このごろつくづく思うのだが、けっきょくある個人の意見というのは、“好きか嫌いか”ということで決定されているのではないでしょうか?
“一般に”、こういう態度は、“感情的”と言われる。
たしかに、それはそうなんだが、“人間”というのは、感情的動物で“ない”のだろうか。
“だから”感情的でない、“公平な判断を求める”というのは、わかる。
しかし、まず自分が、“どーしてそれが嫌いか”あるいは“どーしてそれが好きか”を熟考する必要があるように思える。
けれども、残念なことに、熟考しても“わからない”場合も多い(ぼくの場合)
そうなると、“幼児期が決定する”というようなことも考えられる。
“遺伝子が決定する”というような、考えもあり得る。
つまり、死刑に反対するとか、憲法を改訂したい、というのも、遺伝子が決定したり、幼児期の環境が決定している。
もちろん、この場合も、遺伝子が決定するのと、幼児期が決定するのでは、“ちがうこと”である。
もっと厳密な人は、遺伝子はある素質であり、幼児期の環境も相対的であって、“環境”といっても、幼児期だけが問題でなく、歳を取っていく、“すべての段階の環境”が影響すると言う。
たしかに、そう言われればその通りであるが、だんだん問題がわかったようなわからないようなことになってくる。
“原因”はよくわからないのだが、この現在において、ぼくはあるものが好きなのに、あるものが好きでない。
好きか嫌いかわからない“グレイゾーン”も存在するが、そういうことは、要するに関心がないのであって、ぼくの人生には関与しない。
けっきょく、現在において、なぜか、アレは好きだが、アレは嫌いであるというのが、<ぼく>を定義する。
そして、<ソレ>を人に言うときには、なんやかんやと理屈をつける(笑)
私が好きなものが、真理だとか正義だとか“言いたい”わけである。
ぼくがよくわからない“タイプ”は、以上のよーなことを自覚していないひとである(爆)
“私の好きなことは、多数が好きである”と論証するひとである。
“私が嫌いなことを、多数も嫌うべきである”と論証するひとである。
もちろん、ぼくにもこのような“傾向”はある。
“ブログ”をやっていてよかったのは、そのことが、わかったことである(笑)
だからぼくは、せめて、自分の好きなものは好きであり、自分の嫌いなものは嫌いであることを、明瞭にしたい。
先日このブログに書いた(引用した)<美人投票>の逆である。
たとえば、ぼくはどうして小林秀雄が嫌いで、森有正が好きだったのか。
どうしてぼくはビートルズが好きなのに、それに影響を受けたJ-POPが嫌いなのか(笑)
中上健次が好きで、村上春樹が嫌いなのか。
もっと“微妙”なこともある。
日本の“同世代”のふたりの人物、加藤周一と堀田善衛。
ぼくは加藤は比較的読み、“嫌いでなく”、堀田はほとんど読んだことがなかった。
しかしごく最近、堀田善衛を読みはじめて、加藤周一というひとが“あまり好きでない”ことが、“わかった”。
だから、このことは、きわめて“主観的”なのである。
あるひとりの人に対する、“好き嫌い”も年齢によって変わるのである。
ぼくの場合、さきほど挙げた“村上春樹”が劇的にそうである。
“吉本隆明”もそうである。
“大江健三郎”もそうである(笑)、大江はいったん嫌になって、近年また好きになった。
もちろん、“ずっとすきなひと”もいる(ずっと嫌いなひともいる!)
だがこの場合も、なぜ自分がそのひとを、ずっと好きで“いられるのか”は、本当はよくわからない。