Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“おしゃべり”する人々

2010-07-22 12:23:07 | 日記


昨日、仕事の昼休みに入った定食屋のワイドテレビは、“軽井沢”を写していた。

ぼくにとって軽井沢(のごく一部)は、自分の“ふるさと”のような場所である。
鳩山のように“別荘族”だったからでなく、そこが“母の職場”だった故に小学生の夏から滞在したからである。

そしてここ2日、ぼくは細見和之の『「戦後」の思想 カントからハーバーマスへ』をぼくとしては、“まとめて”読んでいる。

その第4章“第二次世界大戦後の思想”には、ベンヤミンからアドルノとアーレントへ“引き継がれたもの”が書かれている。

すなわち、<ベンヤミンの遺言>はいかにこの“戦後の思想家たち”にひきつがれたか。

そのアドルノについての部分に、“おしゃべり”という言葉が出てくる。
アドルノの言葉は“かたい”のであるが、引用する;

★ 社会が全体的になればなるほど、精神もまたいっそう物象化され、この物象化から自力で身を振りほどこうとする精神の試みは、いっそう背理的となる。宿命についての極限的な意識さえも、おしゃべりへと変質する危機にたえず曝されている。文化批判が直面しているのは、文化と野蛮の弁証法の最終段階である。すなわちアウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮であり、そしてこのことが、こんにち詩を書くことがなぜ不可能になったかを語り出す認識をも蝕むのである。物象化は精神の進歩を飲み込もうとしている。自己満足的な観照という姿で自らのもとにとどまっているかぎり、批判精神はこの絶対的な物象化に太刀打ちできないのである。
<アドルノ『プリズメン』細見訳>


まあ“物象化”というような概念になじみのないひと(ぼくもそうだが;笑)には、とっつきにくい文章だが、ポイントは以下にある;

《宿命についての極限的な意識さえも、おしゃべりへと変質する危機にたえず曝されている》

《すなわちアウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮であり、そしてこのことが、こんにち詩を書くことがなぜ不可能になったかを語り出す認識をも蝕むのである》

《自己満足的な観照という姿で自らのもとにとどまっているかぎり、批判精神はこの絶対的な物象化に太刀打ちできない》


この《アウシュヴィッツのあとで詩を書くことは野蛮であり》という言葉は、とても“有名”である(笑)

“このこと”については、この発言に対する(当時の)若き詩人・評論家エンツェンスベルガーの“反論”も掲げられている;

★ 哲学者テオドーア・W・アドルノは、われわれの時代に下されうるもっとも厳しい判決の一つである命題を語った。すなわち、アウシュヴィッツのあとで詩を書くことはもはや不可能である、と。もしわれわれが生きのびようと望むなら、この命題は反駁されねばならない。それをなしうるのはわずかの者である。ネリ・ザックスはそのわずかのひとりだ。彼女の言葉には救出する何かが宿っている。彼女は語ることによって、われわれがいまにも失おうとしているもの、すなわち言葉を、一文ごとにわれわれ自身にあたえ返してくれるのである。
<エンツェンスベルガー、細見訳>


ネリ・ザックスという詩人をぼくは知らなかった。
この本には、こう説明されている;

★ 彼女は元来、典型的な同化ユダヤ人の家庭に育ち、むしろキリスト教的な教育・文化のもとに自己形成を遂げていたのだが、1940年5月にナチスの手を逃れて、年老いていた母とふたりストックホルムへ渡り、以後そこに暮らしつづけた。彼女がユダヤ的なものを獲得してゆくのは、この迫害と亡命をつうじて、同胞の運命に痛切な形で接したことが決定的だった。彼女は直接的また間接的に、「アウシュヴィッツ」にいたる同胞の運命を神話的な形象世界のなかに描きつづけた。まさしくツェランがそうであるように、彼女は、アウシュヴィッツのあとで詩を書くことが不可能などころか、アウシュヴィッツのあとだからこそ詩を書かねばならなかった、まちがいなくそういう詩人のひとりである。


さて、このブログのテーマは、“おしゃべり”であった(笑)

すなわち、アドルノもエンツェンスベルガーもネリ・ザックスも“おしゃべり”をしていたのではない、ということである。
あるいは、ベンヤミンもアーレントもこの後の章に登場するハーバーマスも。

もちろん、“おしゃべり”ばかりしていなかったのは、これらドイツの思想家や詩人だけではない。
ゆえに、ぼくは<思想史>と言っている。

またぼくは、“パレスチナの詩人たち”の言葉が、

《われわれがいまにも失おうとしているもの、すなわち言葉を、一文ごとにわれわれ自身にあたえ返してくれる》

ことを“希望”する。



このブログの最後に、“典型的なおしゃべり”を掲げよう。

こういう“おしゃべり”に怒りを感じないひと(そのひとの“政治的立場”がいかようであろうとも)は、ぼくには信じがたい;


《「雁(かり)の使(つかい)」という言葉は万葉の昔から歌に詠まれている。秋の空に飛来する雁は古来、懐かしい人の消息をもたらす使いだとされてきた。だから手紙のことを「雁書(がんしょ)」とか「雁の文」とも呼び習わす▼由来は中国の故事にさかのぼる。漢の武将の蘇武は使者として匈奴(きょうど)に赴き囚(とら)われた。匈奴側は蘇武は死んだと言い張ったが、漢の側は「天子の射止めた雁の脚に蘇武の手紙がゆわえられていた」と譲らず、ついに身柄を取り戻した。話はどこか、北朝鮮による拉致事件に重なり合う▼その国の工作員だった金賢姫元死刑囚が来日した。超法規的な入国とものものしい警備は「雁の使」という雅語からは遠い。だがベールの向こうからもたらされる、どんな消息も情報も、被害者の家族だけでなく日本にとって貴重である▼世論が冷めたとは思わない。だが核にミサイル、哨戒艦沈没と続く北の無法ぶりに、ときに拉致問題の影は薄くもなる。この2年は政府間の動きも止まったままだ。今回の来日を、夏の避暑地のいっときの話題で終わらせてはなるまい▼金元死刑囚は昨夜、横田めぐみさんの両親と会った。父親の滋さんは「世論を喚起するきっかけになれば」と話していた。邪悪な国家犯罪を忘れないことが、家族を支え、政府を動かし、ひいては北への圧力にもなる▼「雁書」の蘇武は19年の幽閉ののちに帰国した。その歳月をとうに超えて、めぐみさんは今年で33年、金元死刑囚に日本語を教えた田口八重子さんは32年になる。消息より被害者の身柄を、一日も早く迎えたい。》(今日天声人語)






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