Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“どんぐりと民主主義 PART4―地方分権と民主主義”に行ってきました

2013-06-30 23:25:03 | 日記

出演:中沢新一、いとうせいこう、宮台真司、 國分功一郎
会場ルネ小平中ホールは満員

東京都知事宛アピール“小平都市計画道路3・2・8号線計画に住民の意思を反映してください”を採択

アピール文の最後の部分:東京都は「整備は不可欠、必要性を理解していただきたい」と言うのではなく、いったん事業を凍結し、計画に住民の意思を反映させるべきです。住民の意思を反映した計画こそが、魅力ある東京のまちづくり、都市計画の先進的な例となると確信します。まずは小平の住民投票の開票を待ち、そこで示された意思として「住民参加により計画を見直す」が多かったときは、それを受け入れてください。







やさしい惑星

2013-06-30 13:28:15 | 日記

★ 地球規模での生物群の大きな入れ替わりである光合成の開始、真核生物の出現など生命進化史における重要なイベントは、すべてその当時におきた個体地球の変化およびそれに関連したグローバルな環境の激変の結果と考えられる。特に顕生代におけるマントル・プルームの活動と巨大隕石衝突、また原生代末の全球凍結事件は、生物の大量絶滅の原因とみなされている。いったん安定状態に達していた各時代の生物群は、これらの突発的な出来事によって生物圏システムが強制的に乱されると、一挙に大量絶滅を被った。その後、生き残りの生物群の中から新しい環境に適応したものたちが急激に繁栄し、次の安定状態をつくり出した。このように生物圏は個体地球の変動に対して常に受動的であり、かつ極めて敏感であった。

★ そもそも地球ができてからずっと、エネルギー、物質および情報の伝達はほとんど個体地球から生物圏へと向かう一方通行でなされてきた。地球生物圏および地球生命はいつも個体地球の変化に素早く対応して、後戻りができない方向へと進化してきたといえる。このように眺めてくると、人類の存在は進化の歴史の最初からプログラムされていたものでも何でもなくて、生物にとっては極めて偶然におきた出来事の積み重ねの結果と理解される。

★ 巨大隕石衝突の確率は、地球誕生時と比べると極端に低くなったが、数億年のスケールで活発化するマントル・プルームの間欠的活動は当分おさまりそうにない。生物が個体地球の上に住む限り、今後も同じ経験をすることは避けられない。現代の生物の未来には、次の「氷河期」、「衝突の冬」そして「プルームの冬」などの災難が待ち受けている。けっして地球は人類だけに特別やさしい惑星ではないことを我々自身が悟らねばならない時にきている。

★ いまや世界人口は65億人に達した。一方、世界中の旧石器時代の遺跡分布に基づくと、当時の世界人口は約500万人だったと推定される。人類はある時点から1000倍以上に増殖したことがわかる。(・・・)人類の異常繁殖の原因としては、人類が他の生物に対して犯した三つの大反則(農業・科学技術・医学)が挙げられる。そもそも人類史のほとんどは飢餓の歴史であった。今もアフリカの一部で続く餓えの有り様は、そういう意味で最も自然な状態に近い。

★ 21世紀前半に世界の食糧生産と人口増加のバランスが崩れるという予測がたてられて久しい。日本だけに限ってみても、その食料のほとんどは輸入されていて、既に自給能力を失ってしまっている。それにも関わらず、私たちは何も意識せずにコンビニで簡単に食物を手に入れていないだろうか。24時間いつでも食料が買えるコンビニが100年前からあの近所の曲がり角にあり、きっと100年後もそこにあるはずだという錯覚を私たちはもっていないだろうか。21世紀には難問が山積みだが、私たちはとりあえず地球と生命の歴史を理解した上で、この一瞬の豊かさにもっと感謝する必要があるだろう。

<磯崎行雄“地球は「やさしい惑星」か―生命の絶滅と進化”―『高校生のための東大授業ライブ』>







“人民の、人民による、人民のための政治”

2013-06-29 16:26:50 | 日記

★ 世紀が変わった現在、民主主義をめぐる状況はまた変化しています。冷戦が終結して不人気になったのは、イデオロギーと大きな国家組織です。かわりに国家を縮小してできるだけ多くを民間の市場に任せようとする新自由主義が盛んになりました。1980年にサッチャーとレーガンの新自由主義が誕生し、その影響力は2005年の小泉政権の大勝利まで及んでいます。共産主義やファシズムのようなイデオロギーのために、大量の人間が命を落とすのは不条理であって許しがたい、というのは実際そのとおりで、この点で自由主義は他より少なくとも優れていると信じられました。

★ しかし新自由主義は大量殺人の責任から逃れているでしょうか。イラクやアフガニスタンを標的にしたアメリカによる戦争では、多くの人々が落命しています。また国内政治についてみても、貧富の差が拡大し、貧しい人たちにとって人生への希望は失われがちで、自然災害や病気への備えも十分ではなくなってきています。最近非常に高いレベルを示すようになった日本の自殺者数(交通事故よりもはるかに多い)も、関係があるかもしれません。不幸を放っておくことは、不作為の犯罪ではないのか、と考えてみる時期に来ているのではないでしょうか。

★ 民主主義は社会に対して何ができるのでしょうか。ここ何十年かで変化した民主主義の思想について見ておきたいと思います。まず旧来の民主主義の基本的な考え方として、アメリカの大統領で奴隷を解放したリンカーンの、あまりにも有名なゲティスバーグ演説のなかの言葉、「人民の、人民による、人民のための政治」を取り上げてみたいと思います。この言葉を理解するには、まず人民(People)とは何かが明らかでなければなりませんが、問題は今それをはっきりと示すのは難しそうだという点です。リンカーン自身は何より南北に分断されたアメリカの再統合を目指していたのだから、当時の文脈ではアメリカ国民を指していたのだろうと推測されます。しかしそれを現代に移そうとすると、さまざまな問題が生じてきます。

★ まず、国内的に政治社会を構成する人々の多様性に注目すると、単一の人民ということが、今では難しくなっています。アメリカは言うまでもなく移民の国であり、それに加えて先住民やアフリカから奴隷として連れて来られた人々の子孫がおり、多くの相互に不平等なエスニック・グループに分かれています。1960年頃からこれら少数者(マイノリティ)の権利主張が盛んになりました。また女性の社会進出とともに、フェミニズムの影響力も大きくなりました。

★ このような立場からは、人民とか国民とか括りは、政治社会の多数派(アメリカで言えば、白人、男性、中産階級、プロテスタントなど)に少数派を従属させる恐れがあります。少数派の尊重ということは昔から言われていたとはいえ、民主主義の基本はやはり多数派による支配でした。多数が貧しく抑圧されていて、特権層に対して共通の怒りを抱いて団結できるならば、多数派の支配は正義にかなうかもしれません。しかし、今ではむしろ、多数派であることが、マイノリティを抑圧している可能性が高いのです。このように、差異と少数者の側に立つ民主主義は、多数支配という民主主義の常識を大きく揺るがせました。同様のことは日本を含め、現代世界のどこでもあてはまります。

★ 次に、人民あるいは国民の外部に存在する人々についてです。例えば、外国人は排除されるのでしょうか。排除される合理的な理由はないように思われます。ところが、民主主義を構成する人民ないし国民とは、これまで政治的共同体によって囲い込まれ、そのなかで構成員としての政治的な権利義務を有する者たちだと多くは考えられてきました。そうだとすれば、民主主義とは、君主制や独裁制よりはまあ良いかもしれないが、結局閉ざされた政治社会の集団的エゴイズムとどう違うのか、という疑問が出てきてもおかしくはありません。

<森 政稔“民主主義はいまも魅力があるのか―問い直す意味”―『高校生のための東大授業ライブ』(東京大学出版会2007)>







“なぜ人は自由になろうとしないのか?”

2013-06-28 12:39:07 | 日記

★ 《 ただ欲望というものと社会というもののみが存在し、それ以外の何ものも存在しないのである。社会的再生産の最も抑制的な、また最も致命的な形態でさえも、欲望そのものによって生み出されるものなのだ。あれこれの条件のもとで欲望から派生する組織の中で生み出されるものなのだ。我々は、このあれこれの個々の条件を分析しなければならないであろう。したがって、政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起することができた次の問題(この問題を再発見したのはライヒである)に尽きることになる。すなわち、「なぜ人々は、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、自ら進んで従属するために戦うのか」といった問題に。いかにして人は「もっと多くの税金を!パンはもっと減らしていい!」などと叫ぶことになるのか。ライヒが言うように、驚くべきことは、或る人々が盗みをするということではない。また、或る人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、餓えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしもストライキをしないということである。なぜ人々は、幾世紀もの間、搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにも、これらのものを欲することまでしているのか。 》(ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』)

★ フーコーの権力論、それに対するドゥルーズの疑問を分析した今、我々はこの一節をより厳密に理解することができる。政治哲学の問題は、なぜ、そしてどのようにして人々が何かをさせられるのか、ではない。なぜ、そしてどのようにして人々が進んで何かをしようとするのか、である。人々は自ら進んで搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにも、これらのものを欲する。政治哲学は、それを問わねばならない。この地点に到達しない限り、政治哲学は、抑圧するものと抑圧されるもの、支配するものと支配されるものという図式を決して抜け出すことができないだろう。したがって、下から、「低い所」から来る実におぞましい権力なるものをつかむこともできないだろう。服従を求める民衆が他の者にも服従を強いる、というありふれた、しかしいつまで経っても我々の目の前から消えてなくならない、あのおぞましい現実に迫ることはできないだろう。

★ この問いかけは、次のように言い換えてもよい。なぜ人は自由になることができないのか?いや、なぜ人は自由になろうとしないのか?どうすれば自由を求めることができるようになるのか?これこそが、<政治的ドゥルーズ>が発する問いなのだ。ドゥルーズ=ガタリは、たとえばドゥルーズが単独で書いた著作のなかで示していたタイプの実践、「失敗をめざす」ようなタイプの実践を提唱しない。つまり、あらゆる場面に応用可能な抽象的モデルを提唱しない。ドゥルーズ=ガタリは、まさに精神分析家が患者一般ではなく個々の患者に向かうように、一つ一つの具体的な権力装置、それを作動させるダイヤグラム、そして何よりもまず、その前提にある欲望のアレンジメントを分析することを提唱する。そこから、自由に向けての問いが開かれる。その問いは、常に具体的な個々の状況において問われる。

<國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代全書2013)>








闇の深さ

2013-06-27 13:21:36 | 日記

★ 宮沢賢治は、ことばの力で、そんな銀河鉄道を幻想第4次の世界として創り出しました。賢治のことばの力に触れることができれば、夜の旅でありながら、彩り豊かな、人びとの姿もはっきりと美しい旅にはいり込むことは難しくありません。
「いきなり目の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万のほたるいかの火を一ぺんに化石させて、空じゅうにしずめた・・・・・・」という光景が、賢治の「銀河鉄道の夜」の主人公ジョバンニの旅の始まりです。

★ 大宇宙の漆黒の闇を感じるのは、地上では昼間にあたる太陽の光を浴びている時です。
昼間、地上の空が青いのは、大気があるためです。太陽の光のうち青い波長の光が大気の層にぶつかって拡散するためといわれています。ですから、大気の層がほとんどなくなった地上400キロから宇宙を見ますと、宇宙の闇しか見えないのです。星は、地球が明るすぎるために見えなくなっています。

★ それにしても、賢治がことばの力で創り出した人びとは、宇宙の深い闇につながるようなかなしみをかかえているようにみえます。
かなしみと言えば、賢治のことばの力で私のこころが弾んだ最初の記憶も、やはり、深いかなしみを含んだ詩だったような気がします。
「あの田はねえ」ということばではじまる「稲作挿話」という詩を読んだ時でした。これは夜ではなく、真っ昼間の光景です。たんぼの畦に立つ賢治や農家の少年の汗や稲穂の匂いが伝わってくる昼間です。

★ それでも大宇宙の闇につながる深いかなしみ、ほんの少し怒りを含むかなしみが、そこにはありました。でも、そのかなしみは、最後の祈りのことばで、蒼天に高くのぼっていくようでした。
     ・・・・・・雲からも風からも
        透明な力が
        そのこどもに
        うつれ・・・・・・

★ 「銀河鉄道の夜」からも、透明な力への祈りは立ちのぼっています。星月夜の静かな明るさの中で、銀色のすすきの海のうねりから、細長いけむりのように立ちのぼったかなしみが、天空の透明な力で、大宇宙の闇にすいこまれていくのが見えるようです。

<秋山豊寛“闇の深さ”―宮沢賢治『銀河鉄道の夜』(岩波少年文庫2000)に記載>







だれも見たことのない世界

2013-06-26 16:38:27 | 日記

★ バッハの息子たちは、ドイツやイギリスの宮廷付音楽家になった。バッハ自身は最後には教会の楽長で終った。イタリアやフランスのあたらしい流れも知りながら、複雑な和声や対位法の技術をすてきれなかったのだ。スタイルとしては過渡期の人だった。旧文化が没落し、新文化の野蛮な力がまだ完成していない時期に、その矛盾を一身にあつめて異常な透視力を形成する幸運をもった芸術家だ。バッハの音楽は、2世紀以上たった今も、その有効性をうしなっていない。

★ この透視力は、孤立と一種のニヒリズムを代価とした。晩年のバッハは、教会カンタータを書きとばす職務のかたわら、だれも見たことのない抽象の世界に閉じこもっていた。1742年の《ゴルトベルク変奏曲》、1747年の《音楽の捧げ物》、1749年《フーガの技法》。

★ 通称《ゴルトベルク変奏曲》は、《ポーランド王ザクセン選挙候宮廷作曲家であり、ライプツィヒの音楽監督、聖歌隊指揮者であるヨハン・セバスティアン・バッハの作曲になる、音楽愛好家のための鍵盤楽器練習曲――2段鍵盤ハープシコードのためのアリアとその変奏曲》であり、30の変奏曲は3個1組として大体インヴェンション、トッカータ、カノンという純粋器楽曲形式の図式をくりかえし、当時のあらゆるスタイルをふくむ。

★ カノンは第3~27変奏まで、1度から9度までの9個。その他小フーガ、フランス風序曲、イタリア風カンティレーナをふくみ、第30変奏曲は「ひさしぶりだね、こっちへおいで」と、「キャベツとホウレン草にはあきあきだ」という民謡の組みあわせからできている。1742年は、バッハが《農民カンタータ》を書いた年でもあった。

★ 変奏曲という形式自体が、楽器、特に鍵盤楽器のためのものとして古くからあり、それは音楽愛好家のための練習曲であると同時に、作曲家の腕の見せどころ、よく知られた歌をもとにした作曲技法の練習でもあるような面をもっている。19世紀以後には、これは大衆音楽会での名人芸のための形式になったが、ここではまだそうではない。この変奏曲の主題も、バッハが妻アンナ・マグダレーナの音楽帳に書きこんだサラバンドであり、家庭内音楽教育のつつましい見本にすぎない。

★ バッハの作品は、完結したものとはかんがえられない。同じ音楽はちがう機会に書きなおされ、姿を変えて何回もつかわれる。《ロ短調ミサ》や《マタイ受難曲》も、その変転のひとつのかたにすぎないのだ。この「変奏曲」にも出版後に書きこみをされた自家用コピーが残されている。その最後のページに、アリアの最初の8小節の低音にもとづく14のカノンが書かれた。これは1974年にバッハ自身の手によるものと確認され、1975年に新バッハ全集のために解読され、初演された。短いものだが、これらのカノンは、やがてカノン集である《音楽の捧げ物》への道程をしめしている。

<高橋悠治“バッハ:ゴルトベルク変奏曲+14のカノン”CDのノート>








つかのまの夏

2013-06-26 08:45:25 | 日記


だからお聞き まだひまのあるいまのうちに
  だってじきに 苦い知らせを運ぶ恐ろしい声が
物思いに沈む乙女を呼びつけ
  望みもせぬ寝床につかせるのだから
ぼくも君も なりは大きいけれども ほんとは子どもで
寝なさいと言われる時刻になるのが 大きらいなのだ

外では雪が踊り狂い 何もかもが凍りつく寒さ
  風も激しくひゅうひゅうと鳴り やんだと思うとまたうなりだす
でも家のなかでは 暖炉の火が赤くかがやき
  子どもたちはうれしげにうずくまっている
魔法の言葉に心奪われていさえすれば
吠えたける嵐の声も もう耳に届きはしない

たしかに ため息のなごりのようなものが
  お話しをそっと震わせていくこともあるかもしれない
だって 「あのしあわせな夏の日々」は遠くすぎさり
  真夏のかがやきは消え失せてしまったのだから
でもそれが このひとときのこころ楽しいおとぎ話に
悲しみの息を吹きかけることだけは 断じてさせはしない



現し身の アリスの姿
いまははや 見るよしもなく
幻の 訪れるのみ

さはいえど 丸き目をして
お話しに 耳そばだてる
幼き子 なおもあるらん

不思議なる 国をさまよい
長き日を 夢見て暮らす
つかのまの 夏果てるまで

金色の 夕映えのなか
どこまでも たゆたいゆかん
人の世は 夢にあらずや?

<ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』(岩波少年文庫2000)>







哲学は何の役に立つのか?

2013-06-25 07:41:33 | 日記

★ 《「哲学は何の役に立つのか?」と問う人には、次のように答えなければならない。自由な人間の姿を作ること。権力を安定させるために神話と魂の動揺を必要とするすべての者を告発すること、たったそれだけのこととはいえ、いったい他の何がそれに関心をもつというのか。》(ドゥルーズ“ルクレティウスとシミュラークル”―『意味の論理学』)

★ ルクレティウスは「できる限り苦痛を避けるためには、ごくわずかなもので事足りる・・・・・・。しかし、魂の動揺を克服するためには、より深い技法が必要となる」と述べている。この哲学詩人は、魂の動揺をもたらす神話から人々を解放するにはどうすればよいかを考えていた。ドゥルーズによれば、そのために必要なのが「自然」の観念である。自然とはここで、単に現象の総体を意味するのではない。それは区別を教える観念である。つまり、人間の生のうちで、何が自然に帰し、何が自然に帰さないのか、それを自然の観念は教える。

★ 自然を定義することはとても難しいが、ドゥルーズは次のように説明している。自然は「慣習」と対立するものではない。なぜなら、自然な慣習が存在するから。自然は「約束事」に対立するものでもない。どれほど権利が約束事に依存しているように思われようとも、我々は自然権というものを考えられるから。自然は「発明」と対立するものでもない。発明とは自然そのものの発見であるから。しかし、自然は「神話」とは対立する。「人間の不幸は、人間の慣習や約束事や発明や産業が原因なのではなく、それらの中に入り混じる神話と、神話によって人間の感情と仕事の中にもたらされる偽の無限との結果なのである」(『意味の論理学』)

★ したがって、自由な人間の像を描くためには、自然の観念が必要である。そして、そのような自然の観念を発見できるのは哲学を措いて他にない、というのがドゥルーズの確信するところである。「最初の哲学者は自然主義者である。彼は神々について説く代わりに、自然について説く」(『意味の論理学』)

<國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』研究ノートⅠ(岩波現代全書2013)>







昼と夜の顔

2013-06-24 08:11:37 | 日記

★ それらの幻覚的な言説では、「蘇生」の物語が、家や恋愛の共同性を模擬することで「実感」されるものとして、つまり健全な道義や標準的な規範に漂着しようとする欲望の軌跡として描かれている。おそらく言説化の段階で実際の行為が恣意的なかたちで解釈されているといえよう。それらの言説にダブルフェイスの私娼たちの振舞いを正当化するという政治的な文脈が挿入されているからである。しかし彼女たちの言葉のある部分は、風俗で模擬的に生きられる共同性の経験が一種の錯覚であることをそれとなく示している。そしてそれが錯覚であってもいいのは、その錯覚のリアリティに勝るような幸福な知覚が現実にはないことを、彼女たち自身がよく知っているからである。

★ そこには蘇生どころか、どんな離脱や転移の可能性もない。堕落と蘇生の幻覚的な循環のゲーム、この終わりのない退屈な循環の回路は、それ自身外部を持たない狡猾な消費の文化の同一性のなかに閉じこめられている。彼女らが生きている都市はそのような消費の文化のトポスとして増殖してきたのである。

★ 問題はこのゲームのなかでひっそりと、だが致命的なカタストロフィが生じていることである。退屈な循環として描かれる生の同一性はそのまま<死>の形式に連なっているからである。生の往復運動に見えるものは、そのじつ停滞であり、静止状態だからである。「やるせなさ」からの見かけの離脱、見かけの堕落、見かけの蘇生といった運動の反復は、振り子状態の<死>を意味している。渋谷事件の被害者となった女性は、昼間の仕事では平均をはるかに超える年収を取り、夜の街娼としては孤独な「私」を演じつつ、「イツ 死ンダッテ 構ワナイ」と話していたという。その言葉は、昼と夜のあいだの往復運動に見えるものが、実際には<死>の変形された状態と何ら変わらないことを暗示している。

★ だが、この生の廃墟は決して一人の女性の運命ではなく、さまざまに差分されたかたちで――それゆえいっそうあいまいな顔立ちで――無数の人びとを待ち受けている。それは<死>であるような生である。だが生を閉塞させ、無効にしているのは、生を肯定し、解放し、確かなものとして享受しようとする切実な努力そのものだとすれば、この<死>以上に皮肉なものはないだろう。

<内田隆三『国土論』(筑摩書房2002)>








言葉の流星群2013

2013-06-23 00:46:46 | 日記

★ 女は庭仕事の手をとめ、立ち上がって遠くを見た。天気が変わる。<M.オンダーチェ:『イギリス人の患者』>

★ 赤ん坊の揺り籠は深淵の上で揺れているのだ。<ナボコフ:『記憶よ、語れ』>

★ 雨がつづいた。それは烈しい雨、ひっきりなしの雨、なまあたたかい湯気の立つ雨だった。(レイ・ブラッドベリ:“長雨”>

★ よだかは、実にみにくい鳥です。<宮沢賢治:“よだかの星”>

★ 正月三ガ日。元旦。起きて外見る。人の姿車の影なし。また眠る。起きて外見る。人の姿車の影なし。また眠る。<武田百合子:『日日雑記』>

★ 日が長くなり、光が多くなって、太陽がまるで地平線を完全に一周しようとするかのように、だんだん西に、いくつもの丘の向こうに沈んでいくとき、あたしの胸はじんとする。<ル・クレジオ:“春”>

★ だまされやすい人たちは全員サンタクロースを信じていた。しかしサンタクロースはほんとうはガスの集金人なのであった。<ギュンター・グラス:『ブリキの太鼓』>

★ 今もおなじだけれど、二十数年前のその頃も、毎日、夕方になると、飲まずにいられなかった。<開高健:“黄昏の力”>

★ 希望なきひとびとのためにのみ、希望はぼくらにあたえられている。<ベンヤミン:“ゲーテの『親和力』”>

★ 一夏のあいだ、雲の彫刻師たちはヴァーミリオン・サンズからやってくると、ラグーン・ウエストへのハイウェイの横にならび立つ白いパゴダにも似た珊瑚塔の上を、彩られたグライダーで飛びまわった。<J.G.バラード:『ヴァーミリオン・サンズ』>

★ 喜びとともに息を凝らした。やはり彼だ。短いようで、長い時間だった。人けの絶えようとする、周囲の目からも奇妙なほど隔絶されている庭の中央で、指先にしばし、大きな複眼と透き徹った四枚の翅を載せていた。<平出隆:『猫の客』>

★ 港の空の色は、空きチャンネルに合わせたTVの色だった。<ウィリアム・ギブスン:『ニューロマンサー』>

★ 愛と死。この二つの言葉はそのどちらかが書きつけられるとたちまちつながってしまう。シャティーラへ行って、私ははじめて、愛の猥褻と死の猥褻を思い知った。愛する体も死んだ体ももはや何も隠そうとしない。さまざまな体位、身のよじれ、仕草、合図、沈黙までがいずれの世界のものでもある。<ジャン・ジュネ:“シャティーラの四時間”>

★ ユダヤ人は古代の神殿の祭壇で動物を犠牲に捧げ、キリストは十字架に死に、城壁上の流血はその後もたえ間なくつづいた。エルサレムは世界のいかなる都市とも似ず、流血の呪いの中を生きてきたのである。それでも古代ヘブル語のエルシャライムは、「平和の都」を意味するのだが。またその最初の住民はオリーヴ山の斜面に住みつき、爾来オリーヴの小枝は和合の世界的象徴となった。歴代の預言者たちは人間のための神の平和を、ここでいくどとなく宣言し、この地を都と定めたユダヤの王ダヴィデはエルサレムを敬って祈願した。「エルサレムの平和のために祈れ」。<D.ラピエール&L.コリンズ:『おおエルサレム!』>

★ ぼくらはゆっくりと、恐竜たちの間を出たり入ったりしつづけた。足と足の間を、腹の下を、くぐり抜けた。ブロントザウルスのまわりを一周した。ティラノザウルスの歯を見上げた。恐竜たちはみな、目のかわりに青い小さなライトをつけていた。
そこには誰もいなかった。ただぼくと、母と、恐竜たちだけがいた。<サム・シェパード:『モーテル・クロニクルズ』―80/9/1 ホームステッド・ヴァレー、カリフォルニア>

★ かれの作り出そうとしている計画の残虐な性質にもかかわらず、トライラックスの<フェイス・ダンサー>サイテイルの考えは何度となく悲しみにあふれた同情へともどっていった。<フランク・ハーバート:『砂漠の救世主・DUNE第2部』>

★ ランボーを理解するために、ランボーを読もうではないか。そして彼の声を、まじりこんできたかくも多くの他の声たちから、分離しようと望もうではないか。<イヴ・ボヌフォア:『彼自身によるランボー』>

★ でも脳出血後に歩行が不自由になったいま、もう飛行機を使って他の大陸まで飛び歩くことは不可能だろう。そう考えると、私にとってこの文庫の収録作品は繰り返しのない貴重な体験ということになる―そう思うと、世界の広さ、その荒涼たる美しさが耐え難いほど懐かしい。それはいまや女体へのつらい懐かしさに似ている。<日野啓三『遥かなるものの呼ぶ声』)あとがき>

★ 平野には豊に作物が実っていた。果樹園がたくさんあり、平野の向こうの山々は褐色で裸だった。山では戦闘が行われていた。夜になると砲火の閃くのが見えた。暗闇のなかで、それは夏の稲妻のようだった。けれども夜は涼しく、嵐がくる気配はなかった。<ヘミングウェイ:『武器よさらば』>

★ 午前一時。皆、寝静まりました。カフェー帰りの客でも乗せているのでしょうか、たまさか窓の外から、シクロのペダルをこぐ音が、遠慮がちにカシャリカシャリと聞こえてくるほかは、このホテル・トンニャット全体が、まるで深海の底に沈んだみたいに、しじまと湿気とに支配されています。<辺見庸:『ハノイ挽歌』>

★ 二日前に雪が降り、京都御所では清涼殿や常御所の北側の屋根に白く積もって残るのを見かけた。大きな建物だから寒かろうと覚悟して行ったが、冬暖かい青空で、光に恵まれた昼となった。<大仏次郎:『天皇の世紀』>

★ どんより鉛色に曇った空の下、山あいから列車が抜け出てくる。女の声「あんなに表日本は晴れていたのに、山を抜けたら一ぺんに鉛色の空になっている」<早坂暁:『夢千代日記』>

★ 多摩川河畔(昼)リモコン飛行機がとんでいる。スーパー“昭和48年8月”<山田太一:『岸辺のアルバム』>

★ 万治三年七月十八日。幕府の老中から通知があって、伊達陸奥守の一族伊達兵部少輔、同じく宿老の大条兵庫、茂庭周防、片倉小十郎、原田甲斐。そして、伊達家の親族に当たる立花飛騨守ら六人が、老中酒井雅楽頭の邸へ出頭した。<山本周五郎:『樅ノ木は残った』>

★ 虚構の経済は崩壊したといわれるけれども、虚構の言説は未だ崩壊していない。だからこの種子は逆風の中に播かれる。アクチュアルなもの、リアルなもの、実質的なものがまっすぐに語り交わされる時代を準備する世代たちの内に、青青とした思考の芽を点火することだけを願って、わたしは分類の仕様のない書物を世界の内に放ちたい。<真木悠介:『自我の起源』あとがき>

★ 日本を統ぐ(すめらぐ)には空にある日ひとつあればよいが、この闇の国に統ぐ物は何もない。事物が氾濫する。人は事物と等価である。そして魂を持つ。何人もの人に会い、私は物である人間がなぜ魂を持ってしまうのか、そのことが不思議に思えたのだった。魂とは人のかかる病であるが、人は天地創造の昔からこの病にかかりつづけている。<中上健次:『紀州』 終章“闇の国家”>

★ 1848年。王政の瓦壊によって、ブルジョワジーは自分を守ってくれた「覆い」を奪い去られる。一挙に、<詩>は、その伝統的な二つのテーマ、すなわち<人間>と<神>とを失う。<J.P.サルトル:“マラルメの現実参加”>

★ 現象学はバルザックの作品、プルーストの作品、ヴァレリーの作品、あるいはセザンヌの作品とおなじように、不断の辛苦である――おなじ種類の注意と驚異とをもって、おなじような意識の厳密さをもって、世界や歴史の意味をその生まれ出づる状態において捉えようとするおなじ意志によって。こうした関係のもとで、現象学は現代思想の努力と合流するのである。(メルロ=ポンティ『知覚の現象学』序文)

★ そこでは、汗の一滴一滴、筋肉の屈伸の一つ一つ、喘ぐ息の一息一息が、或る歴史の象徴となる。私の肉体が、その歴史に固有の運動を再生すれば、私の思考はその歴史の意味を捉えるのである。私は、より密度の高い理解に浸されているのを感じる。その理解の内奥で、歴史の様々な時代と、世界の様々な場所が互いに呼び交わし、ようやく解かり合えるようになった言葉を語るのである。<クロード・レヴィ=ストロース:『悲しき熱帯』>

★ 哲学がもし、考えること自体について考える批判的な作業でないとしたら、今日、哲学とはいったいなんだろうか。また、すでに知っていることを正当化するというのではなく、別のしかたで考えることが、どのようにして、また、どこまで可能なのかを知ろうとするという企てに哲学が存するのでないとしたら、今日、哲学とはいったいなんだろうか。<ミシェル・フーコー:『快楽の活用』>

★人間が意志をはたらかすことができず、しかしこの世の中のあらゆる苦しみをこうむらなければならないと仮定したとき、彼を幸福にしうるものは何か。
この世の中の苦しみを避けることができないのだから、どうしてそもそも人間は幸福でありえようか。
ただ、認識の生を生きることによって。<ウィトゲンシュタイン:“草稿1914-1916”>

★ そのとき、匂いが蘇った。新しい紙と印刷インクの匂いだ。それが彼を取り巻いていた。三十年暮らした中国の村では、活字はどれも黄ばんだ紙に印刷されていた。
もう一度、思い切りその匂いをかいだ。そのとたん、胸がつかえた。胃が暴れ、何かが喉にこみ上げてきた。歯を食いしばってそれを止めると、涙がわっと溢れでた。<矢作俊彦:『ららら科学の子』>

★ 「きみはだれだ? きみはどこへ行くのか? きみはなにを探しているのか? きみはだれを愛しているのか? きみはなにが欲しいのか? きみはなにを待っているのか? きみはなにを感じているのか? きみにわたしが見えるか? きみにわたしの声が聞こえるか?」(ミシェル・ビュトール『心変わり』)

★ 昔し美しい女を知っていた。この女が机に凭れて何か考えている所を、後から、そっと行って、紫の帯上げの房になった先を、長く垂らして、頸筋の細いあたりを、上から撫で廻したら、女はものう気に後ろを向いた。その時女の眉は心持八の字に寄っていた。それで目尻と口元には笑が萌していた。同時に恰好の好い頸を肩まですくめていた。文鳥が自分を見た時、自分は不図この女の事を思い出した。この女は今嫁に行った。自分が紫の帯上げでいたずらをしたのは縁談の極まった(きまった)二三日後である。(夏目漱石:“文鳥”)

★ だが、あらゆる部族の名前がある。砂一色の砂漠を歩き、そこに光と信仰と色を見た信心深い遊牧民がいる。拾われた石や金属や骨片が拾い主に愛され、祈りの中で永遠となるように、女はいまこの国の大いなる栄光に溶け込み、その一部となる。私たちは、恋人と部族の豊かさを内に含んで死ぬ。味わいを口に残して死ぬ。あの人の肉体は、私が飛び込んで泳いだ知恵の流れる川。この人の人格は、私がよじ登った木。あの恐怖は、私が隠れ潜んだ洞窟。私たちはそれを内にともなって死ぬ。私が死ぬときも、この体にすべての痕跡があってほしい。それは自然が描く地図。そういう地図作りがある、と私は信じる。中に自分のラベルを貼り込んだ地図など、金持ちが自分の名前を刻み込んだビルと変わらない。私たちは共有の歴史であり、共有の本だ。どの個人にも所有されない。好みや経験は、一夫一婦にしばられない。人工の地図のない世界を、私は歩きたかった。<M.オンダーチェ:『イギリス人の患者』>

★ 空から光が一面の透明な滝となって、沈黙と不動の竜巻となって落ちてきた。空気は青く、手につかめた。青。空は光の輝きのあの持続的な脈動だった。夜はすべてを、見はるかすかぎり河の両岸の野原のすべてを照らしていた。毎晩毎晩が独自で、それぞれがみずからの持続の時と名づけうるものであった。夜の音は野犬の音だった。野犬は神秘に向かって吠えていた。村から村へとたがいに吠え交わし、ついには夜の空間と時間を完全に喰らいつくすのだった。<マルグリット・デュラス:『愛人(ラマン)』>

★ だが飛行機がふたたび雲から出て揺れもなくなると、2万7千フィートのここで鳴っているのはたくさんのベルだ。たしかにベルだ。ベン・ハンスコムが眠るとそれはあのベルになる。そして眠りにおちると、過去と現在を隔てていた壁がすっかり消えて、彼は深い井戸に落ちていくように年月を逆に転がっていく―ウェルズの『時の旅人』かもしれない、片手に折れた鉄棒を持ち、モーロックの地の底へどんどん落ちていく、そして暗闇のトンネルでは、タイム・マシンがかたかたと音をたてている。1981、1977、1969。そしてとつぜん彼はここに、1958年の6月にいる。輝く夏の光があたり一面にあふれ、ベン・ハンスコムの閉じているまぶたの下の瞳孔は、夢を見る脳髄の命令で収縮する。その目は、イリノイ西部の上空に広がる闇ではなく、27年前のメイン州デリーの、6月のある日の明るい陽の光を見ている。
たくさんのベルの音。
あのベルの音。
学校。
学校が。
学校が

終わった! <スティーヴン・キング『 IT 第2部』>

★ ぼくの死はぼくを裸にしてしまい、ぼくはぼろ切れ一つさえも身にまとっていることはできまい。ぼくがやって来たように手ぶらで、ぼくは帰ってゆくのだ、手ぶらで。(ル・クレジオ :“沈黙”―『物質的恍惚』)

★ むかしのことを思い出すと、心臓がはやく打ちはじめる。<ジョン・レノン:“ジェラス・ガイ”>

★ “クレメンタイン、いい名前だな”(ジョン・フォード:「荒野の決闘」エンディング)

★ 魔女1 この次三人、いつまた会おうか?かみなり、稲妻、雨の中でか?<シェクスピア:『マクベス』>








いつか、いるかホテルで

2013-06-22 08:09:15 | 日記

★ 背筋をまっすぐにのばして目を閉じると、風のにおいがした。まるで果実のようなふくらみを持った風だった。そこにはざらりとした果皮があり、果肉のぬめりがあり、種子のつぶだちがあった。果肉が空中で砕けると、種子はやわらかな散弾となって、僕の腕にのめりこんだ。そしてそのあとに微かな痛みが残った。
<村上春樹:“めくらやなぎと眠る女”>


★ 僕は彼女の手をとり、ちょうど手相を見る時のように、手のひらを僕の方に向けた。彼女は手からすっかり力を抜いていた。長い指はごく自然に心もち内側に曲げられていた。彼女の手に手をかさねていると、僕は自分が16か17だった頃のことを思いだした。それから僕は身をかがめて、彼女の手のひらにほんの少しだけ鼻先をつけた。ホテルの備えつけの石鹸の匂いがした。僕はしばらく彼女の手の重みをたしかめてから、そっとそれをワンピースの膝の上に戻した。
「どうだった?」彼女が尋ねた。
「石鹸の匂いだけです」と僕は言った。
<村上春樹:“土の中の彼女の小さな犬”>


★ 僕はまだ毎朝、五つの納屋の前を走っている。うちのまわりの納屋はいまだにひとつも焼け落ちてはいない。どこかで納屋が焼けたという話もきかない。また十二月が来て、冬の鳥が頭上をよぎっていく。そして僕は年をとりつづけていく。
夜の暗闇の中で、僕は時折、焼け落ちていく納屋のことを考える。
<村上春樹:“納屋を焼く”>


★ 港で新聞を買ったら、三匹の猫に食べられてしまった老婦人の話が載っていた。アテネ近郊の小さな町での出来事である。死んだ婦人は七十歳で、ひとり暮らしだった。アパートの一室で、三匹の猫と一緒にひっそりと暮らしていたのだ。でもある日突然彼女は心臓発作か何かで倒れて、ソファーに伏せたまま息を引き取ってしまった。
★ 僕はその記事を、カフェのテーブル越しにイズミに読んで聞かせた。晴れた日には港まで歩き、アテネで発行されている英語の新聞を買って、税関事務所の隣のカフェでコーヒーを注文し、面白そうな記事があったら僕がその大筋を翻訳して読み上げるのが、この島における我々のささやかな日課になっていたのだ。
<村上春樹:“人喰い猫”>


★ よくいるかホテルの夢を見る。
夢の中で僕はそこに含まれている。つまり、ある種の継続的状況として僕はそこに含まれている。夢は明らかにそういう継続性を提示している。夢の中ではいるかホテルの形は歪められている。とても細長いのだ。あまりに細長いので、それはホテルというよりは屋根のついた長い橋みたいにみえる。その橋は太古から宇宙の終局まで細長く延びている。そして僕はそこに含まれている。そこでは誰かが涙を流している。僕の為に涙を流しているのだ。
★ それから彼は微笑んだ。とても静かな微笑みだった。
「僕がキキを殺したのか?」と彼はゆっくりと言葉を区切るようにして言った。
「冗談だよ」と僕も微笑んで言った。「ただなんとなくそう言ってみただけだよ。ちょっと言ってみたかったんだ」
<村上春樹:『ダンス・ダンス・ダンス』>







空の怪物アグイー

2013-06-22 00:54:34 | 日記

★ 付属病院の前の広い舗道を時計台へ向かって歩いて行くと急に視野の展ける十字路で、若い街路樹のしなやかな梢の連なりの向うに建築中の建物の鉄骨がぎしぎし空に突きたっているあたりから数知れない犬の吠え声が聞えてきた。風の向きが変わるたびに犬の声はひどく激しく盛上がり、空へひしめきながらのぼって行くようだったり、遠くで執拗に反響しつづけているようだったりした。
<大江健三郎:“奇妙な仕事”>


★ しかし僕には凶暴な村の人間たちから逃れ夜の森を走って自分に加えられる危害をさけるために、始めに何をすればよいかわからなかった。僕は自分に再び駆けはじめる力が残っているかどうかさえわからなかった。僕は疲れきり怒り狂って涙を流している、そして寒さと餓えにふるえている子供にすぎなかった。ふいに風がおこり、それはごく近くまで迫っている村人たちの足音を運んで来た。僕は歯をかみしめて立ちあがり、より暗い樹枝のあいだ、より暗い草の茂みへむかって駆けこんだ。
<大江健三郎:『芽むしり仔撃ち』>


★ 鳥(バード)は、野生の鹿のようにも昂然と優雅に陳列棚におさまっている、立派なアフリカ地図を見おろして、抑制した小さい溜息をもらした。制服のブラウスからのぞく頸や腕に寒イボをたてた書店員たちは、とくに鳥(バード)の嘆息に注意をはらいはしなかった。夕暮れが深まり、地表をおおう大気から、死んだ巨人の体温のように、夏のはじめの熱気がすっかり脱落してしまったところだ。誰もが、その皮膚にわずかにのこっている昼間のあたたかさの記憶を無意識のうす暗がりのなかで手探りする身ぶりをしては、あいまいな嘆息をもらしている。六月、午後六時半、市街にはすでに汗をかいているものはいない。しかし、鳥(バード)の妻は、ゴム布の上に裸で横たわり、撃たれて落下する雉子のように眼を硬くつむって、体じゅうのありとあらゆる汗穴から、膨大な数の汗粒をにじみださせ、痛みと不安と期待に呻き声をあげているだろう。
<大江健三郎:『個人的な体験』>


★ そして突然、この春のことだ、ぼくは街を歩いていて、不意になんの理由もなく、怯えた子供らの一群から石礫を投げられた。ぼくがなぜ子供らを脅したのかはわからない。ともかく恐怖心からひどく攻撃的になった子供らの一群の投げた拳ほどの礫が、ぼくの右眼にあたった。ぼくはそのショックで片膝をつき、眼をおさえた掌につぶれた肉のかたまりを感じ、そこからしたたった血のしずくが、磁石のように舗道の土埃を、吸いつけるのを片眼で見おろした。その瞬間、ぼくのすぐ背後から、カンガルーほどの大きさの懐かしいひとつの存在が、まだ冬の生硬さをのこす涙ぐましいブルーの空にむかってとびたつのを感じ、ぼくは思いがけなく、さようならアグイーと心のなかでいったのである。そしてぼくは見知らぬ怯えた子供らへの憎悪が融けさるのを知り、この十年間に《 時間 》がぼくの空の高みを浮遊するアイヴォリイ・ホワイトのものでいっぱいにしたことをも知った。それらは単に無邪気な輝きをはなつものだけではないだろう。ぼくが子供らに傷つけられてまさに無償の犠牲をはらったとき、一瞬だけにしても、ぼくにはぼくの空の高みから降りてきた存在を感じとる力があたえられたのだった。
<大江健三郎:“空の怪物アグイー”>


★ ――「雨の木(レイン・ツリー)」というのは、夜なかに驟雨があると、翌日は昼すぎまでその茂りの全体から滴をしたたらせて、雨を降らせるようだから。他の木はすぐ乾いてしまうのに、指の腹くらいの小さな葉をびっしりとつけているので、その葉に水滴をためこんでいられるのよ。頭がいい木でしょう。
嵐模様のこの日の夕暮れにも、驟雨がすぎた。したがっていま暗闇から匂ってくる水の匂いは、その雨滴を、びっしりついた指の腹ほどの葉が、あらためて地上に雨と降らせているものなのだ。パーティがおこなわれている斜め背後の部屋の喧騒にもかかわらず、前方に意識を集中すると、確かにその樹木が降らせている、かなり広い規模の細雨の音が聞こえてくるようなのでもあった。そのうち眼の前の闇の壁に、暗黒の二種の色とでもいうものがあるようにも、僕は感じた。
<大江健三郎:“「雨の木」を聴く女たち”>


★ (私の魂)といふことは言へない
その証拠を私は君に語らう

しかも(私の魂)は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために
書きとめた
<大江健三郎:“火をめぐらす鳥”に引用された伊東靜雄の詩の一節>








少年

2013-06-21 08:54:28 | 日記

★ 少年のあらゆる供述にはつねに「アレハ ボクノ ツクリバナシ デス」という供述が同伴している。他の供述はすべてこの虚しい供述に呑みこまれていく。供述全体がボルヘスの示した「シナの百科事典」のように、どこにもない場所へ消失するようになっている。重要なのは、あらゆる供述が空虚な言説のなかに呑みこまれ、消えていった果ての虚空に、あの惨たらしい行為が置かれていることである。少年はまず快楽の追及に必死だったのだろう。少年は、人間的な意味の空間を本質的な恣意性によって断ち切り、意味の空間から剥離した場所で、つまり意味からの名づけがたい<隔たり>のなかで、異様な試みを生きたのである。

★ 重要なことは、殺傷行為のおぞましい形式よりも、少年が殺傷行為を通じてこじあけていた意味の空虚であり、またその意味の空虚の深みへ徹底的に深く呑みこまれていることである。少年はなぜそのような意味の空虚に向かわねばならないのだろうか。少年をこのような意味の空虚へと振り向けさせる、われわれ自身の社会とはどのようなものであるのか。たしかに社会が存立するのは、明らかに共同体の存立とは異なっている。おそらく共同体の想像力によってはどんな意味の補填も困難な、恐ろしいほどの空虚の土壌をふくみながら、社会というものが成立しているのだろう。だが、その空虚だけを透視し、掴み出してくるとはどういうことなのだろうか。そこにはこの空虚を「知」に変えていく過程をもつことなく、孤独な生のなかに力ずくで実体化していくしかなかった一人の少年が立っている。

★ やがて少年は扉の向こう側に消えたが、この社会の土壌が変わったとも思えない。われわれが今直面しているのは、この土壌にふくまれる空虚や恣意性の力を測り、何らかの仕方で克服する道筋を考えることだろう。この社会は巨大な広がりをもち、家庭や、学校や、地域社会や、国家の制度が準拠する人間学的なリアリティをどこかで完全に相対化する力を見せつけている。またそれは、人間を規定する空間や身体や脳や遺伝子や物質を操作する技術のかたちをとって、人間の存在を未知の外部にひらいてもいる。こうした存在の軋みや裂開が日常化するなかで、存在の空虚は止めどない気泡のように発生しているのではないだろうか。われわれはたいていそれをやり過ごすが、それをまともに呑みこんでしまう精神もないとはいえないのである。

<内田隆三『国土論』(筑摩書房2002)>







ポスト戦後社会;理想(夢)から虚構へ

2013-06-19 16:08:40 | 日記

★ 世界史的に見るならば、第二次世界大戦後の「戦後」は、「戦争なき時代」の到来を意味したのではなく、「冷戦」という新たな準戦時体制の時代であった。そして、この時代のアジアでは、朝鮮戦争とベトナム戦争という二つの大規模な戦争が起こり、「戦後」などとは到底言えない状態が二十年以上にわたって続いた。1950年代、60年代は、アジア規模で見るならば、「ポスト戦後」どころか「戦後」ですらなく、いまだ「戦時」だったのである。

★ そして戦後日本は、これらの戦争、とりわけ朝鮮戦争から特需を得て、その後の経済成長の基盤をかたちづくっていった。冷戦体制のなかで、日本はアジアの自由主義経済の牽引車に位置づけられ、劇的な経済発展を遂げていく。しかし、「復興」から「経済成長」への流れが連続していた日本の「戦後」が、50年代から70年代にまで及ぶアジア規模での「戦後=準戦時」やそれを支える開発独裁体制と表裏の関係をなしていたことを忘れてはならない。

★ しかも、60年代の高度経済成長は、近年の多くの研究が示すように、戦時期を通じて強化されてきた総力戦体制の最終局面でもあった。高度成長を通じて日本人は、敗戦で打ち砕かれたナショナル・アイデンティティを、技術や経済、新しい民主主義といった新種のシンボルに仮託しながら再構築し、「戦争」の忌まわしき記憶を歴史の彼岸に押しやってきた。しかし、そもそもの「戦時」の体制が、紛れもなく「戦後」の一部ですらあったのだ。敗戦と占領の数年間からそれに続く復興と高度成長、社会の再構築のプロセスを、つまり「戦後」と名指されるプロセスの全体を、むしろ「戦時」からの連続性として把握することが必要である。

★ 社会的なリアリティの変容という面でいうならば、「戦後」社会から「ポスト戦後」社会への転換は、見田宗介が「理想」および「夢」の時代と名づけた段階から、「虚構」の時代と名づけた段階への転換に対応している。見田によれば、1945年から60年頃までのプレ高度成長の時代のリアリティ感覚は、「理想」(社会主義であれ、アメリカ流の物質的な豊かさであれ)を現実化することに向かっており、その後も70年代初めまで、実際に実現した物質的な豊かさに違和感を覚えながらも、若者たちは現実の彼方にある「夢」を追い求め続けた。しかし、80年代以降の日本社会のリアリティ感覚は、もはやそうした「現実」とその彼方にあるべき何ものかとの緊張関係が失われた「虚構」の地平で営まれるようになる。

★ 都市空間の面で「夢」の時代を象徴したのが、1958年に完成した東京タワーであったとするならば、「虚構」の時代を象徴するのは、間違いなく83年に開園した東京ディズニーランドである。

★ そして東京タワーに集団就職で上京したての頃に上り、眼下のプリンスホテルの芝生やプールのまばゆさを脳裏に焼き付けていた少年永山則夫は、68年秋、そのプールサイドに侵入したのをガードマンに見つかったところから連続ピストル射殺事件を起こしていく。永山の犯罪は、「夢」の時代の陰画、大衆的な「夢」の実現から排除された者の「夢」破れての軌跡の結末であった。これに対し、この事件の二十年後に起きた宮崎勤による連続幼女誘拐殺人事件では、殺人そのものが現実的な回路が失われた「虚構」の感覚のなかで実行されている。

★ このようなリアリティの存立面の対照は、若者たちによって引き起こされていった社会的事件にも認めることができる。「夢」の時代が内包する自己否定の契機を極限まで推し進めたのが1971年から72年にかけての連合赤軍事件であったなら、90年代、「虚構」の時代のリアリティ感覚を極限まで推し進めていったところで生じたのは、オウム真理教事件であった。

<吉見俊哉『ポスト戦後社会』(岩波新書2009)>








晩年=友愛

2013-06-18 14:34:41 | 日記

★ 1960年代後半の世界は、アメリカの軍事侵略に対するヴェトナム人民の抵抗、中国の文化大革命、キューバを根拠地とするラテン・アメリカの武装解放闘争の発展に呼応して、いわゆる「先進」資本主義国でも、青年・学生を中心に先鋭で斬新な異議申し立て運動が活性化した時代だった。かつての恋人「綱渡り芸人」アブドッラー・ベンタガの自殺(1964年)の衝撃から、未発表の原稿すべてを破棄し自ら自殺を図るほどの深い抑鬱状態に陥っていたジャン・ジュネは、1967年末、若い友人ジャッキー・マグリアとその妻ヒサコの誘いを受けて日本への旅路についた。この滞在をきっかけにようやく再生への糸口をつかんだ彼が、タイ、インド、パキスタン、エジプト、モロッコ、チュニジアを経て、ちょうどフランスに帰りついたとき、68年5月の反乱が起きたのである。

★ 本書でも繰り返し語られているように、ジュネは彼の生涯を導いたさまざまな偶然にほとんど神秘的な感情を抱いていた。「裏切りの愉悦」を知り尽くしていたこの人は、まさにそれゆえに、60歳に近づいた彼に新たな生命を授け「詩的に老いる」ことを可能にしてくれたこの時代の精神に誰よりも忠実に、晩年の十数年を歩み通すことになる。そしてこの出会いの経験は、本書の二本の柱となったブラックパンサーの黒人およびパレスチナ人との、きわめて特異な友愛のうちにそのもっとも美しい結晶を形成したのだった。

★ 『恋する虜』はきわめて複雑な作品である。政治的ルポルタージュとしてはあまりにも作者の内省に満ち、回想録と銘打たれながら「小説と同じほど真実から遠い」ことを自ら広言してはばからない。徹底的に反ジャーナリズム精神に貫かれた詩的証言。鮮明で特異なイマージュを駆使して読者を未知の世界に引きさらう力はほかならぬジュネのものだが、その文体は、会話と地の文の独特の浸透作用や自在なリズムの転調、過激にして透明なユーモアなどに由来する類いまれな軽やかさ備え、他の時期の作品、否、「シャティーラの四時間」にさえ見られなかった新たな地平が開かれている。おびただしい死者を出した絶望的な闘争の記録でもあり、作者自身の迫りくる死の影のなかで綴られた作品であることを思えば、これはシャトーブリアンの『墓の彼方の回想』にも比すべき奇跡的な力業といえよう。

★ エドワード・サイードは、ジュネのこの「最後の偉大な散文作品には、西洋人、フランス人、キリスト教徒としての彼の同一性がまったく異なる文化と交える格闘と並行して、ジュネ自身の自己のうちへの沈潜が自己忘却と闘っている姿もみられる」(「ジャン・ジュネの後期作品について」)と指摘しているが、そう言えば、きわめてカトリック的な聖母子像に重ね合わされたハムザとその母をめぐる限りなく美しい物語も、自分に取り付いたこの幻想にあらゆる角度から検討を加える真剣な知的努力を一つ一つ積み上げた果てに、すべてが反転して透明な笑だけが残るように、実に精緻に織り上げられているのである。「自己沈潜」と「自己忘却」の間のこのような闘争、「自己沈潜」がすなわち「自己忘却」でもあるような闘争が、その感性と才能の一切をかけて一生を闘い抜いた「西洋におけるパレスチナ人の最大の友」(『パレスチナ研究誌』)の最後の闘いであったことの意味を、『カラマーゾフの兄弟』を読むジュネのひそみにならって、私たちは長い時間をかけて問うてみなくてはならないだろう。

<鵜飼哲“『恋する虜』完成にいたるジュネ晩年の歩み―あとがきにかえて”―ジャン・ジュネ『恋する虜』初版第2刷(人文書院2011)>