Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

世界の輝き

2014-08-16 12:40:21 | 日記

★ 「あらゆるものの間近にいようなどとしないこと」、これはまさに直接性の信仰に対する警告でもあります。サルトルの思想がもたらした熱狂や流行は、エジプトの若者が抱いたような欲望にそれが応えてくれるかに見えたからであったかもしれません。しかし、それから、わたしたちは「経験を積み」、用心深くなっています。サルトル以後、なにもかもを直接「知ろう」とする欲望にわたしたちは飽いて、「礼節」を守りながら、世界に別の仕方でアプローチしようとしているところかもしれません。ただそうした境地にわたしたちが立つことができるとすれば、それはサルトルを読むことによって、真理に直接到達しようとする欲望がどこに通じており、どこで行き詰るかを知ることができたからです。

★ ただ、わたしたちが、直接的な知への欲望をどこまで断ち切れているかは定かでありません。そもそも、哲学とはそうした真理への欲望に突き動かされてあるのではなかったでしょうか。だから、この欲望を断ち切ることなどできず、いつでも真理に迫ろうとする思いはよみがえるでしょう。そのとき、わたしたちはもう一度サルトルを読み返さなければならないのです。

★ 直接性に到達するためには、直接性を迂回し、むしろ媒介された関係性に身を投じなければならない――これこそはサルトルの試みを踏まえて、これから考えていくべき課題なのです。

★ 最後にもう一度『嘔吐』の最後の場面に戻ってみましょう。そこでロカンタンは「最後にもう一度」ジャズナンバー「いつかある日に」に耳を傾けます。そのとき、世界が一瞬停止し、瞬間と永遠が、自由と必然性がいっしょになり、「救い」がやってきます。では、わたしたちが世界としっかりつながり、そこで存在があるがままに肯定される瞬間というものが、やはりあるのではないでしょうか。世界があるがままに現前し、それがそのまま光り輝いて存在する瞬間があるのではないでしょうか。サルトルが抱いたその思いは、わたしたちが共有するものでもあります。この世界の輝きをわたしたちはどのように受け止めればいいのでしょうか。サルトルが描いた「最後にもう一度」訪れる完璧な瞬間に感動するものは、おそらくまだ存在の直接的な充足の願いをもちつづけているのです。この願いがあるかぎり、わたしたちはサルトルの同時代人でありつづけるでしょう。

<梅木達郎『サルトル 失われた直接性を求めて』(シリーズ哲学のエッセンス2006)>




亡命者;つかのまの旅人

2014-08-14 12:41:44 | 日記



知識人は難破して漂着した人間に似ている。漂着者は、うちあげられた土地で暮らすのではなく、ある意味で、その土地とともに暮らす術を学ばねばならない。このような知識人は、ロビンソン・クルーソーとはちがう。なにしろクルーソーの目的は、漂着先の小さな島を植民地化することにあったのだから。そうではなくて知識人はマルコ・ポーロに似ている。マルコ・ポーロは、いつでも驚異の感覚を失うことはなく、つねに旅行者、つかのまの客人であって、たかり屋でも征服者でも略奪者でもないからである。

★ 亡命者はいろいろなものを、あとに残してきたものと、現実にいまここにあるものという、ふたつの視点からながめるため、そこに、ものごとを別箇のものとしてみない二重のパースペクティブが生まれる。新しい国の、いかなる場面、いかなる状況も、あとの残した古い国のそれとひきくらべられる。知的な問題としてみれば、これは、ある思想なり経験を、つねに、いまひとつのそれと対置することであり、そこから、両者を新たな思いもよらない角度からながめることにつながる。この対置をおこなうことで、たとえば人権問題について考える際にも、ある状況と、べつの状況とをつきあわせることで、よりよい、より普遍的な考えかたができる。

★ 知識人にとって、亡命者の視点といえるものの第二の利点は、ものごとをただあるがままにみるのではなく、それがいかにしてそうなったのかも、みえるようになるということだ。状況を、必然的なものではなく、偶然そうなったものとしてながめること。状況を、自然なもの、神からあたえられたもの、それゆえ変更不可能で、永遠で、とりかえしのつかないものとしてながめるのではなく、男女が歴史のなかでおこなった一連の選択の結果であるとながめること、人類がこしらえた社会という事象としてながめること。

★ 亡命者とは、知識人にとってのモデルである。なにしろ昨今では知識人を誘惑し、まどわし、抱き込もうと、さまざまな褒賞が用意され、さあとびこめ、さあゴマをすれ、さあ交われと、知識人は語りかけられるのだから。また、たとえほんとうに移民でなくても、故国喪失者でなくとも、自分のことを移民であり故国喪失者であると考えることはできるし、数々の障壁にもめげることなく想像をはたらかせ探求することもできる。すべてを中心化する権威的体制から離れて周辺へとおもむくこともできる。おそらく周辺では、これまで伝統的なものや心地よいものの境界を乗り越えて旅をしたことのない人間にはみえないものが、かならずやみえてくるはずである。

<エドワード・W・サイード『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー1998)>




近代最初の男

2014-08-12 17:39:55 | 日記

★ ところでご存じねがいたいことは、上に述べたこの郷士が、いつも暇さえあれば(もっとも一年のうちの大部分が暇な時間であったが)、たいへんな熱中振りでむさぼるごとく騎士道物語を読みふけったあまり、狩猟の楽しみも、はては畑仕事のさしずさえことごとく忘れ去ってしまった。しまいにはその道の好奇心と気違い沙汰がこうじて、読みたい騎士道物語を買うために幾アネーガという畑地を売り払ってしまった。

★ こうやって、手に入るかぎりのそういう書物をことごとく己が家に持ち込んできたのであるが、あらゆるこの種の本の中で、あの名高いフェリシヤーノ・デ・シルバの作ったものほど彼の嗜好に投じた作品は一つもなかった。なぜならその文章の明快な点と、あの独特のこんがらがった叙述が、彼にはまるで珠玉とも思われたからであって、中でもどこを開いても『わがことわりに報い給う、ことわりなきことわりにわがことわりの力も絶えて、君が美しさをなげきかこつもまたことわりなり』などと書いてある、ああいう恋の口説や決闘状を読むに及んでいっそうその感を深くしたからである。それにまた、『星辰をもて君が神性をいとも神々しく力づけ、君をしてその高貴にふさわしきふさわしさに、正にふさわしき人ともなし給ういとも高きみ空……』などというところを読んだ時にはなおさらであった。

★ こういうたいへんな叙述のおかげで、哀れにもこの騎士は正気を失って、これを理解し、その意味を底の底までつきつめようと夜の目も寝ずにつとめたのであるが、こればかりはよしんばアリストテレスがそのためばかりによみがえってきたところで、しょせん意味を引き出すことも理解することもできなかったに違いない。

★ 要するに、彼はすっかりこの種の読物にこったあげく、夜はまだ明るいうちから白々と明けはなれるまで、昼は昼でまだ暗いうちからとっぷりと暮れはてるまで、ひたすら読書三昧にふけった。こんな工合に、ろくに眠りもせず、無性に読みふけったばかりに、頭脳がすっかりひからびてしまい、はては正気を失うようなことになった。数々の妖術だとか、争闘、合戦、決闘、手負い、求愛、恋愛、煩悶だとか、その他さまざまの荒唐無稽な出来事など、すべておびただしい本の中で読んだ、ああいう一切の幻想が彼のうちに満ちあふれ、そうしてああいう彼の読んだ雲をつかむような作り事の一切のからくりはことごとく真実で、彼にとっては世の中でこれより確かな話はないと思われたほど、彼の空想の主座をしめたのだった。

★ まったくの話が、思慮分別をとうの昔に失ってしまって、これまで世の気違いの誰一人として思いつきもしなかったような、およそ奇怪至極な考えにおちいるようなことになったのであるが、それはみずから遍歴の騎士となって、甲冑に身をよそおい、馬に打ち乗り、あらゆる冒険を求めて世界じゅうを遍歴し、遍歴の騎士の慣いとして、かねがね読み覚えたあらゆることをみずから実際に行って、こうしてありとあらゆる非行を正し、かつは数々の危険と窮地に身を挺して、見事これらを克服したあかつきには、名声をとこしえに竹帛(ちくはく)に垂るることにもなるということが、己が名誉をいやますにも、国につくすのにも時宜を得た肝要なことと思われたのである。
<セルバンテス『ドン・キホーテ 前編』(ちくま文庫1987)>


★ 小説の第一部と第二部のあいだ、その二巻の間隙で、書物のみの力によってドン・キホーテはみずからの現実に到達した。言語のみからきて、まったく言語の内部にとどまっている現実に。ドン・キホーテの真実は、語と世界との関係のうちにではなく、言葉という標識がたがいのあいだに張りめぐらすこの厚みのない恒常的関係のうちにあるのだ。幻滅におわる英雄譚の作りごとは、言語の表象能力と化した。語はいま、その記号としての性質にもとづいてふたたび閉ざされるのである。

★ 『ドン・キホーテ』は近代の最初の作品である。なぜなら、そこでは同一性と相違性との残酷な理性が記号と相似とをはてしなく弄ぶのが見られるからであり、言語が物との古い近縁関係を断絶して、あの孤独な王者の地位にひきこもるからであり(これ以後言語は、文学としてしか、その峻険な存在においてこの孤独のなかから姿をあらわさない)、さらにそこで、類似が、みずからにとって非=理性と空想とのそれである、あらたな時代を迎えるからだ。
<フーコー『言葉と物』(新潮社1974)>