Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

難病対策 厚生労働省改正案(続報)

2013-10-31 10:20:21 | 日記

<厚労省 難病対策の改正案を公表> 日テレNEWS24 2013年10月29日 22:58

厚労省は、医療費助成の対象となる難病の数を増やす一方で、ほとんどの難病患者の自己負担上限を今より引き上げる難病対策の改正案を公表した。

厚労省は、患者団体の意向を反映して医療費助成の対象となる難病の数を、現在の56から300程度に増やす方針。その上で、難病患者の医療費の自己負担の上限を、多くの患者で現在より引き上げる改正案を29日、難病対策委員会に示した。

それによると、夫婦2人世帯で世帯の年収が、約80万円から約160万円までの場合、これまでは自己負担なしだったのが、月に6000円までは自己負担となり、世帯年収が約370万円から約570万円までの場合は、自己負担の上限は、月に2万4600円。

患者団体は対象が広がることは評価するが、大きな負担増となるケースもあり、納得できないと反発している。

難病対策委員会は、患者団体とも調整し、来月末までに改正案をまとめる方針。


<難病対策:厚労省案、患者「暮らせない>  毎日新聞 2013年10月29日 23時36分(最終更新 10月29日 23時38分)

難病対策の新法制定を巡り、厚生労働省が29日、新制度で医療費助成の対象となる難病患者の自己負担額について、最大でも収入の1割未満とする修正案を示した。助成対象の疾患は拡大され、助成を得られる患者も増える見通しだが、年収約570万円以上の世帯には月4万円超の負担を求める案には「自己負担が高額だと生活を維持できない」と悲痛な声も上がっている。【細川貴代、桐野耕一】

「介護費用で月4万円以上かかるのに、新たに自己負担が発生すると暮らしていけない」。手足やのど、呼吸に必要な筋肉が萎縮する進行性の難病「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」を患う東京都江戸川区の日永由紀子さん(46)は厚労省の案に衝撃を受けた。現在は制度の特例で医療費の全額助成を受けているが、厚労省案では特例が廃止されてしまうからだ。
人工呼吸器をつけている日永さんは、自分で体を動かすことも難しく、ヘルパーや夫ら家族の24時間介護を受けている。「医療にかかわる備品さえ購入できなくなるのではないか」と心配する。

患者団体や支援者は29日の難病対策委員会後に都内で集会を開いた。「通院には交通費もかかる。せめて医療費だけでも負担を軽減してほしい」。厚労省案の見直しを求める意見が相次いだ。委員会の委員も務める日本難病・疾病団体協議会の伊藤たてお代表理事は「今日で患者負担の議論を終えるのは困難だ」と不満をあらわにした。

一方、新制度で助成が受けられるようになると期待する人もいる。耳や鼻、気道などの軟骨組織が炎症を起こす再発性多発軟骨炎の患者会事務局長を務める愛知県在住の加藤志穂さん(31)は「具合が悪くても医療費を抑えるため通院を控える患者もいた。助成対象になれば状況が改善されるのでは」と話す。
ただし、「重症度」が生活の実態に応じて判断してもらえるかはまだ分からず不安も残る。自身の医療費は月4万円程度だが、症状が重症化して入院すれば20万円を超えたこともある。

◇患者団体が試算◇
難病患者らでつくる「タニマーによる制度の谷間をなくす会」は29日、厚生労働省案を基に試算した可処分所得に占める医療費の自己負担割合を発表した。年収160万円世帯(夫婦のみ)で患者が被扶養者の場合、現行は2%だが、厚労省案では10.6%と約5倍となった。難病指定の皮膚筋炎の患者で同会代表の作家、大野更紗さん(29)は「医療費助成は自分たちが生存を維持するセーフティーネット。厚労省案は負担が大きい」と見直しを求めた。

◇国の難病対策◇
厚労省案によると、医療助成の対象が現行の56から約300疾患に拡大する一方、重症患者らに限定される。助成を受けられるのは現在の約78万人から100万人超に増える見通し。患者の負担上限額も収入に応じて6段階に分け、年収の1割未満とするよう見直される。年収570万円以上の場合は月4万4400円を上限に負担が生じることになる。


<難病医療費 重症者負担増変わらず 一部減額の修正案>  東京新聞月29日 夕刊

難病への医療費助成について厚生労働省は二十九日、収入に応じて負担を求める見直し素案が患者団体などから「負担が重すぎる」と批判が強かったため、負担の上限を引き下げる新たな素案を難病対策委員会に示し、大筋で了承された。ただ、現行制度を利用する患者の多くにとって負担増が見込まれる状況は変わらない

厚労省は月額の負担上限について、前回の対策委で示した案を一部修正。住民税の非課税世帯は八千円から、夫婦二人世帯で年収約八十万円までが三千円、約百六十万円までが六千円とした。
年収が約三百七十万円より多い世帯は一律四万四千四百円としていたが、「三百七十万円から五百七十万円」の区分を設け、この区分で二万四千六百円に引き下げた。

厚労省は現在、五十六の難病に医療費を助成している。自己負担は原則三割で、入院で月最大二万三千百円、外来で月最大一万千五百五十円。患者七十八万人のうち、重症患者約八万一千人の自己負担はない。

新制度案では助成対象を約三百に広げ、自己負担を二割に引き下げる。一方、対象疾患でも、助成が受けられるのは社会生活などに支障がある症状の人や、高額な治療が必要な人に限り、重症患者にも所得に応じて負担を求める。現行制度の利用者には三年程度の経過措置を検討する。

新制度では重症患者の負担が増え、所得が低い人でも「軽度」と認定されると、これまで受けられた助成が受けられないケースが出るとみられる。このため、患者団体などから批判が出ていた。

対象疾患の選定は新設する第三者委で行う。現在、助成対象の難病も見直し、条件を満たさないと新制度から外し、別の支援を検討する。厚労省は来月中に新制度の内容を決め、二〇一五年一月からの実施を目指す。

(以上引用)






これからの民主主義;主権は民衆にある

2013-10-30 17:09:35 | 日記

★ 私たちが生きるこの社会の政治制度は「民主主義」と言われている。「民主主義」は「デモクラシー」の翻訳であり、「デモクラシー」は「民衆による支配」を意味するギリシア語の「デモクラチア」に由来する。民主主義とはつまり、民衆が自分たちで自分たちを支配し、統治することを言う。ここから一般に民主主義は、民衆が主権を有し、またこれを行使する政治体制として定義される

★ では、その主権はどのように行使されているか?
  主権者たる私たちが実際に行っているのは、数年に一度、議会に代議士を送り込むことである。つまり「民主主義」といっても、私たちに許されているのは、概ね、選挙を介して議会に関わることだけである。さて、議会というのは法律を制定する立法府と呼ばれる機関である。すると、現代の民主主義において民衆は、ごくたまに、部分的に、立法権に関わっているだけ、ということになる。

★ なぜ主権者が立法権にしか関われない政治制度(……)が、「民主主義」と言われうるのだろうか?それは近代の政治理論、あるいは民主主義の理論に、立法権こそが統治に関わるすべてを決定する最終的な決定機関であるという前提があるからだ。(……)近代の政治理論は主権を立法権として定義している。

★ 今問題にしている近代政治理論の前提とは、立法権こそが統治に関わるすべてを決定する最終的な権力、すなわち主権だ、という考えである。主権者が一定の領域内を支配し、治めることを「統治」と言う。近代の政治理論は、立法によって国家を統治することを目指したのだと言うことができよう。

★ 立法とは法律を作ることである。法律は作られたら適用されねばならない。国または地方公共団体が、法律や政令、その他条例などの法規に従って行う政務のことを「行政」という。国ならば省庁、地方公共団体なら市役所や県庁などがこの行政を担っている。さて、近代政治理論によれば、主権は立法権として行使されるのだった。すると、そこで思い描かれているのは、主権者が立法権によって統治に関わる物事を決定し、その決められた事項を行政機関が粛々と実行する、そういった政治の姿であることになろう。

★ たとえば日本の国政で言えば、国会が立法という形ですべてを決定し、各省庁に勤める官僚たちがそれを粛々と執行する……。地方自治体で言えば、市町村・都道府県の議会が条例設定・予算案承認といった形ですべてを決定し、市町村役場・都道府県庁の職員たちがそれを粛々と執行する……。そういう前提になっている。これは別に日本が独自に決めたやり方ではない。近代初期に、政治哲学によって作られた主権の概念に基づいて採用されているやり方である。

★ しかし、誰もが知っているし、しばしば指摘もされているように、議会が統治に関わるすべてを決定しているとか、行政は決定されたことを執行しているに過ぎないというのは誤りである。なぜなら、行政は執行する以上に、物事を決めているからである。

★ 実際に統治に関わる実に多くのこと、あるいはほとんどのことを、行政が決めている。しかし、民衆はそれに関われない。私たちに許されているのは立法権に(ごくたまに、部分的に)関わることだけだ。

ここにあるのは実に恐ろしいシステムである。主権者たる民衆は実際の決定過程からははじかれている。だが、にもかかわらず体制は民主主義の実現を主張できる。立法権こそが主権であり、立法権を担う議会こそが決定機関であるという建前があるために、民衆が立法権にさえ関わっていれば、どんなに選挙制度に問題があろうとも、どんなにその関わりが部分的であろうとも、その政治体制を民主主義と呼ぶことができる、そういうシステムが作り上げられているのだ。

★ ならば、これからの民主主義が目指すべき道は見えている。立法権だけでなく、行政権にも民衆がオフィシャルに関われる制度を整えていくこと。これによって、近代政治哲学が作り上げてきた政治理論の欠陥を補うことができる。主権者たる民衆が、実際に物事を決めている行政機関にアクセスできるようになるからだ。

★ 方向性は確認できたとして、では、行政権に民衆がオフィシャルに関われる制度としてどのようなものが考えられるだろうか?
ここでは私が思いついているものだけを列挙する。(……)近代の政治理論は、あらゆる政治イシューを議会という一つのアリーナに集約し、そこですべてを決するという一元論的な体制を構想してきた。それに対し本書は、問題の性格に合わせて様々な制度を活用できる、決定プロセスを複数化した体制を提案する。

★ 本書が提案する制度の一つは住民投票である。住民投票は行政が決定した政策に対し、住民が明確な意思表明を行う手段として有効である。現在のところ法的な拘束力はなく、一種のアンケートのようなものであるが、議会や行政がその結果を完全に無視するということは難しく、かなりの効果をもつ。ただ多くの場合、実施にまで至るのが難しい。住民投票の実施を請求しても、議会がこれをほとんどの場合斥けてしまうからである。この点に改良の余地がある。

★ 次に審議会などの諮問機関の改革。諮問機関は、政治家や役所が、ある案件について専門家を集め、そこで審議された内容をもとに政策決定を行うという組織である。しかし、多くの場合、そこに出席している委員の顔を見ただけで結論が見えると言われる。政治家や役所は、自分たちの政策の後ろ盾を得るために、検討するような振りをしてこうした組織を立ち上げることも多い。
したがって、その構成には何らかの制限が加えられねばならない。そして、これは問題の性格によって個別具体的に判断しなければならないものだが、住民・国民が必ず一定数参加できるようにしなければならない。

★ また、(……)この諮問機関を発展させた制度として、住民と行政の双方が参加するワークショップが考えられる。行政が決めて住民に説明するのではなく、行政と住民が一緒に考えるのである。
ただしこれには条件がある。(……)議論をうまく進めるための専門家が必要である。そこで、ファシリテーターと呼ばれる専門技能をもった人に参加してもらう。

★ 最後にパブリック・コメント。現在、行政が何かを行う際には周知期間を設け、広く意見を公募することが義務づけられている。しかし、いかなる意見が多数を占めようとも、当初の行政の決定が覆されることはなく、「広く意見を集めた」という言い訳のための手段に成り下がっているとの指摘が多い。(……)特定の意見が一定数あるいは一定のの割合を占めた場合には、当該事案の再検討を義務づけるなど、パブリック・コメントを形骸化させない制度が求められる。

★ 議会制民主主義には様々な問題がある。だが、議会制度そのものを根本から改変するのは難しい。しかし、そこに様々な制度という強化パーツを足し、議会制民主主義を補強していくやり方ならば実現は難しくない。制度を少しずつ増やしながら、たえまなく民主主義を強化していくことができる。(……)今後、様々な制度が強化パーツとして考案されていく必要がある。

★ 民主主義について考えるというと、私たちは民衆が立法権にどう関わっているか、どう関われているかという点ばかりを考えてしまう。つまり、立法府たる議会と民衆の関係ばかりを考えてしまう。しかし、現在の民主主義の問題を正面から考えるためには、立法権が議会に委ねられた時よりも前に遡らねばならない。立法権によって主権を定義し始めた時のことを問題にしなければならないのである。その定義は政治哲学によってなされた。だから、今の民主主義の欠陥に対して、哲学は責任を負っている。哲学に携わる者が、何としてでもこの問題を考え抜かねばならない。本書はそのためのささやかな貢献である。

<國分功一郎『来るべき民主主義』(幻冬舎新書2013)はじめに>





神の いない 世界

2013-10-30 13:57:51 | 日記

★ 第三者の審級――その代表が神です――が存在しているということ、つまり人々が第三者の審級の存在を信頼しているということは、どういうことかを考えてみるとよいのです。それは、必然的に「信仰の飛躍」を含意しています。信仰の飛躍というのは、根拠なしに、無条件に、「えいやっ」と飛び込むように受け入れるということです。神を信じること、あるいは神でなくても誰かを信じるこということは、ただ端的に、彼(彼女)、または彼(彼女)の言葉を受け入れるということです。

★ たとえば、こんな状況を想像してみてください。あなたが、何か、身に覚えのないことで嫌疑がかけられているとき、あなたが、親友や恋人に「俺はそんなことはやっていない、信じてくれ」と言うでしょう。そのとき、親友なり恋人なりがあなたに証拠を要求したら、ちゃんとした証拠があれば信じましょうと言ったとしたら、その親友や恋人は、あなたをほんとうには信じていないということです。その人がほんとうの親友や恋人であれば、あなたが真剣に訴えることを、無条件で、何の証拠など提示しなくても信じるでしょう。

★ このように第三者の審級が存在しているということは、無条件に受け入れられている前提がある、ということです。逆に言うと、第三者の審級が撤退し、存在しなくなるということは、すべてが反省的な選択の対象になっているということ、「ただ受け入れる」という部分が無くなっていることを意味します。

★ 今日、この惑星の進化や自然史について知られている事実からすると、地球の環境は、有機的な調和のとれた「自然」どころではなかった。そこには、現在恐れられている程度の温暖化とは比較にならないほどの環境の激変がありました。私たちが眼前にしているものとは比べものにならないほどの徹底した生物の消滅(大量絶滅)もあったのです。それらはしかも、いずれも、偶発的な要因――惑星の衝突や進化の暴走――によって惹き起こされているものです。それは、私たちが無意識のうちに「自然」に投影している、調和的な再生産の場どころではないのです。人間がその野生の姿の中で、まどろんでいられるような場所でもない。とするならば、エコロジストたちが称揚している「自然」とは、それ自体、幻想なのです。

★ 調和的な「自然」を、自然の本来の姿として受け入れるということは、そのような「自然」を創造したり、与えたりした「神」を信じているのと同じことです。信仰しているという自覚とは関係なしに、「自然」を無条件で受け入れれば、それは、特定の内容をもった第三者の審級を受け入れ、信じているということなのです。

★ こうしたことを前提にして考えてみると、私たちが、とりわけ今日の科学技術の進展とともに直面している事態が、いかに根源的で、大きなことであるかが、露になってきます。それは(与件・前提としての)「自然」の消滅です。

★ 今日の自然科学、とりわけ生命科学の発展を、それが潜在的に目指していることまで延長してみれば、自然が、もはや神から与えられた条件ではなく、人間による反省的な選択(……)の産物となりうる、ということなのです。自然は、今や、あらかじめ存在していて、人間があとから消極的に介入する対象ではない。そうではなくて、自然そのものが人間の自覚的な構築の産物となりつつあるのです。

★ 生命科学者は、人間によって作られた新たな生命のことを「Life 2.0」と、まるでソフトウェアのように呼ぶのだそうです。ということは、もともとの自然の生命は、「Life 1.0」だったという認識を裏打ちするものです。かつて「自然/人工物」の間には、越境できないような、質的な区別がありました。しかしLife 1.0とLife 2.0の差は、ただのヴァージョンの違いに過ぎませんから、相対的で連続的な違いしかありません。

★ 科学的な知見に依拠すれば、事実を、第三者の審級はもはや機能していないという事実を直視することができるのでしょうか。実は、そうはならないのです。逆に、現代社会では、科学的な知見こそが、最も強力な、事実を否認するスクリーンになってしまうのです。どういうことでしょうか。最初の方で述べたように、リスク社会のリスクの多くは、それが生起する確率を原理的に計算することができません。たとえば、地球の生態系の壊滅の確率など、原理的に算定不能です。あるいは、先進国のど真ん中でテロが起きる確率も計算できるものではありません。

★ ところが、科学は、原理的に答がないことにも、回答しないわけにはいきません。科学が提起していることは仮説ですから、嘘ではない。科学が主張することは、どんなに信頼性の高い通説でも、仮説は仮説ですから、結局、この件に関して「仮説」であるということは特に問題にはなりません。むしろ、科学は、その予想に、「客観性」を標榜する評価を持ち込みます。科学は、原理的に不可能なものに、客観的とされるような何らかの回答を与える。このとき、人は、それに自らが望むものを読み込んでしまうのです。

★ そして、今日の講義でやや詳しく紹介したように、市場においても、科学(金融工学)が、<恐怖>を否認する道具として機能したことを思い出してください。CDS(クレジット・デフォルト・スワップ)こそ、「第三者の審級の不在」を否認する、これ以上ないほど直接的な方法だったのです。最先端の(金融)科学的な裏付けをもった、<恐怖>否認の道具だった。

★ 奴隷は、自分の客観的真理を否認する限りで、死の恐怖の虜になっており、主人に隷属せざるをえません。これこそは、リスク社会の隠喩です。リスク社会は、第三者の審級(主人)がすでに撤退しているという真理を否認しようとしている社会です。

★ しかし、キリストの死は、第三者の審級の不在を勇気をもって引き受けることでした。

<大澤真幸『社会は絶えず夢を見ている』(朝日出版社2011)>






“何が秘密? それは秘密です”;秘密保護法案

2013-10-29 12:31:02 | 日記

<秘密保護法案「現代の治安維持法だ」~学者ら反対声明> OurPlanetTV2013/10/28

政府が今国会に提出した特定秘密保護法案に反対し、憲法や刑事法の専門家らが、28日都内で記者会見し、「法案は、一種の軍事立法であり、基本的人権の保障、国民主権、平和主義という憲法を脅かしている」などとする声明を発表した。
 
記者会見を行ったのは、東京大学の奥平康名誉教授(憲法)や上智大学の田島泰彦教授(メディア法)ら憲法・メディア研究者と刑事法の専門家ら10人。それぞれの専門分野で声明文を作成し、これまでに計270人が賛同した。
 
田島教授は会見で「「特定秘密」といってもその対象が明確に限定されているわけではない」として、その範囲が無制限に広がる可能性を指摘した。また、秘密をできるだけ開示する方向に向かっている世界の潮流に対して逆行していると批判。情報開示や知る権利を侵害しようとする政府の姿勢を厳しく批判した。
 
◆ 市民活動の抑圧強化を警告

一方、刑事法の研究者らは、声明の中で、法案は刑事裁判における適性手続きを侵害したり、刑事法の人権保障を侵害すると警告。国民主権の原理に反し、議会制民主主義が著しく弱体化するなどとしている。
 
一橋大学の葛野尋之教授(刑事法)は、同法案の処罰を最優先する軍事立法的な性格について言及した上で、処罰の範囲が曖昧で不明確であると指摘。同法が施行されれば、「処罰対象の広がりは避けられない」と懸念を表明した。また、刑事法の存在自体が脅かされる危険性があるという。
 
また、国際基督教大学の稲正樹教授(憲法)も、「「表現の自由」や「報道の自由」に関する議論に集中しがちだが、個人やその家族の思想、生活習慣などを洗いざらいチェックする「適性検査」の不当性は看過できない」と賛同の理由を説明した。
 
一橋大学の山内敏弘名誉教授(憲法)は、警察に関する情報が「国家機密」の対象とされることも問題視し、「市民の生活を警察が取り締まること自体が特定秘密になり、市民生活にダイレクトに抵触する」と発言。同法案が一部の職種だけでなく、あらゆる層に関係すると指摘した。

◆ 世論の高まり尻目に、成立急ぐ政府

同法案は、10月以降、急速に関心が高まっており、共同通信社が26、27両日に実施した全国電話世論調査によると、政府が今国会に提出した特定秘密保護法案に反対との回答が50.6%と半数を超えた。また慎重審議を求める意見は82.7%に達し、今国会で成立させるべきだの12.9%を大きく上回った。しかし政府・与党は、11月には審議に入りし、早急に成立させたい考えだ。
 
一橋大学の村井敏郎名誉教授(刑法)は、同法案の報道に関して「メディアが反対の声をあげるどころか、大手新聞社内でも政治部主導の記事と社会部の記事がぶつかりあっている」と指摘。「今こそ、マスコミが同法案に対する国会議員一人ひとりの姿勢を発表するなど、『対権力』を業界全体として打ち出して欲しい」とマスコミへ奮起を促した。
 
これまでも、同法案に類似した法案が持ち上がり、85年に『国家秘密(スパイ防止)法案』が国会に提出たが、市民やメディアからの強い反発で廃案となっている。


<秘密保護法案 今国会成立に固執するな> 熊本日日新聞<社説>2013年10月28日

 「何が秘密? それは秘密です」。特定秘密保護法案に反対する学者や市民約400人が先週、首相官邸前で掲げたプラカードの文言だ。ジョークのようだが、決してそうではない。この言葉に同法案の危うさが端的に表れている。

 政府は先週末、同法案を閣議決定し、衆院に提出した。外交・安全保障政策の司令塔となる日本版「国家安全保障会議(NSC)」創設法案とともに、今国会会期内の成立を目指しており、与党は11月中旬までに衆院を通過させたい考えだ。

 しかし、その内容には問題が多すぎる。法案は防衛や外交、テロ活動防止などに関する事項のうち、漏えいすると国の安全保障に著しく支障を与える情報を閣僚らが特定秘密に指定する内容。公務員らが漏らした場合は最高10年の懲役となる。

 では、個別にどんな情報が秘密に該当するのか。法案は具体例を別表で示しているが、「自衛隊の運用」や「その他の安全保障に関する重要なもの」など曖昧な表現が多い。秘密指定の際は第三者のチェックを受けないため、政府の解釈次第で秘密が“乱造”される懸念がある。

 衆参両院は国政調査権で非公開審議を前提に特定秘密の開示を求めることができる。だが政府に開示義務はなく、開示するのは「安全保障に著しい支障を及ぼす恐れがない」と判断した場合に限られる。これでは何が秘密か、知りようがないのも同然。返ってくるのは「それは秘密です」という答えだけだろう。

 「脱デフレ」を最優先としてきた安倍晋三首相がにわかに秘密保護法制の整備に踏み込んできたのは、米国から安全保障に関する機密情報の管理徹底を迫られたからだ。世界がグローバル化する中、友好国が連携して情報収集や分析を行う傾向は強まっている。そこに情報管理の徹底が必要とされることには一定の理解がいく。その環境整備のためだが、法案を見ると、行き過ぎた情報統制につながる懸念を拭えない。機密の漏えい防止は現行法制で対応できるとの専門家の指摘もある。

 思い出されるのは中曽根政権下の1985年、最高刑を死刑とする国家秘密法案が議員立法で提出され、世論の反発で廃案になったことだ。今も「知る権利」の侵害に対する国民のアレルギーは根強い。今回の法案には取材・報道の自由を侵害する内容も含まれ、日本ペンクラブは「廃案」を求めている。巨大与党は法案成立に固執するべきではない。


<西谷修ブログ;Stop! 特定秘密保護法> 2013年10月24日

 一昨日、FBで呼びかけながら行けなかったので、今日は官邸前の秘密保護法の閣議決定阻止を訴える集会に行ってきた。明日まで毎日やっているようだ。

 今回はあまり周知されていないので人数は多くない。一昨日は四百人と東京新聞が伝えていたが、今日は二百人そこそこか。だが、いつものことながら、周辺の地下鉄駅に警官がたむろしているのはもちろん、鑑定方向は鉄柵のバリケードを張り、装甲車を何台も並べて、いったい警備当局は何を恐れているのかと思わせる警護ぶりだ。いや、恐れているのではなく、政府(権力)に「反対」など唱えること自体を危険視して威圧している。

 かつてのスパイ防止法とほぼ同じと言われる秘密保護法などできる前から、この国では過剰警備、過剰監視だ。某有名女性タレントがブログでこの法律こわいと書いただけで、ただちに公安が動いて、背後関係の有無などを調べたという。日米安保とか原発とか改憲に反対する意思表示をする人たちは、すでに調べられていると思っていい。この国に思想統制は法律などなくても前から勝手に進行しているのだ。ただ、そういうことを「漏らす」と「特定秘密」の漏洩で、今度はお縄になるということだ。

 福島第一原発事故の直後、スピーディーのデータがあったのに、その情報は米軍にはすぐに渡されたが、国内では公表されず、そのために浪江町の人たちは、知らないまま放射線量の高い方に非難するはめになった。ふつうなら、政府・東電によるこの情報の隠蔽は犯罪ものである。市民が被曝するのを故意に放置することになったのだから。

 ところが、今度の法律ができると、放射能汚染状況も「特定秘密」とされ、それを外部に持ち出したりすれば、ジャーナリストでも処罰されることになりかねない。つまり、国民に有益な情報を隠すのは犯罪で、隠蔽した責任者が罰される、というのがまともな国の在り方だとすれば、この法律はそれを逆転して、正しいことをする者を、責任を取ろうとしない(隠そうとする)権力者が逆に処罰する、という転倒した法律である。
 ここで国の在り方が大きく変わることになる。つまり国民を守る国家から、国民を統制する国家へと変わるのだ。これまでも潜在的にその傾向は強くあったが、この法律はそのことを大っぴらに宣言する。

 この法律を求めてきたアメリカとの関係もあるが、これはまたにしよう。ともかく、今の日本の政府にとって(安倍政権にとっては言うまでもなく)、日米安保体制は日本国憲法よりも重要な、基本の枠組みなのだ。これで右翼というのだから、どこまで倒錯しているのかと思うが。

 今日、NHKの9時のニュースでは、プロ野球ドラフト会議を大きく取り上げていた。思い出すのは、安倍の祖父岸信介の「今日も後楽園は満員だ、声なき声が私を支持している」という言葉だ。テレビは「声なき声」を育てることに余念がない。彼らには「特定秘密保護法」は関係ない。なにも知ろうとしないからだ。知っておかしいと思い、少し声を上げると、例のタレントのようにたちまち公安がついてくる。そのとき、この法律がとんでもないものだとわかるが、できてしまってからではもう遅い

(以上すべて引用)





福島第一原発作業員 緊急座談会

2013-10-29 10:57:51 | 日記

<汚染水処理の現場はヤクザとど素人だけになった> 「週刊現代」2013年10月26日号より

毎日のように、ニュースを賑わせる原発汚染水問題。安倍首相の見解とはまったく逆だが、ほぼ、アンコントロール状態にあると見て間違いないだろう。最前線で闘う男たちにイチエフのいまを聞いた。

◆ 間抜けなことばかり起きる

作業員A 先日もホースの交換中に汚染水が漏れて作業員6人が被曝するトラブルがあったけど、原発汚染水漏れはほとんどが初歩的なミス。8~9割がヒューマンエラーだと思う。作業員B 作業員の士気、相当低いからね。とにかくコロコロ人が替わるから、責任感みたいなものがない。いま一緒に作業しとる仲間の前職は新宿の居酒屋店員、プールの監視員、塾の講師、トラック運転手と、ど素人ばかり。熟練さんがおらん。
作業員C 僕はフリーターでした。原発内の前線基地である免震重要棟と隣接するプレハブ小屋に出入りする作業員たちの、備品や汚染度の管理をする仕事をやっていまして、同僚は10代後半から60代まで数十人。北海道から九州まで全国から来ていますけど、地元の福島の人が一番多いかな。
それはいいんですが、とにかく現場がいい加減。被曝講習がJヴィレッジ(福島第一原発から20kmの距離にある東電の後方拠点)で行われたんですが、ビデオを観た後にテストがあって、それをクリアすると講義を受けてまたテスト。中には居眠りしている同僚もいたんですが、全員合格。ようは形だけなんです。 
作業員B 現場でも東電が作業員に直接指示を出すことは、ほとんどない。あっても「早くしろ」「時間がない」くらいやね。こないだ安倍さんが視察に来たけど、ホンマ、大迷惑でした。というのも「安倍さんに汚いところを見せられない。ガレキを片付けろ!」と東電に言われ、1週間もかけて現場の掃除をやらされたんです。掃除で作業が滞るというアホらしさ。安倍さんが見たのはほんとのイチエフ(福島第一原発)の姿やないですよ(笑)。俺たちは何が起きてるんか、これからどないなるんか、何もわからん。毎日毎日、自分の作業が何のためになるんかもわからず、ただ言われたとおり動いとる。
作業員A だから、ゴムシートを現場に置き忘れて、それが排水口に詰まるなんて、初歩的なミスが起きる。「それぐらいで?」と思うかもしれないけど、原発ではちょっとした落とし物でも大事故につながる。構内には「ゴミを落とすな」という張り紙があちらこちらにあるくらい。私からしたら、ゴムシートを放置するなんて考えられない。原子炉からALPS(放射性物質除去装置)へ汚染水を注ぐホースにゴムのカスを詰まらせたときは、原子炉の冷却ができなくなって、温度が上昇。「何があったんだ?」と大騒ぎになった。
作業員D 汚染水タンクの配管も、どれだけ傷んでいるか想像もつかないですよね。とにかく「急げ、急げ」と急かされて作ったから、純正品ではなく、既製品を組み合わせている。配管として使っていた市販のホースがチガヤという雑草のせいで穴があくというマヌケな事故もありましたよね。
作業員C 長く見積もっても1基あたり30秒弱。連結部分は数万ヵ所あるわけで、とてもチェックできない。 汚染水タンクの設置当初から水漏れは懸念されていましたけど、そうした声は東電に伝わらない。東電はタンクをパトロールしていると言ってますが、1000基あるタンクを二人で2~3時間で見るわけでしょ?

◆ 自分も海に汚染水を流した

作業員B だいたい、タンクから漏れてる汚染水なんて、雨が降ったら確認は不可能。漏れてるのか雨なのか区別がつかん。地下水に至っては、想像もつかんよね。側溝にも明らかに汚染水と思われる液体がたくさん流れとるけどパッと見、普通の水。よく「今日は何tの汚染水漏れが見つかりました」とニュースでやっとるけど、報道される数字は少なすぎる。ハンパやない量が流れてますよ。せんだって、台風が上陸したときなんて、大雨で側溝の水が溢れそうになったので、海に捨てました。流した水の放射線量を測定しなかったことを責められましたが、あえて測定せんのですよ。数値によっては犯罪になってまうから。
作業員A ただ、外部被曝に関しては、多少はマシになった。東電がサーベイマップを公開していて、高線量の場所がわかるから。毎時70~80シーベルトという超高線量のところは鉄板で覆ったうえで、張り紙をして、注意喚起している。
作業員B どこが停電したか、みんなわかっとったけど、線量が高いと有名なところだったから、誰も現場に行きたがらんかった。 でも、福島第一原発には、地雷みたいに、とんでもない高線量のところがまだまだある。原子炉建屋の山側の道を車で走ると、いまもピューッと線量があがりますよ。特に2号機と3号機の間。あそこは加速して突っ切ります。3月にネズミが仮設の配電盤をかじって停電したよね?
作業員A 熟練作業員の不足は深刻。素人が10人いるより、技術を持った一人のほうが仕事は捗る。震災後、原発作業員の年間被曝量の上限が50から250ミリシーベルトに上げられたけど、福島第一原発ではそれでもすぐ、被曝限度を喰ってしまって、働けなくなる。熟練工は『高線量部隊』と呼ばれる、原発により近い現場で働くので、だいたい1~2週間で限度オーバーになってしまう。
作業員B そんなリスクをおかして、手当もピンハネされてロクにもらえんなら、イチエフを選ぶ理由はない。
作業員C 作業員には通いと泊まりがありますが、小さい下請けに入ってしまうと、16時間も拘束されることがある。長時間労働、低賃金、残業手当なしの世界。
作業員B ウチの会社はプレハブの寮に住んでいる人が多いかな。事故直後は地元の温泉街の宿やったから、ランクは相当落ちた。それにこの寮というのが、メシがまずくてね。「東電が全然、お金をかけてくれない」って食堂のオバちゃんが嘆いてた。
作業員D 作業員の装備が野田政権の収束宣言('11年12月)以降、ずいぶんと軽くなりましたよね。東電が予算を削っているからでしょう。性能のいいチャコール(活性炭)フィルター付きマスクから市販の使い捨てマスクになった。それどころか、マスクなしで作業するエリアもできた。作業員を運搬する車両で汚染物を運ぶこともあるんだから、マスクなしのエリアなんてありえないのに。
作業員B メディカルチェックは受けとる?
作業員C 3ヵ月に一度、ホールボディカウンターで内部被曝の検査をしてます。その他、契約している総合病院での定期検診が3~4ヵ月に1回ありますね。
作業員B 一緒に働いていた人で、東京の人と広島だか山口だかの人が突然死しましたわ。被曝とは関係ないって言われとるけど……。ただ、労働条件が過酷なのは間違いない。夏なんて、シャワー浴びたのかってくらい、汗をかく。
作業員D ケアの面もどんどん悪くなってます。以前は線量オーバーで離職した人間は、半年か年に1回は人間ドックを受けられたり、無料の健康相談があった。それがいまはよほど高い線量で被曝したケースじゃないと、そういうケアはない。私は最近、すごく風邪をひきやすくなった。過労のせいもあるだろうけど、すごく不安です。
作業員C 使い捨てにされてる感がありますね。作業員は原発内のプレハブで休憩したり、食事をしたりするんですが、誰がどこで何の作業をしていたか、一切知らされない。僕はそんな作業員たちが着ていたものの廃棄や処分をやるんです。ハサミを入れて脱がせるんですが、下手したらこっちも被曝する。なのに東電は放射線測定時間の短縮を求めてくるからチェックが甘くなる。一番ヒヤリとしたのは、作業中に何かが指に刺さって血が出たとき。トラブルが表沙汰になれば現場責任者も咎められるから、黙ってました。

◆ 毎日、放射能を浴びている

作業員B 汚染水処理にしたって、いまはそれを最優先にしているけど、肝心の汚染水を流すホースさえ、事故当時のまま使っているから、劣化が激しく、あちらこちらから水漏れする有り様。原子炉建屋もボロボロのまま。満身創痍ですわ。3号機なんていまも、原子炉の中がどうなってるかわからないですからね。放射線量が高すぎて、ロボットも入れない。
作業員D 汚染水以外のことが後回しになっています。たとえば1号機、2号機の排気筒のヒビ。崩壊すれば毎時10シーベルトの放射性物質が放出されかねないのに、まったく報道されない。これ、1時間浴びれば死んでしまうレベルの線量です。ヘドロ化した汚染物や、原子炉建屋が水素爆発した際に飛び散った燃料棒の欠片が海に流れる可能性だってある。
作業員A 余震も怖い。地震が発生したら、免震重要棟へ逃げるようになっているけど、指示がおおざっぱ。
作業員B 地震が起きると構内放送で知らせてくれるんやけど、マスクをかぶっとるから、なかなか聞こえへん。しかも、防護服を着ていては機敏に動けない。震度4くらいの揺れでも「うわ!」ってみんなパニックになっとるもんね。ずっと原発で作業しとれば慣れるんやろうけど、人がコロコロ替わるから。そういえば、「現場で大ケガしても、ドクターヘリが来ますから」なんて東電は胸を張ってたけど、実際にケガ人が出たときにヘリが来るまで1時間以上もかかって、「救急車のほうが早いわ」と怒られとったな(笑)。
作業員C 私の所属する下請け会社には保安担当者がいて、地震の際は彼らの指示に従うよう言われています。地震が起きると、保安担当が現場を見まわって、異常の有無を確認して会社へ報告していますね。
作業員D 浜岡原発は防潮堤のかさ上げをしているけど、イチエフにはお粗末な、石を金網で包んだ仮設防潮堤しかない。順番が逆でしょう。
作業員A 東京オリンピック招致に際して、安倍首相が「状況はコントロールできている」と安全宣言したけど、あれはどこの話なんですかね。それどころか、ゼネコンが集めてくる作業員たちはいずれオリンピック関連工事に取られると思う。安倍は無責任すぎるよ。

◆ じきにヤクザも逃げ出す

作業員D もちろん、我々にもやらなくちゃいけないという思いはあるんですが、正直キツい。作業員の数は変わらないのに、仕事は増えていくばかり。トラブルが起きれば、その対応でまた仕事量が増える。キャパシティを超えて、みんな疲れきっています。「汚染水を処理する」ことばかり注目されていますが、現場の感覚からすると、放射性物質を取り除いた低濃度の汚染水を海に流せるように政治の力で話をつけてもらわないと意味がない。処理後の汚染水が貯まる一方で、いまでもタンク工場みたいになっている。
作業員B あとは作業員を増やすべき。特に熟練工を福島に戻さんと。
作業員D 東電は、最初は威勢のいいことを言うんです。『お金がかかってもいいから、ちゃんと収束させましょう』と。ところが、実態が伴わない。これから廃炉まで30年も40年もかかるのに、作業員の詰め所はプレハブにクッションシートを敷いた簡素なもの。汚染水用のタンクもそう、「カネがないカネがない」でも「急げ急げ」で造ったから、トラブルが絶えない。
作業員C 一部の東電の協力会社がバカみたいな安い値段で入札して、イチエフの労働価格のデフレを引き起こしたのも問題。労働者の中には借金などでヤクザに送り込まれた人や食い詰めたヤクザ本人がいる。現場はヤクザとど素人ばかりです……。
作業員B 原発に潜入したジャーナリストが「作業員の1割はヤクザ」と本で書いとったけど、たしかにヤクザ者は増えた。刺青入れた作業員にも会ったことあるわ。安く人を派遣して中抜きしたり、単純にシノギとして若い衆を派遣したりしとるんやろね。一方でヤクザに頼りでもしないと、人が集まらんのも事実。
作業員D そもそも事故対策を考えてなかった会社に事故対応をやらせることが間違い。しかもプライドは高いから「このままでは無理です」と頭を下げることもできない。汚染水はどんどん増えるのに、作業員はどんどん減っていく。それなのに子ども・被災者支援法はあっても被曝労働者の支援法はないというんだから、そのうち素人もヤクザもイチエフからいなくなってしまいますよ。

作業員A/神奈川県出身の30代男性。事故直後、自ら志願して福島へ
作業員B/大阪府出身の40代男性。いわき市の寮から、原発に通う
作業員C/東京都出身の20代男性。街中で声をかけられ転職を決意
作業員D/事故前から福島第一で働く地元・福島県出身のベテラン

(以上引用)


参考;<東電、中間決算3年ぶり黒字見通し 値上げなどが効果> 朝日新聞デジタル2013年10月29日10時25分

 東京電力の2013年9月中間決算は、経常損益が黒字となる見通しになった。福島第一原発事故が起きる前の10年9月中間決算以来、3年ぶり。電気料金の値上げによる収入増とコスト削減の効果で、黒字幅は1千億円を超えそうだ。31日にも発表する。





恋の季節

2013-10-28 16:45:25 | 日記

岩谷時子さんが25日、肺炎のため死去した(97歳)


忘れられないの あの人が好きよ
青いシャツ着てさ 海を見てたわ

私ははだしで 小さな貝の舟
浮かべて泣いたの わけもないのに

恋は 私の恋は 空を染めて燃えたよ

死ぬまで私を ひとりにしないと
あの人が言った 恋の季節よ

恋は 私の恋は 空を染めて燃えたよ

夜明けのコーヒー ふたりで飲もうと
あの人が言った 恋の季節よ

恋は 私の恋は 空を染めて燃えたよ

夜明けのコーヒー ふたりで飲もうと
あの人が言った 恋の季節よ
恋の季節よ 恋の季節よ

<恋の季節>



ため息の出るような
あなたのくちづけに
甘い恋を夢みる 乙女ごころよ
金色に輝く 熱い砂の上で
裸で恋をしよう 人魚のように

陽にやけた ほほよせて
ささやいた 約束は
二人だけの 秘めごと
ためいきが 出ちゃう

ああ 恋のよろこびに
バラ色の月日よ
はじめて あなたを見た
恋のバカンス

陽にやけた ほほよせて
ささやいた 約束は
二人だけの 秘めごと
ためいきが 出ちゃう

ああ 恋のよろこびに
バラ色の月日よ
はじめて あなたを見た
恋のバカンス

<恋のバカンス>



哀しいことも ないのに なぜか 涙がにじむ
ウナ・セラ・ディ東京 ムー
いけない人じゃ ないのに どうして 別れたのかしら
ウナ・セラ・ディ東京 ムー

あの人はもう 私のことを 忘れたかしら とても淋しい
街は いつでも 後ろ姿の 幸せばかり
ウナ・セラ・ディ東京 ムー

あの人はもう 私のことを 忘れたかしら とても淋しい
街は いつでも 後ろ姿の 幸せばかり
ウナ・セラ・ディ東京 ムー
ウナ・セラ・ディ東京 ムー

<ウナ・セラ・ディ東京>





CARAVANSERAI キャラバンサライ

2013-10-28 16:02:46 | 日記

★ カルロス・サンタのアルバム『キャラバンサライ』の第1曲は「転生の永遠のキャラバン」と題されている。インドでの修業時代にサンタナに霊感を与えたグルの教えは、わたしたちのほんとうの自己はいくつもの身体とその生涯を宿としながら永劫の転生をの旅を続ける。わたしたちの個体とその<自我>はこの永劫のキャラバンの一期の宿(サライ)であるというものであった。インドの古い哲学の教えるところだ。

★ けれどもサンタナがウパニシャドの教えをこの魅惑的な比喩に具象化しようとした時、たぶん無意識につけ加えたものが二つある。第1にキャラバンサライは、数多くの隊商たちがそこで行き会い、共住し、また散っていく場所でもあった。第2にそのキャラバンサライは、隊商たちが行き会う結節点でありながら、そのことのゆえに、やがてそのうちのいくつかは自立する<都市>たちとして主体化し、逆に隊商たちを自在に支配するまでにも到る力の場であった。

★ 最古の諸文明がユーラシアと北アフリカのいくつかの地に発生し繁栄したその当初から、この大陸を数知れぬキャラバンの群れが往き来していた。バビロニアとエジプトの住居跡の最下層はすでに、これらの諸都市が隊商によってはるかな遠隔の地と結びついていたことを示す。

★ 紀元前3千年紀にすでに隊商は幾多の明確な隊商都市を形成していた。(……)これらの諸都市のうちの多くは1次的には、周辺の農耕、牧畜地帯の諸産物を交換する人びとの集散地として発生し、時には始めから遠隔の地の交易の、また政治的支配の基地として創設され、成長していた。都市はさまざまな仕方で2次的な、(時には幾重にも折り重なった仕方で派生的な)集住地であったけれども、それらはやがて自立化し、主体化し、そのもともとの形成者である周辺地域の共同体や遠隔共同体、<移動する共同体>たちをその支配下におくまでに至る。<近代>はこの都市から生まれた。都市の原理の普遍化が近代であった。人間の歴史の中で最大の事件はこの<都市>の発生とその主体化である。

★ 生命の歴史の中でこの<都市>の形成と比定しうる事件は、<個体>という第2次的な集住系の出現と、その<主体化>である。

★ わたしはこの稿を、<自我という現象>の謎を追って死んだふしぎな詩人にして科学者であったM.K.(1896~1933)に贈りたいと思う。

<真木悠介『自我の起源』(岩波現代文庫2008)>



★ 人がひとつの思想を見出して共感し、ほんとうに自分の生を方向づけ、意味づけするような力として獲得するのは、ほとんど「身体的」といってもいいような感覚の基底において、この思想と呼応し共振することがあるからである。

★ 「論理として」人が思想を論証し/反証する時でさえ、その論証し反証すること、その激しさや執拗さや静かさ等々は、思想の言語という形式のずっと以前に、語られない共感/反感の地層から噴き上げてくるものであり、あるいはこの地層に居を置いて透明に冴えわたったりしているものである。

★ 何に怒り、何を否定し、何を手放し、何に魂をゆり動かされ、何をこころにしみとおらせているのか。何にリアリティを感覚するか。リアリティを感覚しないか。<ほんとうのもの>をどこに見出すか。それとももう<ほんとうのもの>などを求めないのか。何に魅かれるか。どういうことばに魅かれるか。どんな生涯に魅かれるか。どのようなもの、どのような思考、どのような生活のあり方をはじめから感覚として排除しているか。

★ 感覚が形成されるのは、経験からである。意識の生成にずっと先立つ時期からの、家族の内や外、仕事の中、恋愛や友愛の中、街頭やメディアの中で、あたりまえのことであるかのようにくりかえされる、経験の歴史。反対に想像力の外部から突然のように襲い、それまでの自分の生の全体をばらばらに解体して去ってゆくような経験の歴史。これらの経験は、家族の関係や企業のシステム、恋愛と性の形式、都市やメディアの構造とそれらの変動をとおして個人に回帰して来るものである。

★ 自然の災害や遺伝の資質から来るものも、家族や職場や恋愛や性や都市やメディアの構造とその変動をとおして切実な現実として経験される。このように生きられている関係の構造とその変動は、都市化、消費化、情報化、虚構化といった、現代日本の基礎的な構造とその変動の様々な切断面である。だから思想の社会学は、感覚の社会学であり、経験の社会学であり、そして構造の社会学である。

<見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫1995)学術文庫版あとがき>





“本と旅する 本を旅する”

2013-10-28 09:02:53 | 日記

<毎日新聞社説:読書週間 読み聞かせが養う力> 2013年10月28日 02時35分

 秋が深まる中、27日から読書週間が始まった(11月9日まで)。今年の標語は「本と旅する 本を旅する」。老若男女が活字に親しむことで、生活を豊かにしたい。

 全国学校図書館協議会(全国SLA)と毎日新聞が合同で実施した「第59回学校読書調査」の結果がまとまった。注目すべきなのは、就学前に家でよく読み聞かせをしてもらった子ほど、読書量が多かったことだ。

 全国SLAと毎日新聞は毎年、小・中・高校の児童や生徒を対象に調査をしている。まず、その年の5月にどれだけ書籍を読んだかを調べるが、1カ月間の平均読書量は小学生10.1冊、中学生4.1冊、高校生は1.7冊だった。
 この10年間を振り返るといずれも微増傾向で、不読率(5月に一冊も読まなかった人の割合)も減っている。しかし、特に高校生でよく読む生徒とあまり読まない生徒との二極化が顕著だった。

 鮮やかな数字となって表れたのが、小学校入学前の読み聞かせが、よく本を読む子を育てていることだ。この10年ぐらいで、読書の習慣が学力の向上につながるという認識が広がり、乳幼児期の読み聞かせも重視されてきた。このため、「よく読んでもらった」という割合が、特に5年前に比べて大幅に増えた。
 そして、「よく読んでもらった」子は読書量が多く、不読率は小学生で4%、中学生で12%と低かった。幼児のころに本の楽しさを知ると、成長してからも読書が身近なものになっていることがうかがえた。

 幼児期の読み聞かせは、豊かな想像力を養う。自分が実際に体験していないことを心に思い描くのだから、当然だろう。また、使える言葉がどんどん増えていく。もちろん、子供と、読んで聞かせる人とのきずなが深まるきっかけにもなる。
 あるベテランの先生は「母親だけでなく、父親、祖父母、幼稚園や保育園の方々、誰でもかまいません。忙しかったら、寝る前の5分でも10分でもいい。本の選び方も難しく考えないで、自分が感動した本を読んであげてほしい」と話す。
 「ブックスタート運動」も関心を集めている。市区町村などの乳児健診などの機会に、絵本を贈る活動だ。全国SLAの小林功参事は「現物の本の力は大きい。保護者に早い時期に読み聞かせをすすめられる」という。

 国語力はあらゆる学力の根幹だ。たとえば、早い時期からの英語教育の必要性がしきりに議論されている。しかし、肝心の母国語の能力をつけないと外国語の習得などおぼつかない。読み聞かせの習慣をもっと広げ、子供たちに本という豊かな世界の魅力を知ってもらおう。
(以上引用)





難病助成と生活保護法

2013-10-25 10:23:36 | 日記

* 国の難病対策を議論する第33回難病対策委員会が10月18日(金)に開催され、「難病に係る新たな医療費助成の制度案」が提示された。

このこと自体があまり報道されていない。
さらにこういうニュースは“難病”に関与しないひとには、見過ごされてしまうと思う。
しかし、“難病に関与しないひと”というのは、実は、ありえない(いない)のである。

以下に引用するのは、“記事A”は毎日新聞記事、“記事B”は「タニマーによる制度の谷間をなくす会」が記者会見を告知するものである。

記事Aをうっかり読むと、難病患者の自己負担が“2割に軽減される”良いことのように思える。

しかし、記事Bは難病患者の立場から、この制度変更の“危機”を訴えるものである;


記事A;
<難病:自己負担「2割に」 助成、厚労省が引き下げ案>毎日新聞 2013年10月18日

 難病対策の見直しと新法制定を目指す厚生労働省は18日、新制度で医療費助成の対象となる難病患者が自己負担する額について、同省の難病対策委員会(金沢一郎委員長)に議論のたたき台となる案を示した。自己負担割合を現行の3割から2割に引き下げる一方、対象者を重症者らに限定するなど患者への新たな負担を求める内容。同省は同委員会や患者団体から意見を聞いた上で改めて負担額を試算し、次回の委員会で修正案を示す。
 今回の案は、医療にかかる頻度の高い70歳以上を対象にした高額療養費制度を参考にした。患者の月額の負担上限額は夫婦2人世帯で▽生活保護は0円▽市町村民税非課税の低所得者8000円▽年収約370万円までは1万2000円▽約370万円以上は4万4400円。現行制度で助成を受けている患者については、おおむね3年の経過措置を設ける。
 新制度では、医療費助成の対象を現行の56疾患から300疾患に拡大する一方、重症者らに限定する方針。今回の案は社会生活に支障がある人に加え、高額な医療を受けることで軽症の状態を維持できている患者も医療費助成の対象とした。
 また、現行では訪問看護を全額無料にするなど優遇措置がある介護保険に関しても、負担を求めるかなどを検討する。【桐野耕一】
(以上毎日新聞記事引用)


記事B;
<記者会見のお知らせー:会見者:「タニマーによる制度の谷間をなくす会」代表 大野更紗 他>

日時:2013年10月29日(火)午後3時30分
場所:「厚生労働記者クラブ」

内容:

難病をもつ患者の生活が、危機にさらされつつあります。国の難病対策を議論する場である第33回難病対策委員会が10月18日(金)に開催され、「難病に係る新たな医療費助成の制度案」が提示されました。

「新たな医療費助成の制度案」は、難病患者にとって致命的な重い負担です。
年収370万円以上の世帯の自己負担額は、月額44,400円。年間の自己負担額は、1人の患者につき、医療費の窓口負担だけで年間約53万2800円にものぼることになります。年収370万円の世帯の、可処分所得にしめる医療費自己負担額の割合は、約18%にもなります(*現行制度は約3.8%程度)。

このきわめて重い負担水準が、生きている間、生涯続くことになるのです。
現行制度下でも、家族に経済的に依存しながら「ぎりぎりの生活」を維持している患者がほとんどです。医療費以外にも毎日の療養にかかる費用、入院時の差額ベッド代や移動交通費等を自己負担しています。特に、先天性や若年期に難病を発症した患者は、経済的負担が生涯にわたるにもかかわらず、民間の医療保険に加入することもできません。難病への社会支援も未整備のままです。

新制度案は「難病の子ども」「働く若年の患者」にとって、重すぎる負荷です。現行制度下でかろうじて就労を継続している患者の負担額が重くなるため「難病患者の社会参加を支援し、難病にかかっても地域で尊厳を持って生きられる共生社会の実現を目指す」という難病対策の改革の基本理念とは、逆行します。難病をもちながら就学・就労しようと願い、日々病とともに必死で生きている患者の「生きる権利」すらも、奪うことになります。

「新たな医療費助成の制度案」が現実のものとなれば、経済的理由から生命維持に必要な受診を抑制する人や、医療費の重い負担に耐えかねて心中や自殺を考える人が続出するのではないかという懸念をもっています。私たちは「このままでは、難病の人は、生きていけない」という声をあげることに致しました

状況は非常に深刻です。是非、皆様に取材をしていただけますように、お願い申し上げます。



* さらに、生活保護法改正案が国会に提出された。
この法案に反対する共同声明文を貼りつける;
 
<生活保護法の改悪に反対する研究者の共同声明10.24発表>

政府は、先の国会で廃案となった生活保護法改正案が今国会に提出された。この法案は、不正受給を防ぐためと称し、第1に、生活保護申請時に所定の申請書と資産・収入・扶養の状況などに関する書類の提出を義務づけると共に、第2に、親族の扶養義務を生活保護の事実上の前提要件としている。これは自由で民主的な社会の基盤であるセーフティーネットとしての生活保護を脅かすものであって、私たちはけっして許すことはできない。

第1の問題点については、悪名高い「水際作戦」による門前払いを合法化するものだとの指摘を受けて、先の国会では「特別の事情があるときはこの限りではない」と修正された。しかし、「特別の事情」を判断するのはこれまで「水際作戦」を進めてきたような行政の窓口である。政府は「運用はこれまで通り」「申請の意思があれば受理しなければならない」とし、「門前払いにならないように各自治体に通知する」と言っている。だが、「特別の事情があるときはこの限りではない」と認めたとしても、書類提出が原則となれば、申請にたいする門前払いが横行するのは目に見えている。

「運用はこれまで通り」であるならば、口頭申請も可能であることが法文に明記されるべきである。そもそも、このようは書類の提出は申請の後で済むことであり、裁判判例も申請は口頭でよいことを認めている。ギリギリの生活を迫られている人たちには、保護申請すること自体を簡素化し容易にすることこそが切実に求められる。これはまた、第50会期国連社会権規約委員会も我が国に対して勧告していることである。

第2の問題点については、まったく修正されていない。親族への通知を義務付ける条文や、親族の収入や資産の状況の報告を親族本人はもとより金融機関や雇い主などにも求めるという条文が新設されている。親族関係は多様である。夫への通知・調査を怖れるDV被害者だけでなく、親族に「迷惑がかかる」ことから申請をためらう人は現在でも少なくない。法改正によって、一層多くの人が親族に迷惑をかけたくないという理由から生活保護の利用を断念することになる。親族に「共助」を厳しく求めることは国の責任転嫁に他ならない。

この他にも、法案は、ジェネリック医薬品の使用義務づけ、保護受給者の生活上の責務、保護金品からの不正受給徴収金の徴収を定めている。保護受給と引き換えに生活困窮者にこのような責務を課すことは、性悪説に立って保護受給者を貶め、その尊厳を著しく傷つけるものである。

以上、この改正案は全体として生活保護を権利ではなく「恩恵」「施し」として生活困窮者とその親族に恥と屈辱感を与え、劣等者の烙印を押し、社会的に分断排除するものといわねばならない。

生活困窮者は少数であり、常に声を上げにくい当事者である。しかし、セーフティーネットは、現に生活に困窮している人々を救うためだけの制度ではない。それは自由な社会のなかで生きる人々が、様々なリスクを抱えつつも、幸福な暮らしを安心して追求していくことができるための必須の条件である。セーフティーネットを切り縮めることは、自由で民主的な社会の基盤を掘り崩すものといわざるを得ない。これは生活困窮者だけの問題ではなく総ての人々の生存権に対する深刻な攻撃である

このような問題点をもつ生活保護法改正に私たちは強く反対するものである。

以上、声明する。

(10月24日12時現在 賛同者1085名)





問い

2013-10-24 13:25:05 | 日記

<大澤真幸:“動物的/人間的”>

★ 人は知ろうとして探究する。しかし何を知りたいのか?何が探究の目標なのか?

★ 人が知ろうとしているもの、人の探究の最終的な目標、あらゆる学問の蓄積が最終的にそこへと向かって収斂していく場所、それは何か?自分自身である。

★ とするならば、人間のすべての知を規定している究極の問いとは、<人間とは何か?>にほかなるまい。一見したところでは、この問いに関係していないような知的探究の領域もある。素粒子の構造についての研究とか、金融政策の効果についての研究とか、特殊な素材の電気の伝導率についての実験等々と、われわれは、何でもかんでも、すべてを知ろうとしているように思われる。だが、こうした多様でばらばらな主題や諸分野も、畢竟、<われわれは何者なのか?><人間とは何か?>という謎へと迫るための多様な迂回路なのだ。もしわれわれがわれわれ自身が何者かを、何としてでも知ろうという強い情熱に取り憑かれていなければ、今日見るような多様な学問が発展することはなかっただろう。したがって、<人間とは何か>を直接に問うことは、あらゆる知の至高の主題であると言わなくてはならない。

★ ところで、「Xとは何か」という同一性についてのあらゆる問いは、ときに暗黙のうちに、ときに明示的に、差異を前提にしている。「Xとは何か」という問いは、常に「Xならざるもの」「非X」を念頭においた上で意味をもつ。<人間>について何であるかを問うとき、人間と対照させられている<間>は何であろうか?それは二つある。

★ 第一に、それは「神」である。人間を初めとするあらゆる地上的な存在者を越えた神(々)、超自然的な存在である神(々)との比較・対照において、われわれ人間とは何か?神(々)の前で、神(々)に対して人間とは何者なのか?第二に、それは、自然的存在者たち、とりわけ「動物」である。人間以外の動物種との対照において、人間とは何か?人間が他の自然的な存在者との比較において、どのような示差的な本質を有するのか?

★ 現代においては、神との差異を媒介にして人間を定義することの意義は、大幅に低下した。宗教が私的な信仰の領域に追いやられたからである。(……)この空隙は、すなわちかつて神との関係における人間という主題が占めていた、知の覇権の地位は、何によって埋められるのか?それは、当然、<間>のもう一つの項との差異を通じて<人間とは何か?>を問う探究であろう。

<大澤真幸『動物的/人間的 1.社会の起源』(弘文堂・現代社会学ライブラリー2012)>


<立岩真也:“私的所有論”>

★ 私は誰か、私達はどこから来たのかと問うのではなく、何が私のものとされるのか、何を私のものとするのかについて考えてみたい。例えば以下に列挙するいくつかの疑問や、矛盾や、抵抗。それがどこから来るのか。

① 一人の健康人の臓器を、生存のために移植を必須とする二人の患者に移植すると、一人多くの人が生きられる。一人から一人の場合でも、助かる人と助からない人の数は同じである。しかしこの移植は認められないだろう。なぜか。その臓器がその人のものだからか。しかしなぜか。また、その人のものであれば、同意のもとでの譲渡(交換)は認められるはずだが、これも通常認められない。なぜか。

② 例えば代理出産の契約について。それを全面的によしと思えない。少なくとも、契約に応じた産みの親の「心変わり」が擁護されてよいと考える。つまり、ここでは自己決定をそのまま認めていない。

③ ヒトはいつ生命を奪われてはならない人になるのかという問いがある。上で自己決定の論理で推し進めていくことをためらった私は、しかし、ここで女性の「自己決定」が認められるべきだと思う。

④ 私達は明らかに人を特権的な存在としている。しかしなぜか。人が人でないものが持たないものを持っているからだろうか。このように言うしかないようにも思われるが、私達は本当にそう考えているのか。また、それは③に記したこととどう関係するか、しないか。

⑤ 売れるもの=能力が少ないと受け取りが減る。あまりに当然のことだが、しかし、その者に何か非があるわけではない。こういうものを普通「差別」と言うのではないか。つまりそれはなくさなくてはならないもの、少なくともなくした方がよいものではないか。しかし、何を、どうやってなくすのか。それは可能か。

⑥ 他方で、私は能力主義を肯定している。第一に、私にとって価値のない商品を買わない。第二に、能力以外のもので評価が左右されてはならない場があると思う。しかし、能力原理は属性原理よりましなものなのか、そうだとすれば、なぜましなのか。また、第一のものと第二のものは同じか。

⑦ 生まれる前に障害のあるなし(の可能性)が診断できる出生前診断という技術があり、それは、現実には、障害がある(可能性がある)場合に人工妊娠中絶を行う選択的中絶とこみになっている。それを悪いと断じられないにしても、抵抗がある。

⑧ 「優生学」というものがある。遺伝(子)の水準に働きかけて人をよくする術だという。ならばそれはよいものではないか。少なくとも批判することの方が難しいように思われる。

★ これらは、一見多様な、散乱した問いに見える。しかし、このことをこの本で述べるのだが、これらはすべて同じ問いである――だから、一つの本の中で書かれねばならなかった。つまり、何がある人のもとにあるものとして、決定できるものとして、取得できるものとして、譲渡できるものとして、交換できるものとしてあるのか、またないのか。そしてそれはなぜか。これに対して与えられるのが、私が作る、私が制御するものが私のものであり、その力能が私である、という答なのだが、この答えはどんな答なのか。つまり私はこの本で、「私的所有」という、いかにも古色蒼然としたものについて考えようとする。けれども私は、所有、私的所有は、依然として、あるいは一層、この社会について考える時に基本的な主題だと考えている。

<立岩真也『私的所有論』(勁草書房1997)序>






老いのレッスン

2013-10-23 11:21:39 | 日記

以下の記事をたまたま見ることができ、重要な指摘がいくつかあると思うので全文を貼り付けます;

老いのレッスン、「欧米には、なぜ寝たきり老人がいないのか」(関橋英作 日経ビジネス2013年10月23日)

<答えはスウェーデンで見つかった>

何やら深刻そうなタイトルですが、ある記事を見て、そんなことが頭をよぎりました。
「欧米には、なぜ寝たきり老人がいないのか」。
ご覧になった方もいらっしゃるかとは思いますが、少々抜粋をしてご紹介しておきます。

 「答えはスウェーデンで見つかりました。今から5年前になりますが、認知症を専門にしている家内に引き連れられて、認知症専門医のアニカ・タクマン先生にストックホルム近郊の病院や老人介護施設を見学させていただきました。予想通り、寝たきり老人は1人もいませんでした。胃ろうの患者もいませんでした。  その理由は、高齢あるいは、がんなどで終末期を迎えたら、口から食べられなくなるのは当たり前で、胃ろうや点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であると、国民みんなが認識しているからでした。逆に、そんなことをするのは老人虐待という考え方さえあるそうです。  ですから日本のように、高齢で口から食べられなくなったからといって胃ろうは作りませんし、点滴もしません。肺炎を起こしても抗生剤の注射もしません。内服投与のみです。したがって両手を拘束する必要もありません。つまり、多くの患者さんは、寝たきりになる前に亡くなっていました。寝たきり老人がいないのは当然でした」(読売新聞の医療サイト・yomiDr.宮本顕二氏の記事)

かなりの衝撃でしたね。医療が発達し高齢者の数が増えれば、どの先進国でも同じような状況だと、根拠もなく思っていましたから。
ということは、ヨーロッパの国々の平均寿命はそれほど長くない?という疑問もわいてきます。
世界の男女平均寿命は、ご存じのように日本が第1位。でも、フランス、イタリア、スペイン、スウェーデン、フィンランド、ドイツ、オーストリアなどヨーロッパ勢も1~3歳くらいの差で続いていました(2011年WHO発表)。平均寿命に大差はないということですね。
では、なぜ日本には寝たきり老人が多いのかという謎です。2000年には120万人とも言われ、2025年には230万人にもなると予測されています。
欧米との違いは何なのか。いくつかの理由を探ってみました。

<生活スタイルの違い>

第一に、畳VS.ソファー(椅子)&ベッドという生活スタイルの違い。例えば、骨折や脳卒中になったとき、日本の老人の多くは畳に寝る。今でも高齢者の多くは畳の生活でしょう。
そうすると起き上がるのが大変なので、寝たきりで誰かの世話になり放しになる。一方、欧米ではソファーやベッドの生活が普通。起き上がることはそれほど難しくないし、起きている状態とあまり変わりません。

私も椎間板ヘルニアの手術をして思い知らされました。それまでは布団で寝ていたので、起き上がるときは小さな脚立を枕元において、つかまって起き上がる。結構辛いので、そのまま寝ていた方がいいや、という気持ちがすごく分かりました。
やばいです、高齢者の不自由さ。で、結局ベッドに変えたのですが、こんな状態にある人のためのちょっとしたアイディア商品が普及していないことに気づきました。

すぐにつかまり立ちできる道具、できれば持ち運びできるもの。腰が痛いと前かがみもきついので、高さが可変の物が置ける台。赤ちゃん用ならいろいろあるのですが、老人用はなぜ開発しないのでしょうか。
調べたら、高価なものならそこそこありました(グーグルでの検索結果はこちら)。
しかし、本気で普及させようという意気込みが見えないのも事実。開発者にこういう経験がないからでしょうね。
でも、こんなところこそマーケティングのニーズ。しかも、間違いなく大喜びされるものになる可能性があります。

<家屋の違いも>

また、家屋の違いも大きい。日本は小さな部屋が多いので、とてもバリアフリーとは言い難い状況。ちょっとの段差がつまずく原因にもなるので、怖かったです。慣れていても意外に適当に歩いているんだなあ、と痛感させられました。
日本家屋の問題が、車椅子の普及を阻んで大きな障害なのでしょうが、もっとアイディアが必要な気がします。

しかし、それより大きな理由は、お年寄りに対する気持ちの問題。お年寄りをいたわる、サポートする、尊重するという道徳的な日本のあり方です。もちろん、とても大事な日本の価値に違いありません。
それが、家族や周りの人へのプレッシャーになっている。ともすれば、おろそかにすることへの罪悪感。“寝ていて”“何もしなくていいから”“安静が一番だから”と言って、全部を抱え込んで身も心もクタクタになる。その気遣いが、もしかしたら寝たきりの老人をかえって寝たきりにしている原因になっているかもしれません。

また、入院にしてもそうです。脳卒中や骨折で入院した場合、欧米では治療が終われば患者はすぐリハビリセンターへ送られる。高齢者の平均入院日数はデンマークの場合32日、それに対して日本では高齢入院者の48%が6カ月以上も入院する。
その結果、長い入院日数がかえって筋力の衰えや頭のボケを助長しているかもしれないのです。
何とも皮肉な結果ではありませんか。

本当に、老人医療・介護の問題は複雑で一筋縄ではいきそうもない。日本人独特のメンタリティーなのでしょうが、それが医療や介護の負担を大きくしていることも事実です。
実際、私の妻も母親の入院介護で大変な思いをしています。妹と分担はしているものの、仕事やコミュニティー活動に割く時間が圧迫される。心とは裏腹にストレスが重なっていきます。
介護者を抱えている女性は、とくに負担が大きく、人生の楽しみも奪われてしまうのです。これでは、両者ともに疲弊。これが、日本における介護の現実です。

最近のデイサービスの進化は目覚ましいものがありますが、入院した高齢者は病院では何もすることがないと言います。ヘルパーさんは工夫してくれますが、忙しいので限界がある。そうなると、友達はテレビの再放送「相棒」だけ。
体が不自由になり、目や耳が悪くなったお年寄りにとって楽しめるものが少ない。活字の大きな本はわずかしか出版されていないし、音楽プレーヤーのたぐいも、操作ボタンが小さく操作しにくいうえに、複雑で使えない。タブレット端末はどうかといえば、アップデートやら何やらで、だれかがサポートしないととてもじゃないが使えません。
世の中は、高齢者を相手にしているとはお世辞にも言えない状況です。元気な金持ちの高齢者だけがマーケティングのターゲットなのですか?と言いたくなってしまいます。

こういう日本の状況では、とても老いのレッスンができるとは言えません。しかし、だからこそ老いのレッスンが必要なのです。
考えの中心は、「生きるとは何か?」。息をすること? 心臓が動いていること? 違いますね。自分の意思をきちんと発露できること。自分の頭の中は、自分以外の人には分からない。だから、伝えることが生きることなのです。私はそう信じています。
とすれば、一番大事なのは、日常生活能力(ADL: Activities of Daily Living)をどう維持していくかです。

<老いのレッスン>

歩く、座る、食べる、話す、見る。生きていたら、当たり前のことです。
最近の医療では、術後対策として安静よりも、軽い運動が推奨されている。ジッとしていると、かえって血行が悪くなったり筋肉が衰えて、日常生活ができにくくなるというものです。医療側も、やっと生きることの意味を考え始めたのでしょうか。

怪我をして、体が不自由になって気づいたことがいくつかあります。日本社会は階段だらけだということ。駅にも満足にエレベーターやエスカレーターがない。あっても、上りだけのエスカレーター。高齢者にとって、しんどいのは階段を降りるときなのに。
つまり、健常者目線でしか世の中ができていない。どっちが健常者か分かりませんけどね。東京・地下鉄の「オロスンジャー」で問題意識が喚起されたのか、やっとエレベーターの重要性が理解されたようです。本来は、もっと手軽な昇降機が開発されるといいのですが。

それともうひとつ得たもの。周りへの観察力が異常なほどにアップされました。どこで、ぶつけられるかもしれないという恐怖からですが、見渡すとほとんどの人が他者を気にしていない。そう見えるだけなのかもしれませんが、荷物や体がぶつかってもお構いなし。最も怖いのは、駅のホームや階段でのスマホ軍団。自分にも身の危険があるというのに、どうして、スマホから目が離せないのでしょうね。中毒としか言いようがありません。
でも、老いのレッスン効果てきめん。ゆっくり進むと、周りの流れが予測できるようになるのです。
このことが、他者や家族への感謝や配慮という忘れがちなことも、普段のこととして大事であることを再認識させてくれました。

まさに、共生という日本人の生き方。もともと日本人は、人間は自然の一部という哲学のもとで生きてきました。山川草木悉皆成仏です。不自然に生きるより、自然と共に生きて、風化していく。そんな生き方を思い出させてくれるのも、老いのレッスン。
そして、自力で考え自力で解決しようとする心。決して、子供や家族に頼り過ぎない心構え。それができたら、脳を楽しませるために、山へ行く、海へ行く。土に触れる、花をめでる。

人生の終盤だからといって、静かに過ごすより好奇心全開。もう失うものもないのですから、防御するより一歩前へ足を出す。そうすれば、若い頃には見なかったもの、理解できなかったことが体にスッと入ってくるのです
少しでも動けるうちは、いきいきと生きる。そして、この世を去るときは潔く去る。それが、生きること。

いかがでしょうか。老いのレッスン。
今の日本社会には、それを生かす知恵が欠けているような気がします。そこには、大きな市場機会さえも潜んでいると思うのですが。

(注)山井和則『体験ルポ 世界の高齢者福祉』 (岩波新書)、 大熊由紀子 『「寝たきり老人」のいる国いない国―真の豊かさへの挑戦』(ぶどう社)を参考にさせていただきました。






なつかしい歌は…留まる

2013-10-20 12:57:21 | 日記

★ 力なき美は悟性を憎む。なぜなら、悟性は、美にそれがなし得ないことを要求するからである。だが、死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂のうちに見出すときにのみなのである。この否定的なもののもとへの滞留こそは、それを存在へと転回させる魔法の力なのである。― ヘーゲル『精神現象学』序論



デスモンドは市場に屋台を持っている
モリイはバンドの歌い手
デスモンドはモリイに言った―ねえぼくはきみの顔が好きだ
モリイはデスモンドの手を握ってこたえた

オブラディ、オブラダ、これが人生よ
こうやって人生はすすむ
オブラディ、オブラダ、これが人生よ
こうやって人生はすすむのよ

デスモンドはトロリーバスで宝石店へ行き
20カラットのゴールデンリングを買う
そしてモリイのところに駆けつけて
リングを渡すとモリイは歌った

オブラディ、オブラダ、これが人生よ
こうやって人生はすすむ
オブラディ、オブラダ、これが人生よ
こうやって人生はすすむのよ

ふたりがスートホームをつくって2年が経って
デスモンドとモリイの子どもたちが庭先を駆け回る

オブラディ、オブラダ、これが人生よ
こうやって人生はすすむ
オブラディ、オブラダ、これが人生よ
こうやって人生はすすむのよ

市場はハッピーで
デスモンドは子どもたちと働く
モリイは家にきれいな顔でいて
夕方になるとバンドと歌う

オブラディ、オブラダ、これが人生よ
こうやって人生はすすむ
オブラディ、オブラダ、これが人生よ
こうやって人生はすすむのよ

<THE BEATLES;Ob-La-Di,Ob-La-Da>



ヘイ! ミスター・タンブリンマン歌ってくれ
俺は眠くないが、行くところがない
ヘイ! ミスター・タンブリンマン歌ってくれ
このゴチャゴチャの朝に、あんたについて行こう

俺は知っている夕べの帝国が砂にもどったこと
俺の手から消え失せたことを
とり残された俺はめくらのまま立ちつくし眠くはない
自分の倦怠にびっくりし、脚は釘づけになる
だれも会うひとはいない
あの古臭いストリートは夢みるにはあまりにも死んでいる

ヘイ! ミスター・タンブリンマン歌ってくれ
俺は眠くないが、行くところがない
ヘイ! ミスター・タンブリンマン歌ってくれ
このゴチャゴチャの朝に、あんたについて行こう

連れてってくれあんたの魔法の渦巻く船に乗って
俺の感覚は裸にされ俺の手はなにもつかめない
俺の足指はかじかみブーツの踵がさまようのを待つ
どこへでも行くどこへでも消える
俺だけのパレードへ、あんたの踊る魔法で投げ入れてくれ
俺はきっとそこへ行く

ヘイ! ミスター・タンブリンマン歌ってくれ
俺は眠くないが、行くところがない
ヘイ! ミスター・タンブリンマン歌ってくれ
このゴチャゴチャの朝に、あんたについて行こう

そこでは笑い声、渦巻き、歌声が狂ったように太陽を横切る
なんの目的もなく逃げる
でもそこの空には顔にぶつかる柵はなく
はずむようなリズムのぼんやりした痕跡を聴くとしたら
あんたのタンバリンが道化師を従えてきても
俺は気にしないそれはただ追いかけてくる影だから

ヘイ! ミスター・タンブリンマン歌ってくれ
俺は眠くないが、行くところがない
ヘイ! ミスター・タンブリンマン歌ってくれ
このゴチャゴチャの朝に、あんたについて行こう

だから連れてってくれ俺の心の煙の輪をくぐりぬけて
霧深い時間の廃墟をくだって凍った葉っぱを通り過ぎて
恐ろしいおびやかす木々の風強い海岸を過ぎて
狂った悲しみのひねくれた領域から遠く離れて
そうさ、ダイヤモンドの空の下で片手を自由に降りまわし踊ろう
海を背景にサーカスの砂で輪になって
すべての思い出と運命を波に深く沈めて
今日のことは忘れよう明日までは

ヘイ! ミスター・タンブリンマン歌ってくれ
俺は眠くないが、行くところがない
ヘイ! ミスター・タンブリンマン歌ってくれ
このゴチャゴチャの朝に、あんたについて行こう

<BOB DYLAN “MR. TAMBOURINE MAN”>



4月になれば彼女は来る
雨で流れの水かさが増すころ
5月、彼女はとどまる
ぼくの腕のなかで安らぐ

6月、彼女は気分を変える
落ち着かず夜をさまよう
7月、彼女は飛んでいく
なんの警告もなしに

8月、彼女は死ななければならない
秋風が冷たく吹きはじめて
9月、ぼくはおもいだす
新しかった恋が、古びてしまったと

<Simon & Garfunkel ”April Come She Will ”>



スカボローの市へ行くのかい
パセリ、セージ、ローズマリー、そしてタイム
そこに住むひとに、ぼくを思い出させてくれ
彼女はかつてぼくの真実の恋人だった

彼女に告げてくれ、ぼくに綿のシャツをつくるように
(深い森の緑の丘の斜面で)
パセリ、セージ、ローズマリー、そしてタイム
(雪の上に残る小鳥の茶色い羽飾りの跡をおいかけて)
縫い目も針のあともないように
(山の子の毛布と寝具)
そうすれば彼女はぼくの真実の恋人になる
(喇叭の響きにも気づかず眠る)

彼女に告げてくれ、ぼくに1エーカーの土地を見つけるように
(丘の斜面には木の葉が散らばる)
パセリ、セージ、ローズマリー、そしてタイム
(銀色の涙で墓石を洗い)
塩水と渚のあいだに
(ひとりの兵士が銃を磨く)
そうすれば彼女はぼくの真実の恋人になる
(喇叭の響きにも気づかず眠る)

彼女に告げてくれ、皮の鎌で刈り取るように
(戦争が真っ赤な軍勢で咆え狂うとき)
パセリ、セージ、ローズマリー、そしてタイム
(将軍は彼の兵士に殺せと命令する)
そしてそれらすべてをヒースの束にまとめてくれ
(彼らはとっくの昔に忘れた理由で戦う)
そうすれば彼女はぼくの真実の恋人になる

<Simon & Garfunkel “スカボロー・フェア/詠唱”>





おしゃべりな人々

2013-10-18 15:21:21 | 日記

★ 語らいの自由さが失われてゆく。かつて、語らいあう人間のあいだで、相手の話に耳を傾けるのは自明のことだったが、いまでは、相手の靴や雨傘の値段を尋ねることが、それにとって代わりつつある。社交上のどんなお喋りにも、生活状況に関するテーマ、お金というテーマが、いやおうなしに侵入してくる。その際に話題となるのは、人それぞれの心配事や悩み――それならお互い助けあうことができるかもしれないのだが――ではなくて、世の中全体をどう見るか、ということなのだ。まるで、劇場のなかに縛りつけられて、舞台上の演目を、好むと好まざるとにかかわらず、繰り返し思考と話の対象にせざるをえない、といった具合である。

★ 「貧しきことは恥ならず」[ドイツのことわざ]。だが世間は、貧者を恥じ入らせる。そうしておきながら、このちっぽけな金言で貧者を慰めるのだ。この金言は、かつては通用しえたが、いまではとっくに凋落の日が来ている金言のひとつである。その点、あの残酷な「働かざる者食うべからず」という金言(新約聖書『テサロニケの信徒への手紙2』)と何ら変わるところがない。働く者を養ってくれる労働があったときには、この者にとって恥とはならない貧しさもあった。この貧しさが、不作その他の巡りあわせのせいで、その人の身にふりかかった場合はそうだった。しかしながら現在の生活苦は、何百万もの人びとが生まれながらに落ちこむもの、貧窮してゆく何十万もの人びとが巻きこまれるものなのに、彼らを恥じ入らせるのだ。

★ 汚辱と悲惨が、見えざる手の業として、壁のごとく、そうした人びとのまわりに高く積みあげられてゆく。個人は、己に関してなら多くのことに耐え忍ぶことができるけれども、しかし妻が彼の耐え忍ぶ姿を目にし、また彼女自身も我慢を重ねるならば、正当な恥を感じるものである。そのように個人は、自分ひとりで耐え忍ぶかぎりは、多くのことに耐え忍んでよいし、隠しておけるかぎりは、すべてのことに耐え忍んでよい。だが、貧しさが巨大な影のように、自分の属する民族と自分の家のうえに被いかぶさってくるなら、そうした貧しさと決して講和を結んではならないのだ。

★ そのときには己の五感を、それらに与えられるあらゆる屈辱に対してつねに目覚めさせ、そして自分の苦しみが、もはや怨恨の急な下り坂ではなく、反逆の上り小道を切り開くことになるまで、五感を厳しく鍛えなければならない。しかし、この点で何も期待するわけにはいかないのが現状なのだ――すべての恐ろしいかぎりの運命、暗いかぎりの運命が日々、いや刻々、ジャーナリズムによって議論され、ありとあらゆるまやかしの原因とまやかしの結果のかたちで説明されるため、誰ひとり、己の生を虜にしている暗い諸力を認識することができない、という状況が続くあいだは。

<ヴァルター・ベンヤミン『一方通行路』―『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』(ちくま学芸文庫1997)>


* 1926年3月から数ヶ月、パリ滞在。このときに『一方通行路』の中心部分が書かれた。「10月になれば、大部分きみが未見の文章を含むアフォリズムの一巻をきみに送れる、とぼくは希望している。そのなかでぼくの新旧の相貌が交錯して」いる、とベンヤミンは4月にショーレムに伝えた。 ― 野村修『ベンヤミンの生涯』(平凡社ライブラリー1993)年表による





カーニバルの朝

2013-10-17 16:21:13 | 日記

★ 新しい古文書学者が町に任命されてきた。しかし、ほんとうに任命されたといえるだろうか。むしろ、彼はじぶんの方針にしたがってふるまっているだけではないだろうか。彼は、一つのテクノロジーの代弁者、構造主義的なテクノクラートの新しい代弁者である、と憎しみをこめて言うものがある。また、じぶんの愚かなお喋りを気のきいた洒落と勘違いして、この男はヒットラーの回し者、あるいはとにかく人権をおびやかしている、と言うものもある(彼が「人間の死」を宣言したことが、彼らには許せないのだ)。また、彼はどんな権威あるテキストにも頼ろうとはせず、ほとんど大哲学者を引用することもないペテン師だ、と言うものもある。これとは逆に、何か新しいもの、根本的に新しいものが哲学のなかに生まれ、その著作は決して自分では望まない美しさを備えている、と言うものもあるのだ。まるで祝祭の朝のように。

★ フーコーは書くことを決して目的や終局だとは考えなかった。まさにこのことが、彼を偉大な書き手にし、彼の書くものにますます大きな歓び、ますます明白な笑いをもたらすのである。

★ 刑罰の神曲。それはつまり、こんなにも多くの倒錯的な発明と、冷笑的な言説と、手のこんだ恐怖を前にして、気違いじみた笑いに行き着くところまで熱中するという原始的な権利なのである。子供に自慰を禁ずる装置から、成人のための監獄の機構まで、一つの連鎖の全体が繰り広げられ、恥辱や苦悩や死が口を封じなかったかぎりは、意想外な笑いを呼びおこすのである。

★ 死刑執行人たちは、めったに笑わないものだ。あるいは、彼らの笑いはこのような笑いと同じものではない。ヴァレスはすでに、死刑執行人たちのおぞましい快活さとはまったくちがう、革命家たちに固有の、恐怖のさなかの快活さについて語っている。そこから何かを、ある大いなる喜びを引き出すには、憎しみが十分に生き生きしているだけでよいのだ。それは両義性の喜び、憎悪する喜びではなく、生命をそこなう何かを破壊してしまう喜びである。

★ 拡散し、混沌としながらも、新左翼の特徴となっていたもの、それは理論的には、ブルジョワ的思考にもマルクス主義にも向けられた、権力の問題についての新たな問いかけであり、実践的には、局地的で特異な闘争の形態であり、それに必要な関係や統一性は、もはや全体化や中心化からではなく、ガタリのいうように、ある横断性からやってくるということであった。これら二つの実践的理論的側面は、密接につながっていた。

★ しかし新左翼もまた、マルクス主義のあまりに粗雑な断片を相変わらず保存し再編して、またもそこに埋もれてしまい、スターリニズムも含めた、古めかしい実践とよりをもどす集団の中心化をまるで再構築するようにしたのである。

★ おそらく、1971年から1973年まで、G・I・P(監獄情報グループ)は、フーコーとドゥフェールの激励をうけて、監獄闘争と他の闘争のあいだに独自の関係を保ちながら、このような再構築を避けることができるグループとして機能した。そして、1975年に理論的著述に復帰して、フーコーはあの新しい権力の概念を先がけて作り出したと思われる。それは、私たちが見つけ出すことも、言表することもできないまま、探し求めていたものだった。

★ 『監獄の誕生』で問われているのは、まさにこのことなのだ。確かに、フーコーはそのことを、この本の最初の数ページでほのめかしているのにすぎないが。ほんの数ページだけ、というのは、彼が「論文」とは全く別の方法で、アプローチしているからだ。彼は左翼の伝統的な位置を規定していたいくつかの公準を放棄すると、暗示するだけにとどめている。そして、もっと詳細な展開のためには『知への意志』をまたなくてはならない。

<ジル・ドゥルーズ『フーコー』(河出文庫2007)>






アンチ・オイディプス

2013-10-15 22:09:09 | 日記

ただ欲望というものと社会というもののみが存在し、それ以外の何ものも存在しないのである。

★ 社会的再生産の最も抑圧的な、また最も致命的な形態でさえも、欲望そのものによって生み出されるものなのだ。あれこれの条件のもとで欲望から派生する組織の中で生み出されるものなのだ。我々は、このあれこれの個々の条件を分析しなければならないであろう。

★ したがって、政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起することができた次の問題(この問題を再発見したのはライヒである)に尽きることになる。すなわち、「なぜ人々は、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、自ら進んで従属するために戦うのか」といった問題に。いかにして人は「もっと多くの税金を!パンはもっと減らしていい!」などと叫ぶことになるのか。

★ ライヒが言うように、驚くべきことは、或る人々が盗みをするということではない。また、或る人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、餓えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしもストライキをしないということである。

★ なぜ人々は、幾世紀もの間、搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにも、これらのものを欲することまでしているのか。

<ドゥルーズ+ガタリ『アンチ・オイディプス』;國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』から引用>


ちなみに、河出文庫『アンチ・オイディプス』の宇野邦一の翻訳も参考にかかげる(どちらの翻訳が“良い”という比較をするためではない);

★ ほかのなにものでもなく、ただ欲望と社会的なものが存在する。社会的再生産の最も抑圧的、屈辱的な形態も欲望によって生産され欲望から出現する組織において生産される。まさに私たちは、この組織がどのような条件において出現するかを分析しなければならないだろう。だからこそ政治哲学の根本問題とは、スピノザがかつて提起したものと同じなのだ(それをライヒが再発見したのである)すなわち「何ゆえに人間は隷属するために戦うのか。まるでそれが救いであるかのように。」どうして人は「もっと税金を!もっとパンを減らして!」などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人びとが盗みをし、また別の人びとがストライキをするということではない。そうではなくて、むしろ餓えた人びとが必ずしも盗みをしないということ、搾取される人びとが必ずしもストライキをしないということである。なぜ人々は何世紀も前から、搾取や屈辱や奴隷状態に耐え、他人のためだけでなく、自分たち自身のためにさえも、これらを欲するようなことになるのか。