★ まずパレーシアという語の一般的な意味についてご説明しましょう。パレーシアとは「すべてを語る」ということですが、語源からみると動詞のパレーゼスタイは、すべてを意味する「パン」と、語られたことを意味する「レーマ」という語からできています。またパレーシアを行う者はパレーシアステースと呼ばれますが、これは自分の考えていることを包み隠さずに語る者のことです。なにも隠さず、心を開いて、語りながら、他者に自分の心のうちをさらけだす人がパレーシアステースです。
★ だれかがパレーシアを行使していると言われるのは、そしてパレーシアステースとして認める価値があると判断されるのは、真理を語ることで、その人がリスクを引き受け、危険を冒す場合に限られます。たとえば古代のギリシア人からみて、文法の教師は生徒たちに文法を教えるときに、真なる事柄を語っているでしょう。教師の教えている文法が正しいことに、疑いがもたれることもないでしょう。教師の信じていることは真理ですし、教師の語っていることも真理です。しかし文法の教師は、パレーシアステースとはみなされません。
★ しかしある哲学者が、王や僭主に話しかけ、王や僭主が正義に悖った(もとった)ことをしていること、そしてその僭主政治が混乱を引き起こし、不愉快なものになっていること告げる場合には、この哲学者は自分が真理を語っていると考えているだけでなく、あるリスクを引き受けています。僭主が腹を立てて、その哲学者を罰したり、ポリスから追放したり、殺したりするかもしれないからです。
★ おわかりのように、パレーシアステースとは、リスクを引き受ける人のことです。もちろんつねに生命を賭けるリスクを冒すわけではありません。友人がなにか間違っていることをしていて、それは間違っているよと、あなたが忠告したとしましょう。友人は腹を立てるかもしれません。その場合にはあなたは、パレーシアステースとして行動しているのです。たしかに生命の危険はありませんが、忠告することで相手を傷つけ、友情に罅(ひび)がはいるかもしれないのです。
★ 政治にかかわる議論で、大多数の人々の意見に逆らうようなことを発言したり、政治的なスキャンダルになるようなことを発言したりすると、その発言者は人気を失うというリスクを冒すので、パレーシアを行使していることになるのです。
★ ですからパレーシアとは、危険に直面して語るという勇気と結びついているのです。危険があるにもかかわらず、真理を語る勇気が求められているのです。そして極端な場合には、真理を語る行為は、生きるか死ぬかの「ゲーム」のうちで行われるのです。
★ パレーシアステースは真理を語るためにリスクを引き受ける者ですから、王や僭主は一般にパレーシアを行使することはできません。王や僭主はどんなリスクも引き受けないからです。
★ そして命を賭けたパレーシアのゲームを引き受けた場合には、パレーシアステースは自分との間に特別な関係を結ぶことになります。真理を語らなければ安全に暮らしていくことができるのに、真理を語ることで生命を失う危険を冒すのです。もちろん、死の脅威は<他者>がもたらすものですから、このゲームでは<他者>との関係が必要です。しかしパレーシアステースは主として、自分との間で特別な関係を選び取ったのです。自分を偽って生きることではなく、真理を語る者であることを望んだのです。
<ミシェル・フーコー『真理とディスクール パレーシア講義』(筑摩書房2002)>