Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

言葉

2010-07-09 22:01:25 | 日記


★ 人間の本質とは、個々の個人の内部に宿る抽象物なのではない。それは、その現実の在り方においては、社会的諸関係の総体(アンサンブル)なのである。
―カール・マルクス “フォイエルバッハに関するテーゼ”


★ われわれは、こうも言えないであろうか。「われわれがこの地上の牢獄にある間は、われわれの中には、純粋に肉体的なもの、純粋に精神的なものは何もない。だから生身の人間を、肉体と精神の二つに引き裂くのは正しくない。また、快楽の享受に対しても、少なくとも苦痛に対するのと同様の、好意をもって当るのが本当であると思われる」と。
―ミシェル・エーケム・ド・モンテーニュ 『エセー』


★人間が意志をはたらかすことができず、しかしこの世の中のあらゆる苦しみをこうむらなければならないと仮定したとき、彼を幸福にしうるものは何か。
この世の中の苦しみを避けることができないのだから、どうしてそもそも人間は幸福でありえようか。
ただ、認識の生を生きることによって。
― ルートウィヒ・ウィトゲンシュタイン “草稿1914-1916”


★ この完璧な日、ぶどうのふさがとび色に色づいているだけでなく、すべてのものが熟しているまさにこの日、一条の日ざしが私の生涯の上に落ちて来て、それを照らしだした。私は来し方をかえりみ、行く末を見やった。私は一度にこんなに多くの、こんなに良い物を見たことがなかった。
― フリードリッヒ・ニーチェ 『この人を見よ』


★ 「もしも地獄が一つでも存在するものでございますなら、それはすでに今ここに存在しているもの、われわれが毎日そこに住んでおり、またわれわれがともにいることによって形づくっているこの地獄でございます。これに苦しまずにいる方法は二つございます。第一のものは多くの人々には容易(たやす)いものでございます、すなわち地獄を受け容れその一部となってそれが目に入らなくなるようになることでございます。第二は危険なものであり不断の注意と明敏さを要求いたします、すなわち地獄のただ中にあってなおだれが、また何が地獄ではないか努めて見分けられるようになり、それを永続させ、それに拡がりを与えることができるようになることでございます。」
― イタロ・カルヴィーノ 『見えない都市』


★ 僕らがいるのはどうやら最後のフロンティアであり、本当に最後の空を見ているらしい。その先には何もなくて、僕らは滅びていく運命にあるらしいことはわかっているのだけれど、それでもまだ、僕らは「ここから、どこへ行くのだろう」と問いかけているのです。僕らは別の医者に診て貰いたい。「おまえたちは死んだ」と言われただけでは、納得しません。僕らは進み続けたいのです。
―エドワード・W・サイード 『ペンと剣』


★ 日本を統ぐ(すめらぐ)には空にある日ひとつあればよいが、この闇の国に統ぐ物は何もない。事物が氾濫する。人は事物と等価である。そして魂を持つ。何人もの人に会い、私は物である人間がなぜ魂を持ってしまうのか、そのことが不思議に思えたのだった。魂とは人のかかる病であるが、人は天地創造の昔からこの病にかかりつづけている。
― 中上健次 『紀州』 終章“闇の国家”


★ だまされやすい人たちは全員サンタクロースを信じていた。しかしサンタクロースはほんとうはガスの集金人なのであった。
― ギュンター・グラス 『ブリキの太鼓』


★ そこでは、汗の一滴一滴、筋肉の屈伸の一つ一つ、喘ぐ息の一息一息が、或る歴史の象徴となる。私の肉体が、その歴史に固有の運動を再生すれば、私の思考はその歴史の意味を捉えるのである。私は、より密度の高い理解に浸されているのを感じる。その理解の内奥で、歴史の様々な時代と、世界の様々な場所が互いに呼び交わし、ようやく解かり合えるようになった言葉を語るのである。
―クロード・レヴィ=ストロース 『悲しき熱帯』


★ もしこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれがせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが18世紀の曲がり角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば ― そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。
―ミシェル・フーコー 『言葉と物』


★ 現象学はバルザックの作品、プルーストの作品、ヴァレリーの作品、あるいはセザンヌの作品とおなじように、不断の辛苦である ― おなじ種類の注意と驚異とをもって、おなじような意識の厳密さをもって、世界や歴史の意味をその生まれ出づる状態において捉えようとするおなじ意志によって。
―モーリス・メルロ=ポンティ 『知覚の現象学』序文


★ 私たちは共有の歴史であり、共有の本だ。どの個人にも所有されない。好みや経験は、一夫一婦にしばられない。人工の地図のない世界を、私は歩きたかった。
― マイケル・オンダーチェ 『イギリス人の患者』


★ 夜のことは覚えている。
空から光が一面の透明な滝となって、沈黙と不動の竜巻となって落ちてきた。空気は青く、手につかめた。青。空は光の輝きのあの持続的な脈動だった。夜はすべてを、見はるかすかぎり河の両岸の野原のすべてを照らしていた。毎晩毎晩が独自で、それぞれがみずからの持続の時と名づけうるものであった。夜の音は野犬の音だった。野犬は神秘に向かって吠えていた。村から村へとたがいに吠え交わし、ついには夜の空間と時間を完全に喰らいつくすのだった。
― マルグリット・デュラス 『愛人』


★ 言語もまた、一個の神秘、一個の秘密である。ロドリゲス島の<英国人湾>に閉じこもって過ごしたあのように長い歳月を、祖父はただ地面に穴を掘り、自分を峡谷に導いてくれる印しを探すことだけに費やすわけではない。彼はまた一個の言語を、彼の語、彼の文法規則、彼のアルファベット、彼の記号体系でもって、本物の言語を発明する。それは話すためというよりはむしろ夢みるための言語、彼がそこで生きる決意をした不思議な世界に語りかけるための言語である。
― J・M・G・ル・クレジオ 『ロドリゲス島への旅』


★ 社会について何か考えて言ったからといって、それでどうなるものではないことは知っている。しかし今はまだ、方向は見えるのだがその実現が困難、といった状態の手前にいると思う。少なくとも私はそうだ。こんな時にはまず考えられることを考えて言うことだ。考えずにすませられるならそれにこしたことはないとも思うが、どうしたものかよくわからないこと、仕方なくでも考えなければならないことがたくさんある。すぐに思いつく素朴な疑問があまり考えられてきたと思えない。だから子供のように考えてみることが必要だと思う。
― 立岩真也 『自由の平等-簡単で別な姿の世界』


★ 希望なきひとびとのためにのみ、希望はぼくらにあたえられている。
― ヴァルター・ベンヤミン “ゲーテの『親和力』”





善良な市民

2010-07-09 09:25:49 | 日記


ぼくのブログを見てるひとにはおわかりだろうが、ぼくはtwitterをやってないし“いろんなブログ”を見ていない。

ぼくがブックマークしているブログはDoblogの時からかかわりがあったひとの“生き残り”と実際の人生で係わりのあるひとである。
しかももともと数が少ないおまけに、滅多に更新しない(笑)ひとが多い。
“有名ブログ”で見ているのは天木直人と内田樹“だけ”であり、なぜか内田はこのところ更新してない(準“炎上”でブログ元を変更してから)

たまに“不破利晴”ブログ-twitterにリンクされているひとを見るが、あまり面白いひとを発見できなかった。
昨夜、“発見”した。

ひょっとしたら“有名人”なのかもしれないが、田原牧の<西方からの手紙>である。

ぼくのように“田原牧”を知らないひとのためにプロフィールを貼り付ける;
☆1962年生まれ。新聞記者。87年に中日新聞社入社。社会部を経て、95年にカイロ・アメリカン大学に語学留学。その後、カイロ支局に勤務。
現在、東京新聞(中日新聞東京本社)特別報道部デスク。同志社大学・一神教学際研究センター共同研究員。日本アラブ協会発行「季刊アラブ」編集委員。


まだいくつかの文章を読んだだけだが、良いと思った。

最近(5月)のブログ“「善良な市民」という壊れ方”から引用したい。
最初に、《後楽園ホール。「大日本プロレス」の大会を見に行ったのだ。お目当ては葛西純選手。マニア向けかもしれないが、日本屈指のデスマッチ・ファイターだ》とある。

そのブログの最後の段落以下の通り;

★ 教師や管理教育に体ごと反発するという青少年の行動は80年代の「荒れる中学校」以来、鳴りを潜め、その鬱積は陰湿な弱い者いじめへと変質した。その傾向は年間3万人以上が自死する大人社会、世界での日本政府の「ヘタレ」ぶりを投影しているのだろうけど、いずれにせよ正気の沙汰ではない。しかし、浅薄な「勧善懲悪」(例えば公園の適正使用のために野宿者を追い出そうなんていう台詞)や現実主義(その現実は日々変化している)の説教は、その異様さを糊塗する機能を果たしてきた。
 ヘタレがヘタレを自覚しているニヒリズムの時代はまだましだった。そこには世界の理想を空想し、現実との隔たりに苦悶する精神性がまだ残されていた。ところが恐ろしいことに自らのヘタレぶりを自覚できず、それを言い訳する浅薄な理屈を正しいと信じる世界に私たちは足を踏み入れているようだ。「善良な市民」はそんな人間の壊れ方を象徴している。
 はたから見れば、いかがわしいプロレスという興業の中でも、下層の「インディー」と一括されるマイナー団体のデスマッチはそうした善良な市民社会の対極にある。幾重もの「不健全さ」を自覚しながら、一心に集まる客の視線を圧倒しようと愚直に立ち続けるレスラーたち。その姿にはうそ偽りのないロマンティシズムが漂っている。私にはそのレスラーたちの方がしたり顔の評論家や「市民」たちよりも、よほど正気に見えてしかたないのだ。
(以上引用)


ぼくはプロレスに一度も興味を持ったことがないが、以上の論旨と感覚は理解できる。

もちろんポイントは、“プロレス”ではなく、“善良な市民”である。

ぼくも最近つくづく、“善良な市民による民主主義”に対する嫌悪がつのっている。

もちろん、だからといって”新自由主義”や“全体主義”や“国粋主義”に鞍替えするわけではない。

“善良な市民づらした偽民主主義”と罵倒するのは、たやすい。

しかしこの現在、“民主主義”と呼ばれているシステムの虚偽はどこにあり、それをどう“変更”して行くかの、思想と具体策は、きわめてむずかしい。

この“とてつもない困難”に直面し、立岩真也のように“まず考えられるところから考える”ことしかない。