Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ヒトラー時代の教訓

2012-04-29 18:59:39 | 日記

★ ヒトラー時代がもたらした教訓の一つに、賢明な識者の愚かさについての教訓がある。ヒトラーの台頭が火を見るよりも明らかになった時でさえ、まだユダヤ人たちは、いかにも多くのもっともらしい理由をあげて、そのおそれはないと言い張っていたか。

★ 私は、ある経済学者がバイエルンのビール醸造業者たちの利害関係を基に、ドイツの画一化の不可能性を証明して見せた談話を忘れることができない。もしそうなら、賢明な識者たちによれば、西側ではファシズムは不可能だということになろう。

★ 賢明な識者たちは至る所で無知な輩を手軽に片づけてきたものだが、それは彼ら自身が愚かだったからなのだ。事情に通じ、目配りの利いた判断、統計、経験を踏まえた予測、「要するに、これは当然私には判りきったことなのですが」という科白で始まる確認、きっぱりと間然するところなく述べられた所論、こういったものが正しいとは限らない。

★ ヒトラーは知性に反し、反人間的であった。しかし反人間的な知性というものもある。我こそは卓越した事情通、というのが、その目印なのだ。

<ホルクハイマー+アドルノ『啓蒙の弁証法』(岩波文庫2007)>








汚辱にまみれた人々の生

2012-04-29 13:30:12 | 日記

★ これらの粒子の何ものかが私たちに届くためには、しかし、少なくともほんの一瞬、それらを輝かせる光の束がやって来なければならなかった。別の場所からやって来る光。それがなければ、彼らは夜の中に潜み続けていることが出来たろうし、おそらくつねにその中にとどまっていることが彼らの定めでもあったはずの夜から彼らを引き離す光、つまりは権力という光との遭遇である。

★ 権力との衝突がなければ、おそらくそれらの束の間の軌跡を呼び起こす如何なる言葉も書かれることはなかったに違いない。彼らの生を狙い、追跡し、ほんの一瞬にすぎないにしても、その呻き声や卑小なざわめきに注意を差し向けた権力、そして彼らの生に引っかき傷の一撃を記した権力、それこそが、私たちに残されたいくつかの言葉を励起したのである。

★ あるいは告発し、苦情を述べ、嘆願をするべく人は権力に訴えることを望んだ。或いは権力が介入することを欲し権力はわずかな言葉をもって裁き決定を下した。あらゆるディスクールにも触れることなくその下方を通り過ぎて行き、一度も語られることなく消え去って行くことを運命づけられていたこれらの生は、権力とのこの一瞬の接触点においてのみ――短い、切りこむような、しばしば謎めいた――その痕跡を残すことが可能になったのだ。

★ もし仮にこれらの生が、或る一瞬に権力と交差することなく、その力を喚起することもなかったとすれば、暴力や特異な不幸の中にいたこれらの生から、一体何が私たちに残されることになったろうか?結局のところ、私たちの社会の根本的な特性の一つは、運命が権力との関係、権力との戦い、或いはそれに抗する戦いという形を取るということではないだろうか?それらの生のもっとも緊迫した点、そのエネルギーが集中する点、それは、それらが権力と衝突し、それと格闘し、その力を利用し、或いはその罠から逃れようとする、その一点である。権力と最も卑小な実存との間を行き交った短い、軋む音のような言葉たち、そこにこそ、おそらく、卑小な実存にとっての記念碑があるのだ。時を越えて、これらの実存に微かな光輝、一瞬の閃光を与えているものが、私たちの元にそれらを送り届けてくれる。

★ あたかも実在しなかったかのような生、それらをただ無化させ、或いは少なくとも消し去ろうとしか望んでいなかった権力との軋む衝突からしか生き延びることのできない生、幾つもの偶然の効果によってのみ私たちのところに届けられた生、ここに私がその幾つかの残留物を集めてみたいと望んだ汚辱に塗れた生、がある。

<ミシェル・フーコー“汚辱に塗れた人々の生”―『フーコー・コレクション6』(ちくま学芸文庫2006)>










GW

2012-04-26 18:46:47 | 日記

ゴールデン・ウイークといっても、仕事に出ている日よりも出ていない日が多い現在のぼくにとっては、普段と同じである。

けれども、世間の空気は、このような閉ざされたぼくの部屋へも、かすかに漂ってくる。

すなわち、“旅に出たいなー”という気分。
そして、いままで行った旅を思い出したりする。

時間があっても、カネのない境遇にあっては、せめて“本”で旅してみたい。

最近は節約していて本もなるべく買わないようにした。
しかも今年買った新刊書が、ほとんどすべてつまらなかった。

それで、ぼくとしては近年‘発見’した人であり、旅の人であると思われる菅啓次郎『斜線の旅』をAmazonに注文、さっき届いた。

たとえば、“ニューオーリンズ”;

★ この週末のニューオーリンズ旅行で気に入ったものを三つあげよう。まず、この街頭バンドのサックス吹きの太った少女。ついでこの町のすぐ北にひろがるポンチャトレイン湖をまっすぐにつらぬく、全長38キロにもおよぶ世界最長の橋(真ん中あたりでは両岸が完全に見えなくなる)。そしてダウンタウンから南部の名門テュレーン大学をはさんでひろがる緑したたる住宅地へとむかうひなびた路面電車の道、セント・チャールズ・アヴェニュー。
(引用)


という具合。

行ったことも見たこともない土地、町。
ここに引用するのが、かったるい“カタカナ名”。

けれども、それを読んでいると、ぼくを取り囲んでいる“空気”とは、まったく異質な風が、いつのまにか感じられる。

たしかに、“本当に旅する”のとは、ちがう。
けれども、この方が、“ネット空間”よりは、ぼくにとっては解放感があるのだ。

ぼくの“使用法”がまずいのだろうが、“ソーシャル・ネット”空間は、ぼくを閉塞させる。
それでもやっているのは、なぜかこのブログを“はじめてしまって”、それが“数年の歴史”を持ってしまったからだ。

(いつでもやめてやるぜ;笑)

けれども、この菅啓次郎の“ニューオーリンズ”も、《1990年の思い出》なのだ。
もはやこの光景(風景)は失われた、“ハリケーン・カトリーナ”の来襲である。

まだ見ぬ土地(土地の名)への、無邪気なあこがれは、粉砕される。

またしても“現実”は、そこにある。

(ぼくは今日、ちゃんと小沢判決のテレビ中継の瞬間を見ている、またまた、現実は‘姦しい=かしましい’ことだろう)


それでも、(時には)、ぼくは行ったこともない土地の名を、ぼーっと読んでいたいのだ;

★ 水は人間の歴史を流してしまうのが得意だ。いつかまたあの広大な湖と巨大な川のあいだの土地を訪れるとき、はたしてぼくは最初の短い訪問の、あのあざやかな高揚感を再発見することができるだろうか。あの蒸し暑く朗々と音の響く、夜の街路を。あの白い霧に閉ざされた、はてしなく静かな朝の湖面を。

<菅啓次郎『斜線の旅』(インスクリプト2009)>






初夏の思考;ロックンロールNOW!―C

2012-04-26 14:05:21 | 日記

昨夜、宇野邦一『D 死とイマージュ』という本を読んでいた。

この本はドゥルーズの死に際して、宇野邦一がいろんな所に書いた文章を中心に編まれ、1996年に刊行されている。

だから、すでに15年くらいが経過したのだ。
しかしぼくがこの本を買ったのは最近である。


1984年:フーコー死去
1992年:ガタリ死去
1995年:ドゥルーズ死去


ドゥルーズが死んだ(自殺)ときのことは、おぼえている。
当時の仕事場の“台所”で、カップとかを洗っていた女性に、(たぶんその朝、新聞でその訃報を見ていて)、“ドゥルーズが死んだ”と言って、ただちに、“このひとはドゥルーズを知らない”と思ったのだ。

“ドゥルーズを知らない”こと(ひと)は、まったくその人の罪ではなかった。


昨夜読んだ宇野の本で(まだ全部読んでない)印象的だったのは、“ガタリ”のことである。

ガタリは、ドゥルーズと“ともに”数冊の本を書いたのだが、ぼくは、ガタリ自身の本を1冊もっているだけ(これも読了してない)で、ほとんどなにも知らない。

実際にガタリと会い、話した宇野邦一の追悼文があった。

宇野はガタリを《春の思想家》と呼んだ。

★ 何度かガタリは自分は書くことが好きじゃないとつぶやいたものだ。「書いているとものが考えられない。喋っているのだってもどかしいぐらいだ」というのだ。書き言葉の、思考を定着してしまう物神崇拝的な側面が、この人にはまったく身につかなかった。

★ そしてこの冬の世界に決して沈黙することなく、ときどき空虚なリフレインに見えても、何かが動き、連結し、突然変異を起こすことを求め続けた。日本にくれば、エコロジストには、環境保護だけでなく、精神と社会のレベルを横断するエコロジーを考え、政党として運動することの必要を説いた。精神病院では、分裂症者を病室の外に出し、さまざまな作業やコミュニケーションにさらして、横断的な関係を構築するよう提案した。私には「ハムレット的孤立」に停滞していてはだめで、さまざまな分野を集合したリゾーム的な研究集団を作るよう提起した。みんなやってみればすぐ壁につきあたる課題だが、彼は決してその提案をあきらめることがなかった。


この本を読み、もう20年も前に死んだ人、しかも“ぼくの人生”になんのかかわりもない“外人”を回想して何になるのか。

しかし、《春のひと》ガタリが見据えていたのは、“冬の季節”であった。

《いたるところで逃走線は閉じられ、「宗教性」と「幼児性」が氾濫し・・・・・・》


その“いま”に、ぼくたちが読みうる本は遺されている;

★ 『アンチ・オイディプス』はまるで初夏のような本だった。その言葉のすべてがうごめき、ひしめき、流れ、沸騰し、散乱し、滴り、呻き、叫んでいた。

★ 『千のプラトー』はその激しい夏の後の充実した秋のような本だった。その思考のすべてが大らかな視野のなかで、ゆるやかに結び合い、響きあい、時代も地理も跳躍する自在さを得ていた。

<宇野邦一『D 死とイマージュ』(青土社1996)>









ロックンロール、NOW!

2012-04-26 12:36:43 | 日記

まず今朝読んだ高橋源一郎と茂木健一郎との応答から。
テーマは“国歌斉唱”です;

☆高橋源一郎 ‏ @takagengen
今日の朝日新聞朝刊に論壇時評を書いています。小学校の入学式で感じたこと、教育、この国の「常識」について書いてみました。読んでいただけるとうれしいです。さて、そろそろ子どもたちを起こそうかな。

☆茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
拝読しました。すばらしかったです! 震えました。 @takagengen 今日の朝日新聞朝刊に論壇時評を書いています。小学校の入学式で感じたこと、教育、この国の「常識」について書いてみました。読んでいただけるとうれしいです。

☆高橋源一郎 ‏ @takagengen
@kenichiromogi 読んでくださってありがとうございます。小学校1・2年の子どもという「当事者」を持つ者として、大学教員として、(公)教育は、とても切実な問題です。おそらく、この社会にとっても要となることがらだと思います。

☆高橋源一郎 ‏ @takagengen
森岡さんへの返信に書いたように、ぼくは、「国歌斉唱」時、できるだけそっと席を離れています。心をこめて国歌を歌っている方の気持を害したくないからです。歌いたい人は、歌いたくない人の気持に配慮し、歌いたくない人は歌いたい人の気持を慮る。そういう国であったらいいと思います。

(以上引用)



まず、ぼくは朝日新聞の購読を数年前にやめているので、高橋源一郎の“論壇時評”とやらを読んでない。

けれどもこれまでの高橋源一郎をぼくが“読解”してきたことでほぼ想像がつくし、このツイート応答で、想像がつく。

たしかに、“国歌斉唱”を強制される現場(たとえば学校)で、その当事者には、“その問題”にどう振舞うかは切実であろうが、ぼく自身は現在、“そういう現場に”いない。

ゆえに、切実でない。

その場合にも、高橋源一郎のように、《おそらく、この社会にとっても要となることがらだと思います》といえるかどうかが“問題”である。

まず、ぼくが現場にいたなら、高橋源一郎の“ように振舞う”だろう(しかしそれはまさに、その時、その現場で、ぼくの身体がどう動くか、であってぼく自身にも予測不能だ)

しかも、《できるだけそっと席を離れています》、という<行動>さえ不可能な現場もありうるのだ。

そういう“行動”(自分の身体の動き)の次元がとても重要であることは認めよう。
けれどもそれが、《おそらく、この社会にとっても要となることがらだと思います》という言明には、賛同しがたい。

そんなことはどーでもいいじゃない、という立場もありうる。

国旗・国歌なんて、ワールドカップやオリンピックのとき、ないとこまる、ぐらいであるとか。

もしこう言うひとがいるなら、その言明は、“ロックンロール”である。



茂木健一郎のツイート(テーマは“脱原発”)も引用する;

☆茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
最後に一つ。それぞれが、得られるデータや技術的見通し、地政学的な視点を考慮して判断すべきだけど、今の日本では、脱原発、反原発と言っている方が空気に迎合してラクだよね。メガスターの大平や池田信夫さんのように、原発推進と言っているやつの方がよほどロックンロールだ。
(数日前のツイート)

☆茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
ロックンロールのツイートについても、さまざまな意見をいただきましたけれども、ある意見を表明することが心理的に難しい状況で、あえてその意見を言う人こそが精神的に「ロック」だという認識については、まったく訂正する必要を認めません。
(今日のツイート)



しかし、ぼくが思うに茂木健一郎はちっとも“ロックンロール”ではない。

たぶん茂木健一郎は、たいして“ロックンロール”を聴いてこなかったのだと思う(あるいはいろいろ聴いても、耳が悪いのか?)



もうひとつ高橋源一郎のツイート(昨日かな?);
☆高橋源一郎 ‏ @takagengen
明るくなってきたなあ。ぼくは、夜、一時間おきに、れんちゃんとしんちゃんの布団を掛け直しに行くんだけど、そりゃやりすぎだって言われるんだ。ぼくが変なのかなあ……と思ってしまうのは、論壇時評を「ぼくは「常識」がない」というタイトルで書いていたからかも。


けれども、高橋源一郎には、「常識」がある、のである。

朝日新聞は、常識がないひとに、“論壇時評”を書かせない。

《ぼくは常識がない》という常識を書くひとに、知性があると思っているのだ!(爆)

これぞ、レトリックである。



ぼくは、“なにが言いたい”か?

高橋源一郎も茂木健一郎も“ガス抜き”である。

“ガス抜きとして”便利に使われているのだ。

しかも本人たちは、それでおカネが稼げるのだから、ハッピーである。

“ガス抜き”というのが、通俗なら、もっとアカデミックに“権力を補完している”と言ってもいいよ。

また“ガス抜き知識人(専門家?)”というのは、高橋や茂木に、“限らない”。


みなさん、もうちょっと、言葉を、よく読もうね。








オデュセイ;旅;自由

2012-04-25 13:10:38 | 日記

このブログにおける、“ぼくの引用”は、<断片>である。

“書かれたもの”は、文脈のなかで理解可能となる。
一冊の本は、一冊の本の全体(ホール)として、解読されるべきメッセージを発している。
あるいは、ある著者の生涯の仕事は、その何冊かの著書の全体として投げ出されている。

だから“断片”が“断片”として、そこにあるだけなら、それは死物である。

だから、このブログの良き読者は、その断片から、オリジナルに到ることが、期待されている。

しかもその断片を、“選択しているぼく”にとっても、その選択は“決定版”ではない。

ぼく自身も(当然)試行錯誤の過程にあり、“それ”を読みとる過程にある。

そもそも、このブログに引用する“文”を含む“本”に、ぼくが出会ったことが、偶然であり、そこから、“ほんのわずかの”部分を引用するのも恣意性である。

しかしその積み重ねから、ある意味が出現することを、期待する。

あるいは、もっと端的に、立岩真也の文の引用に(このブログで)目を止めた人がいて、立岩の『自由の平等』とか『私的所有論』に取り組むことを“期待する”。
マトゥラーナ+バレーラの『知恵の樹』を“読む”ひとが、ひとりでも現われることを、である。

そうであるなら、“ぼく”と、共に歩む(学ぶ)ひとが、目に見えずとも存在する。



* マトゥラーナ+バレーラの『知恵の樹』から引用(下記ブログのつづき)

★ これからのページを使ってきみのために準備したのは、こうしたオデュッセイ、[自分自身にむかっての]長い帰還の旅だ。

★ 旅の第一歩はつぎのようなものになる。<知ること>は<知る人>のアクションなのであり、それは<知る人>の生物[生きている存在]としてのありかたそのもの、つまりその組織に、根ざしている。認識の生物学的基礎は、ただ神経システムを調べるだけではわからないと、ぼくらは考えている。認識のさまざまなプロセスが、いかにひとつの全体(ホール)としての生きている存在に根ざしているかを、理解することが必要なのだと思う。

<H.マトゥラーナ+F.バレーラ『知恵の樹』:菅啓次郎訳(ちくま学芸文庫1997)>




* 立岩真也『自由の平等』から引用:

★ 私(たち)が支配すべきでなく独占すべきでないのは、基本的には、あなたではなく私(たち)が作ったからではなく、人の存在、人の自由を承認することを因果・貢献によりも優先すべきだからである。存在を承認し、ゆえに自由を承認し、そのための所有のあり方を認める。この途を行かないと、それは因果に関わらない存在を排除し、その存在を剥奪することになってしまう。

★ 誰かがある人をただ気にかけている、気にしているという関係がある。そして、その人が自由であることを認めることとその人のことを案じていることとは、基本的には同じことであり、そしてそのようにその人に対していることについて因果関係は必要ないし、また因果による権利・権限としてそれがあるのではないだろう。ただ案じており、それが差し向けられている。それは贈与としてある。この時、差し向けられているその当の人もまた、それを受け止め、応えるように要請される。そんな関係になっている。契約の言葉でなければ命令の言葉しかないわけではない。それは呼びかけることとしてなされる。承認すること、承認されることは、この水準にあり、あることが求められている。

★ 一見平明な言明、そう言われても何も文句のないような言明も、詳しく見ていくとおかしなところがいくつもある。自明に見えるものはそう自明ではない。何度かこのことを見ながら、自由によって自らを弁証しようとする私有派の主張をその同じ自由によって否定し、自由の立場から、自由のための分配を弁護した。

<立岩真也『自由の平等 簡単で別の姿の世界』(岩波書店2004)>








確信を疑え

2012-04-25 11:25:59 | 日記

★ ぼくらには、確信[確実さ]の世界、けっして疑われることのない堅固な知覚の世界の中に住むという、傾向がある。ぼくらの信念が、事物とはただ人が見るとおりのものであり、自分が真実だと考えていることにはほかのありかたはありえないのだと、保障してくれている。このゆるぎない確信は、ぼくらの日常生活にまとわりつく文化的条件であり、人間としてやってゆく上でのごくあたりまえのやりかただ。

★ ところで、この本の全体は、いわば、確信の誘惑へと身をゆだねてしまうという習慣を、いったん中断してみようということへの呼びかけなのだ。

ある人の<確信>の経験は、ほかの人々の認識行為にたいしては盲目な孤独の中でいとなまれる、個人的現象にすぎない。そしてその孤独は、これから見てゆくように、彼がほかの人々とともに生起させる世界においてのみ、のりこえられるものだ。

<H.マトゥラーナ+F.バレーラ『知恵の樹』:菅啓次郎訳(ちくま学芸文庫1997)>








映画

2012-04-25 10:01:52 | 日記

Jean-Luc Godard ‏ @godard_bot
苦しみを託されたものとしての映画、―ぼくはこれはすぐれた観念だと思う。そして、自分に大げさに考えるべきじゃないと言い聞かせながら、この観念を自分に適用している。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏ @godard_bot
夢が今でもまだ大きい力をもっているのは、夢はサイレント映画の時代に属するものだからだ。夢はテレビの時代のものじゃないわけだ。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏ @godard_bot
私はいつも、人々がそれぞれドキュメンタリーとフィクションと呼んでいるものを、同じひとつの運動の二つの側面と考えようとしてきました。それにまた、真の運動というのは、この二つのものが結びつけられることによってつくり出されると考えてきました。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏ @godard_bot
ヌーヴェル・ヴァーグがある時期のフランス映画を突き破ることができたのは、ただ単に、われわれ三、四人の者が互いに映画について語りあっていたからです。―ゴダール

Jean-Luc Godard ‏ @godard_bot
そして、映画づくりの外でではなく、映画をつくりながら考えようとしました。なぜなら、そうしようとはしないで紙に書いたりすると、それはむしろ小説になってしまうからです。そしてその小説が、あとで映画としてコピーされるわけです。―ゴダール







へんな先生

2012-04-22 13:21:10 | 日記

今日の茂木健一郎ツイート

A:茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
へんな先生と言えば、中学校のときの英語の先生、夏休みインドに行って、帰ってきて「女の人がみなきれいなんだよ〜」と夢見るような表情で言って、それからすぐやめて旅行会社に入っちゃった。強烈なインパクトあったな

B:茂木健一郎 ‏ @kenichiromogi
ぼくは、おそらく、ものすごい伝統主義者だけど、ぼくが考える日本の伝統は、真っ先にたとえば本居宣長であって、国旗とか国歌とかは、明治以降日本が欧米に合わせようとする過程での「鹿鳴館」のようなものに思えます。だから、ムキになる人たちは、むしろ日本の伝統主義者ではないと感じるんだよ

<引用>



ぼくには、

Aは面白い。

Bは面白くない。

今日の茂木健一郎“連続ツイート”のテーマは、

《人はそれぞれ違っていて、どうすることもできない》

でした。






歴史は繰り返す

2012-04-21 12:39:36 | 日記

ぼくは、現在の状況(世の中)について、とやかく言っている人たちの発言を“みんな”読んでいる(聞いている、見ている)わけではない。

しかしいったいどこに、それを“みんな”読んでいる人がいるだろうか。

“ある意味”では、ひとは自分の読みたい(聞きたい、見たい)ものだけを読んでいる。

これが、“原則”である。
その上で、たとえば、現在の状況がヒットラーが台頭するワイマール共和国時代のドイツに“似ている”と言ってみる(つまり“ぼく”が言う)

もちろん、橋下とヒットラーは、あまり“似ていない”(ハシモトはヒットラーのちゃちな戯画である)
橋下を、“ハシズム”と呼ぶのは、流行おくれである(流行は、ますます素早く過ぎる)

しかし、ぼくが関心を持つのは、ヒットラーと橋下が似ているかどうかではない。
ヒットラーを“民主的に”出現させた<大衆>の動向である。

この大衆(国民とか市民とかとも呼ぶ)の“おろかさ”についても、現在日本の有名人論客が、“愚民社会”とかいう本をだしている(ぼくは読んでない)
ネットでその本の著者二人の対談を読んだところによると、宮台真司は現在の大衆を《田吾作》と呼び、大塚英志は《土人》と呼んだらしい。

また一方、先日亡くなって、はやくも忘れさられそうな“戦後日本の思想家”吉本隆明の核心概念は《大衆の原像》だった。

すなわち《大衆》は、戦後“民主主義”の核心的問題点であったのよ。

大衆にたいする反対概念は、“知識人(インテリゲンチャン)”であるが、この《知識人》という概念は、戦後60余年においてあっさり消滅した。

《知識人》に替わってあらわれたのは、“専門家(有識者!)”と呼ばれる、ガッコの先生(ほら教授とか准教授とか呼ばれるなにが専門かわからない人たち)と企業紐つきの“調査機関”とかにいる人々であった。

一方、大衆の《一般意志》を表出する、“世論調査”というものが、大衆の現意識を表出するものとされている。

またさらに、“大衆”の問題は、政治経済社会的問題であるのみでなく、《ポップカルチャー》の問題であった。

(ああすでに疲れた、がんばろう!)


さて、くどくど書くのも疲れるので、一気に“核心へ”行きたい。
ぼくは“それなりに”大メディアとネット言説をチェックしてきたのであるが、ほとんどそこに読むべきモノがない、という事態にたちいたった(“ツダッチ大好き”!!)

そういうとき、ベンヤミンの“一方通行路”を読み返し、“そこに”、読むべきモノがあることに、あらためて驚いたのである、(ここでベンヤミンは大衆を《平均的人間》とも呼ぶ)、引用する;

★ ドイツ市民の、愚昧と臆病を繋ぎあわせた生活ぶりを、日々明らかに示している、例のおびただしい言い回しのなかでも、目前に迫った破局に関する言い回しは――「もはや事態がこのまま進む」ことはありえないですよね、というわけだが――とくに考察に値する。平均的人間は、過去数十年間における安全観・所有観に救いようもなくしがみついているため、現在の事態の底にある、まったく新しい種類の、きわめて注目すべき安定性を、はっきりと知覚し意識することができない。戦争[第一次世界大戦]前の数年間における相対的な安定化傾向が、平均的人間に有利に働いたために、そうした人間は、自分の所有物を奪うようなあらゆる状態は不安定と見なさなければならない、と思ってしまう。だが、安定した状態が、快適な状態だということは決してないし、すでに戦争前において、いくつかの階層にとっては、安定した状態とはすなわち安定した悲惨であったのだ。

★ 凋落が興隆に比べて、より不安定だということはないし、より不思議なものだということもない。思い切って、没落こそ現状の唯一の道理である、と認めることができるなら、そうした考量だけが、日々繰り返されるものについての――普段はだんだんと弛緩していく――驚きから出発して、次のような覚悟に至りつくことだろう。すなわち、凋落のいろいろな現れを、まったく安定した事象と見なし、そして救いをもっぱら、不思議で不可解なものと紙一重の法外なものと見なす覚悟に、である。


★ ひとつの奇妙な逆説。人びとは行動するとき、狭量きわまる私的関心だけを念頭においているのだが、しかし同時に、その振舞いにおいて、かつてなかったほど大衆の本能に規定されている。そしてこの大衆本能が、かつてなかったほど狂ってしまい、生に縁遠いものになってしまっている。

★ 動物の暗い本能ならば――無数の逸話が語るように――まだはっきり現われていないように見えても実は差し迫っている危険を感じて、そこからの脱出口を見つけられるような場合に、誰もが自分自身の低級な安寧にのみ目を奪われているこの社会は、動物のような愚鈍さをもち、しかも動物のもつおぼろげな知を欠いているため、盲目な大衆として、あらゆる危険に、ごく見やすい危険にさえ、捕まってしまう。そして個人のいろいろな目標の違いは、個人を規定する諸力の同一性のまえでは、何の重要性もなくなる。

★ 繰り返し見られたことだが、この社会の人びとは、自分たちが慣れ親しんでいた、もうとっくに失われてしまっている生に、あまりにも頑なにしがみついていて、そのせいで、知性の本来人間にふさわしい適用のされ方、すなわち予見が、強烈な危険に直面した場合でさえ、役に立たないのだ。結果として、この予見という点において、愚鈍さはその極みに達した姿を見せる。すなわち自信のなさ。それどころか、生にとって大切な本能の倒錯、そして無力。いやむしろ、知性の凋落である。これがドイツ市民総体の状態なのだ。

<ヴァルター・ベンヤミン“一方通行路”―『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』(ちくま学芸文庫1997)>








<追記:まだ生きている Still Alive>

“歴史は繰り返す”という命題が、あやふやなものであっても、ワイマール共和国時代(1918~1933)の、戦間期の、思想家がまだ生きていることは確実である。

ベンヤミンのみではない。

この時代に、自分の仕事の絶頂期を迎えた人、自分の仕事のモチーフを掴んだ人、また、この時代から去っていった人がいた;

フロイト、フッサール、ウェーバー、ヴァレリー、ルカーチ、ハイデガー、ウィトゲンシュタイン、グラムシ、バフチン、アルトー、ブルトン、バタイユ、ラカン、アドルノ、サルトル、アレント、メルロ=ポンティ、レヴィ=ストロース、ロラン・バルト、アルチュセール等がいた。

プルースト、トーマス・マン、ジョイス、カフカ、フォークナー、ヘミングウェイ、ジュネ、デュラス等がいたのだ。






<追記B>

たとえば上記にその名を掲げた人びとが、1933年(ヒトラーが政権を掌握した年)に何歳であったかを知ることも興味深い(マックス・ウェーヴァーのようにすでに亡くなっていたひともいる)

私的に言えば、ぼくの母は1933年に10歳くらいであったはずである。
つまり10歳の少女だった母と、彼女を取り巻いていた時代の空気や風景を想像してみる。

ベンヤミンの“一方通行路”は、ぼくにベンヤミンの魅力を決定づけた文章である(ぼくはベンヤミンをまだそれほど読んだわけではない)

翻訳でしか読み得ないにもかかわらず、その文体にはなにか硬質なものがあり、“フランスもの”に馴染んできたぼくには、とっつきにくくもあった。

しかしベンヤミンの魅力は、けっしてこのブログに引用したような、“鋭さ”とか“きびしい皮肉”にのみあるのではなかった。

彼は、回想の(記憶の)ひとでもあった。
そこで回想されるのは、古き良きブルジョワ的な幼年時代であった(だろうか?)
彼は、“お金持ち”の幼年時代を持ったが、その回想は貧窮のなかでなされた。

たとえば『1900年頃のベルリンの幼年時代』の最初にある“ロッジア”の光景は、ぼくにとっても縁遠いものである。
ぼくは、“女像柱に支えられた上の階のロッジア”を持つ家に住んだことなどないから。

しかし、なにか、かすかなもの、かすかな気配が(すなわち風のそよぎが)、“ぼくの幼年時代”を喚起する。
すなわちまったくちがったものが、普遍的と、感じられることがある;

★ 生まれたばかりの赤ん坊を、目を覚まさせずそっと抱き寄せる母のように、人生は長いあいだ、幼年時代のいまでもまだほの柔らかなままの思い出を、その胸に抱いている。私の幼年時代の思い出を何にもまして心優しく育んでくれたのは、中庭への眺めだった。夏には日除けの陰になる、中庭に面した薄暗いロッジアのひとつこそ、この都市が新参市民の私を寝かせた揺籠にほかならなかった。すぐ上の階のロッジアを支えていた女像柱たちは、この揺籠のかたわらで歌をうたうために、ほんの少しのあいだ持ち場を離れることがあったかもしれない。その歌は、後年の私を持ち受けているものの兆しを、ほとんど何も含んではいなかったが、代わりに、呪文のような密かな言葉を秘めていた。この言葉の魔法のような力によって、私には中庭の風のそよぎが、その後もずっと変わることなく、うっとりさせるものになった。のちに、私が愛する女性(ひと)をじっと抱きしめた、あのカプリ島の葡萄山の辺りにも、まだ、この風のそよぎのなにがしかが混じっていたのだと思う。そして女像柱たちがロッジアの高みからベルリン西区の中庭を睥睨していたように、いま私の想いの空を支配しているイメージやアレゴリーたちも、まさにそのそよぎのなかに居並んでいるのだ。

<ヴァルター・ベンヤミン“1900年頃のベルリンの幼年時代” ―『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』>