★ 「新しい天使」と題されたクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと見詰めている何かから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口はあき、そして翼は拡げられている。歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去の方に向けている。私たちには出来事の連鎖が立ち現われてくるところに、彼はただひとつの破局だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼は、なろうことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。ところが楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、あまりの激しさに天使はもはや翼を閉じることができない。この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き留めがたく押し流してゆき、その間にも彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ。
<ヴァルター・ベンヤミン“歴史の概念について Ⅸ”―『ベンヤミン・コレクションⅠ』(ちくま学芸文庫1995)>
★ 新しい古文書学者が町に任命されてきた。しかし、ほんとうに任命されたといえるだろうか。むしろ、彼は自分の方針にしたがってふるまっているだけではないだろうか。彼はひとつのテクノロジーの代弁者、構造主義的なテクノクラートの新しい代弁者である、と憎しみをこめて言うものがある。また、じぶんの愚かなお喋りを気のきいた洒落と勘違いして、この男はヒットラーの回し者、あるいはとにかく人権をおびやかしている、と言うものもある(彼が「人間の死」を宣言したことが、彼らには許せないのだ)。また、彼はどんな権威あるテキストにも頼ろうとはせず、ほとんど大哲学者を引用することもないペテン師だ、と言うものもある。これとは逆に、何か新しいもの、根本的に新しいものが哲学のなかに生まれ、その著作は決して自分では望まない美しさを備えている、と言うものもあるのだ。まるで祝祭の朝のように。
<ジル・ドゥルーズ『フーコー』(河出文庫2007)>
★ 古典主義時代において自然らしさと模倣に与えられていた重要性、それがおそらく、文学における《真理性》の機能を表現する最初の方法の一つだった。そこにおいてフィクションが寓話性にとって代り、伝奇的なるものの境界を小説が飛び越え、それは、より完全に伝奇的なものから自由になって行くことにおいて展開して行くことになるのである。こうして文学は、西欧が日常的なるものをディスクールの中に置くことを余儀なくさせるときに用いる強制の、大いなるシステムの一環を担うものとなる。しかし、文学はそのシステムにおいて特異な場所を占める。日常的生をその下層に向けて探査することに集中し、その限界を超え、隠匿された秘密を容赦なく或いは巧妙に暴き出し、規則やコードをずらし、明かし得ぬものを語らせることに熱中しながら、文学は自ら法の外に出て行こうとし、或いは少なくとも、自らに醜聞と侵犯或いは反抗を引き受けようとするだろう。すなわち、他の如何なる形式の言語活動にもまして、文学は《汚辱》のディスクールであり続ける。すなわち、もっとも語り難きもの――もっとも悪しきもの、もっとも秘匿されたもの、もっとも苛責なきもの、もっとも恥ずべきものを語るのが文学なのである。
<ミシェル・フーコー“恥辱に塗れた人々の生”― 『フーコー・コレクション6』(ちくま学芸文庫2006)>