Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ホモ・デメンス

2011-10-30 23:42:27 | 日記


★ この時以来、理性の人という、人の心を安心させる優しい概念にかくされた、人間の顔があらわれる。それは、微笑み、笑い、泣く、激しく不安定な情緒をそなえた存在であり、不安に満ちた苦悶する存在であり、享楽し、酔い、恍惚とし、暴力を振い、怒り、愛する存在であり、想像的なものに浸された存在であり、死を知りながらそれを信ずることのできない存在であり、神話と呪術を分泌する存在であり、精神と神々に憑かれた存在であり、幻影と空想で身を養う存在であり、客観的世界とのつながりが常に不確かな主観的存在であり、錯誤と彷徨に繋がれた存在であり、無秩序を産み出す過剰的存在なのだ。そして、幻想、過度、不安定、現実的なものと想像的なものとの不確かさ、主観的なものと客観的なものとの混同、錯誤、無秩序、そうしたもろもろの接合をわれわれが狂気と名づけるように、われわれはいま、ホモ・サピエンス [理性のヒト] を、ホモ・デメンス[錯乱のヒト] と見ざるを得ないのである。

★ 無秩序や錯誤をもはや、原始の人類の素朴な無能、無力におしつけることはできない。そういったものなら、洗練された秩序と文明化した真理が漸次減少させたことだろう。過程はむしろ、今日まで、逆である。理性と狂気をもはや実体的に、抽象的に対立させることはできない。われわれは、反対に、ホモ・サピエンスに当てられた真面目で働き者の顔に、ホモ・デメンスの別な、しかし同時に、同一である顔を、重ねなければならないのである。人間は狂人-賢人である。人間的真理は誤謬を含んでいる。人間的秩序は無秩序を含むのだ。今後、複雑性の、創案の、知性の進歩が、無秩序、錯誤、錯覚にもかかわらず、あるいはそれらとともに、あるいはそれらが原因で、成されたのかどうかを自問してみなければならない。確かな返事は複雑で矛盾しているに相違ないが、われわれは、それが、それらが原因であり、同時に、それらとともにであり、同時に、それらにもかかわらずであると答えるだろう。

<エドガール・モラン『失われた範列』(叢書ウニベルシタス1975)>







エグザイル;EXILE;想像力の場所

2011-10-30 11:00:54 | 日記


◆ 2006年、ジュンク堂書店池袋本店での講演

私はこの国の文学をやる人間が(ごくわずかな例外者をのぞいて)エグザイルとなることはなしに生きてきた、その例にもれず、この国を立ち去ることはなしに小説を書き続けてきた者です。ところが私には、小説を書き始めたそもそもの当初から、自分は本来いるべき場所にいない人間だと感じるところがあり、それこそが私の生涯の小説家としての主題であり続けた、と考えることもまたあるからです。私の小説のエグザイル的性格ということを、他ならぬサイードと話し、彼からあまり否定的じゃない対応を受けたこともあります。
やはり私の小説を永く読んでこられた方で、しかしきみは四国の森のなかに自分本来の場所を設定することで、ほとんどすべての長編小説を書いてきたのではないか、と反論される方は当然にいられるでしょう。そのとおりなのです。そしてこの点については、私の描く四国の森のなかの土地、人々、歴史と伝承のいちいちは、すべて私の想像力にのみ基盤を持つものだ、と自分が確信していることをいいたいと思います。

<大江健三郎『読む人間』(集英社文庫2011)>




◆ 1992年、朝日新聞文芸時評;中上健次『軽蔑』評”最後の中上健次”

このようにして中上健次の仕事は終わった。かれのヒーローたちは、新宮の「路地」から根こそぎにされても、特別な血のかよう肉体をたよりに都会での物語に再生した。中上氏自身も、過剰なほど豊かで屈折した内面の表現には適さぬ、新聞小説という媒体で健闘した。すべてを物質に換算する総中流意識の「まなざし」に抗して、トップレス・ダンサーの娘と粗暴な若者に、情熱のきわみへの超越的な希求をたくしながら。この小説家は確かに20世紀末のマレビトだった。

<大江健三郎『小説の経験』(朝日文芸文庫1998)>





<参考:単行本出版年による>

1979年
* 村上春樹   『風の歌を聴け』
* 中上健次   『水の女』
* 大江健三郎  『同時代ゲーム』

1980年
* 村上春樹   『1973年のピンボール』
* 中上健次   『鳳仙花』
* 大江健三郎  『現代伝奇集』

1982年
* 村上春樹   『羊をめぐる冒険』、『中国行きのスロウ・ボート』
* 中上健次   『千年の愉楽』
* 大江健三郎  『「雨の木」を聴く女たち』
 
1983年
* 村上春樹   『カンガルー日和』
* 中上健次   『地の果て 至上の時』
* 大江健三郎  『新しい人よ眼ざめよ』
 
1984年
* 村上春樹   『蛍・納屋を焼く・その他の短編』
* 中上健次   『日輪の翼』、『熊野集』
* 大江健三郎  『いかに木を殺すか』

1985年
* 村上春樹   『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
* 大江健三郎  『河馬に噛まれる』

1986年
* 村上春樹   『パン屋再襲撃』
* 中上健次   『19歳のジェイコブ』
* 大江健三郎  『M/Tと森のフシギ物語』

1987年
* 村上春樹   『ノルウェイの森』
* 中上健次   『火まつり』、『天の歌―小説都はるみ』
* 大江健三郎  『懐かしい年への手紙』

1988年
* 村上春樹   『ダンス、ダンス、ダンス』
* 中上健次   『重力の都』
* 大江健三郎  『キルプの軍団』

1989年
* 中上健次   『奇蹟』
* 大江健三郎  『人生の親戚』

1990年
* 村上春樹   『TVピープル』
* 中上健次   『讃歌』
* 大江健三郎  『治療塔』、『静かな生活』

1991年
* 大江健三郎  『治療塔惑星』

1992年
* 村上春樹   『国境の南、太陽の西』
* 中上健次   『軽蔑』  (死去)
* 大江健三郎  『僕が本当に若かった頃』

1993年
* 中上健次   『異族』
* 大江健三郎  『燃えあがる緑の木 第1部』

1994年
* 村上春樹   『ねじまき鳥クロニクル 第1部・第2部』
* 大江健三郎  『燃えあがる緑の木 第2部』









航海日誌

2011-10-24 02:29:48 | 日記


★ またバスをおりて、新しい町についた。はれあがった足、重い頭、粉をふく顔のまま、よろい戸をあけはなつことのできるつつましい宿屋を探す。小さな荷物をおいて、町を歩きまわる。小さい町々はどこも似かよった雰囲気だ。30分もあれば、すっかりようすがつかめる。あとは教会のある広場にめんした安食堂のあけっぴろげなテーブルにむかってすわり、グアラナをちびちびとなめながら夕焼けを待つだけだ。何ひとつ追い立てるものもなく、何ひとつ追い求めはしない。犬みたいに瞬間的な忘却を生きる。やがて雲の通過、通り雨、虹の出現にうながされて、突然発熱を自覚する。


★ 「莫大な予算を使って、三年間で。謎めいた幻想都市を。あらゆる無理を承知の上で。クビシェッキ大統領のドン・キホーテ的な情熱にみちびかれて。わたしはそのことの意味を考えたわ。このばかげた建造への情熱のことを。ばかばかしいくらいの。でもそれは、たぶんこういうことなの。あなたはあなたが生きてゆくために、未来へと投影された希望を必要とすることがあるでしょう。それとおなじことが、国家についてもおこるのよ。少しでも立ち止まればただちに溺れてしまう、そんな位置にまで追いつめられる。むりにでもドライヴをかけなくてはならないとき。なぜそんな計画が生まれるのかも考えたわ。国家を生きのびさせることが人を生きのびさせることと重ねあわせて考えられる、それはわたしたちが抱く<国家>のイメージが結局ひとりの<個人>からの類推の上にたち、それ以外のあり方を知らないからだと思う」


★ 「おなじように、自然にある対象に向けられた<欲望>は、そのおなじ対象にむけられた他人の<欲望>によって媒介されないかぎり、人間の<欲望>とはなりません。他の人々がそれを欲しがるからという理由で、その人たちが欲しがっているものを欲しがるのが人間なのです。そこで、生物学的な視点から見るとまったく役に立たないもの(勲章や敵の旗など)が、他の欲望の対象となっているゆえに欲望される、ということがあるのです。こうした<欲望>こそ、ひとつの人間的<欲望>にほかならないのであり、動物にとっての現実とは異なる人間の現実は、こうしたさまざまな<欲望>を満足させる行為によってのみ創出されます。人間の歴史とは、欲望されたさまざまな<欲望>の歴史なのです」(アレクサンドル・コジェーヴ、1939年)


★ けれども世界には外がないこと、ただ直線としてのびてゆく時間がすべてに君臨することは、ボードレールだってとっくに痛烈に意識していたはずだ。途方に暮れた新しいコロンブスたちは、19世紀にはすでに世界という缶詰の中にオイル・サーディンのように並びあって、身動きもできずにいたのかもしれない。ぼくらはもう、自分のことをどんな航海者だとも、信じるふりさえできない。せいぜい漂泊者、いくつもの時間を同時に生きようと望むが、いたるところで閉じこめられている。都市で、砂漠で、大洋で。(……)はじまりを持たない者にとって、すべては暗闇の中にある。でもその暗闇は、白日の光にみたされた暗闇だ。何もかもあきらかに見える、けれどもほんとうには何も見えていない。
レーダーの壊れたコウモリのようにすべてにぶつかり、ぶつかったすべてに執拗に攻撃をしかける。地図製作をやめ、航海をあきらめ、いちめんに油を流したように粘つく静寂につつまれた沖合へと、まだ一日の天気すらはっきりしない明け方に、黙って漂流をはじめる。


★ 公園のかたすみにこの国の近代の有名な思想家である安重根の石碑があり、それには「一日不読書口中生棘」と書かれている。


★ 日本は奇妙な国だ。万人が万人のためのエンターテイメントでしかなく、相互商品化と相互廃棄が、生活という水面に藻のようにひろがり、希薄な喪を奏でる。けれども日本に<帰り>、その水を忘却の河の水のように飲むとき、<あそこ>が<ここ>になったとき、もうこれほどのんびりできる国はないと思い、また安心しきって眠りこけることになるのかもしれない。怠惰な海岸の犬のように。


★ きみは広場にたたずみ、明るい光と青い風を浴びながら、とおりすぎる人の顔をじっと見つめようとする。覚えたいと思う。どんな顔が見えるのか。どんなふうに微笑するのか。瞳の色、肌の色、その体の基本的な構成の線、すべては雑多だ。まったく異なった遺伝子のいくつもの流れにささえられて、彼女と彼の輪郭の表現はかけはなれてゆく。ふたりが愛しあうとき。生まれるのは混血のこどもたちだ。つねに増幅される混乱。その子たちは、どんなことばをしゃべるだろう。あらゆることばの混成、神聖さからもっとも遠く離れて、すべてを語ろうとしながら、沈黙さえ優美に使いこなすことのできることば。愛しあうことばの断片が浮かび、とびちり、急速に凝集してはまた別れてゆく、毎日のいとなみ。ささやき、さえずり、うなずき、ほほえみ、くちづける。抱擁以外の何ももたないノルデスチの家族ばかりか、広場をとおりすぎてゆくすべての人が、ただ一瞬の交錯にのみ生を見いだし、音楽を探す。それがブラジル。そしてそのすべてをひとつに包みこむのは、<死>だ。

<菅啓次郎『コロンブスの犬』(河出文庫2011)>