Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

友の足音

2014-07-22 20:10:10 | 日記

7月2日の読売新聞「編集手帳」がベンヤミンの言葉を集団的自衛権擁護のために引用したという(俺は読売新聞など購読していない、ネットで知った)

もはや死んでいる人の言葉を、本人の思想に反して使用するのは、死者へのはなはだしい冒涜であると考える。

俺は、ベンヤミンにかわって抗議する(笑)

その“言葉”は、第一次大戦のさなか、まだ20歳代のベンヤミンが、ある友人への手紙に記したものだ;

《 夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは、橋でも翼でもなくて、友の足音だ 》 (野村修『ベンヤミンの生涯』平凡社ライブラリー1993)

野村修のこの本は、とてもよい本です、いまなにかをまともに考えたいひとに一読を薦める。





ジャックナイフ

2014-07-07 11:54:19 | 日記


★ 藤原新也ブログ 2014/07/01(Tue)

集団的自衛権に関する個人的見解(Catwalkより転載。注、クローズドサイトCatwalkとオープンサイトのTalkの内容は同じテーマでも、そのサイトの性格上多少異なる場合があります)。

公明党の賛成を得て今日閣議決定されるに集団的自衛権に関してだが、公明党がずっと集団的自衛権に反対し続けていたのは私個人は当初から茶番だと思っていた。

公明党の母体である創価学会は日蓮大聖人の仏法に基づく「平和・文化・教育」 活動を根幹としており、中でも「平和」は創価学会が内外に向けての活動展開のもっとも重要な会是となっており、安倍政権の持ち出す集団的自衛権に簡単に雪崩合意することは出来ない事情がある。
つまり一定の”抵抗”というポースを取る必要があるのだ。
そのポースは国民に向けてではなく、創価学会員に向けてである。
日蓮大聖人の教えにそむくことを簡単に許しては会そのもののデゾンデートル(存在理由)を失い、あわせて創価学会員に申しわけが立たない。
そういう意味では左派系のメディアなどが、集団的自衛権に異議を唱え続けた公明党を頼りにし、持ち上げていたのは滑稽である。
今日はしごを外され、やっと正体を見ただろう。

公明党が集団的自衛権に反対し続けてきたのは”思想”ではなく内部に一定の理解を得るためのネゴシエーション(とりひき)に過ぎない。
政教分離の原則に則って公明党は創価学会とは異なることを常に標榜し、そういった観点からの論調に目くじらを立てるが、これまで選挙があるたびに私の読者であるということを騙って何人もの人(主にオバサン)が押しかけてきて、公明党のこの候補者を応援してくれと言ってきた。
その人たちはみな創価学会員だった(簡単に素性を知れてしまう実にワキの甘い人々だ)。
ということで公明党の茶番がはっきり収まるべきところに収まったというのが集団的自衛権が閣議決定される今日ということになる。

ところで私はこれまでマスメディアから何度も集団的自衛権に関するコメントを求められている。
近いところでは朝日新聞の「異論」というインタビューコラムがあって、この集団的自衛権に関してのインタビューを求められたのがつい10日前のことだ。
だが私はそのインタビューを断った。
つまりそのコラムのタイトルがそうであるように、最初から集団的自衛権に反対の趣旨を述べてほしいという前提のものだったからだ。
かりに私が集団的自衛権に反対の立場だったとしても、紙面を提供する側が私の思想や思いを最初から決められては困るのである。
特にこういった思想信条に関わることはいかなる誘導尋問もなく、枠組みもなく、白紙の状態で耳を傾けるというのがジャーナリズムというものである。

「ということですでに紙面上ですでに反対という枠組みが出来ており、その範囲内でしゃべるというのはこれはちょっと違うんじゃないでしょうか。
かりにそこで藤原が集団的自衛権に賛成の意見を述べたとするならどうなるのかな」
「藤原さんは集団的自衛権には賛成なのですか」
「いや反対です。
それは多くの人が標榜しているように憲法第九条や平和を是とする大原則に反するという理由からではありません。
私が集団的自衛権反対するのは、つまり他の国とつるんで自国を守るというのは究極的には破綻をきたすと思っているからです。
それはすでに歴史が証明していることでもある。
もっとわかりやすく言いましょう。
戦争というのはひらったく言えばケンカですね。
それも集団のケンカです。
協定のようなものを結び、他の集団とケンカをする。
勝っているうちはいいが、自分の命が危ない、となったとき、自分を犠牲にしてでもつるんでいる人間を助けますか。
あり得ないことです。
たしかにそれは前近代における同民族同士の義兄弟や任侠世界のような濃い連帯関係の中では起きうる美談かも知れないが、血の異なる他民族同士の間では絶対に起こりえない。
それは確信を持って言えます。
しかし集団的自衛権に反対だからといって、無条件で平和を標榜するのもあまりにものどかだと思っている。
日本人は島国の中でこの七〇年平和に暮らして来ました。
20年前に私が読売新聞の文化面で「平和ボケ」という言葉を使って以降自虐好きの日本人はその言葉を多用するようになりましたが、さらにこの平和ボケは深化していると私は思っている。
私は自分の若い時の人生の半分はこの島国ではなく、身ひとつで外の国に自分を曝して来ました。
そしてショットガンからジャックナイフまで武器は常に携帯していました。
軍備をしていた。
危ないからです。
この平和な日本の国境を出るということは何が起こるかわからない。
日本人のように世の中みな”いい人”ばかりではない。
突然とんでもないヤツが目の前に出てくる。
それが世界というものです。
自分の身は自分で守らねばならない。
それが私の基本的な考えです。
つまり私が集団的自衛権に反対なのは、それが甘いと考えているからです。
断っておきますが、私も平和が大好きで、戦争は大嫌いで、人殺しも大嫌いです。
大嫌いだから、そういうものが避けて通ってくれるとは限らない。
現に争いが嫌いな私のようなものが人様に向けてナイフを抜いたこともあります。
残念ながら世界とはそういうものです」

これまで集団的自衛権に関することを書かず、インタビューも受けなかったのは右か左かの二者択一で敵対する傾向にあるこの硬直した世の中にあって、マスでそのような言葉が出た場合そういった複雑な思いが誤解される危険性があると思ったからだ。




風に吹き飛ばされながら「否!」という

2014-07-02 00:05:48 | 日記

辺見庸“私事片々” (2014/07/01)

★(前略)
非常階段に、すっかりちぢれて黒ずんだ小さな葉っぱが一枚、いじけたように落ちていた。いじけたように、というのは、わたしがおもっただけだ。主観。葉はじつは、いじけてさえいないのだ。あるともなくそこにあったのだ。葉は、ほどなく、木の葉らしい色形を、さらにくずし、ただのクズとして、いや、クズとさえ認識されずに、風にとばされ、世界から消えさってしまうだろう。哀しくはない。空しくもない。葉は葉。無は無。風は風。死は死。それだけのことだ。なにも大したことではない。わたしだってアパートの非常階段上にたまたま舞い落ちた、葉にすぎない。葉と同等である。一枚の病葉。その存在に、ふさわしくないも、みあわないも、割があわないもない。葉は葉だ。どうあれ、いずれはふっと消える。それなら、そうであるならば、それぞれの<場>、それぞれの<時>、それぞれの<声>、それぞれの<沈黙>、それぞれの<身ぶり>で、安倍とその一味をこばみ、安倍を転覆し覆滅しようとすることは、葉の、葉と同等のものの、ちょっとした仕草として、あってもよいのではないか。存在と抵抗と<あがき>に、割があうも割があわないもない。抵抗は、もともとなにかにみあうものではない。一切にみあわないのだ。非常階段上の、ちぢみ、黒ずんだ葉。消えることだけが確約された記憶。それでいい。それがよい。それだからよい。それでもなお、くどくどといえば、アベとかれの同伴者たちはまったく呪わしい「災厄」以外のなにものでもないのだ。覆滅すべし!集団的自衛権行使容認はとんでもない錯誤だ。秘密保護法はデタラメだ。武器輸出解禁も許せない。原発輸出政策もとんでもない恥知らずである。朝鮮半島がかかわる(征韓論者たちを正当化する)史観、およそ反省のない日中戦争・太平洋戦争史観、強制連行・南京大虐殺・従軍慰安婦にかんする破廉恥な謬論、居直り的東京裁判観、靖国観、天皇(制)観、ニッポン神国史観という本音、核兵器保有可能論……どれをとっても、じつは「同盟国」米国でさえあきれている(ドイツであれば身柄逮捕級の)ウルトラ・ナショナリストである。そんなこと、もう言い飽きたよ。口が腐るよ。なによりも、なによりも堪えがたいのは、権力をのっとったアベの一派が、貧寒とした頭で、人間存在というものをすっかり見くびっていることなのだ。国家が個人を虫けらのように押しつぶすのを当然とおもっていることだ。みずからを、(議会制民主主義を批判したカールシュミットの言い方にそくせば)「例外状態にかんして決断を下す者」、つまり国家非常事態(戦争)を発令できる者とかんぜんに錯覚してしまったこと。錯覚したのは本人であり、錯覚させたのはかれのとりまきと自民党、およびファシズムを大いに補完する公明党=創価学会、財界、一部民主党をふくむ親ファシスト諸党派、砂のように無意識に流れてゆく「個」のない民衆、最終的にはいかなる質の権力であれ、権力に拝跪するのだけを法則づけられているメディア……と、いまいったところでなんになろう。しかし、なお、身じろぐのだ。一枚のちぢんだ葉にすぎないわたしは、無為にふるえ、不格好に身じろぎ、声にもならない声で、「否!」といおうとする。風に吹き飛ばされながら「否!」という。