前にも言ったがぼくは相撲界の不祥事とやらに何の関心もない。
“相撲”に関心がないからである。
いくらぼくに“大相撲が国技だ”などと言っても無駄である。
また“関心がない”ことと、“嫌いである”ことは、必ずしも一致しない。
厳密に言えば、“関心がないこと”は、“嫌いでさえない”ことである。
しかしたとえば、ニュースで以下のようなことが報じられると、それの“一般的問題”については関心がある;
<大相撲独立委にワタミ会長、角界通の学者ら就任へ>アサヒコム2010年7月10日11時11分
大相撲の組織運営の改革について検討する「ガバナンス(統治能力)の整備に関する独立委員会」のメンバーに、居酒屋チェーン大手ワタミの渡辺美樹会長(50)ら11人が就任することになった。日本相撲協会の10日の理事会で正式に決まる。名古屋場所中にも活動を始め、暴力団排除や危機管理、広報体制の強化、親方への指導制度のあり方などについて提言をまとめる。
(引用、以下略)
すなわち、“改革”を提言する人々の顔ぶれである(笑)
上記記事の最後には、この“改革委員会”(それにしても“ガバナンス(統治能力)の整備に関する独立委員会”という名称は大げさかつワケがわからない)のメンバー名と“肩書き”がのっている。
しかしぼくが世間にうといせいか、どなたも存じ上げない。
上記引用部分にある“居酒屋チェーン大手ワタミの渡辺美樹会長”というひとは、どのように“良識あるひと”であるかも知らない。
しかもこの“改革委員会”メンバー11人リストには、“大学教授”が4人もいらっしゃるが、ぼくはひとりも知らない。
《メンバーの人選は、野球賭博問題を検証している協会の特別調査委員会(座長=伊藤滋・早大特命教授)が行った》とあるので、特別調査会座長も“早大特命教授”なのである。
ぼくが早稲田大学を卒業したのは、何十年も前であるが、ぼくは在学中、“大学の先生”という人種には、まったく幻滅したものだった。
ぼくの卒業後、“大学の先生”は、劇的に改善したのだろうか(爆)
たしかに現在にいたるまで、本を通して“お世話になった”大学先生もいる。
そういう方々には尊敬の念を禁じえない(ひともいる;笑)
しかし学者として優秀なひとが、“人格者”であったり、“社会的常識に富む”ことは例外的事実ではないのだろうか。
あるいは、近年の“大学先生”は、学者としては無能だが、“社会的常識のみ”ゆたかな、例の“根回し人種”に進化したのであろうか!
この“ガバナンス(統治能力)の整備に関する独立委員会”(長たらしい)メンバーには、(ナント)、弁護士もノンフィクション作家もいるのである。
そもそもこの委員会(“ガバナンス(統治能力)の整備に関する独立委員会”だよ)の目的は、《批判を浴びている閉鎖社会の活性化に役立てたい》ということなのである。
しかし、
しかし(笑)、
この<閉鎖社会>を形成しているのは、これらの“有識者”と呼ばれる人々の群れではないのでしょうか。
こういう“大学で若者を指導”なさったり、“業界のリーダー”だったり、“暴力対策の専門家”だったり、“辣腕弁護士”だったり、“ちょっと売れてきたナントカ作家”たちが、この《閉鎖社会》を“担って”(つくりあげて)いるよーに、ぼくには見える。
まあここで、ぼくがいくら吠えても、彼等は、そんなことにはまったく動ぜず(アラ負け犬の遠吠えよ)、この<閉鎖社会>を強固にするため、大活躍を続けるであろう。
お勤め、ご苦労さん!
<追記;“日本人”とヤクザ>
上記ブログとはちがう観点であるが、“日本人とヤクザ”というテーマがある。
つまり“日本人”はヤクザが大好きである(ぼくもある意味ではそうだ)
そもそも“ヤクザ”とか“暴力団”とか“裏社会”とかを、どう捉えるかは、複雑な問題である。
ある意味では、企業も政治家も警察も、“ヤクザ”と関係している。
つまり“この社会構造を成り立たせている”ヤクザの役割というものが、たしかにある。
(たとえば、ヤクザはどこにも雇用されないものを雇用している;笑)
それと“心情的美意識”として幻想化されたヤクザ像があり、また“ホンネで生きる人々”というような誤解もあるようだ。
卑近な例では“ビートたけし”というキャラは、“ヤクザ”を売り物にしてきた。
彼の映画は、“ヤクザ映画”である。
それどころか、彼は自分の背後にヤクザがいるという“イメージづくりで”で、だれからも自分を批判させないポジションを築いてきた(つまり“オドシ”をかけてきた)
あるいは“自分自身がヤクザ体質だ”と匂わせてきた(本当にそうである可能性もある;笑)
最近は功なり名をとげて、“毒”も消え、間抜けな“好好爺”になったらしいが。
不破利晴ブログに最近の発言が引用されている;
《政治とカネだって、相撲界で問題になっている暴力団とのつながりだって、日本社会そのものが、なあなあでもってきたのは間違いない。メディアも、大きなものに対して闘うと言っている割には、広告主に対してはずいぶん弱気だったりしてね。最近はそれがばれちゃっているんで、メディアに対してみんなの意見が冷たいんじゃないですかね》(2010年7月3日 ZAKZAKから引用)
まさに《なあなあでもってきた》のは、北野武自身である(笑)
しかしなぜか、《メディアに対してみんなの意見が冷たく》なっても、“タケシ・ファン”はまだいる模様である。
これが<矛盾>である!
いったいいつ“タケシくん”は、《大きなものに対して闘った》のだろうか。
自分こそ、メディアに乗り乗りで、“小股すくい”言説をまき散らす“テレビ村村長”でしかないのに。
テレビとともに消えちまえ。
だがこのテレビ村には、ぼくが’たけし’より嫌いな古株がいる―”タモリ”というイモリの一種である(笑)