Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

勝たなければ、意味がないのか?

2014-01-31 12:17:08 | 日記

想田和弘(映画作家):<意味の薄い「勝ち」もあれば、意味のある「負け」もある>(ポリタス2014/1/31)

◆ 「知名度頼りの人気投票ではなく、政策本位の選挙を」
脱原発派やリベラル派は、選挙がある度に、そう、繰り返し主張してきた。しかし、今回の都知事選ほど、そうした主張が本気であったのか、それとも単なるお題目に過ぎなかったのか、が問われている選挙はない。
僕が憂慮しているのはもちろん、細川護煕・小泉純一郎連合の出馬と、彼らの政策が出揃う前にいち早く支持を表明した一部の脱原発派・リベラル派の方々の動きについて、である。
彼らの動きは、どう考えても「政策本位」ではなかった。なにしろ、細川氏の立候補会見を待たずに、氏の詳しい政策が明らかになる前に、「支持」は表明されたからである。
支持の理由も、「勝てる候補を支援すべき」というものであり、細川・小泉連合の知名度と世間的人気を重視したものであった。その発想が、選挙で勝つためにタレント候補を擁立する政党のそれと相似形であることは否めない。それは私たちが「民主主義を形骸化させる元凶」として批判してきた態度ではなかったか(しかも「勝てる候補」であるという見立てが間違っている可能性も小さくない)。
僕がこんなことを書くと、おそらく細川氏を支持する人からは批判の声が上がるだろう。

◆ 「細川氏をディスってどうする。敵を間違えるな」
だが、僕は別に細川氏を否定しているわけではない。彼の政策を詳しく知った上で支持するのなら、僕には何の異論も無い。それぞれの判断を尊重する。
僕が疑問を感じているのは、政策がよくわからないのに支持を表明する、そういう主権者としての態度や行為に対してである。
この点を不問に付して「スルー」してしまうと、私たちは人気投票的な選挙の在り方を批判する資格を失ってしまう。今回の選挙でいえば、「政策」とは呼べぬような、スローガン的な「公約」しか並べていないのにリードが伝えられている舛添要一候補を巡る現象についても、批判できなくなってしまう。むしろそういう現象を加速させてしまう。それは、脱原発派やリベラル派の運動の将来に禍根を残すことになる。

◆ 「しかし、選挙は勝たなければ意味がないのだよ」
そう、僕に反論する人もいるだろう。
でも、本当にそうだろうか?
「負けてもよい」とはもちろん思わない。だが、僕は選挙とはそんなに単純なものではないと思っている。意味の薄い「勝ち」もあれば、意味のある「負け」もある。そんな風に思っている。
例えば、先の参議院選挙で三宅洋平氏が17万票を獲得して負けたのは、本当に意味がなかったのだろうか?
「意味がなかった」と断じる脱原発派やリベラル派は少数であろう。なぜなら、彼の型破りな運動が17万票もの支持を得たことは、勝負に負けたにもかかわらず、私たちを勇気づけ、「次」につないでくれたからである。
逆に、民主党による政権交代を成し遂げた2009年の衆議院選挙はどうだったか?
腐敗臭のする自民党政権に辟易していたリベラル派の多くは、あの結果を「勝ち」だと認識したのではないか。僕も(恥ずかしながら)その一人だ。しかし、僕はその「勝利」を思い出すときに、苦い思いも同時に想起せざるをえない。選挙に「勝った」はいいものの、政権交代の成果は貧しく惨憺たるものであり、結果的にはリベラル勢力の壊滅的な後退を招いたと思うからである。
いずれにせよ、原発は一朝一夕でなくなるようなものではない。原発は日本の中枢——政・官・学・産・マスコミ——を蝕むドラッグのようなものであり、やめれば禁断症状が出る人があまりに多い。「脱原発派」の都知事が誕生すれば、それはもちろん脱原発を進める大きな力になり得るが、それだけでどうにかなるというものでもない。私たちの前に立ちはだかる壁は、果てしなく高くて分厚いのである。

◆ 「知名度頼りの人気投票ではなく、政策本位の選挙を」
僕は、脱原発派とリベラル派の方々に、この原点を忘れずに都知事選に臨んで欲しいと強く願う。
脱原発運動も、民主主義を守り育てていく運動も、これからの道のりは長く険しい。その道を共に歩むには、私たちには常に立ち返るべき原点が必要だと信じている。

想田和弘 (そうだ・かずひろ)
映画作家。1970年栃木県生まれ。日米を行き来しつつ、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリー映画を制作。自民党公認候補の選挙戦を描いた『選挙』(07)、精神科外来をみつめた『精神』(08)、福祉の現場を描いた『Peace』(10)、平田オリザと青年団を追った『演劇1』『演劇2』(12)、近作は311直後の統一地方選を描いた『選挙2』(13)など、時代の相貌を切りとる作品を発表し続けている。受賞暦多数。著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)など。【photo:2013 司徒知夏】
ホームページ: http://www.laboratoryx.us/sodaofficial/
Twitter: @KazuhiroSoda

(以上引用)




ゲームの価値;自叙伝;思考の歴史

2014-01-29 12:25:52 | 日記

1982年、アメリカ・ヴァーモント大学でセミナーを行った際、ミシェル・フーコーはインタビューに答えた、その発言から;

★ わたしは著作家、哲学者、名代の知識人、ではありません。教師であります。

★ わたしは、予言者になって「どうか腰をおろしたまえ、わたしの発言の中身はきわめて重要なのだ」なんて言いたいとは思わない。わたしは、われわれの共通の仕事を論じるためにやってきたのです。

★ わたしが何であるかを正確に認識する必要があるとは思いません。人生や仕事での主要な関心は、当初のわれわれとは異なる人間になることです。ある本を書き始めたとき結論で何を言いたいかが分かっているとしたら、その本を書きたい勇気がわく、なんて考えられますか。ものを書くことや恋愛関係にあてはまる事柄は人生についてもあてはまる。ゲームは、最終的にどうなるか分からぬ限りやってみる価値があるのです。

★ わたしの役割は――そしてこれはひどく思いあがった言葉なのですが――、人々は彼らが自由であると感じているよりはるかに自由であるとか、人々は歴史のとある時期に築きあげられてきた若干の主題を真理として、明証として受けいれているとか、そして、このいわゆる明証なるものは批判と破壊の対象となりうるものであるとか、を人々に明らかにすることです。人々の精神のなかで何かを変えること――これが知識人の役割なのです。

★ わたしの著作は、それぞれわたしの自叙伝の一部です。あれやこれやの理由でわたしには、そうした事態を感じたり生きたりする機会がありました。簡単な例をあげると、わたしは1950年代に精神病院で働いた。哲学の研究をすませたのち、狂気が何であるかを見たいと思ったのです。わたしは理性を研究できるくらいには気違いじみていたし、狂気を研究できるくらいには理性的だった。

★ この『狂気の歴史』は精神医学殺しというふうに受けとめられたが、しかしその本は歴史をもとにした記述だった。真の学問と偽りの学問との相違を、あなたはご存知でしょうか?真の学問は自らの歴史を認めて受け入れるが、その場合、気分をそこなうなんてことはない。ある精神科医に、きみの精神病院の起源は癲病施療院だと言うと、その医者はひどく腹を立ててしまう。

★ ニーチェはわたしにとってひとつの啓示でした。わたしがそれまでに教えられてきたのとはまったく異なる人がいるとわたしは感じたのでした。激しい情熱をもやしてニーチェを読み、それまでのわたしの生活と縁を切って、収容施設での職をやめ、フランスを離れました。これまでのわたしは術策(わな)にかけられたようなもの、というのがそのときのわたしの気持ちです。ニーチェをとおしてわたしは、そうしたことすべてにたいして異邦人になってしまった。わたしは依然としてフランスの社会的、知的な生活のなかに完全には融けこめない。

★ われわれ誰もが生活し思考する主体です。わたしが反発している当の事態とは、社会史と思想史とのあいだに裂け目があるという事態です。社会史とは、人々が思考することなしにどのように行動するかを記述するものだと考えられているし、思想史とは、人々が行動することなしにどのように思考するかを記述するものだと考えられている。すべての人は行動もするし思考もしているのです。

★ わたしのさまざまな本のなかでわたしは変化を分析しようと実際努力してきましたが、それは具体的な原因を見つけ出すためではなく、相互に作用していたすべての諸要素を、そして人々の対処を明らかにするためでした。わたしは人々に自由があることを信じています。状況は同じであっても、それに対処する人々の仕方はまったく異なるのです。

★ われわれがヒューマニズムと名づけているものは、マルクス主義者も自由主義者もナチスもカトリック教徒も使ってきた。このことの意味は、われわれはいわゆる人権や自由なるものを一掃しなければならないということではなくて、自由や人権はある領域では制限されるべきだとはわれわれは言いえないということなのです。たとえば、もし80年前にあなたが、女性の貞操は普遍的なヒューマニズムに属するかどうかと人に質問したら誰しもそのとおりだと答えただろう。

★ ヒューマニズムということでわたしが気がかりなのは、ヒューマニズムがわれわれの倫理の特定の形式を、どんな種類の自由にもあてはまる普遍的なモデルとして提示するという点です。わたしの考えるところでは、ヒューマニズムのなかに、つまり左翼とか中道派とか右翼とか虹のような色合いの政治のあらゆる側でこれがヒューマニズムだと独断的に主張されている、そうした意味でのヒューマニズムのなかにわれわれが想像しうる以上に、われわれの未来には、より多くの秘密、より多くの自由の可能性、より多くの発明があるのです。

<ミシェル・フーコー『自己のテクノロジー フーコー・セミナーの記録』(岩波現代文庫2004)>





羊たちの沈黙;英語と日本語

2014-01-29 10:11:43 | 日記

◆ 町山智浩 ‏@TomoMachi
思春期までに洋画に慣れなかった人はその後、あまり洋画は観ないだろう。洋楽や文学もそう。思春期までにテレビから流れるJPOPとアニメの外側に出なかった人はその後もあまり出ないだろう。英語教育を強化するといっても外国の文化に興味ないのに英語だけ勉強しても身に着くわけがない

◆ 町山智浩 ‏@TomoMachi
日本人が洋楽や洋画、外国文学をだんだん消費しなくなって、外国人が言っていることに興味なくなっているのに、英語だけ勉強しろと言っても無理な話だよ

◆ 町山智浩 ‏@TomoMachi
映画会社は「それでも夜は明ける」とか「あなたを抱きしめる日まで」とか日本語のわかりやすい邦題をつけようとするけど言いにくいし覚えにくい。過去の大ヒット作は「エクソシスト」「ジョーズ」「ET」「マトリックス」「ランボー」など意味不明でも語感がよくて覚えやすい題名ばかりだ。

◆ 町山智浩 ‏@TomoMachi
「羊たちの沈黙」という題名は原題直訳で、映画の内容を説明してないけど、別にそれでいい。「羊たちの沈黙」という言葉のインパクトが謎めいて不吉で詞的で、言葉として凡庸じゃないから。平坦な言葉の組み合わせにすると覚えられないよ。

◆ 町山智浩 ‏@TomoMachi
「大人は判ってくれない」の原題は「400発のパンチ」。主人公の気持ちを代弁した邦題で大成功。思春期っぽさは「400発のパンチ」よりも出てるから。上手いけど、こういう邦題つけるには詩人的なセンスがいるよね。

◆ 町山智浩 ‏@TomoMachi
日本人は外国の文化に対する興味を失いましたが「外国人は日本が好き」みたいな本や記事ばかり売れるという「他者や世界に関心はないが自分がどう見られてるかだけは気になる」という思春期みたいな状況になってますね

◆ 町山智浩 ‏@TomoMachi
「愛は霧の彼方に」の原題は「霧の中のゴリラ」で、ゴリラ保護の映画だった RT @tkasuga1977: @TomoMachi 「愛と哀しみの果て」とか「愛は霧のかなたに」とか、「原題通りだと絶対に女性客は来ないから、とりあえず『愛』ってつけとけばいいだろ」的な





NHKと“個人の絶滅”

2014-01-27 10:55:04 | 日記

みなさん、歴史を勉強しよう!

* NHK新会長に関する想田和弘ツイート

◆ 想田和弘 ‏@KazuhiroSoda
どこが不偏不党ですか。→NHK籾井新会長「(秘密法は)世間が心配していることが政府の目的であれば大変だが、そういうことはないだろう。秘密法は政府が必要と説明しているので、様子を見るしかない。あまりかっかかっかすることはないと思う」http://www.asahi.com/articles/ASG1T5TK2G1TUCLV007.html?iref=comtop_6_02 …

◆ 想田和弘 ‏@KazuhiroSoda
そもそも報道とは無関係に生きてきた人がなんでNHKの会長になりうるのか、根本的な疑問を感じる。これじゃジャーナリズムもへったくれもない。→NHK:籾井会長、従軍慰安婦「どこの国にもあった」-毎日新聞 http://mainichi.jp/select/news/20140126k0000m040043000c.html …

◆ 想田和弘 ‏@KazuhiroSoda
巨大な報道機関NHKのトップが全くの報道の素人。ジャーナリストとしての見識も経験も新入社員と変わらない。なのに組織のトップ。ジャーナリズムをなめてんのか。誰でもできると思ってんのか。不条理なコメディを観ているかのようだ

◆ 想田和弘 ‏@KazuhiroSoda
NHK=政府公報機関であることを宣言。一刻も早く会長を辞めていただきたい。→NHK籾井新会長「政府が『右』と言っているものを、われわれが『左』と言うわけにはいかない」「あくまでも日本政府と懸け離れたものであってはならない」http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20140125-OHT1T00088.htm …

◆ 想田和弘 ‏@KazuhiroSoda
NHK新会長が言うようにNHK=政府公報・宣伝であるならば、あんなに巨大な組織も施設もいらないし、受信料だって無料にすべきだよな。どこの世界に宣伝を有料で観る人間がいるんだっての。あほらしい。

◆ 想田和弘 ‏@KazuhiroSoda
公共放送の公共性はいかにして担保されるのか?NHK会長は政府見解を垂れ流すのが公共性だと勘違いしているようだが、とんでもない誤りだと思う。公共性のモデルは「広場」であり、誰でも入れるのが広場。つまり、右も左も、様々な見方の様々な番組が共存できる放送が「公共性の高い放送」であろう。

◆ 想田和弘 ‏@KazuhiroSoda
それは別に番組内でバランスを取れ、両論併記をしろ、と言っているのではない。むしろ逆である。個々の番組はそれぞれ偏っていていい。右に偏るのがあっても、左に偏るのがあってもいい。そういう様々な偏りを持った様々な番組が共存しうること。それが公共放送の公共性ではないか。

◆ 想田和弘 ‏@KazuhiroSoda
NHK新会長の慰安婦についての発言は、要約すれば「日本だけじゃなくてみんなやってた」「当時は容認されていた」という主張なわけで、橋下徹のそれとそっくりだ。

◆ 想田和弘 ‏@KazuhiroSoda
BBC「NHK新会長人事がNHKを安倍政権に従属させようという試みであったとしたら、それは酷く裏目に出たようにみえる」http://www.bbc.co.uk/news/world-asia-25901572 …

◆ 想田和弘 ‏@KazuhiroSoda
NHK新会長の「政府が『右』と言っているものを、われわれが『左』と言うわけにはいかない」という発言は、政府=クライエントと誤解したビジネスマンの発言のように僕には聞こえる。だけど公共放送というのはそもそもビジネスマインドとは馴染まないんですよね。

◆ 想田和弘 ‏@KazuhiroSoda
で、もし公共放送にクライエントがあるのだとしても、それは視聴者であって政府ではない。視聴者に奉仕するためには、政府の都合の悪いことを徹底的に明るみに出さなきゃならない場面も多い。籾井氏はこの基本的なことを理解していないのだと思う。


* 辺見庸“私事片々”2014/01/26

・籾井勝人という男の、いわゆる「従軍慰安婦」問題発言にからみ、もっとも悲しむべき、そして衝撃的でもあったシーンは、籾井の発言内容以上に、NHKおよびいくつかのマスメディアが、これを知っていながらまったく報じなかったという「空白」にあることは、あらゆる見地から疑いを入れない。これは「ブラックアウト」(blackout=報道管制、放送中止)にまったく等しい。また、「NHK受信料は支払わなくてもよい」という思想をNHKみずからが正当化したのとおなじことである。発言が取り消されたから報じなかったというのでは、小学生の理屈にもおよばず、もうまともな報道機関とはいえない。メディアの病巣の拡大と転移・再転移、病症の深まりは、生体細胞ぜんたいの静やかな石化のプロセスに似る。あるいは石淋だらけのからだ。この社会はいま、生きかつ微笑みながら、緩慢に死につつある。巨大メディアの「安倍機関化」がすすんでいる。日刊安倍新聞、安倍放送局、安倍チャンネルがさかんに自己増殖中だ。毎日が画時代的シーンに満ちあふれている。なんという壮大な反動だろう!なんということだ、と叫びたい衝動にかられるのは、だが、状況そのものに理由があるというより、怒る神経と血管が目詰まりし、ついに石化してしまった人間たちが社会の絶対的マジョリティになっており、かつてよりますます「個人」がいなくなった、個人が絶滅しかかっているからだ。「かつては歴史から学ばぬ者は歴史を再体験しなくてはならなかった。しかしそれは、権力の座にある者たちが、歴史は生起しなかった、あるいは自分たちの目的にもっともかなう形でしか生起しなかったのだ、と自分たちを含む全員を納得させてしまう手段を発見する前までのことである。いや、権力者にとってもっともよいのは、1時間の娯楽のために急造された質の悪いドキュメンタリー番組を除けば、歴史など何の意味もないのだ、と万人を納得させることだろう」(高橋和久・訳)。トマス・ピンチョンが『1984年』の解説としてしたためた文章は、まるで、2014年の日本のために書いたようである。安倍らゴロツキたちは、いままさに「歴史になどなんの意味もないのだ」と身をもって‘証明'しつつある。安倍ゴロツキ集団を倒すにはいましばらくの時間がかかるだろう。しかし、籾井という反社会的人物をすぐにでもNHK会長職から引きずりおろせないようでは、憲法改悪を阻止するのはとうてい無理というものだ。けふはコビト、犬とLSV経由、オンブル・ヴェールに行った。にわか雨を店内からみた。エベレストにはのぼらなかった。『塀の中のジュリアス・シーザー』をみた。(2014/01/26)



みなさん、歴史を勉強しよう!




小出裕章京都大学助教;“差別のない世界を目指す人たちと連帯を”

2014-01-25 11:25:00 | 日記

京都大学助教の都知事選についての文章を読むことができた。
ぼくは小出裕章京都大学助教の発言をとくにフォローしてきたわけではないが、昨年、近所の学校で講演会が開催され、実際にその発言とたたずまいに接することができた。
そしてなによりも以下に引用する《文》である。
現在忘れられているのは、“メディア”(新聞・テレビ・ネットなど)の、ちがいではなくて、そこで発せられる《文章》の品位である。
“品位”という言葉を誤解してはならない。
それは小ぎれいなレトリックを意味しない。
“文は人なり”を意味する。
“文”は“顔”と同じく、そのひとを表す。
“論文”であっても、“文学”であっても、文字限定のツイートであっても、同じである;

<都知事選についての意見>

私はこれまで、原子力のない世界を求めて、私の場でやってきました。
私以外の方はやろうとしないこと、私にしかできないことを選びながら、やってきました。

私の戦いは「原子力マフィア」と呼ぶ強大な権力が相手でしたので、私の戦いは常に敗北でした。
それでも、負けても負けてもやらなければいけない戦いはあると思ってきましたし、今でもそう思います。
歴史は大きな流れですので、目の前の小さな勝ちを得るためではなく、遠い未来から見ても恥ずかしくない戦いをするべきだと思ってきました。

私が原子力に反対するのは、単に原子力が危険を抱えているからではなく、それが社会的な弱者の犠牲の上にしか成り立たないからです。
当然、戦争の問題、沖縄の問題など、無数に存在している課題と通底しています。

今回の都知事選に関していうのであれば、私は宇都宮さんの主張に賛同します。彼にこそ都知事になって欲しいと願います。
ただ、すでに「脱原発」を最大のテーマとして細川さんが立候補しました。
そして、小泉さんが細川さんを支持しました。小泉さんは小泉構造改革を行って社会的弱者を切り捨てた張本人ですし、靖国神社にも参拝する人です。
私は小泉さんが嫌いだと発言してきましたし、細川さんや小泉さんを支持したいとは思いません。

ただ、今回の知事選での動きを見ていると、これまで反原発・脱原発を担ってきた私の友人、知人が宇都宮さん支持、細川さん支持で引き裂かれてしまいました。
中には相手を激しく批判する人も出てきてしまいました。
私は大学闘争の世代で、当時はたくさんの党派、セクトが乱立し、お互いの小さな違いを取り上げて批判し合い、中には殺し合いすらが起きました。
私は、そうした動きが嫌いでしたし、当時女川原子力発電の反対運動に関わり、その運動に力を貸してくれる限りは誰でも受け入れ、共に活動することを選びました。

今回の都知事選で獲得するべき目標はなんなのでしょう?
負けてもいいからきちんとした論争をするという立場はもちろんありますし、私自身はずっとそうしてきました。
ただし、私が政治、特に選挙が嫌いな理由は、選挙が勝つか負けるかが決定的で、本当に自分がやりたいことだけをやっていることを許さないからです。

そして、今回の知事選では、私は舛添さんに勝たせることだけはあってはならないと思います。

宇都宮さんと細川さんが原子力に反対すると表明し、残念ながら私の友人・知人にしてもそうであるように、必ず票が割れるでしょう。
すでに、告示日が過ぎましたので、宇都宮さんと細川さんの一本化は不可能となりました。

今回、細川さんを支持した人たちの中には、舛添さんを勝たせたくないと思っている人がたくさんいると、私は思います。
残念ながらここまで来てしまえば、それぞれの人がそれぞれの思いに従って票を集めるしかないでしょう。
脱原発の人が多くの票を集めてくれることを願いますが、票が割れる中、舛添さんが利を得ることを私は怖れます。

せめて、究極の目標を忘れずに、脱原発を目指す人たちがお互いを傷つけあうことはやめて欲しいと願います。
私はこれまでにも政治は嫌いで、決して関わらないと公言してきました。
ただ、前回の都知事選で宇都宮さんを支持する旨表明しました。

でも、今回の経験を経て、私はますます政治が嫌いになりましたし、今後は一層、政治、特に選挙からは遠ざかろうと思います。
私の主戦場は「原子力」の場であり、従来通り、その場で私しかやらないこと、私にしかできないことに私の力を使います。
そして、差別のない世界を目指す人たちと連帯したいと思います。

今回の選挙を自らの課題として戦っている皆さんに対しては、申しわけなく思います。
政治が大切であることは十分に承知しています。
政治に関わってくださる皆さんをありがたいと思います。

しかし、私という人間は政治が苦手です。他の誰でもない私の個性だということで、お許しいただけると嬉しいです。

2014年1月24日 小出 裕章





貧窮問答

2014-01-24 12:54:03 | 日記

★ 憶良は、同時代の他の歌人が詠わなかった題材――それはまた19世紀末までその後の歌人もほとんど詠わなかった題材でもある――を、詠った。第一に、子供または妻子への愛着。
瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ 何処(いづく)より 来たりしものそ  眼交(まなかひ)に もとな懸りて 安眠(やすい)寝さぬ
また、
憶良らは今罷(まか)らん子泣くらむそを負う母も吾を待つらむそ
これは「宴を罷(まか)る歌」である。その後の日本の男は、こういう歌をつくらなかったばかりでなく、徳川時代以後には、そういって宴会から退出することを恥とする習慣さえもつくりあげた。この歌が今かえって爽やかに響くのは(『万葉集』の時代にはまだそういう習慣がなかった)、そのためである。

★ 第二に、老年の悲惨。たとえば「世間(よのなか)の住り(とどまり)難きを哀しぶる歌一首」は、「何時の間か」髪が白くなり、面に皺がよることをいい、女と寝た夜のいくほどもないうちに、老いさらばえた惨めさをいう。

★ 第三に、貧窮のこと、飢えと寒さ、しかも税吏の苛酷さのそれに加わる光景。「貧窮問答」の長歌にはその光景がよく描かれていて、次の反歌一首が全体を要約している。
世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

★ 彼の歌には他の『万葉集』歌人の誰にもない自分自身に対する皮肉、一種の「黒い諧謔」に近い調子がある。たとえば、「風雑(まじ)へ 雨降る夜の 雨雑へ 雪降る夜は 術(すべ)もなく 寒くしあれば」ではじまる「貧窮問答」の長歌は、塩をなめて、濁酒を啜ることをいった後に続けている。
……しかとあらぬ 鬚かき撫でて 我を除きて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば……

★ 自分自身を含めての対象への知的な距離は、子どもや老人から「我よりも 貧しき人」に到るまで、他の歌人には見えなかったものを、憶良の眼には見えるようにさせたのであろう。その知的な距離は、彼の外国文学の教養を俟ってはじめて可能となったのである。憶良は大陸文学を模倣したから、わが国で独特の文学をつくったのではない。大陸文学を通じて、現実との知的距離をつくりだす術を体得したから、日本文学の地平線を拡大したのである。

<加藤周一『日本文学史序説』(ちくま学芸文庫1999)>





パサージュ

2014-01-23 23:09:19 | 日記

★ パリのパサージュを扱ったこの著作は、丸天井に広がる雲ひとつない青い空の下の戸外で始められた。だが、何百枚という木の葉に、何世紀もの埃に埋もれてしまった。これらの木の葉には、勤勉のさわやかな微風がそよめくこともあれば、研究者の重い溜め息が当り、若々しい情熱の嵐が吹き荒れ、好奇心のちょっとした空気の動きがたゆたうこともあった。というのも、パリの国立図書館の閲覧室のアーケードの上にかかる描かれた青空が、閲覧室の上に光のない、夢見心地の円蓋を広げているからである。

<ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫2003)>





見えるものと見えないもの

2014-01-23 19:38:01 | 日記

 

見えるものと見えないもの

 

 

 

今日のツイートから;

◆ 東浩紀 ‏@hazuma

ネット元年と言われた1995年、いまから19年後でも新聞とテレビはまったく死んでいないどころか、連ドラと紅白歌合戦が話題で、エンタメのトップは秋元康で、渡邉恒雄も現役で、自民党は大勝利で細川護煕が都知事選に出ようとしていると大学院生のぼくに言ったら、どれほど脱力したことだろうか。

 ◆ 東浩紀 ‏@hazuma

ゼロ年代といまでぼくになにかの変化があったとしたら、かつては「人間みなバカなんだからバカでも回る社会を作ろう」だったのに対し、いまは「たしかに人間みなバカだが、みながバカでも回る社会なんてないので少しでもバカじゃないひと増やそう」に変わってきたという点にある。

 


世界市民

2014-01-23 18:51:40 | 日記

★ 個人は、たとえば、まず日本語(日本民族)のなかで個々人となる。人類(人間一般)というような普遍性はこのような特殊性を欠いたときは空疎で抽象的である。「世界市民」が彼らによって侮蔑されるのはいうまでもない。それは今でも嘲笑されている。

★ しかし、カントは「世界市民社会」を実体的に考えたのではない。また、彼はひとが何らかの共同体に属することそれ自体を否定したのではない。ただ思考と行動において、世界市民的であるべきだといっただけである。

★ 実際上、世界市民たることは、それぞれの共同体における各自の闘争(啓蒙)をおいてありえない

<柄谷行人『トランスクリティーク カントとマルクス』(岩波・定本柄谷行人集3、2004)―原著:批評空間社2001>





国家と議会制民主主義

2014-01-22 12:27:08 | 日記

★ 市民革命以後の国家・政府・国民の関係は、このような株主・経営者・労働者の関係に類似するものです。絶対主義王権において、国家の存在は明白でした。しかし、市民革命以後、それは隠れてしまいます。それを見ようとすると、われわれは国家ではなく政府を見いだすことにしかなりません。もはや資本家は存在しない、という意味で、もはや国家の主権者は存在しない。だが、資本が存在するという意味で、国家はあくまで存在するのです。このことは通常は見えません。しかし、株主が経営者を解任したり企業を買収したりする場合、ひとはまさに「資本」があるということを実感するでしょう。同様に、国家が存在するということを人が如実に感じるのは、戦争においてです。つまり、他の国家との戦争において、国家の本質が出てくるのです。

★ 国家の自立性は、それが他の国家に対して存在するという位相においてのみ見いだされるのです。その意味で、国家の自立性を端的に示すのは、軍・官僚機構という「実体」です。社会契約論の観点からいえば、官僚は、議会を通して表現され決定された国民の意志を実行する、「公僕」であると考えられます。しかし、実情はそうではありません。

★ ヘーゲルによれば、議会の使命とは、市民社会を政治的に陶冶し、人々の国政への知識と尊重を強化することにあります。いいかえれば、議会は、人々の意見によって国家の政策を決めていく場ではなく、官吏たちによる判断を人々に知らせ、まるで彼ら自身が決めたことであるかのように思わせることにあるのです。

★ このような見方を、ヘーゲル自身の議会軽視、あるいはプロシャ民主主義の未発達のせいにすることはできないでしょう。議会制民主主義が発達したはずの今日の先進国において、官僚制の支配はますます強まっています。ただ、そのように見えないようになっているのです。議会制民主主義とは、実質的に、官僚あるいはそれに類する者たちが立案したことを、国民が自分で決めたかのように思いこむようにする、手の込んだ手続きです。

<柄谷行人『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』(岩波新書2006)>






《 生存学 》;21世紀のはじめに

2014-01-16 15:03:16 | 日記

以下の引用は、20001年1月に朝日新聞“論壇・正月シリーズ・「21世紀の入り口で」”に掲載された立岩真也の文章。

この文章は、立岩の『自由の平等』と『人間の条件 そんなものない』にも収録されているので、読んだ人も多いと思うが、読んでないひともいるだろうし、ぼくのように“あらためて”読むひともいるだろうから引用します;

<立岩真也:つよくなくてもやっていける >

誰もが「右肩上がり」の時代は終わったと言う。だがそれにしては騒々しくないか。なにかしなくてはならないことになっていて、「革命」とか「自由」とか、もっと別のもののために使われてきた言葉が気ぜわしげに使われる。「危機」や「国家目標」が語られ、それらに「新世紀」といった言葉が冠せられる。 

十分に多くの人たちは「消費を刺激する」といった言葉の貧困さや「人間の数を増やす」という発想の下品さに気づいている。しかしそうしないと「生き残れない」とか言われて口をつぐんでしまう。政治的な対立と見えるものも「経済」をよくする手段について対立しているだけだ。私たちに課題があるとしたら、それはそんなつまらない状態から抜けることである。

第一には、働き作り出すことは人が生存し生活するために必要な手段であり、基本的にはそれ以下でもそれ以上でもないという当たり前のことを確認すること。まったく言うまでもないことなのに、じつにしばしば、浮足だった言葉の中でそれが忘れられる。

それでも労働力と生産が足りないのだから、がんばらざるをえないと言われる。生産につながらない部分にお金を使うのも節約しないとならない、福祉や医療を「特別扱いできない」という話がある。だがまず、刺激しないと消費が増えないなら、あるいは刺激しても増えないなら、その部分は足りていると考えたらどうか。またものはあるのに失業があるということは、少ない人数で多くを生産できるということであり、それ自体は大変けっこうなことだと考えてみたらどうか。ものもものを作る人間の数も足りている、工夫すればこれからも足りると私は考える。「国際競争」の圧力はたしかに無視できない。しかしごく原則的に言えば、それは競争に勝つことで対応すべきでなく、競争しなくてすむ方向で解決がはかられるべきなのだ。これをなんとかできるなら、危機は本当に実在しない。

第二に、一人一人が人並みに生き、暮らせるために、今あるものを分けること、一人一人の自由のために分配することである。たくさん働ける人が多くとれ、少なくしかできない人が少なくしか受け取れないことが正義でないことは論証済みだと私は考える。所得の格差は、格差をつけるとそれにつられてやる気が出るという理由から、必要な範囲でだけ、正当化される。分配の意義はなおまったく失われておらず、それは自由と対立しない。自由の平等のための資源の分配が追求されるべきである。失業が問題なら労働も分割し分配すればよい。

これは市場だけで実現せず政治が担うべき部分がある。だがそれは「大きい政府」や「強い国家」を意味しない。信用されていない人たちが例えば正義を語り、押しつけることが、かえって正義の価値を下げ、信用を低くしている。それは失望と冷笑しか生まない。だから国家は、わるいことをせず、一人一人が生きていけることを妨げないためのことをするのに徹し、それ以外の、様々な「振興策」等々を含む「よいこと」は各自にまかせたらよい。
   
そうして訪れる世界は退屈な世界だろうか。退屈でかまわないと私は思うが、退屈や停滞という言葉が気にいらないなら、落ち着きのある社会と言い直してもよい。そして退屈になった個々の人たちはすべきことをするだろう。 

なにも新しいことを言ってはいない。前世紀の後半、環境や資源の危機にも促され、この社会を疑う人たちが現れた。ただその疑いを現実に着地させることが難しかった。生活欄で「がんばりすぎない」ことが言われ、同じ新聞の政治経済欄に「新世紀を生き抜く戦略」がある。それを矛盾と感じる気力も失せるほど社会を語る言葉は無力だろうか。いま考えるに値することは、単なる人生訓としてでなく、そう無理せずぼちぼちやっていける社会を実現する道筋を考えることだ。足し算でなく引き算、掛け算でなく割り算することである。もちろんそれは、人々が新しいことに挑戦することをまったく否定しない。むしろ、純粋におもしろいものに人々が向かえる条件なのである。
   
繰り返すが、この社会は危機ではないし、将来は格別明るくもないが暗くはない。未来・危機・目標を言い立てる人には気をつけた方がよい。




新聞記事と菫の花

2014-01-16 11:01:13 | 日記

★ 常にもなく肌寒かったこの五月の半ば、ある憂鬱な集会で自分が余儀なく発言している最中、不意に詩を思い出した。発言中に五秒間ほど私はいい詰まったのだ。たった五秒だが衆人環視のそれは永遠を予感させるほどに永くて怖い。ああ、また“アフェイジャ”だよ。凍りついた大脳皮質に、先日友人の医師から教わった病名がまず浮かんだ。

★ 次に、氷塊から湯がわきでるように失念した発言内容ではなく、詩文の断片が浮かんできたのだった。「言葉を奪はれたときは/奥歯に菫の花を噛んでゐよう!」。この一文を暗い脳裏に横たえたまま、有事法制可決という事態に関する愚にもつかない所感をやっとのことでいい終え、帰途、改めて詩行をとりだしてなでさすってみた。結果、それが「菫の花咲くころ」であり、思い出した箇所は詩の最後の段落にあることがわかった。

★ だが七年前に私がはっとしたのはその行ではなかった。「踏みしだかれた菫のあたりだけ、/ひときは日が射すやうに見える。/今は丁度、あの若い航空兵が/敵艦に体当たりしたであらう時刻だ」。ここだ。ここに舌を巻いた。詩行としてなら驚かない。安西均はこれを自分がその昔書いた新聞記事だというのだから喫驚せざるをえなかったのである。

★ ものの本によると、安西は1943年に朝日新聞西部本社に入社とある。で、「太平洋戦争も末期のころ/西部軍司令部報道部付の軍政記者だったわたしは/南九州のK航空基地に/神風特別攻撃隊の取材に派遣された」という。安西はこれから出撃しようという一人の特攻隊員にインタビューしたのだ。二人は「草の上に並んで胡坐をかいたが/彼はべつだん話したいこともないらしかった」し「わたしもまた聞きたいことといったら何もなかった/完全な報道管制下では/軍当局発表以外は記事にできなかったから」と詩にはある。「やがて彼はすっくと立上がり/――では 行ってまゐります/ふたたび折目正しい挙手の礼をすると/すたすた死にに行ってしまった――ああ さようなら/わたしは去っていく飛行靴の踵が/目の前の小さな菫の花を踏むのを見てゐた」。もしも立ち上がって見送ったらたった一輪咲いていた菫には気づかなかったろう、座ったままの眼の高さにそれが咲いていたからよく記憶しているのだろう、とも安西は書いている。

★ アジビラばかり読んでいて脳みそがスポンジ化したような市民運動家はいうかもしれない。これは反戦詩とはいえないのじゃないか。特攻隊とその死を美化しているのではないか、などと。愚かしい記事の排泄ばかりして心根がやはりスポンジ状になった記者は反駁するかもしれない。時代がちがいます。こんな情緒は記事にはなりません、と。そうだろうか。心をまっさらにして、いま一度、以下を味読してみるといい。「踏みしだかれた菫のあたりだけ、/ひときは日が射すやうに見える。/今は丁度、あの若い航空兵が/敵艦に体当たりしたであらう時刻だ」。言葉を奪われている者はいったいどちらなのか。当時の安西か、現代の諸兄か。いい直そう。言葉を奪われ歪められている者は当時の安西か、いまの私たちか。言語表現の深刻な不如意は安西の記事の一節にあるのか、いまの記事やアジビラにあるのか。

<辺見庸『抵抗論 国家からの自由へ』>





内面の自由

2014-01-15 16:06:07 | 日記

以下の引用は2004年3月に刊行された『抵抗論』第2章に書き下ろされたものから(辺見庸は2004年3月に脳出血で倒れているから、その直前に書かれたと思える);

★ いま、精神の絶えざる侵食感とでもいうべき、心の異変のようなものを感じつつ私は日々を生きている。これは、かつて抱いたことのない質の危機意識でもある。いまさら憲法を語ることの、その奥底にある動機とは、じつはそれである。

★ 近年来、私のなかの大事ななにかが、あたかも、長く広かった海岸線が海に侵食されるように、なにものかによって、徐々に、しかし、確実にせばめられ、圧迫されるのを感じている。私のなかの大事ななにかとは、おそらく、私という個人がもつ、いってみれば、内面の自由の領域ではないかと思う。つまり、いろいろな観想や妄想や悪戯や遊びのできる、心のなかの広い砂浜。あるいは、内容が不埒であれ、崇高であれ、好き勝手な書きこみのできる心の余白のような領域。ないしは、いつでもそこに逃避し、身を隠すことのできる、深い森のような空間。それが、外からの見えない力によって次第に削り取られていく。息の詰まるような感覚がある。ときには、その自由であるべき自己領域に、なにものかが荒々しく土足で入り込んでくるような恐怖も覚える。

★ 一方で、耳元で囁く声がある。主としてマスメディアの声。<そうした侵食とか浸透圧なんて錯覚だよ、世界にはたしかに禍々しいことが起きているけれども、こちら側の磐石の日常に較べれば別にどうということはない>という囁き。聞こえるか聞こえないかの怪しいささめきが閾下に日々忍びこんでくる。

★ こうした内面の自由の領域を侵食するものとは、いったいどのようなものなのか。後にもっと詳しく言及しなければならないが、それこそが、「国家にまつわる意思のように見えるもの」なのではないか。「国家にまつわる意思のように見えるもの」とはやや抽象的だが、政府や警察権力や特定の行政機関の具体的意思そのもののみを意味するのではなく、それらをも広く包摂する、国家幻想を背負った者たち相互の関係性の総体から醸成される空気に似たなにかである。

★ その「意思のように見えるもの」が年々つよくなり、肥大し、膨張している。私はそうした印象をもつ。それとともに、「国民」意識の押しつけがあからさまになされ、さらには、「日本」や「日本人」の自己同一性の回復のようなことも強圧的に求められているようだ。それらが菌糸のように絡まり合い、相乗して熱を帯び、あげく、個人が保持すべき内面の自由の領域を日々波が洗うように侵食するにいたっているのではないか。国家が個人の心のありようにまで手を伸ばし、容喙(ようかい)してくる傾向は、年々著しくなっている。私個人としては、現在の状況のなかで、もっともこの傾向を嫌い、かつ心の底から恐れてもいる。

<辺見庸“憲法、国家および自衛隊派兵についてのノート”―『抵抗論 国家からの自由へ』(講談社文庫2005) 原著・毎日新聞社2004>





ネトウヨ親父

2014-01-15 11:03:59 | 日記

<田母神元空自幕僚長に戦場ジャーナリストが噛みつく-本当の戦争の悲惨さ知らないネトウヨ親父は引退すべき>  志葉玲 | フリージャーナリスト  2014年1月13日 12時1分

最初に断っておくが、今回書くのは記事というより、コラムだ。そう、イラク戦争やレバノン戦争、ガザ侵攻などのパレスチナ紛争etcといった、戦争取材を重ねてきた者としての、一意見である。

東京都知事選に田母神俊雄・元航空自衛隊幕僚長が出馬するという。保守政党からの支持も得られない泡沫候補であり、いちいち相手にするのもどうか、とも思うが、かつてナチスが台頭した際も、当時の知識人達は「まさかあんなバカ達が政権を取ることはないだろう」とタカをくくっていたというから、やはり発言しておくべきなのだろう。さて、私が言いたいことは、要約すれば、

「本当の戦争の悲惨さを知らないネトウヨ親父は大人しく引退しなさい」

ということだ。田母神氏は、元空自幕僚長という経歴やその過激な発言から一部のネット右翼に人気であるようだが、本当の戦争というものを経験していないという点では、彼の支持層と同じ「ネトウヨ親父」にすぎない。血と膿と死臭の混じった吐き気のする臭い、降り注ぐ爆弾の下での阿鼻叫喚、いつ殺されるかわからない前線兵士の恐怖、罪の無い市民を殺してしまったが故の兵士達の葛藤……私が戦争取材で実際に経験し、見聞きしてきたことのどれも、田母神氏は経験したことがなかろう。当然だ。彼も含め自衛隊は、戦争を禁じた平和憲法に守られ、直接の戦闘を経験しないで済んできたからである。それにもかかわらず、田母神氏が「集団的自衛権の行使を認めるべき」などを繰り返し主張しているのは、もはや滑稽にすら映る。「集団的自衛権の行使」は、結局のところ「米国の戦争への巻き込まれ権」だ。米国が攻撃を受けた際、日本が攻撃を受けていなくても、米国と一緒になって戦闘行為を行う、ということである。私は自衛官や元自衛官達に取材したことがあるが、彼らは「日本の人々を守るために自衛官になった」と言う。断じて、米国の戦争の片棒担ぎをしたいわけではない。

田母神氏は自らの講演で「徴兵制こそ日本再生に必要」「男とは闘って女を守るもの」とも発言している。だが、勇ましい発言をする権力者らが実際の有事の際には、自分たちのみ安全を確保しながら号令をかけ、若者たちをムザムザと無駄死にさせてきたのは、歴史の常である。そもそも田母神氏自身に「闘って女を守る」覚悟があるかも疑わしい。2012年10月16日に在日米軍兵士による集団強姦事件が発生した際、田母神氏は自身のツイッターに

「沖縄女性暴行事件でテレビが連日米兵の危険性を訴えるが、この事件が起きたのは朝の4時だそうです。平成7年の女子高生暴行事件も 朝の4時だったそうです。朝の4時ごろに街中をうろうろしている女性や女子高生は何をやっていたのでしょうか。でもテレビはこの時間については全く報道しないのです」
出典:https://twitter.com/toshio_tamogami/status/259433401663246338

と投稿した(同月20日)。夜中に歩いていれば米兵にレイプされても仕方ないと言わんばかりの神経自体が噴飯ものだが、平成7年の沖縄米兵少女暴行事件の発生時刻は朝4時ではなく夜8時であり、女子高生ではなく女子小学生である。当時、田母神氏には、「セカンドレイプの上にデマまで流すのか」などと批難が殺到したが、田母神氏は未だ弁明も謝罪もしていない。田母神氏に是非聞きたいのだが、「男は闘って女を守る」のではなかったのか。それとも、沖縄の女性や子どもは例外で、米軍犯罪から守らなくても良いということなのか。こうした矛盾は、田母神氏の支持層にも共通する。口を開けば「愛国」「日本を守る」と息巻くくせに、いざ、米軍犯罪が発生すると、被害者よりも加害者に味方するのだ。何が「愛国」「日本を守る」なのか、全く意味不明である。

政治家の資質として最も重要なことの一つは、持てる全ての能力を使って、戦争だけは絶対に避け、話し合いで解決するという姿勢の有無だ。あまりに安易に戦争やその被害を語り、戦争を行うことを躊躇しないような人物は政治に関わるべきではない。というか、そういう政治家こそ、人々にとっての最大の敵だ。戦争で傷つくのは、結局普通の人々、最も罪がなく、弱い立場の人々なのだ。だから、田母神氏には政界進出などという野望を持たず、大人しくご隠居生活を送ることをオススメする。先の戦争に関する歴史認識から、事実上、懲戒処分されたにもかかわらず、7000万円もの退職金を得たのだから、それ以上のことを望むべきではない。

そして、本稿をお読みの読者諸氏に警告しておきたい。田母神氏よりスマートな物言いをしているが、本質的に同類であるばかりか、権力者という点で比較にならない程危険であるのは、他でもない安倍晋三首相。安倍政権は「今年4月にも集団的自衛権についての憲法解釈見直しの素案をまとめる」としている。冗談でも比喩でもなく、リアルに「軍靴の音」はすぐ側まで迫っているのだ。

◆ 志葉玲:フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和);
パレスチナやイラクなどの紛争地取材、脱原発・自然エネルギー取材の他、米軍基地問題や反貧困、TPP問題なども取材、幅広く活動する反骨系ジャーナリスト。「ジャーナリスト志葉玲のたたかう!メルマガ」 http://bit.ly/cN64Jj や、週刊SPA!等の雑誌で記事執筆、BS11等のテレビ局に映像を提供。著書に『たたかう!ジャーナリスト宣言』(社会批評社)、共編著に『原発依存国家』『母親たちの脱被曝革命』(共に扶桑社新書)など。イラク戦争の検証を求めるネットワーク(http://iraqwar-inquiry.net )の事務局長。





ファシズムについて

2014-01-13 12:50:21 | 日記

◆ イシカワ @ishikawakz

特別な事件や政治的変動によって、「ファシズム」が改めて引き起こされるのではなく、逆に政治的権力は、私たちの生活の中に埋め込まれた権威主義、試行錯誤や新たな思考の禁止、経済至上主義、自己責任、暴力的な人間や性的関係つまり内なる諸々のファシズムを利用してファシズム体制を作るだけでは?

(引用)