Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

“反日”とはなんですか?(疑問文)

2012-09-30 13:41:44 | 日記

ぼくは“歴史”にも、“国際情勢”にも弱いので、ことさら“自分の意見”を主張しないが、以下の産経新聞で報じられた、“事実”と、これを報じる産経新聞の“態度(立場)”について、このブログを読んだ人が”考える“ことを希望します;


<“反日声明”韓国で大歓迎 大江健三郎氏ら、領土問題「日本が侵略、反省を」>  産経ニュース 2012.9.29 22:10

 【ソウル=黒田勝弘】中国や韓国との領土問題を「日本がまず侵略について反省すべき」とする日本の知識人の“反日声明”が韓国メディアで大々的に紹介されている。29日の各紙はほぼ全紙が社説でこれを取り上げ「自国の侵略主義を叱る日本の知性」(東亜日報)と大歓迎している。

 声明はノーべル賞作家の大江健三郎氏や元長崎市長の本島等氏、月刊誌「世界」の編集長を務めた岡本厚氏など、反日的な主張で知られる左派や進歩派の知識人、文化人らを含む約1300人が「『領土問題』の悪循環を止めよう」と題し28日、東京で発表した。

 日本ではさして注目されていないが、声明は尖閣諸島も竹島も過去の日本による侵略の歴史が背景にあるとして中韓の立場に理解を示している。領土紛争に伴う民族主義感情への批判や否定も主に日本に向けられていて、結果的に中国や韓国の反日民族主義を容認するものになっている。

また国際的な人気作家、村上春樹氏が領土問題に関し日本の朝日新聞(28日付朝刊)に寄稿した文章も韓国紙は1面トップ記事などで大きく報道している。

 村上氏は、中国の反日暴動を機に日本人作家の作品など日本関係の書籍が規制され書店から消えたというニュースに「ショックを感じている」とし、「国境を越えて行き来するようになった多くの文化的成果」の往来を領土問題の「感情」でふさいではならない、と書いている。さらに「領土問題は実務的課題」として解決すべきで国民感情の領域に踏み込むのは危険だという。

 どちらかというと中国を対象にした印象が強いが、韓国では「急速に右傾化する日本国内に向けたもの」(中央日報)とされ、先の“反日声明”とまとめて、日本での反省、自己批判として歓迎されている。

(以上引用)






ゾンビと劇画集団

2012-09-28 12:35:00 | 日記

藤原新也ブログ“ゾンビの生き返るがごとき秋の夕映え”から(共感するので、その一部を)転載させてもらう;


★ 今回、自民党総裁選候補はこぞって被災地に行って被災地のことを思ってます風な歯の浮くような演説をぶった。
 だが自民党はこの未曾有の国難にあって3・11以降率先して正面から向き合うこともなく、わずかな机上の提案を出しただけでほとんど何もして来なかった。
 この五人の候補が被災地に足を運んだという形跡もない。
 というより彼らは国難にあって政権与党の民主党の被災対応をせせら笑うかのように冷ややかに眺めていた。

★ その彼らがいざ与党に返り咲く可能性が出て来たところでこぞって被災地に馳せ参じ、これまで何かやって来たかのような面をするこの姑息さには悪寒が走り、その悪寒はいまだに消えない。

★ だがこのような自民党という生ける屍(ゾンビ)、あるいは落ちこぼれ無脳国会議員の受け皿となって、チャラチャラした烏合の衆を全国から掻き集めてまくっている日本維新の会という”劇画集団”以外に選択肢がないという日本という国の不幸を思うとき、私はあの三宅島の風景のことがふと思い出される。

★ いまだ火山灰に覆われ、枯れるところまで枯れ尽くした灰色の山岳地帯にも、それが不毛であるがゆえに肥沃な土地の脆弱な植物とは異なった非常に強靭な最初の草花が芽を出すのだ。

★ あの風景を頭に思い起こしながら”枯れるところまで枯れるがいい”とひとりごちるのである。

(以上引用)







弱肉強食;「日本維新の会」には入れたくない

2012-09-26 13:39:57 | 日記

ぼくは知らなかったひとだが佐々木浩久というひとのツイートを読んだ;

☆ 佐々木浩久 ‏@hirobay1998
「日本維新の会」だけは入れたくない。これは酷いhttp://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2012091302000140.html …

☆ 佐々木浩久 ‏@hirobay1998
僕は母が歩行困難な病気になった時に、「自立」とか「自立責任」いう言葉がいかに人を追い詰め、死に至らしめる病気へ誘うかを知った。大阪維新が言うような「自立」をしようとしたって出来ない人はいるんだ。それは怠け者ではない。一元的に決めつけられても困る。

☆ 佐々木浩久 ‏@hirobay1998
自民党や民主党の施策よりもっと酷いと言うことがわかった。とにかく、「いまの政治を変えてくれるかもしれない」と言うだけの発想の安易な「あすなろ投票」はやめよう。

(引用)



ここで佐々木浩久が参照している東京新聞記事は以下の通り;

<「日本維新の会」結成宣言 弱肉強食路線が鮮明> 東京新聞2012年9月13日 朝刊

 橋下徹大阪市長は十二日、自らが代表となる国政進出のための新党「日本維新の会」の結党を正式に宣言した。橋下氏は「自立」「競争」「自己責任」を新党の理念として強調している。格差拡大や医療・介護現場の崩壊などが社会問題化したかつての小泉構造改革をほうふつさせる。 (金杉貴雄)

 「自由、競争、自己責任、選択という価値観は一致している」。橋下氏はさる九日に国会議員や首長を集めて開いた公開討論会で、満足そうに語っていた。
 維新は国政進出の理由に「大阪都構想の完成」や「統治機構改革」を挙げ、脱・中央集権型の政権構想で注目されるが、社会像ではあらゆる面で「自立」を求め、弱者への公的支援は絞り込みたいという考えが見える。
 「維新八策」には、自立や競争に関する項目がずらりと並ぶ。国家像として真っ先に「自立する個人」を挙げ、「真の弱者支援」という表現も出てくる。「ちょっとかわいそうな人は助けず、ものすごくかわいそうな人を助ける」ということを言いたいようだ。
 社会保障では給付の効率化、生活保護の支給基準や公的保険の適用範囲の見直しを公約。競争力強化のために徹底した規制改革を目指し「解雇規制の緩和」も掲げる。

 自民政権時代には、市場原理を優先した小泉構造改革によって、非正規雇用者の「派遣切り」などが進み、「勝ち組」と「負け組」といわれる社会の二極化を招いた。維新は、小泉政権の経済財政担当相だった竹中平蔵氏や財務省出身の高橋洋一氏を政治塾の講師に招くなど重用する。ある民主党議員は「維新は小泉政権以上の新自由主義だ」と、弱肉強食路線の再来だと批判する。
 橋下氏は記者会見で海外メディアから「維新は(公的医療保険などに反対する米国保守派運動の)ティーパーティー(茶会)と同じか」と問われると、「われわれは医療保険のような公の役割は重視していくので茶会とは違う」と否定した。

 ただ、八策には今のところ、経済弱者に目を向けた政策はほとんどない

(引用)






映画の夢・夢の映画(2012秋)

2012-09-25 19:41:11 | 日記

ぼくの好きな映画;

★ 荒野の決闘(1946 ジョン・フォード)
★ 七人の侍(1954 黒澤 明)
★ 野いちご(1957 イングマル・ベルイマン)
★ 灰とダイヤモンド(1957 アンジェイ・ワイダ)
★ めまい(1958 アルフレッド・ヒッチコック)
★ 楢山節考(1958  木下惠介)
★ 太陽がいっぱい(1960 ルネ・クレマン)
★ 血とバラ(1960 ロジェ・ヴァディム)
★ ピアニストを撃て(1960 フランソワ・トリュフォ)
★ ウェストサイド物語(1960 ロバート・ワイズ)
★ 許されざる者(1960  ジョン・ヒューストン)
★ アラビアのロレンス(1962 デヴィット・リーン)
★ 女と男のいる舗道(1962 ジャン=リュック・ゴダール)
★ 秋津温泉(1962 吉田喜重)
★ 8 1/2 (1963 フェデリコ・フェリーニ)
★ 天国と地獄(1963 黒澤 明)
★ 軽蔑(1963 ジャン=リュック・ゴダール)
★ 鳥(1963  アルフレッド・ヒッチコック)
★ 柔らかい肌(1964 フランソワ・トリュフォー)
★ 怪談(1964  小林正樹)
★ 赤ひげ(1965 黒澤 明)
★ 飢餓海峡(1965  内田吐夢)
★ 男と女(1966 クロード・ルルーシュ)
★ 沓掛時次郎 遊侠一匹(1966 加藤泰)
★ 愛の渇き(1967  蔵原惟繕)
★ 明日に向かって撃て(1969 ジョージ・ロイ・ヒル)
★ 惑星ソラリス(1972 アンドレイ・タルコフスキー)
★ 狼は天使の匂い(1972 ルネ・クレマン)
★ ゴッド・ファーザー(1972 フランシス・F・コッポラ)
★ フェリーニのローマ(1972 フェデリコ・フェリーニ)
★ アギーレ・神の怒り(1972  ヴェルナー・ヘルツォーク)
★ 約束(1972 斉藤耕一)
★ 離愁(1973 ピェール・グラニエ・ドフェール)
★ 都会のアリス(1973 ヴィム・ヴェンダース)
★ 地獄の逃避行;Badlands(1973 テレンス・マリック)
★ ガルシアの首(1974 サム・ペキンパー)
★ 妹(1974 藤田敏八)
★ 鏡(1975 アンドレイ・タルコフスキー)
★ 地獄の黙示録<完全版>(オリジナル1979 フランシス・F・コッポラ)
★ エイリアン(1979 リドリー・スコット)
★ ツゴイネルワイゼン(1980 鈴木清順)
★ シャイニング(1980 スタンリー・キューブリック)
★ グロリア(1980 ジョン・カサヴェテス)
★ 殺しのドレス(1980 ブライアン・デ・パルマ)
★ 細雪(1983  市川崑)
★ 家族ゲーム(1983  森田芳光)
★ パリ・テキサス(1984 ヴィム・ヴェンダース)
★ それから(1985 森田芳光)
★ 未来世紀ブラジル(1985 テリー・ギリアム)
★ ロンリー・ハート(1986 ブルース・ベレスフォード)
★ 汚れた血(1986 レオス・カラックス)
★ 死への逃避行(1989 クロード・ミレール)
★ アビス(1989 ジェームズ・キャメロン)
★ 魔女の宅急便(1989  宮崎駿)
★ テルマ&ルイーズ(1991 リドリー・スコット)
★ クライング・ゲーム(1992 ニール・ジョーダン)
★ 覇王別姫(1993 チェン・カイコー)
★ レオン(1994  リュック・ベッソン)
★ 楽園の瑕(東邪西毒)(1994 ウォン・カーウァイ)
★ フォー・ウェディング(1994 マイク・ニューウェル)
★ エイジ・オブ・イノセンス(1995  マーティン・スコセッシ)
★ 恋人までの距離(1995 リチャード・リンクレイター)
★ セヴン(1995 デヴィット・フィンチャー)
★ ラヴ・ソング(1996 ピーター・チャン)
★ フィフス・エレメント(1997 リュック・ベッソン)
★ ナンニ・モレッティのエイプリル(1998 ナンニ・モレッティ)
★ 花様年華(2000 ウォン・カーウァイ)
★ ザ・セル(2000 ターセム・シン)
★ Distance(2001 是枝裕和)
★ リリイ・シュシュのすべて(2001 岩井俊二)
★ メルキアデス・エストラーダの3度の埋葬(2006 トミー・リー・ジョーンズ)
★ スカイ・クロラ(2008 押井守)



*書き忘れた映画があるかもしれない(思い出したら、順次追加)
またすぐれたテレビドラマ(国内、海外とも)があった。





☆ Jean-Luc Godard ‏@godard_bot
映画史というのは、自らの歴史をもつことができる唯一の歴史だということです。なぜなら、映画史というのは自らの痕跡をもっている唯一の歴史だからです…人々がこしらえたさまざまの映像が残っているからです。―ゴダール










Zeroゼロ Living Zero

2012-09-20 15:23:20 | 日記


★ ニッチという言葉がある。生態的地位と訳されているが、生物がそれぞれに棲みわけている場所のことだ。世界とはさまざまなニッチのモザイク模様だともいえる。

★ その模様に偶然、空白ができる。たとえば噴火や空襲のあとや、人間が集まって住みついて野生動物が追い払われたあとなど。あるいは(・・・・・・)新たに発見される空白もある。

★ 観念世界のニッチというものもあるだろう。これまでの観念では、からっぽとか向こう側とか不可視の領域とかとしか言えない空白の場。見えない場。だが強烈な牽引力があり、親しみがあり、懐かしささえもある。それを埋めるようにして新しい言葉が生まれ、新しい意識が進化する。

★ だが実は、最初に陸に上った魚のユーステノプテロンも、最初に空を飛んだ動物のランフォリンクスや始祖鳥も、新しいニッチへの好奇心と探究心に燃えてというより、甲冑魚や大型肉食恐竜に追いまわされて、怯えきって、逃げ場を探しただけかもしれない。

<日野啓三『Living Zero』(集英社1987)>








lunatic

2012-09-20 13:49:04 | 日記



★ 「自分がちっともおかしくないと思いこんでいる人の方がおかしいのよ。あなたみたいに」

★ 「心が心を助けることはできないのよ。他人に出来るのは体を助けてあげられるだけ。それと自分でよく眠ること。そうじゃない?」

<日野啓三『光』(文藝春秋1995)>





★ でも、気が狂ってるというのは、やはり悲しいことですわ。もしほかの人たちが気違いだとしたら、その中でわたしはどういうことになるのかしら?

<マルグリット・デュラス『ヴィオルヌの犯罪』(河出文庫1995)>








“病(やまい)”について

2012-09-19 14:13:26 | 日記

★ 病める生というものはない
生そのものが病んでいるのだ

―田村隆一“虹色の渚から”




★ 「そう、きみの言う単純な落ち着いた生活を、われわれはだいぶ前からできなくなっている。その犠牲者というか被害者を、私たちは預っているわけだ。彼らの神経が傷んでいるのではない、もっと大きなものが壊れている」

★ 「しきりに言われてきた大地震は東京では今まで起こらなかったが、毎日少しずつ壊れてきたんだよ、目に見えないものが」

<日野啓三『光』(文藝春秋1995)>








“別のものがあることを示す”

2012-09-16 23:50:13 | 日記


★ つまり、何がある人のもとにあるものとして、決定できるものとして、取得できるものとして、譲渡できるもの、交換できるものとしてあるのか、またないのか。そしてそれはなぜか。これに対して与えられるのが、私が作る、私が制御するものが私のものであり、その力能が私である、という答なのだが、この答はどんな答なのか。

★ つまり私はこの本で「私的所有」という、いかにも古色蒼然としたものについて考えようとする。けれども私は、所有、私的所有は、依然として、あるいは一層、この社会について考える時に基本的な主題だと考えている。


★ 何かはある。しかしそれは漠然としたものであり、時には矛盾するようにも思われる。なぜなのか、それをうまく言葉にできない。すでにある、与えられた(言語化された)論法、この社会にあるとされる論理では説明することができないことがわかる。むしろ、観念や実践の堆積があって、それが見えにくくしているのだと思う。

★ ただ、その論理を辿っていくと、それらがどのような道を通っているのか、同時にどこを通っていないのかが見える。疑問を疑問としない主張、常套的になされる批判、批判を中途半端に終らせる批判を、少し丁寧に辿っていく。その中で、そこに言説として現れない何が前提されているのかを浮かび上がらせる。そのような作業の中から、別のものがあることを示す。新しい何かを「発明」しようというのではない。行おうとするのは、既に、確かにあるもの、しかし十分な言葉を与えられていないもの、それを覆う観念や実践の堆積があって言うことをやっかいにしているものを顕わにすることだ。

★ そしてそれは、種々の「理論」――それらはひどくあっさりと私達の様々な現実を切り詰めてしまう――で主張されることほど過度に単純でないが、それなりに筋は通っており――感覚に論理を対置するというのはまったく間違っていると思う、感覚は十分に論理的である――、そしてその中核にあるものは、多分そんなに複雑なものではない――私達はあまり複雑なことを考えられない。

<立岩真也『私的所有論』 序(勁草書房1997)>








“その時なりの状態を生きる、それでいい”

2012-09-14 05:08:00 | 日記

ちょっと前(5月)の記事を読むことができた。

ぼく自身、現在、立岩真也の『私的所有論』に取り組み中であり、立岩真也の“思想”を充分に理解しているというわけではないが、この“思考=行動”は、現在日本で読むにあたいするほとんど唯一の思考ではないかとは、考えている、引用する(立岩発言部分はゴチック);


<生きられる世に変えよう 生存学を研究する立岩真也さん 「死に急ぐことを勧める風潮」に疑問> 『読売新聞』大阪本社版2012-5-24 夕刊 心面

 まずは生きること――。立命館大先端総合学術研究科教授の社会学者、立岩真也さん(51)は、5年前から「生存学」の研究を率いてきた。観念的に生の意味を探るのではない。むしろ世の中のありようが人の生を左右している現実がある。であれば、生きやすくするために社会の制度を変えるのも、技術を活用するのも、大事なこと。死に方を考える前に、生きる技法とそれを支える手だてを考えようではないか、と言うのだ。(編集委員 原昌平)


●「障老病異」と社会

終末期医療や仏教など、死にかかわるテーマに社会的な関心が高まっている。
「いや、ブームはずっと前からで、死生学とか、いかに死ぬかといった本は1980年代からわんさと出ている。日本人は死の話を避けてきたと言われるけれど、実際は盛んに語ってきた」
そこに違和感があった。
「なんだか死に急ぐことを勧めるような風潮。生きることが先ではないのか」

2007年度に政府のまとまった研究費(グローバルCOE)を得て「生存学」創成拠点が設立された(現在は学内の生存学研究センターが活動を引き継ぐ)。
柱にしたのは「障老病異」。いろいろな障害、老い、病気、あるいは少数派の体や心を持つ人たちが、どのように生きてきたのか、当事者の側に立って歴史や現状を調べることに重点を置いた。重度の身体障害、視覚障害、血友病、性同一性障害などの大学院生も研究に加わった。

親による障害児殺しが相次ぐ中で「殺すな」と訴えた脳性まひ者グループ。隔離収容と差別を変えようとする精神医療の改革運動。人工透析の保険適用・公費負担を実現させてきた患者団体。24時間介護を求める重度障害者……。
「社会は90%の多数派用につくられている。それはひとまず仕方ないとしても、残り10%の人たちに生じる不利は社会がカバーすべきだ。社会保障はもちろん、移動の自由も、点字や字幕などのコミュニケーション手段も、社会で生きるのに欠かせないし、差別や排除があれば生きにくい」

生存のための闘いは、今も続いている。


●危うい「自己決定」

延命治療はいらない、それを拒む自己決定を尊重せよという主張がある。生命維持の中止や不開始に、法的な免責をほしがる医師も多い。
「医療全体で言えば、患者の自己決定は時代の流れ。しかし死ぬという選択は別ではないか。本人の意向は大事だが、元気な時に単純に○×で決められるものではない」

そして医療の内容には、診療報酬制度など社会的な要因が大きく関係する。
「過剰医療は、医療行為ごとに点数を加算する『出来高払い』に伴って起きた。近年は検査や点滴、投薬をしても定額の『包括払い』が増えており、やらないほうが病院は得になる。過剰医療ばかりとみるのは認識が古い」

日本では、家族や社会に負担をかけたくないと考える人が多い。そういう理由で延命を拒むとすれば、本人の希望といえるのか。
「緩和ケアや看護・介護が十分になされているか、本人の側に身を置く人がいるかによって、その時の気持ちは違ってくる。一方、『死に方はこうあるべきだ』と著名人が語ったり、法律ができたりすると、世間的な圧力になる」

自己決定といっても、周囲の状況や社会の影響を必ず受けるということだ。


●その状態なりの生

神経難病のALS(筋萎縮性側索硬化症)は、全身の筋肉がしだいに動かなくなり、進行すると自力では呼吸もできなくなる。人工呼吸器を着けて生きることを選択する人は3割ほどだ。立岩さんは、そうした患者たちが伝えた体験の記録を多数、集めた。
「全く意思伝達できない状態が2年ほど続いた後、脳波を読み取る装置で対話できるようになった人の文章も読んだ。死ぬほどつらかったという記述はなく、景色が見えたり声が聞こえたりする喜びはあったという。放置されたらたまらないが、親身なケアがあれば違うかもしれない」

認知症になったら長く生きたくないという人も多い。
「恐怖心はわかるが、そうなったら、なったなりの人生があるのではないか。否定するのは、認知症の人たち全体を蔑視するのと紙一重。自分はいつまでも同じではない。その時なりの状態を生きる。それでいいという考え方もできるのではないか」


◆たていわ・しんや
 1960年、新潟県佐渡島生まれ。東京大社会学研究科博士課程単位取得退学。千葉大、信州大を経て2004年から立命館大大学院教授。07年4月から今年3月まで同大学生存学研究センター長。著書に「私的所有論」「弱くある自由へ―自己決定・介護・生死の技術」「ALS 不動の身体と息する機械」「良い死」など。







いのちとはなにか;“尊厳死”について

2012-09-13 07:07:17 | 日記

現在、“尊厳死”を公然と肯定する発言が、“自民党総裁候補”によって発せられた(石原伸晃とかいうたんなるバカ

“尊厳死”に一貫して反対の立場をとる立岩真也へのインタビュー(不登校・ひきこもりの専門紙『Fonte』2009)からその一部を引用;


☆ ― 「自己決定」の問題です。なぜ他人が死に際を決める権利を奪えるのか、最期は潔く死にたいと私は思うのですが。

★ この問題は非常に大きくて、『良い死』では、多くの紙数を「自己決定」にまつわることに割いています。
 石井さん(注:このインタビューの聞き手)は、有名なミュージシャンや作家が、早くに亡くなったことを「かっこいいな」と思う。それはありだと思います。ただ、薬(やく)やって、喉にゲロ詰まらせて死んでしまったのを私たちは祭り上げてしまうようなところがありますよね。人間は観念で生きています。そういう観念として思うことと、いざというときに思うことは、ちがうことも多いと思いますよ。
 たしかにいまは、年を取って、体が動かなくなって、排泄も自分じゃできず、チューブにたくさんつながれる、そういう「自分は許せない」と思うかもしれません。「許せないのは自分なんだからいいじゃないか」と言うかもしれません。
 でも、その否定している対象は、想像のなかの「自分」なんです。いまの自分と、何十年後かの自分は連続していますが別人です。未来の自分をいまの自分が決めつけられるほど、いまの自分はえらいんでしょうか。
 動けなくなったら価値がない、死ぬに値する自分だ、と思うこと。それは「自分」のことではなく、そういう人間は、死ぬに値するほどいやだと思っているということなんです。私も自分が弱っていくことはいやです。いやだけれど、それと動けない自分は死んでもいいと思うことは別です。動けない自分は死んでもいいと思うことは、そういう状態で生きている人に対する侮蔑だとも思うのです。
 障害を持っている人は、この問題に敏感です。なぜなら、たとえば脳性マヒの人は、勝手に口が開いてしまったり、体がよく動かない。若い人が高齢者を見て「ああはなりたくない」と言うけれど、脳性マヒの人は「ああはなりたくないって言うけど、それはオレのことか」と。自分のことだから「自分の価値観でいいじゃないか」と言うかもしれませんが、その理屈がすべて通るわけではありません。そういう状態を「気持ち悪いと思うな」と言ってるわけではありません。けれども、その人の生存を否定することはダメなんだ、と。そう思うんです。
 自分が変わったらいやかもしれないけど仕方がない。そして変わったとしても、その生存が、なんら否定されるわけじゃない。そう思えるほうが、本人にとっても楽だと思いますし、社会システムもその価値観に沿っていったほうが、いいと思っています。



☆ ― 最後に「いのちとはなにか」という質問をさせてください。

★ 去年、慶応大学で最首悟さんと講義をしました(『連続講義「いのち」から現代世界を考える』岩波書店)。そこで最初に話したのが「いのちのことはわかりません、おわり」と。今回もそういうことです。
 「○○とはなにか?」という問いは、よくわからないことがあるんです。その問いに意味がある場合、ない場合、何を問うているのかわからない場合、答えてもしかたがない場合、答えないほうがいい場合、いろいろな場合があります。
 すくなくても、私には生きているということがどういうことなのか、よくわかりませんし、わからなくてよいようにも思います。そして、いのちとはなにか、その問いに答えようとする欲望が私には足りません。また、いのちとはなにかという問いに、答えがなくてもよく、一つじゃなくていいとも思っています。べつにいのちの大切さやすばらしさなどをいっしょうけんめい言わねばならないとも思いません。死ぬより生きているほうがいいだろう、というぐらいのことです。だけど、もっともらしいことを言って、他人に「死んだほうがいい」などと言っている人たちには、「それはちがう」と言ってきました。それを説明するのは私の仕事です。

――ありがとうございました。(聞き手・石井志昂)








タルコフスキー;ノスタルジア

2012-09-11 09:55:01 | 日記





(焼身自殺する男のメッセージ);

健全な者よ
その健全さが何になる
人類すべてが がけっぷちに立ち
奈落に落ちかけている
我々とまっすぐ見つめあい
ともに食べともに飲み
ともに寝る勇気のない者に
自由が何になる
健全と呼ばれる人々が
世界を破局の縁に 導いてきたのだ

人間よ
耳を傾けろ
君の水の中に 火に
そして灰に
灰の中の骨に
骨と 灰に








“うつ”について

2012-09-09 07:08:10 | 日記


現在の“ぼく”の状態にもかかわりがあるので、國分功一郎ツイート引用。

ぼくはここで國分君が言っている事に“賛成”しているのではない。
つまり共感できる“部分”と、共感できない“部分”があるということ;



☆ 國分功一郎 ‏@lethal_notion
あと、松本さんの論文では、鬱病の話が出て来て大変興味深かった。鬱病のって、こんなに話題になってるのに理論的な話を聞かない。一体鬱病はどうして発病するのか、そのメカニズムについての説明ですね。

☆ 國分功一郎 ‏@lethal_notion
フロイトはメランコリーを、愛していた対象の喪失した時にその対象に対する愛がそもそも過度に自己愛的であった場合に起こる、と説明してますね。現代の鬱病についても、こういう理論的な説明を聞きたい。こういう人が鬱になりやすいとか、がんばれって言っちゃいけないとか、そんな話ばっかり

☆ 國分功一郎 ‏@lethal_notion
20世紀は哲学が文学に接近した世紀であるとはよく指摘されました。しかし同じく20世紀は哲学が精神分析に接近どころか、精神分析が哲学を飲み込んだとすら言える世紀でした。これは考えてみれば結構驚くべきことです

☆ 國分功一郎 ‏@lethal_notion
ハイデッガーが言うように、哲学の起源には「何かが存在すること」への驚きがあるのだとすれば、哲学がここまで精神分析と接近したことはやはり驚くべきことではないでしょうか?

☆ 國分功一郎 ‏@lethal_notion
岩波のフロイト全集月報にこんなことを書いたことがある。自分は精神分析というのは治療のための学問だと思ってた。だから精神医学に関わる訳でもない自分が面白がってそれを読むのは不謹慎であると。おれは長らくフロイトの著作を読むことができなかった。実際、大学生の時フロイトは殆ど読まなかった

☆ 國分功一郎 ‏@lethal_notion
同じようなことをブランショが言っていて、共感した。でも、実はフロイトを読むと、彼自身が精神分析は治療のための学問には限定されないと言っていた。

☆ 國分功一郎 ‏@lethal_notion
突然、卑近な話になるけど、普通精神病の話を読みながら、やっぱ人間が生きていくのって大変なんだよなぁって思った。神経症になったり鬱になったり、なんとか精神病を生きていたり、それがフツーなんですよ。カント=フロイト的に言えば、自然は人間にそれだけ過酷な条件を課しているのです…。

☆ 國分功一郎 ‏@lethal_notion
たまに、自分も簡単に気が狂うだろうな、気が狂って人に迷惑かけたりするだろうな、って思う。現代の正常、というより気が狂ってないパーソナリティのモデルが問題あり過ぎなんだよ。それを維持するためにどれほどの決死の努力が必要か…。

☆ 國分功一郎 ‏@lethal_notion
『暇と退屈の倫理学』冒頭で書いたけど、部屋でじっとしていられないから金払って軍職を買って戦争に行くっていうパスカルが紹介してる事例って、近代の「理性」とか「正常」の基準からみたら、完全に頭狂ってるよ。でも、それが人間の当たり前なわけでしょ。人間が生きてくのはどれほど大変か。

☆ 國分功一郎 ‏@lethal_notion
@suginamihikari カント=フロイト的に言えば、まず最初に自然が人間に「理性」と呼ばれるものを持ちうる条件を与えてしまった、そこから社会等々が与える困難が派生するわけですよ。僕はこれは基本的に正しいと思いますね。

☆ 國分功一郎 ‏@lethal_notion
@syu_cho 仰る通りだと思います。そのことを歴史的、理論的に研究きたのがミシェル・フーコーの『狂気の歴史』です。

☆ 國分功一郎 ‏@lethal_notion
@nakaraich まぁ、ツイッターとかで言葉を交換したりするのも結構救いになりますね。人間が生きてくってのはけっこう大変だってのを社会がもっと認知すべきですよね。

☆ 國分功一郎 ‏@lethal_notion
ちょっと文脈違うけど、昔、スペインにあるキリスト教世界三大巡礼地の一つサンチアゴ・デ・コンポステラに行った時、若い連中が昼から酒飲んで道とかで寝てるわけ。でも、そういうどうしようもない連中が教会に来ると両手を組んで、ホント心の底から祈ってる。@nakaraich

☆ 國分功一郎 ‏@lethal_notion
タバコの吸い殻は散らかすし、大声で喋ってうるさいし、本当にどうしようもない連中で、でも、そいつらが信仰によって見事に統率されてるわけです。あれをみた時に信仰の強力さと必然性を感じ、また、信仰がなければあんなになってしまう人間のだらしなさを実感しました。@nakaraich

☆ 國分功一郎 ‏@lethal_notion
主観的事実としては人間はメチャメチャ弱い。客観的にそういう人間なる存在を眺めるとメチャメチャだらしない。そういう真理から考え始めないと。これが何を意味するかというと、カントが言う通り、人間には文化と進歩が必須だし、進歩せざるを得ないということだと思う。@nakaraich

(以上引用)







好きな本2012秋(とりあえず思い出したもの)

2012-09-08 13:11:34 | 日記

アーサー・ランサム『ツバメ号とアマゾン号』;岩波少年文庫-中学校の図書室で借りた

山本周五郎『樅の木は残った』;テレビ・映画化では佐々木愛の宇乃が好き

ブラッドベリ『刺青の男』、『火星年代記』;最初に読んだのはSFマガジン創刊号?の「7年に1度の夏」

大江健三郎「奇妙な仕事」、「死者の驕り」、「芽むしり仔撃ち」;なにかの文学全集に入っていたもの

大江健三郎『個人的な体験』、『万延元年のフィットボール』;このころ大江作品はエッセイをふくめほぼ全部読んだ

サルトルは小説、戯曲、評論を中心に読み、『存在と無』などの主著は読めず(好きなのは戯曲『蝿』か)

ノーマン・メイラーの『ぼく自身のための広告』;内容はおぼえていないが(やたらセックスが話題になっていた)、そのスタイルに感銘、『裸者と死者』もがんばってみな読んだ(笑)

へミングウェイ『武器よさらば』;これストーリーはメロドラマだが、やはり文体(翻訳だが)、ほんとうにいいのは『われらの時代』

ル・クレジオ『調書』;これは最初読んだときよりあとになって効いてきた、『ロドリゲス島への旅』、『物質的恍惚』、『悪払い』は近年読んで感銘

ビュトール『時間割』;なぜか大好きで何度か(全部でないが)読んだ、『心変わり』は近年岩波文庫版で読了、むかし途中放棄したが今度はよかった

スティヴン・キング『デッド・ゾーン』、『IT』、『アトランティスのこころ』;キングはかなりの時期にわたって、ある時まで、かなり読んだ

ロス・マクドナルド『ウィチャリー家の女』;海外ミステリ系・ハードボイルドもかなり読んだ今残っている1冊ならこれ、チャンドラーではない(笑)

ハーバート『デューン 第1部、2部』;これいつ読んだかさだかでない、SF史上の傑作

レム『ソラリスの陽のもとに』;タルコフスキーの映画を先に見たかもしれない

ギブソン『ニューロマンサー』;これに続く3部作、1980年代?

ナボコフ『ロリータ』、『自伝=記憶よ語れ』;好きだ(『ロリータ』新訳はまだ読んでない)

★ デュラスのなにを最初に読んだかわからない、『モデラート・カンタービレ』か。もちろん『愛人』はよい、『太平洋の防波堤』はいまだ読了せず(有名でなかった彼女の『静かな生活』もよい)、このひとは全部よいのではないか

グラス『ブリキの太鼓』;これの第1部と第2部は好き、第3部になってなぜか読めず

★ トゥルニエ『フライデーまたは太平洋の冥界』;哲学的?小説の成功例

田村隆一『言葉のない世界』、『新年の手紙』;ぼくがいちばんなじんだ詩人は谷川俊太郎だった、田村の『新年の手紙』はわりとリアルタイムで読み好きだったが、本当に好きになったのは近年で、現在、谷川より好き

開高 健『オーパ!』など;このひとの“釣り紀行”には楽しませてもらった(感謝!)、もちろん『耀ける闇』や『玉、砕ける』が傑作でないわけはない(このひとの“小説”を忘れてはならない)

村上春樹『蛍、納屋を焼くその他の短編』、『ダンス、ダンス、ダンス』;ノーコメント(笑)春樹は長編より短編が好き(「めくら柳」とか「人喰い猫」とか「彼女の犬」とか

ラピエール&コリンズ『おおエルサレム』;ある歴史的事件の当事者インタヴュー集成によるドキュメントの傑作、歴史が人々の血と汗と涙からなることを証言するリアル(こういう本が絶版なのは残念というより、出版社の怠慢)

藤原新也『全東洋街道』;このひと、ひところ話題になりすぎて損をしている?写真も文章もよい、アメリカ横断の『アメリカ』もよい

オンダーチェ『イギリス人の患者』;なぜかとても好き、現在読み返している、翻訳がいいと思う―原文より強い

ル・カレ『スマイリー3部作』;これの面白さは、読まなきゃわかんない、映画化もされたようだが、スマイリーの魅力は出せないだろう

日野啓三;このひとの“代表作”は選べない、現在、ほぼ全作品を読み返そうとしている。

中上健次『熊野集』、『紀州』、『地の果て至上の時』;ノーコメント、ぼくは遅れて来た中上ファン、『地の果て至上の時』を読み返す(つもり)

★辺見庸;ノーコメント(笑)1冊を選ぶなら『眼の探索』

平出 隆『猫の客』;こういう“小説”が近年書かれていたことが、おどろきだった

青山真治『ホテル・クロニクルズ』;このひとは映画より小説のほうがいいのではないか?(『ユリイカ』はそうだ)映画はあまり見たことないが小説はほぼ全部読んだ

ジュネ『シャティーラの四時間』、『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』;言うことなし(笑)このブログにも取り上げた、こんごもかかわるだろう本

★ 哲学-思想-社会批評系が1冊もないではないかと、言われれば、返す言葉もない(笑)

★ ひところヒューズ“ヨーロッパ社会思想史3部作”をこのブログで推薦していたが、この本が”わるい“のではないが、ぼくに対するインパクトはうすれた。
かわりに“弟子”のマーティン・ジェイ『暴力の屈折』をあげる(これは一種の思想的エッセイである、現在アメリカ・インテリの弱点もわかるので)

★ ベンヤミン『一方通行路』;ベンヤミンはまだあまり読めてない、だが『一方通行路』は確実によい。

★伝記と自伝的インタビューから3冊
  *D.エリボン『ミシェル・フーコー伝』
  *レヴィ=ストロース『遠近の回想』『悲しき熱帯』は前半しか読めない;笑)
  *コルバン『感性の歴史家』

★ ”解説本”?で、ただ解説しているのではない情熱を感じたもの;
  *野村修『ベンヤミンの生涯』
  *鬼界彰夫『ウィトゲンシュタインはこう考えた』

★ ごく最近読んだものでは(あまり読んでいないが)、平野啓一郎の初期短編「清水」(『高瀬川』所収)―このブログで小説を部分引用するという暴挙をおかした

★ 矢作俊彦『夏のエンジン』;このひと、つまらないものも書くが、これはいい。

★ 四方田犬彦『貴種と転生・中上健次』;この”評論”をぼくは中上健次をあまり読んでない頃に読んだ、いまこの本を読むと評価が変わるかもしれない。

★ 立岩真也の本は、”これから”読めるか?→『私的所有論』に取り組む



以上あくまでいま短時間で“思いついた”リストにすぎない。

また思い出したら(とんでもなく重要な本が抜けているかもしれない)追加する。





《Life is a game just made for fun, I don't need no body》
     ― FREE “I’m a mover“






《好きな本》とはちがうのだが、やはり“刺激を受けた本”というのもある、いくつかを;

フーコー『フーコー・コレクション』(6冊);全部読んだ訳ではない。

エドガール・モラン『失われた範列』

見田宗介(真木悠介);『自我の起源』(とくに補論2”性現象と宗教現象“)、『宮沢賢治』

内田隆三『国土論』、『柳田國男と事件の記録』

大澤真幸の本を入れたいが(けっこう読んだ)、“代表作”を特定できない(最近はダメではないか?)

柄谷行人『探究Ⅰ』、『探究Ⅱ』;全部読んでないかもしれない(このひとも最近ダメではないか?笑)

今福龍太『荒野のロマネスク』

加藤周一『日本文学史序説 上、下』;これは“まだ”読む

高橋睦郎『読みなおし日本文学史』;この本は“前半”がよいと思う

黒崎政男;カント『カント「純粋理性批判」入門』;カントがわかるかもしれないという希望をいだかせた(笑)

岡真理『記憶/物語』;女性も入れておかねば(笑)

★ ひところの清水徹と豊崎光一は、かっこいいと思った

★ もっとむかしかっこよかったのは、伊丹十三(一三)と植草甚一寺山修司も好きだったがそれほどではない)
内田樹などに伊丹十三”論”など語ってほしくない、”十三”は内田とちがってダンディだった。

ドゥルーズとサイードは保留(笑)、デリダとかラカンとかレヴィナスは知らん

木田 元『反哲学史』;“哲学史”(社会思想史)には、もっとよい本が書かれるべき、ぼくが読んだ哲学史では、これはマシな方ではないか。

山之内靖『マックス・ウェーバー入門』;ウェーバーというとっつきにくい人が、面白いことがわかった。

メルロ=ポンティ;困った(笑)、みすず書房の“コレクション”を読むべきか?

★ マルクス、ニーチェ、フロイト、ハイデガーは、苦手である(爆)ほとんど読めていない(ニーチェについては、良い伝記があったら読みたい)