Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Snapshot;きまぐれな

2009-12-31 17:31:13 | 日記

さて“おおみそか”も夕方である。
さきほどまで、風の音がきこえていたが、いまはしずかだ。
(ぼくは風の音も好きだ)

ぼくは“きまぐれ”なので、まだ今日中にブログを書く可能性もあるが、“空気を読まない(読めない)”warmgunといえども、やっぱ、年越しは、酒をくらったり(“くらう”ほどのめないが)、蟹を食べたりするのである(ケケケ)

不破君、モーツアルトを聴きながらの、“娘と勉強”はいかが?
うらやましいゼ。

ぼくもモーツアルトを聴くことは、できる(昔は“バッハ=マタイ”を聴いた)
紅と白は、見ない(笑)、どうも好きになれない色(組み合せ)なのである(どっかの国旗も!)

今年は、“老化”が身にこたえた(爆!)

しかし今日の二つのブログには満足である。
フォイエルバッハとクリステヴァ!

ここにも“未知との遭遇”があったのである。
ベンヤミンとサイードとフーコーも出会った。

最近、挨拶が好きではない(億劫)なんだが、いちおういっておく;

来年こそ、よい出会いを。
そしてさらなる、越境を。





クリステヴァ

2009-12-31 17:04:58 | 日記
クリステヴァというひとは、1980年代にバババっと翻訳が出たんだが、いまはぜんぜん流行ってない(笑)

ぼくも、このひとの翻訳者に中沢新一がいることや(笑)、このひとの“夫”のソレルスというひとが食わず嫌いで(読みかけたことはある)、なんとなく敬遠していた。

ぼくがクリステヴァに興味をもったのは、比較的最近の翻訳『ハンナ・アーレント-<生>は一つのナラティヴである』(作品社2006)によってである(この本については、ブログにも書いたことがあるが、まだ110ページで止っている;笑)

このひとは、もともと<言語分析>からスタートしたようだが、<精神分析>にも係わり、現在では<フェミニズム>の思想家として“分類”されているのではないか。
(“フェミニズム”というと、日本では本が売れない模様である;笑、日本女性が買わないのある;爆)

さて、この本も現在“新本”では買えない西川直子『クリステヴァ-ポリロゴス』という解説書がある(講談社1999)
この本をふくむ“現代思想の冒険者たち”シリーズに対する<恩義>については最近書いた。
が、この31冊あるシリーズの全部を読んだわけではない(当然)
そのぼくが読んだ(途中のものも多い)なかでも、この『クリステヴァ』はとても明解に書かれていると思う。

デリダやクリステヴァというのは、彼らが使用している<用語>(新造語もある)だけで、“おぞけをふるって”しまうのだが、この西川さんの<解説>を順番にたどっていけば、かなり<わかる>。
クリステヴァが分かるだけではない、いまだかつて<わからない>デリダへの糸口もつかめそうだ(もちろんデリダとクリステヴァは、ちがう)


まあこの暮れの忙しいとき(それにしても“なんのために”忙しいのだろう?)、<クリステヴァ解説書>からの引用文を読む人は、<希少>(きわめてマレ)だと思うが、このブログは、こういう<反“空気”的>な方々に開かれている。

若干引用するので、“感触”を得てほしい、なるべくなら<古本>でこの本を購入すること、そしてクリステヴァ自身を“読んでみる”ことをすすめる;


★ つねに意味生成を主題としてきたクリステヴァの視線は、一次的ナルシシズムの空間に生ずる<原抑圧>という一点に集中してきた。原抑圧とは、すぐれて幼児的な主題であり、また、ひとの臍(へそ)にも似て、すべてのオトナのなかに嵌め込みになったコドモ(空虚な中心)の問題でもある。フロイトも仮定的過程としてしか記述しえなかった<原抑圧>という理論化困難な問題、この原初的距離づけの表象不可能なメカニズムを説明するために、『恐怖の権力』で提起された概念が<アブジェクシオン>であった。

★ アブジェクシオンとは、いまだ対象とはならずに一体化している母という前=対象が、融合の快楽で魅惑しながら、しかし同時に嫌悪を誘発するおぞましきものとなって棄却されること、を意味している。

★ <アブジェクシオン>は、ひとつの肉体が、融合している他の(母の)肉体から自己を固有の身体として分離することである。それは「始原の暴力」と形容されている。その暴力によって自と他の最初の境界がつくられるが、しかし同時に、つねに融合状態にひきもどされる危険にさらされているゆえに、この境界は両義的である。その両義性は、母=子の抱き合いと格闘が絶え間なく反転しながら、かぎりなく見分けがつかなくなっている状況、と喩え(たとえ)られるかもしれない。この両義性は、融合の快楽で惹きつけ、窒息感で反発させる<前=対象の母>の両義性そのものに、いいかえれば、自己と他者の自己同一性の不確定さに由来しているのである。

★ このように<アブジェクシオン>は、語る存在としての人間の誕生へ向かう最初の一歩であるとともに、語る主体と意味の崩壊の最後の一歩でもある、自/他の分離=融合という根源的両義性をおびることになる。<アブジェクシオン>という概念が、母とのおぞましい魅惑にみちた融合状態と、その状態からの脱却という両方向の意味をあらわしていること自体、アブジェクシオンがもたらす境界が両義的であることを語っていよう。クリステヴァは『恐怖の権力』において、この両義的な距離づけを、個人史と宗教史のなかに、そしてテクストの領分に探ってゆく。

<西川直子;『クリステヴァ-ポリロゴス』(講談社1999)>




フォイエルバッハ

2009-12-31 13:17:07 | 日記


大川正彦『マルクス』(NHK出版・シリーズ哲学のエッセンス2004)から、フォイエルバッハの“ヘーゲルの宗教哲学批判の文脈で書かれたテキスト”を引用する。

★ 将来の哲学は、哲学を「死んだ魂」の国から、肉体を持った、生きた魂の国へふたたび導きいれるという課題を、つまり、哲学を神々しい、何の欲求もない思想の法悦から、人間的悲惨の中へ引きおろすという課題をもっている。

★ 思想が自分を実現するとは、まさにそれが自分を否定すること、すなわち単なる思想であることを止めることである。では、この思考でないもの、思考から区別されたものはいったい何であろうか。感性的なものである。したがって、思想が自分を実現するとは、それが感覚諸器官の対象になるということにほかならない。

★ 困窮に悩む存在だけが、必然的な存在である。欲求のない存在は無意味な存在である。欲求一般のないものは生存の欲求もない。・・・・・・困窮のない存在は根拠のない存在である。悩むことのできるものだけが生存するに値する。・・・・・・悩みのない存在は存在のない存在である。悩みのない存在は、感性のない・物質のない存在である。

<以上フォイエルバッハ『将来の哲学の根本命題 他2編』>


このフォイエルバッハの言葉は19世紀なかばに書かれた。
ならば、これらの<言葉=認識>は、“古い”であろうか。

もしこれらの言葉が“古い”なら、この“新しい現在”において、これらの<言葉>は、どう“乗り越えられて”、この現在において、いかなる“新しい言葉”が発せられているのか。

《悩むことのできるものだけが生存するに値する》

フォイエルバッハは、ヘーゲルを読み、共感・影響され、それを批判した。
マルクスは、ヘーゲル、フォイエルバッハを読み、共感・影響され、それを批判した。

しかも“西洋哲学史・社会思想史”だけがあるのではない。
<世界>とは、“西洋”だけではない、たとえば<オリエント>、たとえば<アジア>。

ぼくたちは、いま・ここで、これらの<世界>から到来する言葉を読んでいる。
その“選択”には、“偏り”があり、すべてを読むことはできず、すべてを知ることもできない。
ぼくらは、<神>ではない。
<神>のように、<世界>に対面し、認識しているのではない。

まさに、あらゆる客観知による、<理性的な>認識は目指される。

しかし、
《思想が自分を実現するとは、それが感覚諸器官の対象になるということにほかならない》

《欲求のない存在は無意味な存在である》


まさにこの<欲求=欲望>が、資本(商品)に収奪される“世界”をマルクスは、<批判>したのだと思う。

乱暴にいえば、欲望が“モノを買う”ことと“カネを貯める”ことだけになってしまう<世界構造>を批判したのだと思う。

“マルクス主義の革命路線”をぼくは、“くるっている”と近日“批判”した。

しかしそれは、“マルクスなどもう卒業した”というような、怠惰かつ傲慢な“態度”とはまったくちがっている。

ぼくたちは、<歴史から学ぶ>。

その意味は、たんに、“事実の連鎖(年表)”を暗記することでも、“権力者のヘゲモニーの羅列”を知ることではないはずである。

“英雄の生涯”に、自己同一化して、ちっぽけな自分をしばし忘れる“ため”ではないはずである。
自分が、“大物”になった夢を見るためでは、ない、はずである。
あるいは、歴史を拒絶し(ああこの記憶喪失症!)、目前のアイドルにうつつをぬかす、ことでは、まったくない。
歴史を拒絶すること(無知!)は、自分の人生の記憶を喪失することだ。


19世紀なかばに、フォイエルバッハは、<将来の哲学>への希望をたくした。
また多くの<困窮した人々>が、自分の追い詰められた死のなかで、<将来への>希望を<なぐさめ>として、死んでいったのかもしれない。

その<希望>を無にしてはならない。

<歴史>は、ヒーロー(権力を掌握した勝者)の連鎖ではなく、この無念の死者たちの<希望>なのだ。


★ 将来の哲学は、哲学を「死んだ魂」の国から、肉体を持った、生きた魂の国へふたたび導きいれるという課題を、つまり、哲学を神々しい、何の欲求もない思想の法悦から、人間的悲惨の中へ引きおろすという課題をもっている。




Snapshot;Change

2009-12-31 11:01:18 | 日記
2010年も今日で終わりらしいです。
そこで、朝日新聞の“今年の総括”を見てみよう、<社説>だよ。

ヒマなひとは、全文を自分で読んでよ。
ここには<見出し>だけを引用する;

★全体の見出し:<チェンジの09年―明日に向け変革の持続を>
★文中小見出し①:<やりきれない閉塞感>
★文中小見出し②:<報われる社会へ>
★文中小見出し③:<負担を分かち合う>
★〆の文章:《オバマ演説に戻る。「試練の時に、この旅が終わってしまうことを許さなかったと語られるようにしよう」。変革の決意を国民と未来の世代に伝えようとした言葉だ。
私たちも果敢に挑むしかない。その先に希望があると信じて。》
<以上引用>

なんか読まなくても分かってしまう文章ですね(ああ退屈!)

この“社説”には、<オバマ>という固有名詞が、4回出てくる。
そのほかに出てくる固有名詞は、“円楽さん”と“鳩山由紀夫氏”と“中国文学者の白川静氏”だけである。

つまり朝日新聞が関心がある<ひと>というのは限られているのだ。
とくになんで自分の国のひとでもない、<オバマ>とやらに、朝日新聞は夢中なんだろう。
ぼくには、トンと了解できない。

ぼくも“オバマ”というひとが、“ジョン・レノン”(マイケル・ジャクソンではない;笑)やベンヤミンくらい魅力的なひとだったら、“関心を持つ”けどね。

ようするに<世の中>は、今年もなんにも“CHANGE”してない。





《希望なきひとびとのためにのみ、希望はぼくらにあたえられている》(ベンヤミン)


野村修氏の『ベンヤミンの生涯』第5章のタイトルは、<希望という手仕事>と題されている。

<希望という手仕事>を持続しよう。



*画像はジョン・レノンではありません(笑)




<ついき>

上記ブログを今朝(おそく)書いた時は、天声人語を読んでいなかった。
かつて、天声人語を必ず読む<習慣>があった。
ブログでも、自分でいやになるくらい<批判>した。
ついに(笑)、読む気もしなくなった。

さて、今日の天声人語の〆はこうである;
《▼与えられた時間はそうない。10年先までの成長戦略は発表されたが、危機は足元にある。景気の二番底が黒い口を開ける中、「公設」の派遣村が各地にでき、生活費のどこを削るかという「家計の事業仕分け」が進んでいる▼そうした時代だからこそ、引き続きのご愛読はありがたい。投じたお金、時間に見合う満足をお届けできただろうか。末永く何分かを割いてもらえるよう、さらなる精進を期して00年代の筆をおく。よい10年代を。》
(引用)

しかし“天声人語氏”は、“派遣村”のお世話にならずにすんでいる。
“ぼく”もそうだが、ぼくと天声人語氏の“ちがい”は、彼にはその(派遣村のお世話になる)可能性がまったくない(たぶん;笑)に対して、ぼくには、その可能性が<ある>ということだ。

《時間に見合う満足をお届けできただろうか》

は、は、は、はっ。

お届けできてない、
タダだから見ている。

《さらなる精進を期して》
無理だね。
君の<脳>は固着している、ゴミに。

《末永く何分かを割いてもらえるよう》

ぼくは自分の<ブログ>に、《何分かを割いて》くださいなどとは、言いたくない。

何分ではなく、君の<人生(LIFE)>を割いていただきたい。

《よい10年代を》 爆




君のようなひと、には、<歴史>はないのさ。
<区切り>も<継続>もない。

永久に<おなじ日>だけさ。





Snapshot;通じない

2009-12-30 13:15:17 | 日記

ことしの“ぼくの言葉”を選ぶなら、<通じない>ですね。

まあ、この言葉は、これまでもぼくにつきまとってきたわけです。
今年この言葉が、フィーチャーされるのは、自分が年を取れば取るほど、“若者”と言葉が通じないということが明瞭になったということ。

この<若者>というのが何歳までなのかもは明瞭でないし(つまり50代前半くらいでもぼくには若者と感じられる;笑)、もともと同世代および年上には期待していないので。

つまりぼくの“同世代および年上”というのは、“ロック”を自分の生活としていないひとたちなのよ。
しかし、“ロックを自分の生活としている”<若者>にも、通じないことが、明瞭になったということ。

まあ“ぼくのブログ”の言葉が通じないのはいいんだが、ぼくが<引用している>言葉が、“通じないだろうなー”と思いながら引用しているわけよ。

たとえば、ベンヤミン。

ぼくが高校や大学一般教養課程の先生なら、ベンヤミンの“ゲーテの『親和力』”を一緒に読むよ(翻訳でよ)

そうしたら、“互いに”いかに、(ベンヤミンをとおして)、<日本語>が通じないかがわかる。

その<通じなさ>を乗り越えていくのが、<教育>でしょ。

もちろんベンヤミンだけが教材である必要はないが、やっぱり“ローマ皇帝の言葉”より“最近”(笑)のほうがいいよ。

年寄りと若者の言葉が、通じないというのは、もちろん年寄りの方にも責任が(欠点が)あるんだが、それを若者が、非難することで自己満足してたら、文化は継続しない。

しかも<若者>というのは、あらゆる意味で、年寄りに依存しているのよ(ぼくも前世代に依存してきた)<注>
そもそも君に母がいなかったら、君は存在すらしていない、“生まれてこなけりゃよかった”という愚痴さえ言えない。

自分が依存しているものを、けなして自己満足していても、ただ“そしてなにもかもみんななくなってしまった”状態にしかならない。

まさにいま、この社会で進行しているのは、こういう事態だ。

自分が、なぜか永遠に年を取らないと誤解した<若者>たちの、“自己満足パーティー”的状況しか目にできないと、やっぱり<滅び>を感じる。

ぼくたち年寄りは、悲惨だが<自然死>できるかもしれないが、現在の若者たちを待っているのは、このままでは、まったく未知の<滅び>のような気がして、おせっかいだが、なんとかしなくちゃ、と思うのさ。

つまり不破君が書いていた“映画2012”のようなステロタイプ(どっかで見たような)じゃない滅びさ。




<注>
ここでぼくが”依存”といっているのは、もちろん経済的なことでもあるが、むしろ精神的なことである。

この”精神性”において、ぼくの世代以後の世代には、”精神性”の次元において、<オリジナル>なものは、ひとつもない(ひとつも現れていない)と思う。




Snapshot;戦後ニッポン教育の成果

2009-12-30 11:55:02 | 日記
妻が関与している若年性パーキンソン患者掲示板が閉鎖に追い込まれた。

この経緯については、このブログを見てくださっている方々には“関係ない”ので説明しない(説明できない)。

ただ、同じネット(WEB)上の事件として、<教訓>をのべる。

掲示板を閉鎖に追い込んだのは、“患者でないひと(患者の周辺のひと)”及び、この掲示板を運営してきた人々に比べて“若い”人々だったことだ。

ぼくは傍観者でしかなかったが(投稿していない)、掲示板を運営する側にも落ち度があったと思う。

ぼくが管理人だったら、即座に削除する(理由をのべて)投稿を、<お人好し>および<民主的運営>のために、放置したことだ。

そして閉鎖をもたらした側の<若者>たちには、この掲示板にかぎらない、奇妙な共通点を感じた。

それは、<なにごとにも“すでに”正解がある>という感覚とロジックである。
もうひとつは、彼らの<日本語>の誤使用である。

日本語をまともに書けない人々にも、自由に書けるスペースがもたらされたことは、戦後民主主義の快挙であった。

しかもそのひとびとが、その小さな頭で、<自分は正解を知ってる>あるいは<どっかに正解がある>という狂信を前提にして“議論”している。

ぼくは<狂信>ほど恐ろしいものはないと思う。
あらゆる“ファシズム的なもの”は、この狂信によってもたらされたのだ。

この狂信によってもたらされるだろう。

あらゆるファシズムも、正解=正義を名のった。



★ 3万人といえば東京マラソンで銀座通りを埋めるランナーの数にほぼ相当する。今年も11月末時点で全国の自殺者がそれを超えた。12年連続である。(今日朝日社説)


<今年>も紅白歌合戦などを見て、“いつものように”年を越す人々がいる。

しかし今年の自殺者を抱えた家族にとっては、“いつものよう”ではない。

ぼくがこういう風に書くのは、<恫喝(おどし)>だろうか。
いつもいつも、“よいことだけを見て”、“前向きに”生きるべきであろうか。

すべての悲惨を忘れて、他人事として、“平常心”で生きる生き方が、それほど推奨されることであろうか。

世界や他者への不充分な<想像力>を稼動させることは、そんなにも“割にあわない”重労働であろうか。

いつもいつも自分だけ。
せいぜい自分が“愛する”ひとだけ。
すなわち、自分を“愛する”ひとだけ。

たしかに口先の共感・同情こそ唾棄すべきものである。

しかしこの生きがたさの共感において、不完全-不充分な自分の生き方において、まだどこにもない<正解>をさがし、偽の正解をいうものの虚偽にあらがうことは、自分が人間であることのささやかな証明である。




“ひいてしまうひと”は、ひいてしまえばいいんじゃない

2009-12-30 03:05:24 | 日記
『カルチュラル・スタディーズ入門』を読み終わった。
この本は2000年の発行だから、もう10年ちかく前になるんだな。
書いている二人も当時40歳前の“若者?”だったが、もう50歳を目前にしているわけだ。
(どうも最近、歳のことが気になって、いかん;笑)

この一応イギリス発祥の“学問”については、いろいろ勉強になったよ。
しかし、最後の方の以下のような部分には共感できないぜ;

★ 正しい批判や分析や反省の言葉が、日常生活のある局面で、ある人々に対して一種の「恫喝」や「威し」になってしまうような文脈がある。つまり、植民地主義、帝国主義、グローバル資本主義・・・・・・などの過去と現在の暴力的かつ操作的な現実を強調すればするほど、あるいはここではないどこかの「受苦者」のおかれた現実の悲惨さに焦点を当てればそうするほど、聞き手の方はむしろ引いてしまう、というジレンマがある(言葉が相手を黙らせるとき、たとえそれが正しい内容であっても、それは一種の暴力として機能している)
(以上引用)


ここでこの筆者が、“なにを言いたいか”は、ぼくには、もちろん、わかります。

けれども、こういう文章を読むと、やっぱ大学のセンセイはダメだなー、と思う。

つまり《相手がむしろ引いてしまう》とか、《たとえそれが正しい内容であっても、それは一種の暴力として機能している》などと言えるのは、あまりにも“余裕”があるひとの態度なのである。

ぼくには、そんな余裕はありません。
つまり余裕があるってことは、<その問題が>自分の問題ではないってことよ。

あるいはそれは、<自分=ぼく=俺=warmgun>が言っている(書いている)ことがいつも<正しい>と思っていないということなんよ(笑)

さらに、《あるいはここではないどこかの「受苦者」のおかれた現実の悲惨さ》というのは、誰のことなんだろう。
もし《あるいはここではないどこか》というのが、《日本以外のどこか》を意味するなら、ここでこの筆者が言っていることは、まったく駄目だ。

たしかに、ぼくにとって、いちばん関心があることは、目前の自分の生活ですよ。

《植民地主義、帝国主義、グローバル資本主義・・・・・・などの過去と現在の暴力的かつ操作的な現実》
ではありません。

あたりまえだろ!(爆)

しかし、ぼくは《植民地主義、帝国主義、グローバル資本主義・・・・・・などの過去と現在の暴力的かつ操作的な現実》にも、関心をもつときがあるわけよ。

だから、ブログに“それ”を書くこともある(あった)かもしれない。
でもそれは、“引いちゃうひと”を<説得>するとか<啓蒙>するなどといった、“おそれおおい”ことじゃないんだ。

ぼくが、<ガザ>で負傷した女の子の写真や、おなじくガザで瓦礫に埋もれた少女の手の写真を出すのは、これを見た人を<恫喝>するつもりなんか、まったくないんだよ。

ぼくが、その時、見たかった写真なんだ。

ああ3時近くで眠くなって、もう書くのが(考えるのが)めんどうだ。

“暴力的でない言葉”なんて、あるわけないよ、それが言葉なら。

どうも基本的なことがわからないひとが多すぎて、<啓蒙>なんてしようがない。

もちろんぼくも、なんにも分かってなんかいない。

さあ、寝るぜ。





Snapshot;ベンヤミンとサイードが出会う

2009-12-29 16:55:41 | 日記


★ 帝国主義的遭遇において、行動的な西洋の侵入者が怠惰で活気のない非ヨーロッパの原住民を追い詰めたということはついぞなかった。(サイード『文化と帝国主義』)
★ ベンヤミンはこの後に「文化財と呼ばれるものが文化の記録であることには、それが同時に野蛮の記録でもあるということが、分かちがたく付きまとっている」と彼の「歴史の概念について」というエッセイの中で言っている。ポストコロニアル批評の作業とは、ベンヤミンのプロジェクトを正統に後継することだったのである。それは歴史の中で敗者として埋もれてしまっている人たちの営為の痕跡を歴史の瓦礫の山の中から掘り起こすことなのだ。
<上野俊哉+毛利嘉孝「カルチュラル・スタディーズ入門」から引用>


ベンヤミンとサイードが“出会う”というのは、皮肉である。
方や“ユダヤ人”、方や“パレスチナ人”であるというような、“名札(レッテル)”を信じる人々には。

サイード『オリエンタリズム』(ぼくは未読であるが、これから序説を読む;笑)は、《“知識と権力”のミクロな権力関係の網の目を考察したフーコーの権力論を出発点にして》いるという。
フーコーは“フランス人”である。

まさに、ここに越境があり、出会いがある。
これを書いた“日本人”は、極東の島国の“アジア人”であり、いまここで、この文章を読み、ブログに“引用”しているwamgunも、ユダヤ人でもパレスチナ人でもフランス人でもない、アジアの民である。

しかし、越境はあり、出会いはある。
この可能性を信じずして、いったいなにを<信じる>のか。





Snapshot;抑圧される者と抑圧する者

2009-12-29 15:39:19 | 日記


上野俊哉と毛利嘉孝による『カルチュラル・スタディーズ入門』(ちくま新書)という本を(なぜか)読んでいる。

“カルチュラル・スタディーズ”とか“ポストコロニアル”とかいう言葉をぼくもなんとなく聞いていたのだが、実はあまり明瞭に認識していなかった。

この本を読んでいて(まだ真ん中へんである)、この“カルチュラル・スタディーズ”自体にではなく、そこで提起されている、さまざまな<問題>をどう考えるかが、気になった。

たとえば、<労働運動>、<フェミニズム>、<反人種差別主義運動>というような運動をどう考えるのか。

そもそも現在のぼくたちは、ここでこのような言葉で呼ばれる“運動”について、まともに考えているだろうか。
たとえばまさに近年、“格差”とか“雇用”は問題になっているのだが、それは<労働運動>として提起されているだろうか(提起するひとはいても、“普通の人々”の認識となっているか?)

たとえば、この本での<人種差別(主義)>と<人種主義>の“ちがい”というのは、説得的だと思う。

そして、こういう論議を読んでいてぼくが思うのは、現在において、そもそも<抑圧される者と抑圧する者>は誰か?という疑問である。

たとえば<差別>について語るもの(それを告発するもの)は、“差別されるひと”のことについて語る。
もちろんこの差別をもたらすひとについても語るのだが、それが<弱い>と感じるのだ。

<人種差別>についてなら、<差別するひと>についても多く語られているような気がするが、<フェミニズム>については、“女性を差別するひと”というのは、<だれ>なのだろうか。

ぼくはフェミニズムについて勉強したことがないので、たんに知らないだけかもしれないが、“極端なフェミニズム”は、全男性を“差別者”としているような気がする。

しかもそういう<認識>が間違っているとさえ、男であるぼくにも言えない。
しかし<人種>という概念には、差別する根拠がまったくないのに対して、<男女(女男)>という“概念”の<性差>には根拠がある。

もちろん、どちらかが優越しているとか、劣等であるとかということでは、まったくない。
また社会制度的な“男女差(差別)”は撤廃されるべきである。
しかし、男と女は(女と男は)、同じではない。

つまり<人種問題>と<フェミニズム>は同じ問題ではない(カルチュラル・スタディーズがそれを“同じ”としていると言っているのでもないが)

もっと“一般に”、この世に差別、不平等、抑圧があるとき、その<権力構造>についての具体的なアプローチが必要である。

つまり“誰が抑圧しているひとであり”、その“システムはどうなっているか”についての、もっと具体的な把握が必用だと思う。<注>

そのような作業が、もっと緻密にアクチュアルに行われるなら、<都合の悪くなる人>がたくさんいると思う。

つまり都合が悪くなる<リベラル>がである。




<注>

現在のマスメディア”言論”が、行っていないのは、このような作業である。

もちろんマスメディアに寄生する、”大学のセンセー”のようなひとたちも。




愛煙は犯罪ではない

2009-12-29 11:58:23 | 日記

“浮世離れした”ぼくも、たまにはニュースに反応する;

<愛煙家おじいさん登場、児童誌が販売中止に>12月29日5時8分配信 読売新聞
 福音館書店(塚田和敏社長)は28日、月刊「たくさんのふしぎ」の2010年2月号として発売した「おじいちゃんのカラクリ江戸ものがたり」(文・絵、太田大輔)を販売中止にすると、ホームページで発表した。
 対象年齢は小学校3年生からで、発明家のおじいちゃんが2人の孫に江戸時代の暮らしを説明する内容。おじいちゃんはたばこ好きの設定で、喫煙したまま孫たちと同席する場面が何度も描かれている。
 喫煙に反対する団体などから「たばこを礼賛している」「たばこ規制枠組み条約に違反する」といった指摘があり、同社は販売中止を決定した。
 ホームページでは、塚田社長名で「(たばこは)小道具として使用したものであり、喫煙を推奨したりする編集意図はまったくありません」と説明。「しかしながら、子どもの本の出版社として配慮に欠けるものでした」と謝罪した
(以上引用)


ぼくはDoblog以来数度、<愛煙家>の立場からのコメントを書いた。
それは決して“過激”なものではなかった、ぼくは“禁煙ファシズム”というような言葉は使っていない。

ぼくのこの問題に対する<原則>は、プライベート空間(自分の個室)以外の<閉鎖空間>での喫煙は禁止する、だが、“オープンエア”空間での喫煙は認めよ、である。

たしかにこの<原則>にもいくつかの“注記”がいる。
ぼく自身は、たとえばアルバイト先の“仕事場”では煙草をまったく吸わない、昼休み外に出たときか仕事の合い間にビルから出て吸う。
いちばん困難なのは、“飲み屋”や“飲食店”の喫煙を許可された場所である。
これまで、ぼくは吸ってきたが、この習慣もやめるべきだと思う、そこでも吸いたければ、その時だけ外に出るべきだ。

逆に“オープンエア空間”での喫煙も、必ず携帯灰皿に吸い殻を収納する。
さらに“歩行喫煙”については、なるべくひととすれちがわない空間でのみ行い、そうでない所で吸うのなら、煙草の火を自分の手の内側に向けて保持すべきだ。

以上のような<条件>を掲げたうえで、いいたい。
煙草を吸うのは犯罪ではない。

もし煙草を吸うのが、犯罪なら、なぜ煙草を売ることを認め、そこから<税金>を稼いでいるのか。
現在東京都市部(地方大都市もそうだろうが)の<オープンエア>スペースは、ほとんど<禁煙>になっている。
これは、いかなる<根拠>か。
ぼくには納得できない。

また“間接喫煙”の害をいうなら(ぼくはその根拠も“科学的に”不充分と思うが、いちおうそれを認める、だが、大気汚染による害が“喫煙のみ”であるかのごとき屁理屈は認めない)

もうひとつぼくが危惧する“本質的”問題がある。

単純にいえば、“喫煙依存者が減少すればするほど、<ドラッグ>依存者が増える”という予想である。
“先進国”アメリカを見よ!

“ドラッグ”は、他人に迷惑をかけないから良いであろうか。
いや、ドラッグもまた<感染>するのである。

なにかの“薬物(害をなす物質)”に依存せざるを得ない、というのも<人間の条件>である。

その<条件>を踏まえたうえでの、<論議>を望む。

やっと禁煙できた“達成感”と、喫煙できない“ストレス”を愛煙者にぶつける<正義(モラル)>をがなるような、“説得”には、まったく応じられない。

こちらは、自分の命を賭けて、あるいは、身銭を切って、この瞬間も煙草を吸っている(笑)




Snapshot;浮世離れ

2009-12-29 09:46:42 | 日記


ぼくのブログは、現在の<ぼくの人生のある一日>のように、浮世離れしている。

だからといって、ぼくに<超越論的認識>がもたらされるわけでもない。

浮世を離れたほうが、世界がヨリよく(良く、善く)認識できるわけでもない。

ぼくが、浮世を離れることを<選んだ>おぼえもない。

このぼくも遺伝子の指令によって、盲目的に生きてきたのかもしれない。

つまり<ぼくの遺伝子>が、“浮世を離れよ”と指令したのである。







Snapshot;サブカル

2009-12-29 09:44:41 | 日記

あるころから、ある状態=状況にある<人々>をあらわす、言葉=概念が、ひじょうに<アイマイ>に使われるようになった。

たとえば、<おたく>とか<サブカル>である。
こういう風に呼ばれる人々や状態が、<誰>であるかが、実はまったくわからないのだ。
<ニート>や<ひきこもり>とかも。

このことは、<サブカル>の反対概念は何か?問うことで、“わかる”。
<サブカル>の反対概念は、<ハイカルチャー(高級文化)>である。

しかし現在、<ハイカルチャー>(つまり“昔の”文化)というのは、ほぼ壊滅しつつある。

<ニート>の反対概念である、<まともな勤め人>という概念は、消滅しつつないのだろうか。






Snapshot; 最強

2009-12-29 09:42:22 | 日記

あるブログ(コメント)で読んだ;

若いころって本当にどうでもいいことで、クヨクヨしたり、でもそれが大事だったんですよね(笑)。
である日俯瞰できるようになったら、案外自分が悩んでいたことがちっぽけだって気付くっていうか、自分がちっぽけなことに気付くんですよね。
僕なんか気付いてから最強になりました(笑)。
(以上引用)

こういうことを書いているひとは、<何歳>なのだろうか?
もちろん<何歳>でも、それなりの<認識>をもつことは、できる。

しかし、<その認識>も年を経れば、変わる。
自分が<ちっぽけ>なことに気づいても、<最強>ではいられないのである(笑)

そのときから<考える>ことは開始される。





Snapshot;欲望

2009-12-27 13:37:09 | 日記
日本には、精力的に海外思想を紹介することに奮闘した(奮闘する)人々がいた(いる)。

彼らは、まず“翻訳者”であり、“研究者”であり、“解説者”である。

徳永恂、もそうだ。
木田元、野村修、宇波彰、清水徹、豊崎光一、宇野邦一、鵜飼哲・・・・・・いくらでもいる。
大江健三郎も、ある意味でそうである。

戦後海外思想の紹介者として、2007年に死去した今村仁司をわすれることはできない。
“原書”をいきなり読むことができない、外国語ができないアマチュアであるぼくのようなものは、かれらに対する“恩義”をわすれることはできない。

とくに講談社の“現代思想の冒険者たち”シリーズは、ぼくにとって画期的であった。
このシリーズの編集の中心にいたのも、今村氏であった(その他の編集者は、三島憲一、野家啓一、鷲田清一である)


にもかかわらず、ぼくは今村氏自身の本には、なぜか取っつきが悪いのである(笑)
最近これを反省して彼の晩年の著書『抗争する人間』を読んでみた。

この本の最初で、今村氏は、人間を《欲望する人間》として捉えるという。
これは納得できる。

そしてその<欲望>を三つのアスペクトに分ける;
① 身体的欲望(自然との関係)
② 社会的欲望(他人との関係)
③ 想像的欲望(聖なるものとの関係)

これも納得である。

それどころか、このあとに素晴しい認識がくる;

★ 欲望はそれ自体としては真空である。

★ 指輪が作る空白に見られるように、物体(金属)がなければ丸い空白はないが、空白は自然的物体ではない。指輪の空白は自然物体のなかにはない何ものかであり、自然のなかで非自然として出現する。それと同様に、欲望は、自然のなかで、それを前提にして、それとの何らかの関係において、非(反)自然として出現する。


ところが(笑)次に、この三つの欲望の“充足様式”というのがある;

① 身体的欲望は労働を生み出し、労働様式は身体的欲望の充足様式である。
② 社会的欲望は威信または虚栄心を求める欲望であり、自己価値を複数の他人に承認させることをめざし、この欲望の充足様式は観念的にして物質的な競争と闘争である。
③ 想像された聖なるものにたいする欲望は、負い目を返す形で充足される、すなわち、その充足様式は感情の原則としては自己の生命の贈与または供儀(くぎ)である。それはしばしば代理の供儀の提供という形式をとる。


ぼくはこの①に、“つまずいて”しまう。
いまこの部分を要約していて、③にもつまずく。
とにかくこの①には、納得しがたい。

このあと、<想像上の親殺し(母・父の象徴的殺害)>とか、例の<オイディプス>とかのフロイト的概念がバババっと展開されるにもかかわらず。

ぼくは“身体的欲望”といのは、<労働>ではなくて、<セックス>だと“認識”している(笑)

上記の“指輪の比喩”の、<空白>も、ぼくには“セックス”の比喩として読めたので感動的であった(ぼくは“セックス・ノイローゼ”であろうか?;爆)

この本全体を読めば、この“つまずき”は解消されるのだろうか?



<蛇足>

ぼくの<妻>によれば、ピアニストのグルダは、”芸術はすべてセックスだ”といったそうだ。

明瞭な<定義>である。