリズムにも飽きるし、よく知っている悲しみにも飽きる。よく知っているものには必ず飽きる。作家はほとんどの場合、よく知っていることに鈍感すぎる。そして読み手はそれに媚びてよく知っていないふりにつき合う。

★ だからぼくの読む気が持続するのは、「よく知っていない何か」が書かれているときだけなのだが、「よく知っていない何か」はじつは単純におもしろいと感じることができない。不馴れなものは感じ方がわからないものなのだ。しかし、それに戸惑いながらそれでも最後の一行にぼくを導く何かが感じられるもの、ぼくにとって小説とはそういうもので、ぼくはそういう小説しか読み通さない。「よく知っていない何か」は、いつも特異なディスクールによって語られている。

<保坂和志『アウトブリード』(河出文庫2003)>







感覚

2013-07-18 11:29:47 | 日記

★ わたしは新人警官たちを訓練する際、最大の過ちは自分がなんでも知っていると過信することだ、と教える。「そんなことはありえないのよ」と言う。「わたしだって警官を六年やってるけど、今でも毎日新しいことを学んでいるわ。テクニック、人間の行動に対する洞察、法律のしくみ、それから自分の肉体の限界についても」

★ わたしは彼らに、恐怖を感じるのは名誉なことだが、そのせいで必要な行動を思いとどまるな、と忠告する。恐怖の導きがなければ、まちがいを犯す。恐怖がなければ、あっさり殉死しかねない。勇気と愚かさはまったく異なるものなのだ。

★ 警察学校も、いろいろなことを教える。
たとえば、訓練生に死の様相と匂いに対する心構えをさせる。そのために検死解剖や犯行現場の写真を見せるのだが、わざわざ一番むごいのを選んで熟視を促す。死んだ子供、残虐な殺され方をした男女、膨張した死体、ぐちゃぐちゃになった人体のパーツ。諸君が嗅いだことのないような匂いだ、制服や髪にくっついて消えないだろう、と教官は言う。

★ 子供時代はほとんど毎朝、酵母と小麦粉と、たまにシナモンの温かい眠気を誘う香りに包まれて名残惜しい気分で目覚めた。ベッドに横たわったまま、階下で五時から起きている母がたぶんまだカーラーを髪に巻いて、ふっくらと黄金色に焼きあがったパンを背にボストン・グローブ紙を読みながらコーヒーを飲んでいる姿を想像した。わたしの部屋に続くバスルームからは、少年時代を懐かしみながらうとうとしている父が陶製のバスタブの中で身動きするきゅっきゅっという音と、勢いのない水の音が聞こえた。

★ 春から夏にかけて、わたしたちの家は花と木の芳香に満ちる。松、藤、パンジー、レンギョウ、スミレの香りが、いつも外から、母がこよなく愛する庭から漂ってくる。母はよく薔薇や芍薬の花びらを集め、フレンチラベンダーやバジルを摘み、それらを手の中で押しつぶして言った。「ほら、嗅いでごらん」弟とわたしは言われたとおりにした。母の手の土っぽい温かさを嗅いだ。その後何年も経って、わたしは恐怖を感じたときにその優しさを懐かしく思い起こした。

★ 視覚や触覚と同じく、聴覚も生き抜くためには不可欠だと新人警官たちに話す。音はしばしば悪い状況を示す最初の手がかりだからだ。聴覚は未発達な感覚で、わたしは親の声を識別しようとする子供のように最初はただ貪欲に耳を傾けていたが、ジョニーから不明瞭な音と明瞭すぎる音の聞き取り方を教わった。空気の層を一枚一枚はがしていくように一心不乱に見て聞くので、その緊張から頭痛持ちになった。声の調子、金属が触れ合うかすかな音、タイヤのきしみ、あるいは音がしないことも含めて、音は多くの秘密を明かしてくれる。

★ ある晩、ミシシッピ河の堤防で、ジョニーやジョーや他の非番の同僚と宴会を開き、無駄話をしたり、思いつきのくだらない質問をしていたときのことだ。「きみの子供時代の音はなんだい?」そう訊かれて、レンガ塀にぶつかった気分だった。返事も音も浮かばなかった。

★ いらいらしながら、自分の子供時代を定義づける音を必死で探した。その音で、かつて子供だった自分と警官になった自分をまとめて理解できるような気がした。

★ とうとう、ある音を子供時代の象徴として認識できた。
それは触感や匂いや視覚と切っても切れない関係にあった。わたしは生まれ育った家の奥にある二階の自分の部屋に、裸足で立っていた。あたりには本が散乱していた。窓から昼間の光が射し込んで、わたしから二歩離れたところにあるハシバミ色のラグに光の模様を描き出し、細かい塵をけだるげに漂わせ、草と地面の甘い香りでわたしを包んだ。
音は何もなかった。無音が音だった。深い、待っている静けさだ。家族はみんな外に、どこか他の場所にいた。

★ すべてがその静寂の中で止まった。死ぬ前の最後の鼓動だ。わたしは家の中に一人きりでいた。一人で待っていた。自分の人生の先端で待ち、まるで世界全体が宇宙の峡谷の崖っぷちで息を止めているようだった。何かが起こりそうで、その子供と警官と女が記憶の中で一つになる。その感覚こそ生きる力だ。

<ローリー・リン・ドラモンド『あなたに不利な証拠として』(ハヤカワ・ミステリ2006)>








箱舟を造る

2013-07-16 14:13:21 | 日記


(……)
そんなところにあるわが家のなか、貧しい平和のうちに
わたしは歌う、あなたたち
見知らぬひとたちに、(わたしの
聞き苦しくぶざまな音にとって
歌が燃えあがる冠毛を飾った行為であり、
回転する世界の森に棲む
鳥たちの火であろうとも)、
木々の葉のように
舞いあがり、落ち、そしてすぐに
土用の夜のなかへ
崩れては不死となりゆくだろう
海がめくりよごしたいくまいもの言の葉のなかから。
しゃぶられた鮭の太陽は静かに海に沈み、
唖の白鳥たちは鰈のいるわたしたちの入江の
夕暮を 棒で叩いて青くする、
わたしがさまざまの形の騒音を切り刻み、
わたし、きりきり旋るひとりの男が、
鳥にどなられ海から生まれ人間に引き裂かれ
血に祝福されながら、この星をもいかに誇りにしているかを
あなたたちに知っていただこうとするときに。
聞け。
魚から踊りあがる丘にいたるまで
わたしは高らかに土地を讃える。見よ。
洪水がはじまるとき、
できるかぎりの愛をこめて
わたしは怒号する箱舟を造る、
その洪水は恐怖の泉を源とし
真紅に怒り、人間のように生気に溢れ、
溶けて山のように盛りあがり、流れてゆく、
傷が眠り
羊で真白になっている凹地の農場をこえ
(……)

<ディラン・トマス“序詩”;松田幸雄訳(部分)―『オーデン・スペンダー・トマス詩集』(新潮社世界詩人全集19:1969)>







絵葉書

2013-07-15 13:24:44 | 日記

★ 美しい絵葉書に
書くことがない
私はいま ここにいる

冷たいコーヒーがおいしい
苺のはいった菓子がおいしい
町を流れる河の名は何だったろう
あんなにゆるやかに

ここにいま 私はいる
ほんとうにここにいるから
ここにいるような気がしないだけ

記憶の中でなら
話すこともできるのに
いまはただここに
私はいる

<谷川俊太郎“旅1”―『旅』(思潮社1995)>


★ 何ひとつ書く事はない
私の肉体は陽にさらされている
私の妻は美しい
私の子どもたちは健康だ

本当の事を言おうか
詩人のふりはしているが
私は詩人ではない

私は造られそしてここに放置されている
岩の間にほら太陽があんなに落ちて
海はかえって昏い

この白昼の静寂のほかに
君に告げたい事はない
たとえ君がその国で血を流していようと
ああこの不変の眩しさ!

<谷川俊太郎“鳥羽1”―『旅』(思潮社1995)>


★ 黙っているのなら
黙っていると言わねばならない
書けないのなら
書けないと書かねばならない

そこにしか精神はない
たとえどんなに疲れていようと
一本の樹によらず 一羽の鳥によらず
一語によって私は人

君に答えて貰おうとは思わない
君はただ椅子に凭れ
君はただ衆を恃め

けれど私は答えるだろう
いま雑木林に消えてゆく光に
聞き得ぬ悲鳴 その静けさに

<谷川俊太郎“anonym1”―『旅』(思潮社1995)>


★ からまつの変わらない実直と
しらかばの若い思想と
浅間の美しいわがままと
そしてそれらすべての歌の中を
僕の感傷が跳ねてゆく
(その時突然の驟雨だ)
なつかしい道は遠く牧場から雲へ続き
積乱雲は世界を内蔵している
(変わらないものはなかつた
そして
変わつてしまつたものもなかつた)

去つてしまつたシルエツトにも
駆けてくる幼い友だちにも
遠い山の背景がある

堆積と褶曲の圧力のためだろうか
いつか時間は静かに空間と重なってしまい
僕は今新しい次元を海のように俯瞰している
(また輝き出した太陽に
僕はしたしい挨拶をした)

<谷川俊太郎“山荘だより3”―『谷川俊太郎詩集』(思潮社1965)>







”1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン”

2013-07-14 07:10:21 | 日記

★(前略)

親愛なる国連事務総長、教育には平和が欠かせません。世界の多くの場所では、特にパキスタンとアフガニスタンでは、テロリズム、戦争、紛争のせいで子どもたちは学校に行けません。私たちは本当にこういった戦争にうんざりしています。女性と子どもは、世界の多くの場所で、さまざまな形で、被害を受けています。

インドでは、純真で恵まれない子どもたちが児童労働の犠牲者となっています。ナイジェリアでは多くの学校が破壊されています。アフガニスタンでは人々が過激派の妨害に長年苦しめられています。幼い少女は家で労働をさせられ、低年齢での結婚を強要されます。

貧困、無学、不正、人種差別、そして基本的権利の剥奪――これらが、男女共に直面している主な問題なのです。

親愛なるみなさん、本日、私は女性の権利と女の子の教育という点に絞ってお話します。なぜなら、彼らがいちばん苦しめられているからです。かつては、女性の社会活動家たちが、女性の権利の為に立ち上がってほしいと男の人たちに求めていました。

しかし今、私たちはそれを自分たちで行うのです。男の人たちに、女性の権利のために活動するのを止めてくれ、と言っているわけではありません。女性が自立し、自分たちの力で闘うことに絞ってお話をしたいのです。

親愛なる少女、少年のみなさん、今こそ声に出して言う時です。

そこで今日、私たちは世界のリーダーたちに、平和と繁栄のために重点政策を変更してほしいと呼びかけます。

世界のリーダーたちに、すべての和平協定が女性と子どもの権利を守るものでなければならないと呼びかけます。

女性の尊厳と権利に反する政策は受け入れられるものではありません。

私たちはすべての政府に、全世界のすべての子どもたちへ無料の義務教育を確実に与えることを求めます。

私たちはすべての政府に、テロリズムと暴力に立ち向かうことを求めます。残虐行為や危害から子どもたちを守ることを求めます。

私たちは先進諸国に、発展途上国の女の子たちが教育を受ける機会を拡大するための支援を求めます。

私たちはすべての地域社会に、寛容であることを求めます。カースト、教義、宗派、皮膚の色、宗教、信条に基づいた偏見をなくすためです。女性の自由と平等を守れば、その地域は繁栄するはずです。私たち女性の半数が抑えつけられていたら、成し遂げることはできないでしょう。

私たちは世界中の女性たちに、勇敢になることを求めます。自分の中に込められた力をしっかりと手に入れ、そして自分たちの最大限の可能性を発揮してほしいのです。

親愛なる少年少女のみなさん、私たちはすべての子どもたちの明るい未来のために、学校と教育を求めます。私たちは、「平和」と「すべての人に教育を」という目的地に到達するための旅を続けます。誰にも私たちを止めることはできません。私たちは、自分たちの権利のために声を上げ、私たちの声を通じて変化をもたらします。自分たちの言葉の力を、強さを信じましょう。私たちの言葉は世界を変えられるのです。

なぜなら私たちは、教育という目標のために一つになり、連帯できるからです。そしてこの目標を達成するために、知識という武器を持って力を持ちましょう。そして連帯し、一つになって自分たちを守りましょう。

親愛なる少年少女のみなさん、私たちは今もなお何百万人もの人たちが貧困、不当な扱い、そして無学に苦しめられていることを忘れてはいけません。何百万人もの子どもたちが学校に行っていないことを忘れてはいけません。少女たち、少年たちが明るい、平和な未来を待ち望んでいることを忘れてはいけません。

無学、貧困、そしてテロリズムと闘いましょう。本を手に取り、ペンを握りましょう。それが私たちにとってもっとも強力な武器なのです。

1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です。エデュケーション・ファースト(教育を第一に)。ありがとうございました。

<マララさんの国連演説―ハフィントンポスト掲載>