内田樹ブログが毎日新聞“心のページ”に載ったインタビューを再録している;
記者の質問:レヴィナスから見たユダヤ教とは。
内田樹回答:
第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていました。なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか。若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出てきました。その時、レヴィナスは不思議な護教論を説いたのです。
「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。神が真にその名にふさわしい威徳を備えたものならば、『神の救援なしに地上に正義を実現できるもの』を創造したはずである。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止めるものは宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるというかたちをとるはずである。」
成熟した人間とは、神の不在に耐えてなお信仰を保ちうるもののことであるというレヴィナスの人間観は私には前代未聞のものでした。
(以上引用)
この文章を読んでぼくには、疑問が生じた。
もし、《神が真にその名にふさわしい威徳を備えたものならば、『神の救援なしに地上に正義を実現できるもの』を創造したはずである》ならば、
神は、人間の創造にしか関与していないことになる。
“創造されたあとの”人間は、なぜ神を必要とし、いかに神と関係するのだろうか?
すなわち“信仰”は、なぜ必要なのか?
なぜ、神なしでやっていってはいけないのだろうか?
ぼくは、人間が、『神の救援なしに地上に正義を実現できるもの』であるか否かを言っているのではない(それは、わからない)
なぜ、信仰が必要であり、神がいなければならないか、わからない、と言っている。
この内田ブログの結論は以下のようである;
《まず他者の思考や感情に敬意を示すところから始めて、「おっしゃることはいちいちもっともだが・・・」と交渉も始められるわけです。他者との対話はまず「聴く」というところからしか始まらない。それがレヴィナスの教えていることだと私は思います。》(引用)
たいへんけっこうなことが言われている。
しかし、《他者との対話はまず「聴く」というところからしか始まらない》ということにも、神や信仰がどう関与するか(神や信仰がなければ他者を聴くことがどうしてできないか)は、この内田氏のブログではぼくには了解不可能である。
だれか(信仰のある方)、ぼくに説明してくれませんか。