Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

悪魔祓い

2010-07-22 21:57:00 | 日記


★ どうしてそんなことがあり得たのかよくわからないのだが、とにかくそういう具合なのだ。つまりわたしはインディオなのである。メキシコやパナマでインディオたちに出会うまで、わたしがインディオであるとは知らなかった。今では、わたしはそれを知っている。たぶん、わたしはあまりよいインディオではない。

★ すなわち、これらインディオの種族に出会ったとき、それまでわたしには家族があるなどとことさら思ったことはなかったのに、不意に何千人もの父や、兄弟や、妻たちにめぐり会ったようだったと。しかしだれかがある民族について語り、自分が属していない社会の情念や意図をおしはかってみたいなどと思うといつもそうなるのだが、その個人がかならずしも自分の知識を信用していない場合でも、大きな危険をおかすことになる。こういう次第で、人を近づけないこと、および沈黙することをもって偉大な徳としているような人々について書かれた以下の文章は、残念なことに、著者自身についてしか語り得ていない。

★ しかしほかのこともある。この本が完成しかかっていたころ、わたしは気づいた。この本が、わたしの知らぬうちに、たまたま、タフ・サ、ベカ、カクワハイという呪術的治療の儀式の順序を追ってしまったことにである。インディオを病気と死から奪い返すためのこれら三つの段階は、あらゆる創造の小径の道しるべそのもの、すなわち、秘法伝授、歌、悪魔祓いなのであろう。芸術というものはなくて、あるのはただ《医術》だけだということを、いつの日か人々は悟るにちがいない。


★ インディオの世界との出会いは、今日もはや贅沢ごとではない。現代世界に生じている事を理解しようと望むものにとって、それは必要事となった。理解することはなんでもないことだ。そうではなく、あらゆる暗い通路の果てまで行こうとすること、扉をいくつか開けてみようと試みること。つまり結局は生き延びようと試みることだ。

★ コンクリートと、電線の網の目からなるわたしたちの世界は単純なものではない。それを説明しようとすればするほど、その世界はわたしたちの手から逃れてしまう。その中に閉じこもって生き、これらの壁や天井に穴を開けようともせずに、その世界の機械的な刺激に盲従することは、単なる無意識以上のことだ。それは、堕落させられ、殺され、呑みこまれてしまう危険に身をさらすことだ。

★ 今日、わたしたちは、真理は存在しないということを知っている。爆発と変容と疑惑があるだけなのだ。出発すること。わたしたちは出発したいと思う。しかしどこへか。すべての道は互いに似ていて、すべては自己自身への回帰にすぎない。それならほかの旅を探さなければならない。


★ この体験については、たとえば海について語るように語らねばなるまい。海はそこにあった。人々は、日々それと隣り合わせ、眺め、それについて考えていた。しかし海がなにを意味するかは知らなかった。しかし海のほうでは知っていた。都市をとり囲み、人間の思想を組織し、音楽と絵画と詩を律していたのは海だったので、その逆ではなかった。どうしてそんなことが想像できよう。人々が言葉を使用し、それを白い紙の上に並べたとき、人々はそのことに気づかなかったが、じつは紙の上に並べていたものは貝だった。


★ 錠前はもう沢山だ!壁も窓ガラスも沢山だ!管制塔の上から、どこかの専制君主たちによって発せられる耳に聞えない指令も沢山!城壁と門は、たやすく壊れるものだ。城砦、要塞、塹壕の陣地、それらは長いあいだもちこたえはしない。それらは、まるで狂人の手が不意に起爆装置のレバーに触れたかのように、自然に爆発する。自律性の境界は、打ちくだかれた。つまり、精神と言語を保護していた、魂の古く、うす汚れた境界は。私有権は侵害され、とっておかなければならないものはもはやなにもない。


★ 世界の模様は、いつの時代でも恐ろしいものだ。ただ一つの細部、一枚の葉、一つの跡、一つのしるしだって、無償のものはない。世界はユーモアを解さない。笑う暇などはないから。世界は、戯れのために作られたものではない。自然の広大な領域は、恐怖と神秘に満ちている。生きとし生けるものは、すべて軽やかではなく重い。樹々は、影をいだいて重く、植物は有毒な香気に満ち、厚ぼったい葉は、毒のある乳をたたえている。

<ル・クレジオ『悪魔祓い』(岩波文庫2010)>





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