青山真治『サッド・ヴァケイション』読了。
これで、昨日書いた『EUREKA(ユリイカ)』にはじまる“3部作”を読み終えることができた。
ぼくは小説以外の本を、読んだり、読み終わったとき、呆然とすることは、あまりない。
だが“小説”の場合は、そういうことが多い。
“呆然とする”というのは、“感動した”ということとは、ちがう。
ある意味では、“割り切れなさ”という感じである。
この小説を読んでいるとき、なぜかドストエフスキーという名前が頭に点滅した、それから村上春樹が。
それは、この小説が、“ドストエフスキー的である”とか“春樹的”であるわけでは、ない。
そういうことをいうなら、この小説は“中上健次的である”というより、はっきりと“中上健次に依拠”している。
だいいいち、主人公の名が<健次>である(笑)
実は昨日、この青山真治3部作についてブログを書くとき、(ぼくにはめずらしく)この3部作の登場人物の“相関図”をメモ書きしてみた。
ほんとうは、青山真治の<映画>と<小説>の関係について考えなければならないが、ぼくは映画は「EUREKA」しか見ていない。
青山氏の“映画デビュー”は、1996年の「Helpless」である、“そのあとで”映画「EUREKA」(2000)を撮っている。
しかし<小説>は、映画の後に、「EUREKA」は2000年に、「Helpless」は2002年に書かれている。
この“順番”も興味深い。
なぜ青山真治は、映画の“あとに”小説を書く“必要”があったのだろうか?
しかしこれは映画を見ないと、考えられない。<注>
ここでは、小説を手がかりに考えている。
すなわち、青山氏の“最初のモチーフ”は、<Helpless>だったということ。
この短篇の主人公は、<秋彦>と<健次>である。
またここでの事件は、“ドライブイン殺傷事件”である。
<Helpless>の次ぎの<EUREKA>に登場するのは、<秋彦>のみであり、ここでの主役は、“バスジャック事件”に巻き込まれた<沢井>と<直樹&梢>の兄妹である。
さらに3作目の<サッド・ヴァケイション>の主役は<健次>であり、さらに最初と最後に<秋彦>があらわれる。
そして、<梢>がいて、3作を貫徹する人物としての<ユリ>がいる。
『サッド・ヴァケイション』は、“家族の血の絆”の否定性を描いた小説であろうか?
それを体現するのは、“健次を捨てた母(千代子)”である(だろうか?)
ここにおいて、中上健次3部作における<父殺し>(その代行としての“タネのちがう”弟殺し)は、<母殺し>へと反転したのだろうか。
もちろん、<母殺し>は失敗するのである(笑)
ならば、この青山真治3部作における“肯定的人物”とは誰か?
いちおう、沢井(『EUREKA』バス運転手)-間宮(『サッド・ヴァケイション』における健次を捨てた母の再婚相手であり、社会のはぐれものを雇用する間宮運送社長)である。
『サッド・ヴァケイション』のラスト近くにおいての、秋彦の問いに答える間宮の言葉は、ひとつの回答を示している。
秋彦は思う;
★間宮の考えは首尾一貫していた。少なくとも間宮に神などない。正義などない。それがわかって秋彦はなにかちがうもの、生きていく上で必要な、新しい何かを見つけたように思えた。
★秋彦はじっとしていられないような興奮を覚えた。そして、それがよいことだと断じるのではなく、いまそれをすべて受け容れる必要がある、と悟った。いま受け容れなければ、もうこのような考えに出会うことは二度とないだろう。
(引用)
だがしかし、『サッド・ヴァケイション』のラストは、なにを意味するのか。
最後にあらわれるのは、間宮運送の“過去を持つ男のひとり”を奪いに来た“ヤクザたち”とその男を護る間宮社長とその“風采の上らない”従業員たちの<あいだ>をただよう、“ユリが吹いた”シャボン玉である。
<ユリ>は痴呆の少女である。
<千代子>(健次を捨てた母)にとって、<男>は、“ホント、男の人らは好きにしたらええのよ、こっちは痛くも痒くもない。子供がおるけんね》である。
またその<人生観>は、“ひとり減ればひとり増える、ようできとるねえ”である。(笑)
<男たち>は、気づかない。
千代子という<母>の女の原理に気づかないだけではない。
この<シャボン玉>にも、気づかない(と、青山真治は書いている)
中上健次3部作の第2部(『枯木灘』)で刑務所に入った<秋幸>は、第3部『地の果て至上の時』の巻頭で、出所し、<路地>に帰ってくる。
青山真治における<健次>が帰ってくる小説は書かれるであろうか、<秋彦>との再会と、ユリや梢(や直樹)の運命の展開は、ありえるのだろうか?
<注>
そもそもぼくは、青山真治の<映画>を評価できる(肯定評価できる)か否かもわからないということである。
Amazonで見ると、出たばかりの青山氏の『シネマ21 青山真治映画論+α集成2001-2010』の紹介文にはこうある;
《ゴダール、イーストウッド、スピルバーグ--21世紀の映画は、ここから始まらなければならない。3人の映画作家が織りなす三つ巴の関係によって刻印されたシネマの10年=新たな映画史を一望する、映画論+書評&エッセイ集。蓮實重彦氏絶賛!》
ぼくはこの本を読んでないのでわからないが、この紹介文通りだとすると、青山氏の“映画の趣味”は、ぼくとはまったく異なっていることになる。
すなわち、ぼくは“イーストウッド、スピルバーグ”をまったく認めないからである(笑)
もっと大きな問題であるが、ぼくにとっては<映画>と<小説>(の趣味)は、まったく異なっている。