Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

辺見庸新刊

2009-05-31 11:37:06 | 日記
辺見庸の新しい本をAmazonに注文した。
『しのびよる破局-生体の悲鳴が聞えるか』(大月書店)である。
これは、“NHK・ETV特集を再構成、大幅補充”したものとあるが、ぼくはこれを見ていない。

Amazonの“カスタマー・レビュー”から二つ引用(部分)したい;

<現代警鐘の書2009/4/19By長太郎(茨城)>
勿論私もこの特集番組を見た。ですから、番組を見た方にはこの本は、特別真新しい内容では無いし、再確認を出来る媒体の一つに過ぎないかも知れない。ところが、今回読んで判ったのは、番組で見聞きしていた筈の内容が、自身全然「理解」出来ていなかった言い換えれば聞き漏らしていた部分が非常に多かったことである。おそらく私はこの本を1度読んでも、未だ半分も理解していないのではなかろうか・・。それほど、内容の濃い深い深刻な問題を孕んだ本なのである。
先ず読み始めて判るのは、文章漢字部分が一部の単語(語句)を除いて殆ど最小限に使われており、その分平仮名が目立つことである。これは、たいへん読み易い。辺見氏は現在右手が不自由であり、言語ツールとして携帯電話を利用していることがあるいは影響しているのかも知れない。彼は自身で「携帯依存症」だと告知している・・携帯で「文章」を綴りそれをPCへ転送して書いている・・また、現在身体的にも歩行が困難な為に毎日毎日歩く練習を繰り返し行なっている。練習をいくら行なっても良くはならないが、怠ると悪くなる。だから「徒労」とも思えるような「自主トレ」を繰り返す・・それは、辺見氏の深い「思索」に繋がっているように思えてならない。それはまるで終わり無きような繰り返し反芻するような「思索」だ・・読んでいてその執念に私は打たれた・・・

<辺見庸というレンズ2009/4/19By adanama(東京新宿区)>
もともと聴衆を意識したものであるためか、 語りがとてもわかりやすく、その分ダイレクトに届く。
著者の視線は、世界恐慌から秋葉原事件に渡り、具体的な事象にふれながら、広告や資本による言葉に対する感覚の収奪、 世界と人間の生体との食い違い、それによる鈍化といった 彼なりの深い洞察に落ちていく。
辺見庸の言葉が特別なのは、 彼がすぐれた評論家や作家やジャーナリストだからではない。
私たちは、すでに習慣として、「言葉」に自分の体を賭けない。
毎日朝食を摂り、排泄し、眠るのと同じくらい日常的に、無意識に、賭けない。
しかし辺見庸は、至極逆説的にいえば、 その習慣に従うことが「どうしてもできなかった」希少な人間だ。
だからこそ読者は、彼の文章に、最終的には登れないと分かっている崖を指で登るような衝迫を感じる。
私たちは、読むにつれて「著者の言葉にただ賛同したり反論したりする、ただのギャラリー」であることに耐えられなくなる。
本書は「自分たちの日常を自分の言葉で表現できなくなっている」万人に対する、すぐれた、そして切実な引導、スターターとしてあるように思う。
(以上引用)

2番目の引用にある、《だからこそ読者は、彼の文章に、最終的には登れないと分かっている崖を指で登るような衝迫を感じる》という言葉に共感する。

《その習慣に従うことが「どうしてもできなかった」希少な人間》

たしかに。

しかし、こういう“人間”が、過去に(歴史上に)、いなかったのでは、ない。

“現在において”希少なのだ。



知的なひと

2009-05-31 09:37:06 | 日記

けっきょく、下のブログを書いてまた寝たのだが、エンドレスで同じような状況の夢を見続けるので、意識的に起きたが、起きても、エンドレスな感じがつきまとっている。

起きてまたまた天声人語と編集手帳を見ることになる(引用しない;笑)
天声人語は恒例の“五月の言葉”だが、ぼくはこういう“言葉”を意図的に“引用”したくない。
編集手帳は芥川龍之介の“煙草と悪魔”である。
もともと喫煙習慣のなかったひと、禁煙したひとというのは、どうしてこういう“優越感を”噛みしめるような“煙草の害”で、喫煙者を強迫する文章を平気で書くのだろうか。
かれらが内心ニンマリしているのがみえるようである。
芥川のこの小説は記憶にないが、芥川はヘヴィー・スモーカーだったらしいから、そういう“脅迫文”を書いたのではないと思う。

自分の今朝書いたブログを読むと、“どうしようもなく、すべてが、くだらなく見える”と書いてあった。

この文章で重要なのは、“見える”ということである。

テレビで見るようなひとも、街で見掛けるひとも、近年、ぼくにはさっぱり“知的”に“見えない”(老若男女を問わず)

“知的”ということにも、さまざまなニュアンスがあり得るだろうが、ぼくの“感想”は単純である。
“知的に見えるひとがいなくなった”ということである。

つまり“知的に見えない”ひとが、実は知的である、こともあるのである。
しかし昔は(いつごろまでのことだったろう?)、知的に見えるひともいたのである(笑)

たとえば“俳優”のような、ミュージシャンのような人々にもいたではないか。
パッと見、知的でなくても、3分くらい見ていると知的であることが分かるひともいた。

たとえば、大江健三郎氏のようなひとは、パッと見、知的でもないが(笑)、30秒ほど喋れば、かれが知的なことは分かった。
なんか“セクシーなだけ”が売りのような女優であっても、ある瞬間に彼女が知的であることが分かって、うれしかった。
ただ“野蛮”なだけの音楽を演奏しているひとが、きわめて知的であることも、あった。

だから、ぼくが“知的に見える”と言ったのは、かならずしも一瞬の判断ではなかったかもしれない。
しかし現在、テレビなどでよく見る顔は、一瞬どころか、いやになるほど見てきた顔なのだ。

つまり、いま“テレビを見ていられるようなひと”は、“知的な顔”とか、“知性全般”に重きをおかない“趣味基準”をお持ちらしい(笑)

むしろ“バカ”が好きなのだ。
たぶん“バカの陰に隠れた人間性”が好きなんだろうね。

だからみんな、こぞって、バカの振りをするようになったのだろうか。
しかし“振り”をしているうちに、それが身に付いてしまい、“バカそのもの”になってしまったのだろうか。

ああ悲劇である。

ぼくが現在の大学で受講したら、笑いをこらえるのが、むずかしいと思う(内田樹教授さんへ)


もそもその朝

2009-05-31 05:45:29 | 日記

そもそも。
もそもそ。

けっこう時間をかけてブログを書いているうちに、明るくなった。

ひとは、そのひとの言葉によって、そのひとを判断しているのだろうか。

それとも肩書きによって?

ときどき、
どうしようもなく、すべてが、くだらなく見える。


Not Found

2009-05-31 05:31:07 | 日記

昨夜は早く寝たい気分なので、ブログをひとつ書き、数時間前に参宮橋歩道橋で撮った泰山木の写真を出して、寝た。
今朝起きたら4時前であった。

いま“思い出して”、Doblogの自分のブログをクリックしたら、“Not Found”であった。
ついにwarmgunは、“Not Found”になったのである。
ここで、笑うべきであろうか、泣くべきであろうか。
warmgunは“gooブログに移行した”のであるが、やはりwarmgunの一部は死んだのだ。
つまり“ひと”は、このように少しづつ死んでいくのだと思う。

こういう“認識”を認識というのであって、天声人語が毎日書いている“言説”などは、なんの認識でもない。
あんなものは、“マシーン”の永久稼動運動であって、そこにはなんの“生身”もない。
ただ惰性で“言説機械”が、毎日“状況”に自動的に反応して、“言説”を缶詰のように生産しているだけである。

そこには“生き物”の気配がない。
ただのいじましい“欲望機械”があるだけである。

この欲望機械の“欲望”が、“機械”でしかないのは、まさに、彼らが自分の言説を、“多数に支持されるもの=多数をかさに着るもの”として発し続けていることだ。
かれらは、けっして、“自分の言葉”を語らないし、語ることができない。

もともと“受験-出世マシーン”として生産されたものに、自分の言葉があるはずがないのである。

なによりも惨めたらしいのは、かれらの欲望の陳腐さである。
昨夜引用した天声人語を、もう一度読む;

《そもそも、先に分割を唱えたのは、本日83歳を迎えた読売新聞主筆のだ。同紙も「再編で国民の信頼を取り戻せ」と促した。大連立騒動の黒衣役といい今回といい、衰えぬ政治への情熱、生涯現役の記者魂には恐れ入る。仕えるご同輩も心強かろう▼暮らしに縁の深い官庁が「総身に知恵が回りかね」では困る。肥大を案じるのは渡辺氏だけではあるまい。それに飛びつくのはいいが、首相が口にするからには、風雪に耐えて旗を掲げ通す覚悟がいる。夕立の祭り提灯(ちょうちん)ではあるまいし、出したり引っ込めたりはいけない。》(引用)

さて、ここにはいかなる“欲望”があるだろうか。
実は、天声人語氏も、“総身に知恵が回りかねる”官僚政治を出し抜いて、“大連立騒動の黒衣役”とか、“厚労省分割”の仕掛け人になりたいのである。

そういうのがジャーナリストの“衰えぬ政治への情熱”だと思っているのである。
つまり、いま朝日新聞のようなマスメディアにいる人々は、いつも自分で書いているような“謙虚”な人々ではぜったいにないのである。

かれらは“読者=大衆”を操りたいのである。
そのために動員されるのが“あの”連日の、“わたしはしがない庶民と同じです・・・”言説である。
かれらは、けっして、自分を“しがない庶民”などとは、思っていない。
自分は優秀な学校を出て、優秀な企業でキャリアを築いた優秀な人間であり、そのへんの庶民の会ったことのない人物と“お話したり”、そのへんの庶民の行けない場所にも行ったことがあるなどとの、“自負”をもっている。
つまり“読者=庶民”など、バカにしきっているのである。

だからかれらが連日考えているのは、“バカな読者”に、いかに新聞を買わせ、“しかも”、この読者を自分の望む方向に誘導できるか、のみである。

ぼくは、こういうこと自体が不快だが、いちばん不快なのは、かれらが“嘘つき”であることである。
まだしも、かれらが“自分の欲望”(つまりバカな大衆を誘導する)を率直に表明するなら許せる。
彼らが、連日書き散らしているのは、その反対の言説ばかりである。

ぼくが子供のころには、“嘘つきは泥棒のはじまり”という言葉が生きていた。
また、“泥棒”というのは、恥ずかしいことだった。
そういう羞恥心のない人々が、おどろくほど増えたのである。

なにが“嘘”であるかを、哲学的に考えるとかなり難しいことになるのだが、そういう“次元”を超えて、人間には人間としての最低のモラルの“本能”があると思う。
その“本能”さえ、壊れたのか。

いやまさに、その本能を喪ったものたちが、“自分を正当化する嘘”を撒き散らしている。

ぼくたちは、けっして正しく生きることなどできないから、せめて、正直であることが必要である。

いったいぼくたちは今、なぜ“言葉を発している”のか。
それが、ぼくのそもそもの“疑問=課題”である。

なぜいつもいつも“相手に調子を合わせる”のみの言葉しか存在しないのか。

私が、あなたに伝えたい言葉とは、いったい何であるのか。

私の言葉が、決して伝わらないなら、それは何故であるのか。

そういう“課題”をほうっておいて、いかに政治-社会について、百万言を弄してもまったくの無駄としか思えない。

いつまでも長くて退屈な映画を永久に見せられているだけである。

以上は“新聞の言説”について書いた。
ならば“テレビの言説”とは、何であるのか。

もちろんテレビの言説も新聞の言説と同じであるという事態がまずある。

しかし、それはもっとひどい。
彼らは(テレビは)、“いっしょにバカになろうね!”と扇動している。

まるでバカであることが、“人間的”であるかのように。

みんなが一緒にバカになれば、“安心”であるかのように。

“バカの、バカによる、バカのための”テレビ。

たしかにこのテレビの標語は、“民主主義”に似ている。


She feels like water in my hannd

2009-05-30 21:16:07 | 日記

ほぼ2年ぶりの参宮橋の泰山木である、ずいぶん花の数が減った。

あなたは、誰かと話していて、自分の言っていることが相手に受けとめられたと感じたことがあるだろうか。
ぼくは、あまり経験がない(まったくない、とは言っていない)

何年か前に見た花が、今年も咲いているのを見るのは、奇蹟のような気がする。



渡辺恒雄って誰?

2009-05-30 20:51:53 | 日記
今日の天声人語の話題は“厚労省の分割再編”らしい。

例によってぼくは、こういうことに何の関心もない、どうだっていいじゃないか。

しかし天声人語を読んだらある人物の名があがっている。
この人物にもぼくはまったく関心がない、どうゆうヤツだって知ったことではない。

ぼくはもっと上品で知的な人間にしか関心がないからである。
ただの“権力欲ジジイ”などに関心を持っている暇はない。

しかしそれにしても以下の天声人語の“文章”をどう解釈すればよいのだろうか(笑)
どこかの高校がこれを入試問題に取り上げてほしいものだ。
つまりこの文章をどう“解釈”しようと○である;

《▼そもそも、先に分割を唱えたのは、本日83歳を迎えた読売新聞主筆の渡辺恒雄氏だ。同紙も「再編で国民の信頼を取り戻せ」と促した。大連立騒動の黒衣役といい今回といい、衰えぬ政治への情熱、生涯現役の記者魂には恐れ入る。仕えるご同輩も心強かろう▼暮らしに縁の深い官庁が「総身に知恵が回りかね」では困る。肥大を案じるのは渡辺氏だけではあるまい。それに飛びつくのはいいが、首相が口にするからには、風雪に耐えて旗を掲げ通す覚悟がいる。夕立の祭り提灯(ちょうちん)ではあるまいし、出したり引っ込めたりはいけない》(引用)

いったい天声人語は、渡辺恒雄とかいう人物を褒めているのか、けなしているのか。
それが“問題”である。

ぼくは、こういう文章を、愚劣な文章と呼ぶ、卑怯な文章と呼ぶ。
《夕立の祭り提灯(ちょうちん)ではあるまいし、出したり引っ込めたりはいけない》とか言っている当人が、腰がぐちゃぐちゃに引けている。
こういう男(天声人語の書き手である)は、“男のくせに”あっちにもこっちにも“色眼を使って”現在の地位を得たことが、透けてみえる。

さて“問題の”読売新聞・編集手帳は何を書いているのだろうか(興味深々!);

《暗い地中にひとりじっと根を張った人だけが、やがては太い幹を天に伸ばすことができるのだと、その人たちの人生が語っている。「放浪記」の初演からほぼ半世紀、公演通算2000回の金字塔を打ち立てた森さんに国民栄誉賞が贈られるという◆いまもどこかで、不遇の身に耐えつつ悔し涙を肥料にして、志の根を地中深く張っている人がいるだろう。幸あれ。》(引用)

あ~あ(絶句)

さあみなさん、あなたが、《いまもどこかで、不遇の身に耐えつつ悔し涙を肥料にして、志の根を地中深く張っている人》で“あっても”、やがて、《太い幹を天に伸ばすことができる》のである、とのことである。

そうすれば、“国民栄誉賞”がもらえる(のである)

さあみなさん、読売新聞に励まされて、ますますハッピーに生きようねっ!!!

ぼくは、きょうも早く寝たい気分である。

朝日新聞と読売新聞に、

幸あれ!<注>




<注>
ぼくはこの“幸あれ”を画面いっぱいくらいの、“大きな字”で書きたいよ。


<追記>
ついでに、”渡辺恒雄”に、幸あれ!


雨のトキオ

2009-05-29 21:32:52 | 日記
トキオは今日も雨だった、ね。

このブログを読んでくださっている方々は、“これを書いているひとは、なんてしつこいのだろう”と思われるかも知れない。
ぼくの“天声人語”批判である。
しかし、ぼくが“しつこい”のではなくて、天声人語や読売・編集手帳がしつこいのである。
毎日同じことを言っているから、こっちも同じことを言う。

今日の天声人語と読売・編集手帳の“憧れのハワイ航路”については、今朝5分で書いた。
まったくなにが“憧れのハワイ航路”であろうか!

昨日は書かなかったが、天声人語は以下のようなことを述べていた;
▼ 党首は表情、身ぶり、声色を含めた発信の技を問われる。一騎打ちともなれば、「何を言うか」以上に「どう言うか」が重い。初顔合わせはその点で、答弁慣れした首相が引き分けに持ち込んだかに見える▼何週間後になるか、投票日へと続く戦いが始まった。両者のやりとりは事実上の第一声である。あまりに短く、中身は浅く、ヤジも醜悪ながら、党首が言葉で切り結ぶ常道が戻ってきたのは喜ばしい。政党政治にはもう一つ、政権交代という常道があるのだが、さて。(引用)

なにが“さて”なのであろうか(爆)
まったく、神経を疑う。

ぼくはひとを殴ったことがないのだが(殴られたことはある;笑)、ぼくの隣でこのように“さて”などと言うひとが“今”いたら、殴るね。

ここで話題になっている党首討論などというものを、ぼくは1秒も見ておりません。
ぼくにもけっして見たくないものが、あるのである。
しかしぼくがここで言いたいのは、くだらない“党首”のことではない。

《政党政治にはもう一つ、政権交代という常道があるのだが、さて》
である。

前にも書いたが、なぜ天声人語は“次ぎの選挙での選択がある”とか“政権交代という常道がある”とか、言うのだろうか。
まるでそれが“民主主義”の唯一の可能性であるかのように。
これでは人民は、人参をぶら下げられて走っている馬と同じではないか。
しかも腐った不味そうな人参ばかりである。

腐った不味そうな人参しかなくても、飢えていれば食べられるとでも言いたいのだろうか。

しかもこういう“人参-馬”民主主義が、ぼくが物心ついた時から繰り広げられているのである。
もうウンザリ、飽き飽き、ゲンナリ、しょんぼり、してしまう。

しかし、まさに“しかし”、ぼくは絶望なんかしていない。
ぼくの状況認識では、ぼくが生きている残りの10年か20年の間に、日本の“政治-社会情勢”(つまり天声人語氏がとやかくいうレベルでの)は、悪くなることはあっても、良くなることはありえない。
ぼくはここ数年でそれを予感し、それは近日、確信に変わった。

“良くなる要素”などなにもないではないか(笑)
これは、個人的観測(感情)ではなくて、状況的認識である。

しかし(笑)、ぼくは“絶望”しない。
考えてみれば、ぼくが生きてきた60年間、ずっとそうだったのである。
そうであっても、ぼくは生きてきたし、個人的に楽しかったり、高揚したり、希望を持ったりしてきたのである。

マスメディアや“大衆の無意識”がなにを言おうとしったことではないではないか。
“アンタは夢、まぼろしのなかで生きている”とそしられようと、“そんなことは、あなたのビジネスではない”ではないか。

まあ、さいわい、ぼくは“年寄り”になりつつあるので、余生はわがままに自分の好きな幻想のなかで生きさせてもらうよ。

ひとつ“注記”しておくが、“内田樹ブログ”を批判してから、“大衆の無意識”という言葉がずっとひっかかって、考えていた(無意識にも!)んだが、今日ハタと認識に達した。

もし“無意識”というものがあるのなら、それは“大衆の”というような限定が付き得ないものなのだ。

それは、“大衆の”とか、“進歩的知識人の”というような限定より、もっと深く、根源的なものであるはずである。
まさに“ソレ”を“無意識”と呼ぶ。
フロイトもラカンも無意識をそうとらえたはずである。

内田樹のようなインチキ学者が言っている“大衆の無意識”などというものは、“大衆の意識”にすぎない。


さて。
さて、明日はバイト先の総会で朝がはやい。
雨はあがるだろうか、あがりそうである。
あがれば、まぶしい陽ざしがもどるであろう。
寝る前に音楽を聴こうか、“ホテル・カリフォルニア”はLPで持っていたが、結局、CDに買い換えてないのである。
延々たるギターの合奏を聴きたいのだが(ライブで聴いたのは幻)
グールドの“平均律”にするか。


感性の根源

2009-05-29 08:26:39 | 日記

出勤前で時間がないのだが。

昨日読売編集手帳;
★ その年、「焚き火屋」が繁盛したと世相史の本にある。火に手をかざして50銭という。コメも味噌も配給、誰もが空腹と寒さに震えていたころである◆岡晴夫さんの歌う「憧れのハワイ航路」は1948年(昭和23年)に世に出た。〈一人デッキでウクレレ弾けば/歌もなつかし あのアロハオエ…〉。そういう日がいつか来ると信じよう――作詞家の石本美由起さんは遥かな夢を詞に託したという(引用)

今日天声人語;
★ 85歳で逝った作詞家、石本美由起さんの出世作「憧(あこが)れのハワイ航路」は、少年期に眺めた瀬戸内の船から浮かんだという。日本人の米国観がひっくり返る終戦後、鼻に抜ける岡晴夫の歌声で時代と響き合った▼11歳で聴いたのは、先立った同業の後輩阿久悠さんだ。「籠(かご)の鳥が思い描く青空のように、あくまでも楽天的なハワイの空と海に酔っていた。不思議なことに、唯一のハワイの知識であるパールハーバー、真珠湾攻撃を連想したことは一度もなかった」と本紙に記している(引用)

上記ふたつは、ようするに、“85歳で逝った作詞家、石本美由起さん”をネタにしている。
ぼくの親の世代であり、ぼくも「憧れのハワイ航路」を聴いたことはある。
しかし、この歌が“なつかしい”ことはない、まったくない(笑)

“あくまでも楽天的なハワイの空と海に酔っていた”ことなど、まったくない。

そういうひとがいて、そういう“歌”が、いまでもなつかしいひとがいるのは、かまわない。
しかし、なぜ、編集手帳と天声人語は、“同じ感性”なのだろうか。

そういう“落とし所”が、彼らには、あらかじめ、存在しているのだろうか。
そういうのを“大衆の無意識”というのであり、それは“良いもの”なのであろうか。

上記は、“修辞的疑問文”である。
まさに“こういうもの”こそが、ぼくを苦しめてきた。

まさに“これ”が、大衆の無意識であるなら、ぼくは“あらかじめ”それから疎外されていたのだ。

ようするに“みんなが”当然のように“浮かれて”いるとき、ぼくはそれに“乗れない”のであった。
しかしそういう“経験”を長く続けてくれば、ひたすら“打ちのめされて”いるわけにもいかないではないか(笑)

だからぼくも(少しずつ)反撃にでることにしたのである。



『1Q84』を買う

2009-05-28 23:28:30 | 日記
雨ですね、さっき仕事からわりと遅く帰ってきたら、風もあった。

昼休みに紀伊国屋書店まで行って、村上春樹の新刊『1Q84』を買った。
ぼくは春樹の小説を全部読んできたが、『海辺のカフカ』、『アフターダーク』、『神の子どもたちはみな踊る』を読んで、“こいつはもうダメだな”と思った。
『東京奇譚集』は買わなかった。

なぜ今回は買ったのかは、自分でもわからない。<注>
まあ、ひさしぶりなんだな。
この間、ぼくは中上健次を読んだ。
それで、“文学”にたいする、基本的な態度が変更されたように思う。
そういう“変わった自分”によって、村上春樹を読んでみようというような気持が、どこかにある。

昼休み、買った直後の喫茶店では、なんとなく上下巻の本を、いじった。
帯の文句や、扉の歌詞(It’s Only a Paper Moon“)をながめ、目次をながめた。
ふーん。
上下巻ともそれぞれ24章からなり、それぞれの章に“青豆”と“天吾”とあるな。
各巻が“24章”であるというのは、バッハの“平均律”と同じである。

《「こうであったかもしれない」過去が、その暗い鏡に浮かび上がらせるのは、「そうではなかったかもしれない」現在の姿だ。》(上巻の帯にある言葉)

もしこの言葉が、春樹の小説でない小説にあったなら、ぼくは期待しただろうな(笑)

タイトルの“1Q84”の意味が、出版前から話題だったらしいが、第1章にすでに“1984”という年号は出てくる(帰りの電車で第2章のはじめまで読んだのだ);
《おそらく彼は、自分の作曲した音楽が1984年の東京の、ひどく渋滞した首都高速道路上の、トヨタ・クラウン・ロイヤルサルーンのひっそりとした車内で、誰かに聴かれることになろうとは想像もしなかったに違いない》

さて、この小説が“1984年”をテーマにしているかどうかは知らないが、自分が1984年にドーだったかを調べてみた;
★ 38歳だった
★ 三鷹の北口のアパートに住んでいた
★ 小さな写真関係の業界紙に勤務していた(ここを、1986年に辞めることになる)翌年に筑波万博があり、その取材に空しい気分で行ったことを思い出した。
★ フーコーが死んだ、前年に『構造と力』がブームになった

そういう“年”である(笑)
けっこう“きつい”年だったなー。

春樹というと、一般的にも“喪失感”ということがいわれてきたし、たしかに春樹の世界とは、ぼくにとっても喪失の世界だった。

春樹の若い登場人物たちは、若さのさなかで“喪失感”を抱えていた。
それは、具体的な喪失(たとえば友人の死とかガールフレンドとの別れ)であると同時に、なにかはじめから喪われていたのだ。
これを、ナルシスティックな感情的遊戯と呼ぶことももちろんただしい。
春樹世界の人物たちは、“喪失感”を求めていたり、“酔って”いたのかもしれない。

だが、喪失感を持つものは、別の世界を求めている。
そのことも、ぜんぜんヒロイックじゃないが、ぼくには、“別の世界を求めないよりは”マシだと思えたのだ。

もっとはっきり言えば、この“喪失感”というのは、一種の“世界嫌悪”だったと思う。

どうも成功した春樹にとって、この世界は“和解しやすい”場所となったように思える。

この小説で、“それ”を検証する。



<注>
たぶんぼくは、いちど××したひととは、“別れられない”ひとなんだと思う。
これが、自分では最大の欠点だと思う。





<追記:1984年に“あのひと”は何を書いていたか>

★ 大江健三郎;『いかに木を殺すか』
★ 中上健次;『熊野集』、『紀伊物語』、『日輪の翼』
★ 村上春樹;『蛍・納屋を焼く・その他の短篇』


HOTEL CALIFORNIA再び

2009-05-27 22:44:21 | 日記
今週は土曜日にバイト先のNPOの総会があるため、ぼくも連日の出勤となった。
今日は昼からの出勤だったので、怒りのブログをひとつだけ午前中に書いたが、勤務先から帰って、パソコンを開いても、しんどくて言葉が出てこない。

本もここ数日、ぜんぜん読んでいない。
ツナミン・ブログの長文の“憲法と裁判員制度”の第1回は読んだよ、明晰な良い文章だと思う、みなさんも読んでください。

そこで、テレビの映画かドラマでもちょっと見て寝ようと思ったが、“内田樹の研究室”ブログ(福島みずほさんと会う)を見てしまった。

(実は今日も、“最近テレビで鑑賞した映画”シリーズで、「パルプ・フィクション」のこととか“書けないわけではなかったが”、やめた)

福島みずほさんは、どうでもよいのだが(前に国立駅前で握手しそうになったが)、本当にマー、内田樹というひとは、ぼくの“反対”のひとなのである。

以下3箇所引用する;
★政治家たち、とくに為政者は自分がどうして「こんなこと」を考えたり、言ったり、したりしているのか「言えない」のである。
けれどもまさに自分が現になしていることが「何であるか」を綱領的な言語で「言えない」という事実が自民党の長期政権を支えてきたのである。
なぜなら、その「言えないこと」こそが大衆の無意識的欲望に「触れている」からである。
★「言葉を持った自民党」はもう自民党ではない。
そんなものをうっかり綱領的に表現したら、驚くほどに貧しく卑屈な政治思想が露呈するだけである。
おそらくはその逆の構図として、旧左翼の側に(まだ予兆的ではあるけれど)「大衆の言語化できない欲望」への関心が芽生えている。
★ 自民党が「綱領的に・政治学的な語法で政治過程を語る」という野望を持ち始め、旧左翼が「大衆の無意識に触れなければ、どれほど表層的に整合的な言説でも、何の力も持たない」ということを感知し始めているとしたら、それが日本における「政界再編」のひとつの機軸になるだろう。
(以上引用)

要するに、“自民党”と“旧左翼”が対比されている。
内田樹がここで言っていることの核心は、“大衆の無意識的欲望”である。

その“大衆の無意識的欲望”に触れているか、触れてないかが、“「政界再編」のひとつの機軸になるだろう”ということなのである。

“大衆の無意識的欲望”は、“大衆の言語化できない欲望”とも言い換えられている。
さすが“ラカン派”ですね、バカ!(笑)

ぼくはこういう“分析”にこそ、ウンザリしている。

触れるも触れないも、“大衆の無意識的欲望”などというものは、存在していない。
ぼくは“ラカン”の解説書を数種途中まで読んだだけだが(笑)、ラカンならぜったいに、そう言う。
ゆえに、内田樹は、ラカンを理解していないだけでなく、“なにも理解しえない”。

吉本隆明が、かつて、“大衆の原像”などという世迷いごとを言って、結局、コケてしまったのと似たパターンである(似たパターンであるのであって、“同じ”ではないが)

“大衆”などというものは、どこにもいない。
ぼくは、このことを理屈以前に実感してきたが、中上健次を読むことで、その実感は強化された(というか確信に変わった)

“大衆”も“進歩的知識人”もいない。
そんなものは、学者とマスメディアがでっちあげた虚像である。

たとえばぼくが、近日引用したイーグルスの“ホテル・カリフォルニア”は、“大衆的な音楽”である“ロック”と呼ばれるジャンルから出現した。
その音楽と歌詞は、“大衆的”であろうか?

そのアイロニーと幻想は、進歩的知識人的であったり、大衆的であったりというような“分類”をはるかに超えているのだ。

それが60年代以降の“ポップ・カルチャー”の意味である。

しかし“大衆の言語化できない欲望”について、“言語”で語っている内田樹というひとは、いったいなにをしているのだろうか。

内田樹のような恥知らずの田舎者は、ほんとうに恥ずかしい。


“核武装”にあくまで反対する

2009-05-27 10:11:27 | 日記
“核武装”にあくまで反対する。

時々見ているが、バカらしくて相手にする気もしない産経新聞コラムであるが、今日のは見逃すことができない。
この“産経抄”の無思考はいつもと変わらないが、こういう痴呆症が、“北朝鮮の脅威”によって、主流の言説となりつつあると感じるからだ。

昨日引用した幸福の科学新党の立ち上げにあたってその党首は、“やくざにはやくざに対するような対応をする必要がある”と語ったそうだ。

今日“産経抄”を引用する;
【産経抄】5月27日
 雑誌「正論」の良きライバルだった「諸君!」が40年の歴史に幕を閉じた。哀惜日々募るが、数ある名論文の中で最もセンセーショナルな話題を呼んだのは、清水幾太郎氏の「核の選択-日本よ国家たれ」だったのではなかろうか。
 ▼掲載されたのは、米ソ冷戦まっただ中の昭和55年7月号だから30年近くも昔の話である。非武装中立を大まじめに語る「進歩的知識人」がもてはやされた時代に、核武装論をぶちあげたのだから衝撃波はすごかった。
 ▼清水氏は社会学者で、終戦直後から六○年安保闘争までラジカルな「左」だった。それが急旋回し、核武装にまで行き着いたのだから世間はビックリした。進歩的知識人はもとより、週刊誌も彼を「変節漢だ」とたたきまくった。
 ▼いま読み返せば、多少アジ演説っぽいものの、自分の国は自分で守ろう、そのためには核兵器を持つのも選択肢だというごく当たり前の論理を展開しているにすぎない。それでも今以上に世間の「核アレルギー」が強い中、よくぞ書いてくれたものだ。
 ▼北朝鮮の2度にわたる核実験強行で、30年の時間を経て核武装論は市民権を得つつある。一方、「北の行動にも一理ある」という珍説はさすがに見かけなくなったが、したり顔で「冷静な対応を」という進歩的知識人の残党は健在だ。
 ▼「冷静な対応」論は、もっともらしいが、非武装中立論と同じで何の役にも立たない。むろん、核武装のマイナス面も考えねばならないが、国会で大いに論議すべき課題だ。選挙ではなく、日本の安全を第一に考えるのが政治家の使命である。ちなみに、近くにいた若い記者2人に「清水幾太郎って知ってるか」と聞くと、両人ともかぶりを振った。昭和はますます遠くなりにけり、か。
(以上引用)

ぼくは清水幾太郎の名は知っている。
当時から彼は、“進歩的知識人”の転向(変節)の好例として、産経新聞のようなヤクザ・メディアで喜んで取り上げられてきたのだ。
しかし今更、清水幾太郎も進歩的知識人も、どうでもよい。

問題はただひとつである。
問題はただひとつしかない。
<日本は核武装すべきか?>
これのみである。

いったいこの産経抄のいう“核アレルギー”とは、なんのことであろうか。
“核武装のマイナス面も考えねばならないが”とは、なにごとであろうか。
ぼくは人間として、世界で唯一の被爆国の住人でなかろうと、あらゆる核兵器に反対する。

ぼくは“ヤクザ”でないだけでなく、理性を持った“人間”であるからである。

“リアル・ポリティックス”の駆け引きなどになんの関心もないし、有効性も認めない。
そういうことは、政治家とか外交官とかの“国家の付属物”がやれば、よいのだ。
かれらは、いつもいつも恫喝したり、買収したりしてやっていく。
それが効かないなら、武力をもちいる。
またまた“戦争”である、結局戦争という名の暴力が、世界を廃墟と化すのだ。
世界は物理的に破壊されるだけでなく、それは人間であることの基盤の崩壊である。

たしかに、武器をもたず、国家的暴力に加担することを拒否する“われわれ”は、決定的に無力であり、ヤクザでしかない国家権力とそれを操るものたちの抗争に振り回され、暴力の渦中に投げ込まれる。
ときには、まさに“殺される”であろう。

いまここで、われわれが殺されていなくとも、いまあそこで、日々たくさんの人々が殺されていることが、“事実”である。

“あるひと”は殺されるべきでなく、“あるひと”は殺されてよいのであろうか。
その“選択”をするものは、どの“人間”であろうか。
あるいは、再び“核兵器の平等性”によって、この世界全体を破壊尽くす道をたどるのだろうか。
“核兵器”は、“脅しの持ち駒”としては、あまりに危険なオモチャである。

国家の中枢にいないわれわれは、結局、かれらの駆け引きに、指一本触れ得ない。
まったくの無力である。

われわれにできることは、この国家抗争の愚昧を“言語”によって批判=否定することだけである。
どんな“観念論”であっても、どんな“理想論”であっても、かまわない。

それにどんな“効果”があろうと、まったく“無効”であろうと、かまわない。

われわれは、断じて、核兵器をちらつかせて、相手を恫喝するヤクザではないからである。
もし日本が核武装するなら、産経新聞のようなヤクザや隣国の恫喝独裁者と同じレベルに落ちる。

つまり“人間として最低のレベル”に落ちる。


単純な疑問であるが、核武装論者たちは、“進歩的知識人”が壊滅して、“すべての日本人”が核武装を支持し、日本国が核武装した暁には、悪夢を見ないで眠れるのだろうか?


HOTEL CALIFORNIA

2009-05-26 21:28:30 | 日記

暗い砂漠のハイウエイ、冷たい風が髪をなぶる
コリタスの生暖かいにおいが空気のなかに立ち上る
はるか前方に俺はかすかな灯を見る
頭は重く視界はくすんでいる
止まって休息が必要だ

彼女は戸口に立っている
俺は礼拝の鐘を聞く
そして自分自身のことを考える
“ここは天国だろうか地獄だろうか”
彼女はキャンドルを灯し、道を示す
廊下の向こうから聞える声がある
俺はそれを聞いたことがある

ホテル・カリフォルニアにようこそ
気持ちよい場所
気持ちよい人々
たくさんの快適な部屋を用意して
いつでもあなたを待っている

彼女はティファニーみたいにくねって、メルセデスみたいに優美
たくさんの美少年を得て、かれらをお友達と呼ぶ
中庭でのダンスはあまい夏みたいにあまい
忘れられないダンスがあり、忘れるためのダンスがある

そこで俺は支配人を呼んだ
“ワインをたのむ”
彼は言った“1969年以来極上のスピリットはございません”
そしてその声がはるか彼方からきこえていて
真夜中に目覚めると
かれらがいまここでしゃべっている気がする

ホテル・カリフォルニアにようこそ
気持ちよい場所
気持ちよい人々
みんなホテル・カリフォルニアで人生を向上させている
なんという驚き、あなたにアリバイをもたらす

天井にはミラーがはりめぐらされ
氷の上のピンクのシャンペン
彼女は言う“ここでは、わたしたちは自分の仕掛けにとらわれた囚人”
そして支配人の部屋では
饗宴が準備され
鋼のナイフが突き刺さるが
彼等はけものを殺すことができない

最後におぼえている
俺はドアへと走った
帰り道を求めて
前に属していた場所へと
“リラックス”と夜警が言う
われわれは受け入れるようプログラムされている
君は好きな時にチェック・アウトできる
でもけっしてここから立ち去ることはできない

<THE EAGLES;“HOTEL CALIFORNIA”>



幸福は科学か?

2009-05-26 00:16:39 | 日記
さあみなさん、いよいよ来ました、“幸福の科学”。
アサヒコム記事を引用しよう;

<宗教法人・幸福の科学が「幸福実現党」設立、衆院選へ>アサヒコム2009年5月25日21時2分

宗教法人・幸福の科学(大川隆法総裁)による政治団体「幸福実現党」が25日設立され、次期衆院選に候補者を擁立する方針を発表した。
 党首には幸福の科学の元常務執行理事の饗庭直道(あえば・じきどう)氏が、党首代行には大川隆法氏夫人の大川きょう子氏が就いた。憲法9条改正など、隆法氏の理念に基づく政策実現を目指すとしており、隆法氏自身は立候補しないという。
 この日の記者会見では、300の小選挙区、11の比例区のすべてに擁立する意向を表明。候補者や選挙区については調整中といい、一般公募も呼びかけていくとした。
 幸福の科学によると、国内の会員数は公表していない。
(以上引用)

ぼくは、もちろんこの“幸福の科学”という名は知っていたが、その実態には無知である。
ゆえに、Wikipediaで調べてみた。
かなり長くて、途中で眠くなったので、“概要”と“教義”の部分を貼り付ける。
関心のあるかたはWikipediaの全文を読んだり、他の資料を参考にしてください(“情報”があったら、コメントください)

これを読んだぼくの印象は、なんとまーごった煮宗教なんだ、という素朴なものです。
こういうのアリなんですかね(笑)

それとぼくには、どうも、“幸福”という言葉と、“科学”という言葉は結びつきません。
“科学”という言葉と“宗教”という言葉も結びつきません。
“ユートピア建設”という言葉(概念)もピンときません。
ぼくは“幸福”というのは、もっと具体的なものだと思います。

Wikipedia“幸福の科学”項目より引用;

概要
初期にイエス・キリストや孔子などの歴史上の偉人・宗教家が大川隆法の口を通じて語った(チャネリング)とされる書籍(霊言集)を多数出版している。幸福の科学では短期間に多数の霊言が降ろされることをもって霊界の存在証明とし、高級霊界から示される真理の普及のために組織的な献本活動等が行われた。最初の「霊言集」である『日蓮聖人の霊言』(潮文社、1985年8月15日初版発行)のなかで用いられている「幸福科学」という言葉は、1年後の1986年に団体の名称の基となった(1986年10月6日立宗)。
仏教系では、日蓮、日持、空海、恵果、天台智、親鸞、唯円、蓮如、 一遍、道元、栄西、白隠、良寛、無門慧開などの「霊言集」を出版。キリスト教系では、イエス・キリスト、モーゼ、ミカエル、スウェーデンボルグ、内村鑑三などの「霊言集」を出版。神道系では、 天照大神、天御中主命、大国主命、弟橘媛、卑弥呼などの「霊言集」を出版。中国の思想家では、孔子、孟子、老子、荘子、墨子などの「霊言集」を出版。その他の宗教系では、ゼウス、 エドガー・ケイシー、出口王仁三郎、谷口雅春、高橋信次などの「霊言集」を出版。その他には、リンカーン、ガンディー、エジソン、ニュートン、聖徳太子、福澤諭吉、ソクラテス、ピカソ、シェイクスピア、ダンテ、ベートーヴェン、松尾芭蕉、西郷隆盛、坂本龍馬、 勝海舟、吉田松陰、ナイチンゲール、ヘレン・ケラー、紫式部などの「霊言集」を出版。「霊言」は宗教家に限らない、多くの歴史上の著名な人物について出版されている。 その他、理論書の『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』が出版されることで数多くの信者が集まり、1991年3月に宗教法人となった。1992年以降、仏教用語を用いた理論書で独自の思想を前面に打ち出し、アメリカではTV放映の多いニューソート系牧師に共通点の多い成功理論と共に教義の中心に据えた。1994年には用語を改めて教義の一部を修正し、1996年以降は会員制度の変更や経営方針の転換が行われた。
宗教としての位置づけについては、一部の宗教学者によれば、新宗教のなかでも、特に「新新宗教」という分類(オウム真理教や阿含宗などを含む)に属するとする。一方、教団は「先進宗教(アドバンスト宗教)」であるとして、他の新興宗教団体と同様の分類には属さないとしている。書店においては、開祖・現総裁である大川隆法の著書や、幸福の科学に関係した書籍は、他の新宗教団体の書籍も含めて「現代宗教」に分類されていることが多い。2006年6月には、フランス語への翻訳書籍が発刊された他、現在のところ、大川隆法の著作は、英語、ドイツ語、中国語、ロシア語、スペイン語、ハングル、ポルトガル語、インドネシア語等の多数の外国語に翻訳されて、各国で出版されている。

教義
この節には『独自研究』に基づいた記述が含まれているおそれがあります。解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。
<公表されている公式基本教義の要約>(出典:悟りの挑戦 上巻)
 基本教義は、「正しき心の探究」と、その具体的展開としての「幸福の原理」である。その中心の教えは「愛」と「悟り」と「ユートピア建設」という言葉で表すことができる。「愛」とは「与える愛」であり、仏教の「慈悲」と「布施」の精神を根拠としている。「悟り」とは「仏性の顕現」であり、霊界の多次元構造で説明している。「ユートピア建設」とは、仏陀(大川隆法)の考えた理想社会、仏法を学ぶ人たちのつくる平和な社会を理想とするものである。  「愛」と「悟り」は、書籍「太陽の法」で示された通り、「愛の発展段階説」によって繋がっている。そして、東西両文明を融合して、地球規模の理想郷を建設するための精神的主柱となる。  こうして、「愛」と「悟り」と「ユートピア建設」が一体となり、仏神の理想が実現されるのである。
(専門用語理解のための補足説明)
· 「正しき心の探究」=仏の御心に自らの心を合わせていこうとすること。(仏我一如)(出典:書籍「愛の原点」 第6章 :書籍「幸福の法」 第4章)
 日々継続するべきものとされている。(出典:書籍「愛の原点」 第5章)
· 「幸福の原理」=「正しき心の探究」の具体的な修行課題。「愛」、「知」、「反省」、「発展」の四つの原理(四正道)をいう。
 (仏教的に【因縁果報】で説明するならば、「愛」が【因】(直接原因)「知」と「反省」が【縁】(間接原因)「発展」が【果】(結果)で「ユートピアの実現」が【報】となる関係にある。)




<AFPニュース>

【5月26日 AFP】宗教法人「幸福の科学」(大川隆法(Ryuho Ohkawa)総裁)は25日、東京都内で記者会見し、政治団体「幸福実現党(Happiness Realisation Party)」を結成したと発表した。次期衆院選で300小選挙区と比例代表11ブロックのすべてに候補者を擁立するとしている。

 饗庭直道(あえば・じきどう、Jikido Aeba)党首(42)は会見で、麻生太郎(Taro Aso)首相の退陣を求めるとともに、自身をバラク・オバマ(Barack Obama)米大統領になぞらえ、日本のバラク・オバマとして次期首相になり、日本のかじ取りをしたいと抱負を語った。

 饗庭党首は、当日に北朝鮮が核実験を行ったことに触れ、日本の平和主義憲法を改正して北朝鮮のミサイル攻撃にも対抗しうる防衛力を構築すると宣言。小林早賢(Soken Kobayashi)広報本部長(50)は、金正日(Kim Jong-Il)総書記を「やくざと同じだと思っている」と述べ、「やくざにはやくざに対するような対応を」する必要があると語った。

 1986年に大川隆法氏によって設立された同団体は、世界中に1000万人の信者がいるとしているが、国内の信者数については公表していない。(c)AFP