Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

不破利晴への手紙;10-07-11

2010-07-11 16:40:12 | 日記

★不破利晴からの<善良な市民>へのコメント;

Unknown (不破利晴)  2010-07-11 10:20:22

おはようございます。不破でございます。

今日は参院選ですが、warmgunさんは棄権のようですね。まあ、それもいたしかたないですね。ここまで腐ってくると選挙だか政治家の資金パーティーだか訳がわからないですね(笑)

ところで、田原牧。
彼女と言って良いのか彼と言うべきかは非常に微妙ですが、それもひっくるめて僕は大ファンですよ。
東京新聞の記者の顔写真入りでの論説にたびたび登場します。初めて見て以来、ビジュアル的な部分と切れの良い文章に虜になりました。
彼女は中東の専門家ですが、それ以外でも、社会的な視点は我々にとって非常に共感するものがあると思います。



★warmgun返信

不破君

《投票所は異様な熱気》(不破Twitter)ですか(笑)
投票率も高いみたいだ。

どうもぼくの感覚は、世間とは完全に“反対”になったね(“ズレ”たんじゃなく)
ぼくはほんとうに、この選挙には何も心が動かない。

ただただ、“くだらない”、“つまらない”と感じるだけ。
そもそも、この選挙結果がどうだろうと、なにも現状が変わることは起こらない。
いまある政党や政治家をどう“組み合わせても”なにも変わりようがない。

もちろん、ここ何年もつづいている“社会の陰湿なメルトダウン”が進行するだけだと思う。

だいたい、政治家・官僚やメディアをいくら非難しても、自分の生活(とくに消費生活と安全信仰)を変えることをヒステリックに拒否するだけの“国民=善良な市民”による“社会”で何が“変われる”んだろう?
これは、ぼく自身にも、問われるけれど。

ただ、ぼくは《悪を根絶するには人類を根絶やしにしなければならん!人類の中に悪があるのではなく、人類そのものが悪なのた!!》(あるツイッター)とも思わない。

つまり“人類”は、<悪>でさえない。
ただ<おろか>だと思う。

大部分の<おろかなひと>のなかから、天才的なひと(良くも悪くも)が“たまに”出てくる。
そのひとが、<悪>か<善>かも両義的だよね。
たとえば、“イエス・キリスト”。

あるいは“天才(とても才能のあるひと)をいつもいつも理解しそこねる”弟子“の問題ね。
たとえば、<教会>、たとえば<マルクス主義>。
しかももともと天才も、両義的なんだ。

もちろん問題は、“ぼくら”のような普通の人々が、形式的であっても“権力を持つ”という、この<近代>以降の事態だね。

まさに、<愚民政治>(笑)

ぼくは、日本も世界も滅びないと思うが、むしろ滅びたほうがよいような“愚劣な世界”が、このままではどうしても来ると思う(現在、あらゆるところにその徴候を見る)

ぼくのこういう感覚は、ぼくにとっては“ぺシミズム”じゃないね。

“リアリズム”だと思う。

ただ立岩真也のように“現実的な問題”(まさに税制)に取り組むことも、郡司ペギオ-幸夫のように“生命理論”に取り組むことも、押井守のように“恋愛映画”に取り組むことも、“同じようにリアル”だと思う。





民主主義の肝(キモ)

2010-07-11 12:55:42 | 日記


ぼくは絶対的正義も、絶対的真理も、絶対的公正も、絶対的平等も、絶対的規範も、絶対的安全も、絶対的自由も、絶対的友愛もないと考える。

だがあきらかに間違ったことを言う人がいる。

ぼくはなにかを規準にして、それを間違っていると、“判定”するのではない。
ぼくに判定基準となる“内部の法”あるいは“外部の法”が、あらかじめあるのではない。

なにかが間違っているということは、むしろ“直感的なもの”としてやってくる。
だから、そこから考えることははじまる。

すべては、この繰り返しであり、プロセスであるから、ぼくは自分の“意見や批判”が絶対に正しいと確信しはしない。
もし“ぼくの現在の認識”が間違っているなら、修正したり、撤回する。

ぼくは外部に神のような規準を持たないし、内部にも神のように絶対の根拠をもっていない。
だから、死ぬまでの、<学ぶ―考える>のプロセスはある。


“立岩真也サイト”で2010/05/27“朝日新聞』 私の視点”に載った発言を見た;

★ 政権の選択とは、基本的にはどんな社会にするかの選択である。公正・平等の方向に行くのかそうでないか。対立軸をはっきりさせた方がわかりやすい。本当に財源が足りないなら必要なものも我慢しよう。だがそんなはずはない。この素朴だがまともな認識からこれからの社会を構想しよう。税制の改革はその重要な一部である。
(引用)


《政権の選択とは、基本的にはどんな社会にするかの選択である》
《この素朴だがまともな認識からこれからの社会を構想しよう》


ぼくは怠惰で、まだ立岩真也の<税>に関する仕事を読んでいない。

立岩真也『税を直す』は雑誌現代思想に連載され、青土社から単行本として出た(2009)、続いて斎藤拓との共著『ベーシックインカム 分配する最小国家の可能性』も青土社から今年3月に出ている。

『税を直す』の書評により、この立岩のモチーフがどこにあるかを、ごく大雑把にだが知ることができる;

★徴税とは、何らかの価値観に少なからず裏打ちされ、強制力を伴う行為だから、経済の問題ではなく政治の問題である。立岩の強みは、「多くを得たところから少ないところへ移すことをするのがよい」という視座が、決して揺るがぬことにある。
(引用)



さて今日の衆院選投票日に当り、天下の朝日新聞は以下のような社説を掲げた;

☆任せて安心、というようなバラ色の選択肢はありえない。それでも私たちは品定めし、選ばなければならない。
税金は民主主義社会では本来、お互いのために「出しあう」ものなのに、なぜか「とられる」ものと感じがちである。どう使われるかわからないという政治への不信をぬぐえないからだ。
しかし、政治はひとごとではない。私たちの暮らしを支え、時に掘り崩す営みであり、逃れることはできない。選挙に背を向け投票所に行かなくても政治は刻々、ものごとを決めていく。
「代表なくして課税なし」
この民主主義の肝を語る古い言葉をかみ締めながら、一票を投じたい。
私たちは昨年、その気になれば政治を大きく変えられることを学んだ。
政権交代したからといって突如として景気がよくなったり、政治がクリーンになったりはしないことも学んだ。
民主主義は、終わりのない学びのプロセスでもある。
「とられる」から、「出しあう」へ。私たちは今回、苦い現実を直視し発想を変える必要を学んだのではないか。その成果を一票に託したい。
(引用)


この社説の<キモ>はなにか?;

《「とられる」から、「出しあう」へ》


この<主張>はただしいか?

ただしくない。

貧乏人からこれ以上カネを取るな。

これがぼくの主張である。

貧乏人からカネを取らないために政治はある。
その政治のために、“政治家や官僚”はいる。

そのための“仕組み”を、<民主主義>という。

だからまさに、《民主主義は、終わりのない学びのプロセスでもある》のではなく、《民主主義は、終わりのない学びのプロセスである》。


立岩真也はかつて言っている;

《正義に繊細で不正に反省的でいられないほど私たちは余裕のない状態に置かれているでしょうか。そんな余裕はない、自分のことで精一杯だと思う心性が、かえって自分をつらくさせているのだと思います。》(引用)


絶対的な正義はない。
しかし、《正義に繊細で不正に反省的で》あることは可能だ。

あなたにとって<デモクラシー>が貴重であるだけでなく、<この人間>が貴重であるならば。

《素朴だがまともな認識からこれからの社会を構想する》

すなわち、<認識>があり、<社会の構想>がある。

<認識>がなければ、<構想>はない。

また、<構想>をめざさない<認識>は、永遠の自己満足(ひとりごと-自己肯定-自己循環の閉域)でしかない。

政治家と学者とマスメディアが、あのテレビとタレントどもが、この閉鎖社会を保守するとき、そしてその言説をオウムのように繰り返す素人たちがこの閉鎖社会を保守するとき、まさにゼロ地点から(この荒涼たる廃墟から)、認識と構想に取り組む<愚者>たちが現れなければならない。


<社会の構想>と<私の人生の構想>は、いかに“かかわる”のか?

<結論>はなくてもいい。

あるはずがない。

だが今日、あなたが一票を投じても、投じなくても、この<問い>を、みずからに発するべきである。







<追記>

今日天声人語にはこうある;

《▼国民は程度に応じた政府しか持てない、と古くから言う。だが先日の小紙に、作家の池澤夏樹さんが「どうも政府のレベルは国民のそれを下回ってきたようだ」と寄せていた。「われわれの実力からすればもう少しましな政府は持てないものか」と。肯(うなず)く向きもおられよう》(引用)

ぼくは先日書いたように、池澤夏樹の“個人編集”による河出世界文学全集の選択には、“それなりに”納得している。
その“選択”よりも、今どき、“世界文学全集”を出すという意図に(ならば出版社を褒めるべきか)

ここでの池澤夏樹発言には賛同できない。

池澤氏の周りには、“理性的なひと”が多いのであろうか(もちろん皮肉だ)

《われわれの実力》など、たかがしれている(この場合、“われわれ”とは日本人のことではない、世界中の“われわれ”である)

すなわち、《国民は程度に応じた政府しか持てない》という“古くからの認識”が、ただしい。