Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

どこの誰だか知らないけれど

2010-07-10 12:56:09 | 日記


前にも言ったがぼくは相撲界の不祥事とやらに何の関心もない。

“相撲”に関心がないからである。
いくらぼくに“大相撲が国技だ”などと言っても無駄である。

また“関心がない”ことと、“嫌いである”ことは、必ずしも一致しない。
厳密に言えば、“関心がないこと”は、“嫌いでさえない”ことである。

しかしたとえば、ニュースで以下のようなことが報じられると、それの“一般的問題”については関心がある;

<大相撲独立委にワタミ会長、角界通の学者ら就任へ>アサヒコム2010年7月10日11時11分

大相撲の組織運営の改革について検討する「ガバナンス(統治能力)の整備に関する独立委員会」のメンバーに、居酒屋チェーン大手ワタミの渡辺美樹会長(50)ら11人が就任することになった。日本相撲協会の10日の理事会で正式に決まる。名古屋場所中にも活動を始め、暴力団排除や危機管理、広報体制の強化、親方への指導制度のあり方などについて提言をまとめる。
(引用、以下略)


すなわち、“改革”を提言する人々の顔ぶれである(笑)

上記記事の最後には、この“改革委員会”(それにしても“ガバナンス(統治能力)の整備に関する独立委員会”という名称は大げさかつワケがわからない)のメンバー名と“肩書き”がのっている。

しかしぼくが世間にうといせいか、どなたも存じ上げない。

上記引用部分にある“居酒屋チェーン大手ワタミの渡辺美樹会長”というひとは、どのように“良識あるひと”であるかも知らない。

しかもこの“改革委員会”メンバー11人リストには、“大学教授”が4人もいらっしゃるが、ぼくはひとりも知らない。

《メンバーの人選は、野球賭博問題を検証している協会の特別調査委員会(座長=伊藤滋・早大特命教授)が行った》とあるので、特別調査会座長も“早大特命教授”なのである。

ぼくが早稲田大学を卒業したのは、何十年も前であるが、ぼくは在学中、“大学の先生”という人種には、まったく幻滅したものだった。

ぼくの卒業後、“大学の先生”は、劇的に改善したのだろうか(爆)

たしかに現在にいたるまで、本を通して“お世話になった”大学先生もいる。
そういう方々には尊敬の念を禁じえない(ひともいる;笑)

しかし学者として優秀なひとが、“人格者”であったり、“社会的常識に富む”ことは例外的事実ではないのだろうか。

あるいは、近年の“大学先生”は、学者としては無能だが、“社会的常識のみ”ゆたかな、例の“根回し人種”に進化したのであろうか!

この“ガバナンス(統治能力)の整備に関する独立委員会”(長たらしい)メンバーには、(ナント)、弁護士もノンフィクション作家もいるのである。

そもそもこの委員会(“ガバナンス(統治能力)の整備に関する独立委員会”だよ)の目的は、《批判を浴びている閉鎖社会の活性化に役立てたい》ということなのである。


しかし、
しかし(笑)、

この<閉鎖社会>を形成しているのは、これらの“有識者”と呼ばれる人々の群れではないのでしょうか。

こういう“大学で若者を指導”なさったり、“業界のリーダー”だったり、“暴力対策の専門家”だったり、“辣腕弁護士”だったり、“ちょっと売れてきたナントカ作家”たちが、この《閉鎖社会》を“担って”(つくりあげて)いるよーに、ぼくには見える。

まあここで、ぼくがいくら吠えても、彼等は、そんなことにはまったく動ぜず(アラ負け犬の遠吠えよ)、この<閉鎖社会>を強固にするため、大活躍を続けるであろう。

お勤め、ご苦労さん!






<追記;“日本人”とヤクザ>

上記ブログとはちがう観点であるが、“日本人とヤクザ”というテーマがある。

つまり“日本人”はヤクザが大好きである(ぼくもある意味ではそうだ)

そもそも“ヤクザ”とか“暴力団”とか“裏社会”とかを、どう捉えるかは、複雑な問題である。

ある意味では、企業も政治家も警察も、“ヤクザ”と関係している。
つまり“この社会構造を成り立たせている”ヤクザの役割というものが、たしかにある。
(たとえば、ヤクザはどこにも雇用されないものを雇用している;笑)

それと“心情的美意識”として幻想化されたヤクザ像があり、また“ホンネで生きる人々”というような誤解もあるようだ。

卑近な例では“ビートたけし”というキャラは、“ヤクザ”を売り物にしてきた。
彼の映画は、“ヤクザ映画”である。

それどころか、彼は自分の背後にヤクザがいるという“イメージづくりで”で、だれからも自分を批判させないポジションを築いてきた(つまり“オドシ”をかけてきた)
あるいは“自分自身がヤクザ体質だ”と匂わせてきた(本当にそうである可能性もある;笑)
最近は功なり名をとげて、“毒”も消え、間抜けな“好好爺”になったらしいが。

不破利晴ブログに最近の発言が引用されている;

《政治とカネだって、相撲界で問題になっている暴力団とのつながりだって、日本社会そのものが、なあなあでもってきたのは間違いない。メディアも、大きなものに対して闘うと言っている割には、広告主に対してはずいぶん弱気だったりしてね。最近はそれがばれちゃっているんで、メディアに対してみんなの意見が冷たいんじゃないですかね》(2010年7月3日 ZAKZAKから引用)


まさに《なあなあでもってきた》のは、北野武自身である(笑)

しかしなぜか、《メディアに対してみんなの意見が冷たく》なっても、“タケシ・ファン”はまだいる模様である。

これが<矛盾>である!

いったいいつ“タケシくん”は、《大きなものに対して闘った》のだろうか。

自分こそ、メディアに乗り乗りで、“小股すくい”言説をまき散らす“テレビ村村長”でしかないのに。

テレビとともに消えちまえ。


だがこのテレビ村には、ぼくが’たけし’より嫌いな古株がいる―”タモリ”というイモリの一種である(笑)






大人はわかってくれない、いや、大人はわかっちゃいない

2010-07-10 08:22:31 | 日記


この史上空前の愚劣選挙を前にして、ついに、朝日新聞は“言うことがなくなって”、子供の振りをすることにした。

今日朝日新聞社説である;

《わあ、どうしよう! 目覚めたら、子どもになっていた。あすは選挙だというのに。でもせっかくだから、子どもの立場になって考えてみた――。》

《政治家が子育て、子育てって言うのは「少子化対策」のためだって。弟や妹はたくさんいたら楽しいけど、父さん母さんには、そんな余裕もトキメキもなさそうだからね。
 でも、ただ子どもが増えればいいのかな。政府が調べたら、子どもの7人に1人は貧しい家庭なんだって。ショックだった。不幸せな子を減らすことにも、力を入れてほしいんだけど。
 えっ? 選挙権がないくせに、ナマイキな口をきくなって……。
 ――あなた、変な夢でも見てたの。さあ、大事な選挙。投票に行くわよ! 》
(以上引用)


子供の口真似をしても無駄である。
子供は子供のようにしか考えない。
大人の口真似をするのも、子供である。

ぼくは明日の選挙は棄権する。
怒りを込めて棄権する。
(といっても、ぼくはあなたに棄権せよとは言わない)



天声人語はシャガールの話題。

《上野の東京芸大美術館でシャガール展が始まった(10月11日まで)》だそうだ。
ひさしぶりに見に行こうか、と思う。

解説はいらない、エピソードもいらない、絵を見たい。





夏休みの読書

2010-07-10 07:44:19 | 日記


ふくらはぎの‘こむらがえり’の激痛で目覚めると、昨夜の雨とうってかわって、夏の日差しが満ちていた。

このところ(ぼくとしては)仕事の日々が多く、とても疲れている。

ときどき、ぼくは本を読むのが好きなのではなく、本を買うのが好きなのでは、と思う(笑)
1冊の本を読み終わらないうちに、次々と新しい本に手をだす。
ぼくの周りには本棚に収容しきれない本の山が増えてしまった。

たしかに、<本屋>へ行くこと自体が、この日常のトリビアからの逃避であった。
そこには、いまでもシーンとした空間があって(大書店の“思想書”や“海外文学”コーナーとか;笑)、そこに、だれが手に取るかわからない本たちがひっそりと顔をしかめている。

それはこのテレビ的喧騒に満ちた世界の、裂け目であった。

夏休みがあっても、なくても、夏休みの読書を計画するのはよいことである。
結局“夏休み”に読めなくても。

たとえば第1集・第2集が完結し、第3集が追加刊行される“池澤夏樹個人編集”による河出世界文学全集を全部読む(笑)
この今月から刊行される“第3集”には、“短篇コレクション”や石牟礼道子『苦海浄土3部作』が収録される。

ぼくはこの世界文学全集を3冊しか買ってないが、この1冊=トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』とル・クレジオ『黄金探索者』の組み合せほど、夏休みにふさわし読書はあろうか!
海に行けないひとでも、海の匂いを嗅ぎ、海鳴りの音を聴く。

あるいは、ちくま学芸文庫の“ベンヤミン・コレクション”の4冊。

このコレクションを編纂した浅井健次郎は“コレクション3 記憶への旅”の解説に書いている;

★ いまだ批評ではない、しかしすでにその萌芽を孕んでいる、なんらかのイメージ、すなわち心象、あるいは思考像―ひとつの面影、ひとつの名、ひとつの瞬間、ある表情、ある匂い、あるいは手触り、歩行中のちょっとした閃き、記憶に蘇ってきた風景の、また忘却を免れた夢の破片、ある作品のほんの一行、映画の一シーン、成就されることのなかった希望、など。いずれも、現実と幻想のあいだに、記憶と妄想の、経験と夢のはざまに、現在と過去との閾に漂っている、想いの断片である。そこになにかしら捨ておきがたい引っ掛かりが感じられ、するとそのときすでに、思考は運動を始めている。


この“コレクション3”の巻頭には、ベンヤミン自身の言葉がある;

★ 正午頃になると、影たちはわずかに、事物の足元にへばりついた黒く鋭い縁取りとなっていて、音もなく不意に、それぞれの巣穴のなかへ、それぞれの秘密のなかへ引き籠もる手筈を整えている。するとそこには、押しひしめき身をこごめて溢れんばかりに、ツァラトゥストラの時間(とき)がやってきているのだ、<生の真昼>の思索者、<夏の庭>の思索者の時間が。というのも、認識は太陽と同じく、その軌道の頂点において事物を最も厳密に象る(かたどる)のだから。
(「短い影」1929および1933)