Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

カーニバルの朝

2012-12-31 13:50:28 | 日記

★ 「新しい天使」と題されたクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見詰めている何かから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去の方に向けている。私たちには出来事の連鎖が立ち現われてくるところに、彼はただひとつの破局だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。

<ヴァルター・ベンヤミン“歴史の概念について Ⅸ”―『ベンヤミン・コレクションⅠ』(ちくま学芸文庫1995)>



★ 新しい古文書学者が町に任命されてきた。しかし、ほんとうに任命されたといえるだろうか。むしろ、彼は自分の方針にしたがってふるまっているだけではないだろうか。彼はひとつのテクノロジーの代弁者、構造主義的なテクノクラートの新しい代弁者である、と憎しみをこめて言うものがある。また、じぶんの愚かなお喋りを気のきいた洒落と勘違いして、この男はヒットラーの回し者、あるいはとにかく人権をおびやかしている、と言うものもある(彼が「人間の死」を宣言したことが、彼らには許せないのだ)。また、彼はどんな権威あるテキストにも頼ろうとはせず、ほとんど大哲学者を引用することもないペテン師だ、と言うものもある。これとは逆に、何か新しいもの、根本的に新しいものが哲学のなかに生まれ、その著作は決して自分では望まない美しさを備えている、と言うものもあるのだ。まるで祝祭の朝のように。

<ジル・ドゥルーズ『フーコー』(河出文庫2007)>



★ 古典主義時代において自然らしさと模倣に与えられていた重要性、それがおそらく、文学における《真理性》の機能を表現する最初の方法の一つだった。そこにおいてフィクションが寓話性にとって代り、伝奇的なるものの境界を小説が飛び越え、それは、より完全に伝奇的なものから自由になって行くことにおいて展開して行くことになるのである。こうして文学は、西欧が日常的なるものをディスクールの中に置くことを余儀なくさせるときに用いる強制の、大いなるシステムの一環を担うものとなる。しかし、文学はそのシステムにおいて特異な場所を占める。日常的生をその下層に向けて探査することに集中し、その限界を超え、隠匿された秘密を容赦なく或いは巧妙に暴き出し、規則やコードをずらし、明かし得ぬものを語らせることに熱中しながら、文学は自ら法の外に出て行こうとし、或いは少なくとも、自らに醜聞と侵犯或いは反抗を引き受けようとするだろう。すなわち、他の如何なる形式の言語活動にもまして、文学は《汚辱》のディスクールであり続ける。すなわち、もっとも語り難きもの――もっとも悪しきもの、もっとも秘匿されたもの、もっとも苛責なきもの、もっとも恥ずべきものを語るのが文学なのである。

<ミシェル・フーコー“恥辱に塗れた人々の生”― 『フーコー・コレクション6』(ちくま学芸文庫2006)>







人生の再構築;世界を別様に見る

2012-12-18 16:49:55 | 日記

加藤周一『夕陽妄語』1991年6月18日。
アルチュール・ランボー(1854-1891)死して100年忌に;

★ パリ・コミューンの頃のパリに、少年ランボーがあらわれたとき、その出現は、単に詩人仲間にとってではなくて、フランス語の文学にとって、したがってまたフランス文化一般にとっての衝撃的事件であった。その衝撃は、二重であり、一面では、詩=言葉の革新性、他面では、詩人の生き方=思想の挑発性であった。その思想の内容は、同じ頃ドイツにあらわれたもう一人の青年ニーチェの言葉を借りれば、「善悪の彼岸」ということに要約されよう。後のニーチェは、その「彼岸」に「権力への意志」を見たが、ランボーは個人の絶対的な「自由」を見た。

★ ランボーが詩を書いていたのは、パリ・コミューンの後5年ばかりのことにすぎない。その天才詩人と、その後文学を離れて欧州各地に放浪し、ついに東アフリカの貿易商人として暮らしたもう一人のランボーがいる。二人のランボー。その間に関係なしとして、詩人を採り、貿易商人を捨てるのが、ランボーを論じてきた多くの人の、ほとんど伝統であった。彗星の如くあらわれて、彗星の如く消えた天才は、李賀の如く、実朝の如し。消えた後のことは、どうでもよろしい……。

★ しかし果たして二人のランボーの間には関係がなかったのか。この貿易商人は、エチオピアとソマリアの南部、当時の西欧人にとっては前人未到の地へ入ることに熱心であった。前人未到の地は貿易の手段でなく、貿易が探検の、さらには地理学的調査と記録の、手段であるべきはずであった。そのことと、詩において前人未到の地を開き、世界を別様に「見る」こととは、関係がないものかどうか。

★ 二人のランボーではなく、実は一人のランボーがいたのではないか。――そういう考えを、最近フランスの詩人アラン・ジュッフロアは、アフリカのランボーの足跡を詳しく追いながら、明示しようとした。

★ 二人のランボーを統一する原理は何か。ジュッフロア氏によれば、個人の絶対的自由、ランボー自身の言葉によれば、「自由なる自由」である。その自由は、世界を別様に「見る」ことにおいて実現し、世界を別様に見るためにこそ、麻薬があり、同性愛があった。さらに同じ自由の実現が、永遠の旅、未知の現実へ向かっての旅でもある。かくして詩人ランボーとアフリカのランボーを一貫しているのは、人生が詩(または仕事)のためにあるのではなく、詩(または仕事)が人生のためにある、という考えである。あるいは、むしろ、人生と詩(または仕事)を含めて、その全体が「自由なる自由」の自己実現であるほかない、――という思想が、ジュッフロア=ランボーの根底にあるといってもよかろう。

★ 詩がすべてに優先するという考えは、詩と詩人の社会からの孤立の基本的問題である。そういう考えを支える文化的伝統はもはやない。孤立が破られるとすれば、詩を含めての人生の再構築によるほかはなく、決して詩の作り方などによるのではない。百年前の詩人が見抜いていたのは、おそらく、そういうことである。

<加藤周一『夕陽妄語 第2輯』(朝日選書1997)>







歌 D

2012-12-13 11:04:15 | 日記

見田宗介『現代日本の感覚と思想』(講談社学芸文庫1995)におさめられた「現代日本の感覚変容」の“補”として、“愛の変容/自我の変容”という論考がある。

これは1970年から90年までの「朝日歌壇」の主要な歌を集めた本から、見田宗介がいくつかの歌をひろって、論じたものだ。

ぼくは当時、朝日新聞の購読者だったが、「朝日歌壇」を読むことはなかった。
ここにあげられたいくつかの歌からさらにぼくが好きなものを、引用したい;

★ 一人の異端もあらず月明の田に水湛え一村眠る

★ 犇めきて海に堕ちゆくペンギンの仲良しということの無残さ

★ 閑散たる二十四時間レストランこんな時だけ秋を感じて

★ 受信器がきょう傷ついているのです誰の電話もとらずにいます

★ 雲の影流れる校庭見下ろせば一夏前の君が駆けている

★ 聖母などとわれを崇める男いて気楽ねと言い友と酒飲む

★ 男でも女でもない友達が欲しい雨降る東京の夜

★ 時計屋のすべての時計狂えりきまひるの静かなる多数決

★ 炸裂するTOKIOの隅の六畳で我は静かに狂いはじめる

★ 酩酊せん酩酊せん人と人の間に暗き国境あり

★ 現実を空しいだけの比喩にする、君さえ此処に居れば歌わず

★ ためらわず車椅子ごと母を入れナース楽しむねこじゃらしの原

★ それぞれにそれぞれの空があるごとく紺の高みにしずまれる凧







“化けて出てくれ”

2012-12-12 19:35:03 | 日記

加藤周一、1987年9月17日“夕陽妄語”;

★ 太平洋戦争のいくさの末期、フィリピンで死んだ敗戦の日本軍部隊の仲間たちに、「化けて出てくれ」と大岡昇平がよびかけたのは、1958年、岸信介内閣が安保条約改定交渉を始めた年である。半世紀(1937-1986)にわたる大岡氏の戦争についての発言を集めて最近出た本、『証言その時々』(筑摩書房1987)にも、そのよびかけは載っている。化けて出て、どうするのか。もちろん反戦反軍備を、生き残った日本国民に訴えるためである。

★ 国民をだます人物を、国民は支持することがある。(……)1930年代の日本でも、国民をだまして中国侵略戦争を始めたのは軍人だが、その戦争を支持したのは国民の圧倒的多数であった。これが国民の支持というものである。

★ しかしまた国民の多数の「無関心」ということもある。1945年8月、日本降伏のときに、大岡昇平は俘虜として米軍の収容所にいた。そうしてこう書いている、「日本降伏の一時間後の、これら旧日本兵士の状態は無関心の一語に尽きる」と。そしてその後に、「これが人民の自然の反応であるか、一年の俘虜生活の結果であるかも決定できない」というのである。

★ 私は「日本降伏一時間後」を内地のある病院で経験したが、おそらくそれは日本国の「人民の自然の反応」であったろうと考える。またそれは日本国の人民に限らず、一般にどこの国でも、人民の自然の反応であり得るだろう、と思う。人民は侵略戦争を支持し、その悲惨な結果に無関心であり得る。それは遠い昔の話ではなくて、われわれが生きている現在の世界の話である。

★ 確かに明るい話ではない。しかしそういうことを知った上で、それでも戦争や核兵器に反対する何人かの個人が常にいて、死んだ仲間たちによびかけ、化けて出てきても戦争反対の志を伝えてくれ、ということもある。だから少しは明るいのである。

<加藤周一『夕陽妄語 第一輯』>







女と男のいる舗道

2012-12-07 12:36:19 | 日記

★ ゴダールのテクニックの本質は、この映画劈頭のクレジット・シークエンスと第一エピソードにそのすべてが現われている。クレジットは、非常に暗くてほとんどシルエットになっているナナの左のプロフィルの上に現われる。クレジットが続いているあいだ、彼女の正面が、次に右顔が、依然として黒々とした影で、映される。ときおりナナはまばたきしたり、わずかに顔を上げたり(長い時間じっとしているのが不快だとでもいうように)、また唇をなめたりする。ナナはポーズをとっている。彼女は見られているのだ。

「ひよこには内側と外側があります。外側を取ったら内側が見えます。内側を取ったら魂が見えます。」

★ ひよこの話はこの映画でゴダールが言わんとすることを確証するたくさんの「テクスト」のうちの最初のものである。というのは、言うまでもなく、ひよこの物語はナナの物語であるからだ。『女と男のいる舗道』で、われわれはナナが裸になるのに立ち合う。ナナが彼女の外側、つまり昔の彼女を脱ぎ捨てたところから映画は始まる。やがていくつかのエピソードのうちに現われる新しい彼女とは、売春婦としての彼女である。ただし、ゴダールの関心は心理にあるのでもなければ売春の社会学にあるのでもない。彼は人生という環境領域から離脱する行動の最もラディカルな隠喩として、売春を取り上げる――実験演習地として、何が人生の本質で何が余計なものかを探究するひとつの試練として。

★ 『女と男のいる舗道』(原題:”彼女の生を生きる”)全体がひとつのテクストと見なせるかもしれない。それは明晰さのテクスト、明晰さの探究である。つまり、まじめさ(シリアスネス)についての映画なのだ。

★ この映画のテクストで知的に最も精巧に創られているのは、<エピソードⅥ>のナナと哲学者がカフェで交わす会話である。(演じているのは哲学者のブリス・パラン)ナナは人間はなぜ言葉がなければ生きていけないのかと訊く。パランは、話すことは考えることに等しく、考えることは話すことに等しい、思考のない生はないのだ、と説明する。話すこと、話さないことが問題なのではなく、いかに上手に話すかが問題なのだと。上手に話すには、禁欲的な修養が、超脱性(デタッチメント)が必要である。たとえば、まっすぐに真実が得られることはない、ということを理解しなければならない。過ちは必要なのだ。

★ 会話の始めのほうでパランは、はじめて考えたために死んでしまった行動の人デュマ・ポルトの話をする。(ダイナマイトを仕掛けて大急ぎで逃げる途中、ポルトはふと、ひとはどうして歩けるのだろう、どうして足を交互に前へ出すのだろう、と考えはじめた。彼は立ち止まった。ダイナマイトが炸裂した。彼は死んだ。)

★ 自由には真理的内面性がないということ――魂は人間の「内面」にのっかっているのではなく、「内面」がはぎとられた後に見つかるものだということ――は、『女と男のいる舗道』が示すラディカルな精神訓示である。

★ ゴダールは自分の「魂」観と伝統的キリスト教のそれとの違いに完全に気づいている、とひとは考えるであろう。ドレイエルの『裁かるるジャンヌ』の挿入がまさにこの違いを強調している。というのは、われわれが見せられる場面は、若い牧師(演じているのはアントナン・アルトー)がジャンヌに火刑を告げにくるところだからである。ジャンヌは思い悩む牧師に向かって、自分の殉教は真実のところ自分の解放なのだ、と確言する。

★ 『女と男のいる舗道』の12のエピソードは、ナナの十字架の道行の留である。だがゴダールの映画では、聖性と殉教の価値は完全に世俗の次元へ移しかえられている。ゴダールはパスカルではなくモンテーニュをわれわれに差し出す。それはブレッソンの精神性の雰囲気と強烈さに近いものだが、カトリシズム抜きのブレッソンである。

<スーザン・ソンタグ『反解釈』(ちくま学芸文庫1996)>







なにも変わらないのか?!

2012-12-06 16:11:50 | 日記

このところ加藤周一の『夕陽妄語 第一輯』を読んでいる。

『夕陽妄語』は1984年から朝日新聞に月1回のペースで連載された(たぶん2006年まで)
その第一輯は1984年7月から1987年12月まで。

この1984年~1987年の年月、自分がどのように生きて、世の中とかかわっていたかを思い出す(思い出せるなら!)のもいいだろう(まだ生まれてなかったひとは、自分の親の時代を想像せよ)

たしかに、政治の話題などでは、ああそんなこともあったなぁ、だがもはや(現在とは)カンケーない、と思うことも多いだろう(当時の“政治家”が中曽根とレーガンだったとか)

これを読んでいて、時代は変わったと思うことも、時代はさっぱり変わらなかったと思うこともできる、あるいは加藤周一の状況認識が、ある種の“予言”と感じられることもある、その一例;

★ 日本の新国家主義が将来どういう方向へ発展するかは、それが国際化とどういう風に係わるかによって決まるにちがいない。経済の国際化が、心情の領域にも及べば、新国家主義が狭量で破壊的な「イデオロギー」に結晶する可能性は、少ないだろう。しかし経済の合理主義が国家主義的心情と矛盾したまま結びつけば、――そういうことは経済危機を前提としなければあり得ないだろうが――破壊的な狂信主義を生みだすかもしれない。

★ 年の暮れに、私は一年をふり返って、そういうことを考えた。やがて街には、あの恐るべき「ジングル・ベル」が鳴りひびき始めるだろう。「テレビ」の報道番組には、にこにこ笑う、うれしそうな顔の女が出てきて、幼稚園で何がおこったか、動物園で何がどうなったか、という話をする。週刊雑誌は、どこの店で何を食べるとうまいか、うまいものをつくるにはどういう料理法があるか、というようなことを、微に入り細を穿って書く。まるで「メディア」が全力を挙げて、日本国には何の問題もなく、万事がうまくいっていて、めでたい、めでたいとくり返しているかのようである。もし私が中米の国から帰ってきたばかりでないとすれば、私自身もそういう気になるのかもしれないが・・・。
(1986/12/19)

<加藤周一『夕陽妄語 第一輯』(朝日選書1997)>


以上は今年書かれた文章ではない、ほぼ25年前である(笑)、この引用文での“将来”とは“現在”のことである。

“街”は変わったろうか?
“テレビ”や“週刊雑誌”などの“メディア”は変わっただろうか?
“WEB(蜘蛛の巣)”は政治を動かすのだろうか!

もっと“紙に印刷された言葉”をていねいに読む必要はないのだろうか?




<追記>

ぼくがここで言いたいのは、“加藤周一”がすぐれた思想家(先見の明があるとか)ということではない。

その時代に書かれた言説は、その時代の“現在”であり、その時代に予測されたことは“現在”(=この現在、2012/12/06)にとっていかなる意味を持ちうるかということ。

それは、あらゆる“本”が、新刊書でない限り、次々と“昔の本”になっていくという単純な事実による。

すなわち、“過去の本(書かれたもの)”を、この現在においていかにして読むのか(そこから“意味”をくみとるのか、それが現在にとって有意義であるために)

もちろんこの“過去”は、宇宙史とか地球史とか生命史とか人類史とか世界史とか日本史とかで、ありうる。
あるいは、“近代史”とか“現代史”とか“戦後史”とか“同時代史”でもありうる。

ぼくの場合、たまたま生まれたのが1946年なので、“戦後史”が同時代史である。
その戦後という時代に、いかなる言葉が書かれたのか、に注目せざるをえない。

戦後と同じ時間を生きなかったひと(もっとあとで生まれたひと)にとっても、“目の前にあるもの”の背後を知るためには、この60余年に書かれたものを参照することは必須であると思われる(このことはもっと昔に書かれた“いわゆる古典”を排除しない)

しかし“すべて”を読むわけにはいかないから、たとえば、加藤周一、見田宗介(真木悠介)、辺見庸、藤原新也というようなひとを、“ならべて”読んでみるのも、ひとつの選択だと思う(これらの人々にも歴史はすでにある)

もちろん“目の前にいるひと”から選択し、あなたがなにを読もうと勝手である。




<追記B>

たとえば見田宗介も1985年~1986年に朝日新聞に論壇時評を書いている。
これをまとめたものが『白いお城と花咲く野原』(なんというタイトル!)として朝日新聞社から出ている、さらに講談社学術文庫『現代日本の感覚と思想』の第2部に全48回中28篇がおさめられている、最近刊行の『著作集』にも入っているだろうがぼくは未確認)

タイトルにもなった時評“白いお城と花咲く野原”は1986年7月29日の日付をもっている、その書き出しはその年の『ユリイカ』7月号で今泉文子が引用しているブレヒトの“反民話(あるいはメタ・メルヘン)”の再引用である;

★ 《 むかしはるかなメルヘンの国にひとりの王子様がいました。王子様はいつも花咲く野原に寝ころんで、輝く露台のあるまっ白なお城を夢見ていました。やがて王子様は王位について白いお城に住むようになり、こんどは花咲く野原を夢見るようになりました 》

つまり1980年代の朝日新聞の“論壇時評”はこのようにおもしろかった。

これが“おもしろくない”ひとは、ぼくとは趣味が合わないだけである。







希望について(”揺らぎ”について)

2012-12-05 12:55:09 | 日記

新生児仮死の後遺症により脳性まひの障害を持つ熊谷晋一郎さんへのインタビューから(TOKYO人権 第56号);

<自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと>

新生児仮死の後遺症により脳性まひの障害を持つ熊谷晋一郎さん。“健常な動き”を身につけるため、物心つく前から厳しいリハビリを受けました。しかしそれは、彼にとって「身体に合わない規範を押し付けられる」という体験でした。成長とともにリハビリをやめ、自分らしいあり方を模索。大学進学をきっかけに親元を離れて一人暮らしを始め、試行錯誤しながら自立生活を確立していきました。医学部を卒業後、小児科医となった熊谷さんに、障害を持って生きていくことについてお聞きしました。

★ “自立”とはどういうことでしょうか?

 一般的に「自立」の反対語は「依存」だと勘違いされていますが、人間は物であったり人であったり、さまざまなものに依存しないと生きていけないんですよ。
 東日本大震災のとき、私は職場である5階の研究室から逃げ遅れてしまいました。なぜかというと簡単で、エレベーターが止まってしまったからです。そのとき、逃げるということを可能にする“依存先”が、自分には少なかったことを知りました。エレベーターが止まっても、他の人は階段やはしごで逃げられます。5階から逃げるという行為に対して三つも依存先があります。ところが私にはエレベーターしかなかった。
 これが障害の本質だと思うんです。つまり、“障害者”というのは、「依存先が限られてしまっている人たち」のこと。健常者は何にも頼らずに自立していて、障害者はいろいろなものに頼らないと生きていけない人だと勘違いされている。けれども真実は逆で、健常者はさまざまなものに依存できていて、障害者は限られたものにしか依存できていない。依存先を増やして、一つひとつへの依存度を浅くすると、何にも依存してないかのように錯覚できます。“健常者である”というのはまさにそういうことなのです。世の中のほとんどのものが健常者向けにデザインされていて、その便利さに依存していることを忘れているわけです。
 実は膨大なものに依存しているのに、「私は何にも依存していない」と感じられる状態こそが、“自立”といわれる状態なのだろうと思います。だから、自立を目指すなら、むしろ依存先を増やさないといけない。障害者の多くは親か施設しか頼るものがなく、依存先が集中している状態です。だから、障害者の自立生活運動は「依存先を親や施設以外に広げる運動」だと言い換えることができると思います。今にして思えば、私の一人暮らし体験は、親からの自立ではなくて、親以外に依存先を開拓するためでしたね。

★ 最近の障害者介助について、どう感じていますか?

 昔に比べて障害者の介助の現場は「メニューが増えた」と思います。以前は制度自体がなく、生活を組み立てるときには限られた人・ものを活用しながら、なんとか手作業で作り上げていく感じでしたね。それに比べると、自立支援法成立以後はそういったことが自動化して、制度に乗ってさえしまえば介助者を見つけるのには苦労しなくなりました。
 ところが、震災が起きたときに誰も様子を見に来てくれないとか、あるいはそこまで大きいことでなくても、失禁したときに介助を頼もうにも誰にも電話が通じないということがこれまで何度もありました。失禁は不測の事態の顕著な例で、なるべく早くなんとかしたいわけです。それなのに、そういう時にかぎってシステムが全然機能しない。以前に比べて、不測の事態に融通が利かなく、使い勝手が悪くなったと思います。
 システムに乗らないものを許さない風潮というか、制度どおりにおこなわれているかどうかを監視するのに、現場が忙殺されているような状態です。それに、あらかじめ決められていること以外は許されないので、介助者との人間関係が深まらなくなった感じがします。心の通じない相手がしてくれる介助は痛いから、怖いんですよね。
 何でもカテゴリー化して制度を作っていくだけでは、制度に乗りきらない人たちが永遠に生み出され続けていくことになります。首尾よく乗れた人も窮屈に感じるんじゃないでしょうか。メニューがそろって自己選択できるのだけど、いったん選択するとそれに従わざるを得なくなるような圧迫感があります。障害者の自立生活運動では「施設から地域へ」がスローガンだったのに、窮屈な施設から飛び出した先の地域が“ 施設化”していた、という感じです。
 一言で言うなら「揺らぎが無くなった」「揺らげなくなった」ということでしょうか。そしてそれは、世の中全体に着実に浸透しているような気がします。ガチガチに固定されているシステムは、揺らぐことができる「余白」、その場の状況に応じた選択・決定を可能にする余地や余裕がないために、リスクが高く、効率も悪いものです。「揺らぎ」がなくてはイノベーションも起きません。こういった「揺らぎ」や「遊び」という要素をどう維持していくかというのが、今後世の中のことを考えていく上での重要な課題になっていくだろうと思います。

★ 絶望的な世の中に、どのように希望を見出せばよいでしょうか?

 「自立」と「依存」という言葉の関係によく似ていますが、「希望」の反対語は「絶望」ではないと思います。絶望を分かち合うことができた先に、希望があるんです。
 先日、当事者研究の集会に参加したときのことです。精神障害や発達障害を持ち、絶望を一人で抱えてきた大勢の人たちに会いました。そのとき感じた感覚はなんとも言葉にしがたかった。さまざまな絶望体験を互いに話し、共有することで、「もう何があっても大丈夫だ」っていう、不思議な勇気というか希望のようなものが生まれる。話や思いを共有できたからといって、実際には問題は何も解決していないのだけど、それで得られる心の変化はとても大きいんです。
 私は長い間、失禁の問題を誰にも話せず、心の中に抱え込んでいました。けれどある日のこと、外出先で漏らしてしまって、通りすがりの人にきれいに洗ってもらったことがあったんです。私は一人で抱えていた絶望を見ず知らずの他人と分かち合えたと思いました。このとき「世界はアウェー(敵地)じゃなかった!」という絶大な希望を感じたんです。たった一人で抱えてきたことを他人に話し、分かち合うことができるようになって、「もう大丈夫」と思えるようになったことは、私にとってとても大きかったですね。絶望が、深ければ深いほど、それを共有できたときに生まれる希望は力強いんですよ。







汚辱にまみれた人々の生

2012-12-02 18:01:45 | 日記

★ 私はまた登場人物たちが世に埋もれた者であることを望んだ。彼らが如何なるきらめきによっても前もって素地を与えられていない者たちであり、確立し認められた如何なる偉大さ――血統、財産、聖性、英雄性、或いは才能といった偉大さを一切付与されていない者たちであること。何の痕跡も残さずに消え去って行くことを運命づけられた他の無数の人々に属する者たちであること。彼らの不幸、パッション、その愛や憎悪の中に、ふつうなら語るに値すると判断されるものと照らし合わすと、ぱっとしないありきたりのものが存在すること。とはいえ、それらの生は或る種の熾烈さに貫かれていること。彼らに生彩を添えるのが、悪意、卑劣さ、下劣さ、頑迷さ、不運における暴力、エネルギー、過剰であり、そうしたものが彼らの周囲の目には、その周囲の凡庸さに応じて、彼らに一種の恐るべき、あるいは哀れをさそう偉大さを付与していること。私は、それ自体極めて矮小で見分けるのに難いものであればあるほど大きなものとなっていくエネルギーを付与された、こうした類の量子群を捜そうと出発したのである。

★ あたかも実在しなかったかのような生、それをただ無化させ、或いは少なくとも消し去ろうとしか望んでいなかった権力との軋む衝突からしか生き延びることのできない生、幾つもの偶然の効果によってのみ私たちのところに届けられた生、ここに私がその幾つかの残留物を集めてみたいと望んだ汚辱に塗れた生、がある。

★ しかし、文学はそのシステムにおいて特異な場所を占める。日常的生をその下層に向けて探査することに集中し、その限界を超え、隠匿された秘密を容赦なく或いは巧妙に暴き出し、規則やコードをずらし、明かし得ぬものを語らせることに熱中しながら、文学は自ら法の外に出て行こうとし、或いは少なくとも、自らに醜聞と侵犯或いは反抗を引き受けようとするだろう。すなわち、他の如何なる形式の言語活動にもまして、文学は《汚辱》のディスクールであり続ける。すなわち、もっとも語り難きもの――もっとも悪しきもの、もっとも秘匿されたもの、もっとも苛責なきもの、もっとも恥ずべきものを語るのが文学なのである。(…)文学のそうした特異な位置が、西欧において、言説のエコノミーと真理を巡る駆け引きを貫いているある権力装置の効果であるということは忘れてはならない。

<ミシェル・フーコー“恥辱に塗れた人々の生”― 『フーコー・コレクション6』(ちくま学芸文庫2006)>







石原慎太郎の魅力

2012-12-02 12:00:24 | 日記


☆ hisashikun @F22raptormiyako 14時間
いったい何様のつもりか‼“@yoyoshimata: ひどい発言だと思います。“@t_shicho: 石原慎太郎氏演説@青森市。「私は青森に縁がある。今でも後援会があるし、秘書、運転手の3人が津軽出身。3人だと津軽弁で話している。津軽弁は美しい。皆さん、卑下することはない」


☆ Kiichiro Yanashita @kiichiro 14時間
あの、これは本当に、心から知りたいんですが、石原慎太郎の魅力ってどこにあるんですか? あなたはなぜ慎太郎を支持してるんですか? 慎太郎はまちがいなくあなたのことをバカにしてますよ?


☆ Kiichiro Yanashita @kiichiro 13時間
これが最大公約数的意見らしい。つまり他人を無根拠に馬鹿にする人に、なんの理由もなく感情移入できるということ? なんの理由もなく自己評価が限りなく高い人ならそうなるのか RT @Pynchoon: 支持している人は「バカにされてる」中に自分は入らないと思ってるからではないでしょうか。何故、そんな暢気なことを信じられるか? それはその人が普段から周りをバカにしている、言い換えれば、そうすることによってしか自分を保てない人達だからでは。


(以上引用)


もちろん、ぼくらをバカにしているのは、石原慎太郎だけではない。