★ 終った。
ピリオッドをうちこむと、吐息をついて椅子の背にもたれた。朝から働きつづけてきた肩が痛み、胃がむかむかした。私は吸いすぎ、飲みすぎた。部屋いっぱいにタバコの濃霧がたちこめ、ゆるやかにうごいている。散乱した原稿用紙を一枚一枚拾って番号順に整理した。ボーイを呼んで中央電報局へ持ってやらさねばならない。
★ 濃霧を追うため、窓ぎわへいって鎧扉のハンドルをまわした。鎧扉は鉄製なので、ひどく重い。いつ街路から手榴弾を投げこまれるかわからないのでどの窓にも鎧扉がついている。この都のホテルでいちばん必要なのはルーム・クーラーよりも鎧扉であろう。窓外には私のもっとも愛する時刻が開花していた。テーブルからコニャックのコップをとりあげると、窓ぎわに立ち、膨れあがって毛虫のようになった舌で一滴ずつ舐めながら空を見た。黄昏の空がこの都の宝石である。毎日、奇跡が起こるのだ。巨大で、異様で、華麗、すさまじい無言の劇がのしかかってきている。
★ 川の対岸の椰子と蘇鉄の原野に太陽がおち、紫いろに輝く血が空にみなぎっている。鋭く暗鬱な、浪費を惜しむことを知らない激情が蘇鉄の原野、小さな船工場、『キャプスタン』タバコの看板、灰褐色の泥岸、みじめなニッパ椰子の小屋、黄濁した速い川などを浸しているのだ。おろされたばかりの深紅のフランス・ビロードの緞帳や、感動をとげた瞬後の膣や、数トンの出孔圧のライフル銃弾を至近距離から浴びせられた傷口といったものをきまって私は想像させられる。昨日の黄昏、ジャングルのなかの葦の泥沼をこけつまろびつ敗走しているとき、サブ・マシンガンの銃弾にかすめられて泥水へ顔をつっこんだ瞬間にもおなじ夕焼けを私は見た。それを文字に変えようとしていままでタイプライターをたたきつづけてきたのだったが、みじめな失敗であった。コニャックが舌にヤスリをかけるようなぐあいはタバコや疲労のせいだけではない。
★ 窓を見ると、もう黄昏の絶頂の光輝はすぎていた。燦爛として暗鬱な血は空から消えて、川と波止場には薄青い静謐な、水のような夜が漂っていた。部屋の床にもその水のようなものがしみだし、広がりつつあった。私は浴室に入って、電燈をつけ、ヒゲを剃った。陽焼けして、ひきしまった、眼の鋭い顔を鏡のなかに見た。アエロ・メントを頬と顎になすり、剃ったあと、ランヴァンのオー・ド・コローニュをすりこんだ。化粧タイルの床に汗と泥にまみれたオリーヴ・グリーンの野戦服がうずくまっていた。わき腹と背に大きなジャングル・ダニがしがみついていた。しっかりと食いついているので、ひっぱると腹の皮がついてきて、血がにじんだ。タバコの火で焼いた。Dゾーンをうろつく虎や象とまちがっているのだ。ジャングルのなかで枯葉に伏せて何時間も黄昏のしみるのを待っていたあいだにもぐりこんできたのにちがいない。
★ ヒゲを剃っても眼の鋭さは消えなかった。醜悪なまでに太った贅肉のだぶつきのなかで眼だけはつきつめるようにキラキラ輝いているので、かろうじて満足することとした。ほかに誇ってよいものは何もない。東京に送った従軍記事は、いまごろ、中央電報局のせっかちでまちがいだらけのキーでたたかれ、暗い夜空を走っているであろう。東京はそれを漢字とひらがなとカタカナに変えることに二時間腐心するであろう。しかし、まなざしのごとくすばやくうつろな、飽きっぽい日本人は、もう戦場報告に食傷しているだろうと思う。最前線に住みついて生死を賭けたのは私だけではないのだ。
★ 私は葦の沼地の泥水にとびこむ一瞬の眼に映った亜熱帯の黄昏の美しさ、戦闘直後に鳴きかわす名も知れぬ鳥類のざわめき、頭上をかすめる銃弾のしぶきの鉄兜のかげで見た賢いアリたちの営為などを語りたかったのだが、タイプライターをたたいているうちに思いがけぬ、つまらない、ほかのことばかり語ってしまった。
★ ジャングルのなかでは銃弾が木の幹に乱反射してとびまわるから、いま私が生きのこったのも、ただの偶然にすぎないのだということも、いいおとしてしまった。それは、ただの偶然にすぎなかった。誰も私を防衛してくれなかった。サイコロの目が右へころぶか左へころぶか、ただ一ミリの差の偶然で私は生きているにすぎなかった。
<開高健“兵士の報酬”―『歩く影たち』(新潮文庫1982)>