Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

<社会>とは何か?;落語と競馬について

2010-07-06 13:57:49 | 日記


さて今日の読売編集手帳である、また“落語”である。
この読売の書き手の“教養”は、落語から成り立っているらしい;

《・・・・・・落語『火焔太鼓』である◆黙って受け流し、太鼓に積もったほこりを払おうとする亭主に、女房から二の矢が飛ぶ。「およしよ、ほこりがなくなりゃ、太鼓もなくなっちまうよ…」◆落語の女房ならば、言っただろう。「ウミを出し切りゃ、日本相撲協会がなくなっちまうよ…」。リンチあり、大麻あり、暴力団に特別席をあてがう親方あり、野球賭博の大関あり――角界の一部にウミがあるのではなく、角界とはそもそもウミで出来ているのではないか、そう思ったのは一度や二度ではない》(今日読売編集手帳から引用)


つまりぼくの疑問は、<現代社会>を“落語の比喩で語ることは可能か?”ということです。

もしこの“比喩”を使うなら、《ウミを出し切りゃなくなっちまう》のは日本相撲協会だけではなく、この“日本社会”ではないのだろうか?

“その前に” なくなっちまうのは、読売新聞ではないのだろうか(笑)

ぼくは“落語”を個人的に愛好しているひとを非難しているのではない。
それを“比喩”とすることに、疑問を呈している。

ようするに、落語の女房のように《ウミを出し切りゃなくなっちまう》といって済ましていて、いいのだろうか?

あるいは、《ウミを出し切りゃなくなっちまう》という発言に、笑ったり、《角界とはそもそもウミで出来ているのではないか、そう思ったのは一度や二度ではない》などと言っている“だけ”でよいのだろうか。


天声人語は“競馬”の話題である(笑);

《▼昭和から平成のバブル期を駆け抜けたオグリキャップが、余生を送る北海道で死んだ。天寿に近い25歳だった。放牧中、右後ろ脚を骨折した状態で見つかったという。ぬいぐるみが出回るほどのアイドルは、女性を競馬に呼び込んだ立役者でもある(略)▼最終コーナーから一気の加速で、通算32戦22勝。だが、種馬としての実績は寂しかった。二流の血統から生まれ、七光りも残さない「一代限り」に覚える快さは、世襲への食傷ゆえだろう▼灰色の芦毛(あしげ)は年齢を重ねるごとに白さを増す。週末の昼下がり、脚を傷め、人知れず緑の上に横たわる白馬を思う。その耳に、地鳴りのような「オグリコール」は響いていたろうか。時代の音は、夢をありがとうの叫びは届いていたか。》(天声人語から引用)


ぼくは競馬に興味を持ったことがない、べつに馬が嫌いなわけではないが(むしろ好きだが)、競馬には縁がなかった。
“オグリキャップ”という名には、かすかに記憶があるが。

まあ“名馬の死”を追悼する競馬ファンがいてもよいのである(笑)

しかしなぜ天声人語なのだろうか?

なぜ、《その耳に、地鳴りのような「オグリコール」は響いていたろうか。時代の音は、夢をありがとうの叫びは届いていたか》などとと、天声人語は“書く”のだろうか。

死にゆく馬に、“「オグリコール」とか時代の音とか夢をありがとうの叫び”が聞えていなかったことは、“科学的事実”ではないのだろうか(笑)


なによりもぼくが不快なのは、この《夢をありがとうの叫び》という日本語である。

ぼくはこういう言葉を平然と使用する感性が、我慢ならない。

<ありがとう>という言葉は、この世界で、この日常で、この場所で、ある個人からある個人へ発せられる言葉である。





生きる

2010-07-06 07:02:33 | 日記


昨日は“素朴な疑問”を1行だけ書いたが、このところ、素朴な疑問は無数に押し寄せるのである。

たとえば、なぜ“メディア”は、<投票せよ>と言うのだろうか?

あるいは“野球賭博”とやらは、いったいどんな<問題>なんだろうか。

なぜ、“世間”は、どうでもいいことだけを<騒ぐ>のだろか?
あきらかに<どうでもいいこと>だけを騒ぎたい人々がいる。

しかし何度もいっているように、“メディアが悪い”とか“民主党が悪い”ということが問題ではない。

たとえば、民主党が悪いなら、“民主党と同じか、もっと悪い”自民党にまた投票すればいいのだろうか。
あるいは、民主党や自民党でない、まだ実績のない<党>に投票せよということだろうか。

つまり<未知>のものには、可能性があると(爆)

まったく、冗談も休み休み言ってほしい。

まるで<消費税>だけが問題のようではないか。

普天間基地と日米同盟は、どこへ行った?
日本国憲法改正はどこへ行った?
雇用問題はどこへ行った?

しかも<問題>が、上記のみにあるとも思えない。

そもそもあらゆる<制度>は、神の摂理(神の手!)でも、自然状態で存在するものでもない。

ある時期に、ある人々が“決めた”ものであり、なんども“人の手”で手直しされたものである。

あらゆるシステムのルールは、人為的に決定されたものである以上、“人の手”によって変更可能であり、<運命>ではない。

この社会は、人為的なものであり、変更可能でなければならない。

また変更が、<改悪>であるなら、別の道を創出しなければならない。

<社会>は、“既得権”があるものたちが<保守>する固定化したシステムを、変更しうるフレキシビリティをもたなければ、<自由>を失う。
この自由を喪失した社会は、<死体>である。

もはや<死体>となった社会で、つかのまの目先の<自由>に一喜一憂して過ごすのは、なさけない錯誤、誤解である。

<一票の>権利とか、自分を<代表させる>ひとを選ぶ、とは、いかなる<意味>か?

いったい<誰に>自分を代表させることができるか?
<多数決>とは、いかなる<真理>か?

<民主主義>が、“やもうえない”システムでしかないのなら、なぜ、そんなに<民主主義>を美辞麗句で飾るのか。

ぼくには、<代表制>や<議会制>や<多数決>に代わる代案があるわけではない。

しかしそういう<制度>に生きるにしても、“それが当然である”かのように語るのと、それに疑問を持ちながら語るのとでは<差異>があると思う。

この<世界>を運命のように固定化させ、そこでの“椅子取りゲーム”に奔走してはならない。

《けれども今、まずアマチュアであることが、実はかなり大切なことではないかと思う》

と立岩真也という社会学の“プロ”は書いた(『希望について』青土社2006)

しかしアマチュアである<ぼくたち>は、<プロ>のように語る。

ブログでツイッターで掲示板で語る。

《君は“公共性”を無視している》とか、語る。

笑うべきことである。

いったい誰が(アマチュアもプロも)、<公共性>について知っているのか?

テレビドラマでは、アメリカ大統領が、《われわれの自由の伝統を世界に教えるためにテロには絶対に屈しない》と語る。

笑うべきことである。

たぶんこの世界に<真理>はない。

だから、ぼくたちは“アマチュアのように考える”。

小学生のように考える。

“なぜこの世界は、この世界であるようにしかないの?”

と問う。

あらゆる哲学も社会科学も自然科学も宗教も<真理>ではなかった。

すなわち<正解>は未知である。

だからこそ、ぼくたちは“アマチュアのように”、この世界に問いかける。

その行為だけが、この<ぼく>を死体にしないだけでなく、この<社会>と<世界>を生きさせる。

<希望>とは、絶対に確かではない、ことを言う。

もし、絶対に確かなことが確保されているのなら、<希望>はない。










<追記>

このブログに“一読者”からコメントがついた。
そのコメントに返信する(コメント原文はコメント欄にある);


“一読者”さま

あなたがぼくのブログの趣旨をまったく誤解されているようなので簡単に返信します。

★ あなたは、“友人からきたメールを転載する”としていますが、あなたの意見はどうなんですか、それを書いてほしい。


以下はそのメール内容への批判です;

★ そのメールの文中に、《趣旨に賛同いただけるなら、あなたの友人100人にこのような手紙を送ってくれませんか? 》とありますが、こういうのは“ネズミ講”スタイルですね、ぼくはそういうスタイルを好みません。

★ “日本国民”が、《マスコミを信じて行動する、まるで中国や北朝鮮の人民のようです》という比喩には笑えます。

★ しかし“マスコミが騙している”のは、民主党独裁政権への誘導だけではありません。
ぼくはこのブログでこう書いています;《民主党が悪いなら、“民主党と同じか、もっと悪い”自民党にまた投票すればいいのだろうか。あるいは、民主党や自民党でない、まだ実績のない<党>に投票せよということだろうか》

★ そもそもぼくは、“反日勢力”などという言葉=概念を使用しておりません。そういう粗雑な言葉にこそ反対しています。

★ だれかが、“反日”であるか否か、マスコミが“反日”であるかなどに拘っている以上、“希望”がないと言っているのです。

★もし“反日”という言葉を使うなら、“反人間”と言ってほしいね(笑)
 しかもその場合も<人間>の多様性への根底的な認識と思考が必要です。

★ ぼくのこのブログの書き方も悪いかもしれないが、このブログのみではなく、ぼくは日々書き続ける自分のブログの試行=蓄積として、“そういうこと”を言ってきたし、言っています。
またぼくが読みえた、“そういう人間についての”認識と思考を引用してきました。

★ぼくの関心や批判は、“この選挙”とか“党”とか“マスコミ”とか“反日勢力”とかの個々にあるのではないということ。
まさに、そういう<抽象>でこの世界から具体性を奪い、人間を<夢遊病者>におとしいれる言葉の罠自体にあるということです。

★ ぼくのこのブログは、“ネズミ講”ではない、ぼくが語りかけるとき、それはいつも、<あなた>と1対1です。