Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“政治”とは?

2014-04-18 16:58:58 | 日記

★ 政治は社会の至るところにあるという考え方は、あらゆる社会関係がもっぱら政治的だということではなくて、あらゆる社会関係には政治的関係としての側面・性格を見出すことができるということを意味している。したがって、この意味での「政治」とは、ある社会的現実が対象自体としてもつ特質ではなく、私たちが社会を見るときのものの見方、より正確には社会に対する関わり方の性質なのである。私たちは、あらゆる社会的事態に対して、それを政治的関係「として」みること、関わることができる。しかし、逆に、その同じ対象に対して経済的・文化的・その他の関係「として」みること、関わることもできる。そしてそれは第一義的には、私たちの関わり方の問題であって対象自体の特質ではないのである。

★ とはいえ、政治的「として」みることが大事であったり他の人々の共感を得られやすかったりする場合と、そうでない場合とがある。したがって、のちに述べるように、ある現実を政治的「として」みるかどうかそれ自体が論争の対象となる。

★ このように、政治性=権力性とみなして、政治は社会の至るところにあるという考え方は、権力関係という側面に注目するときに社会の政治性がみえてくるということ、より正確には、権力関係という側面に注目するときにみえてくるものを社会の政治性と名づけているということを意味しているのである。

★ だが、政治性というものを、私たちの社会への見方・関わり方として考えるとしても、社会的現実を政治的としてみるということは、権力関係に着目してみるということに尽きるのだろうか。ここでは、権力とともに公共性という要素にも注目したい。

★ だが、政治を権力と公共性という観点で特色づけるといっても、権力という観点は社会における対立の要素を強調するのに対して、公共性は協調や合意と親和的なようにみえる。そうだとすると、その関係はどうなるのだろうか。実は、この対立と協調という相矛盾する要素の絡み合いこそが、政治をみる・関わるときの最もむずかしい、また興味深い問題である。

★ そして本当は、権力も公共性も、ここで簡単に述べたように一筋縄ではいかない。権力にも協調と合意の要素があり、公共性にも対立と争いの要素がある。

<川崎修・杉田敦編『現代政治理論』(有斐閣アルマ2006)>





エゴイズム/愛

2014-04-04 22:30:32 | 日記

★ 動物個体が生きることの「目的」は遺伝子をのこすことなのだから親が子の世話を自己犠牲的に行うことも「当然」だというふうに考えられているのだろうが、それならアリやハナバチの献身も端的に「利己」行動であり(遺伝子を残すのだから!)、はじめから「利他行動」などと定義する必要はない。

★ そもそも女王といいワーカーという。(ダーウィンは「奴隷」とさえいう)それは人間の母性主義的なイデオロギーの投影である。つまりメスの幸福は子を産むことにのみあるはずだという思い込みの投影である。暗い湿った巣の底に生涯幽閉されて(若い頃の新婚旅行の他は!)、産卵労働を強いられている産卵蜂と、風の中、陽光の下で芳香を放つ花から花へと飛び交う収集蜂たちと、どちらがメスの生き方として幸福だろうか?そんなことは人間には分からない。

★ 動物の個の身体が本来はそれ自身の「ために」ではなく、そこに乗り合わせた遺伝子たちの自己複製のメディアとして形成され展開されてきたものである、という社会生物学の理論の合理的な核心自体が、(俗見と逆に)個体の「利他性」の普遍性をこそ立証している。

★ 本来は、という限定は、起源回帰論的な含意ではなく、むしろ反対に、少なくとも高等生物の行動において、(最低限、文明化された人間の個体において)この個体という上位のシステムの創発的な自律化が、みずからの創造主たる遺伝子のテレオノミーに反逆し、個体の自己目的性を獲得することがありうるという事実に論議を開くためである。エゴイズムはむしろ高等な能力である。産卵死する宿命を拒否し、大海にひとり悠然と遊ぶ紅鮭はいるか

<真木悠介『自我の起原 愛とエゴイズムの動物社会学』(岩波現代文庫2008)>




アンチ・オイディプス(消費税引上げ記念、再録-B)

2014-04-01 13:23:53 | 日記

★ ただ欲望というものと社会というもののみが存在し、それ以外の何ものも存在しないのである。

★ 社会的再生産の最も抑圧的な、また最も致命的な形態でさえも、欲望そのものによって生み出されるものなのだ。あれこれの条件のもとで欲望から派生する組織の中で生み出されるものなのだ。我々は、このあれこれの個々の条件を分析しなければならないであろう。

★ したがって、政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起することができた次の問題(この問題を再発見したのはライヒである)に尽きることになる。すなわち、「なぜ人々は、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、自ら進んで従属するために戦うのか」といった問題に。いかにして人は「もっと多くの税金を!パンはもっと減らしていい!」などと叫ぶことになるのか

★ ライヒが言うように、驚くべきことは、或る人々が盗みをするということではない。また、或る人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、餓えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしもストライキをしないということである

★ なぜ人々は、幾世紀もの間、搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにも、これらのものを欲することまでしているのか

<ドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』;國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』から引用>




貧窮問答(消費税率引上げ記念、再録)

2014-04-01 10:42:05 | 日記

★ 憶良は、同時代の他の歌人が詠わなかった題材――それはまた19世紀末までその後の歌人もほとんど詠わなかった題材でもある――を、詠った。
第一に、子供または妻子への愛着。
瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処(いづく)より 来たりしものそ 眼交(まなかひ)に もとな懸りて 安眠(やすい)寝さぬ
また、
憶良らは今罷(まか)らん子泣くらむそを負う母も吾を待つらむそ
これは「宴を罷(まか)る歌」である。その後の日本の男は、こういう歌をつくらなかったばかりでなく、徳川時代以後には、そういって宴会から退出することを恥とする習慣さえもつくりあげた。この歌が今かえって爽やかに響くのは(『万葉集』の時代にはまだそういう習慣がなかった)、そのためである。

★ 第二に、老年の悲惨。たとえば「世間(よのなか)の住り(とどまり)難きを哀しぶる歌一首」は、「何時の間か」髪が白くなり、面に皺がよることをいい、女と寝た夜のいくほどもないうちに、老いさらばえた惨めさをいう。

★ 第三に、貧窮のこと、飢えと寒さ、しかも税吏の苛酷さのそれに加わる光景。「貧窮問答」の長歌にはその光景がよく描かれていて、次の反歌一首が全体を要約している。
世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

★ 彼の歌には他の『万葉集』歌人の誰にもない自分自身に対する皮肉、一種の「黒い諧謔」に近い調子がある。たとえば、「風雑(まじ)へ 雨降る夜の 雨雑へ 雪降る夜は 術(すべ)もなく 寒くしあれば」ではじまる「貧窮問答」の長歌は、塩をなめて、濁酒を啜ることをいった後に続けている。
……しかとあらぬ 鬚かき撫でて 我を除きて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば……

★ 自分自身を含めての対象への知的な距離は、子どもや老人から「我よりも 貧しき人」に到るまで、他の歌人には見えなかったものを、憶良の眼には見えるようにさせたのであろう。その知的な距離は、彼の外国文学の教養を俟ってはじめて可能となったのである。憶良は大陸文学を模倣したから、わが国で独特の文学をつくったのではない。大陸文学を通じて、現実との知的距離をつくりだす術を体得したから、日本文学の地平線を拡大したのである。

<加藤周一『日本文学史序説』(ちくま学芸文庫1999)>