ぼくの先日のブログ<”権力に対して真実を語る”>について、hiro.tさんからコメントをいただいた;
Unknown (hiro.t) 2010-07-17 00:58:29
Warmgun様
こんばんわ
最近読み終えた本で「ブッダのことば」の中の
物語からかいつまんでまとめますとブッダの弟子の中に邪悪なる存在に対する問いとその問いに対するブッダの回答文がありますがブッダは弟子の3回にわたる問いに対して「邪悪なように見えるが決して
そうじゃない、相手を信じてあげなさい」と3回
明確にその疑いの心を諫めております。
結果的にその弟子はブッダの忠告に同意せず無間地獄に落ちたとのことです。私はこの物語を読んだときすぐイスラエル事が思い出されました
この事は「信頼」と「疑い」についてひとつの見識
と言えるのではないでしょうか。さあ私たちはいか
に対処すべきなのでしょうか。
(以上引用)
hiro.tさま
“信頼”と“疑い”ですか。
まさに<問題>です。
ぼくは“世界を肯定する”というふうに問題を立てます。
たとえば、<疑う>ということには、悪い面と良い面があります。
“疑心暗鬼”という言葉があります。
しかし“疑う”ことが、西洋において<近代>の開始(デカルト)であったことも事実です。
この“西欧近代”に対して、<東洋>に位置する“われわれ”が<疑う>こともできます。
しかし、<日本>は、明治以降、徹底的に“近代化-西洋化”の道を歩んできました。
このことを、ぼくは<混血>(ロックンロール・ニガー)と呼んだのです。
たとえばぼくは、“J-POP”より、ビートルズが好きです。
“西洋原理”が唯一の普遍性でないことは、たとえばサイードが<オリエンタリズム>として探究したことです。
しかしサイードが、カッコつきで“われわれの世界”というときの“われわれ”は、サイードが“アメリカ人として”自己形成し、その世界でキャリアを築いたことを意味します。
すなわち、“われわれ”は、もはや“西洋原理”を規範とするのではなく、逆にその“カウンター”である、“東洋原理”に回帰するのでもない。
目指されるのは、“あらたな普遍性”です。
それは、“歴史的な差異”の具体性を認識することによって、可能です。
差異に敏感でない、“ヒューマニズム”も“ナショナリズム”も、無効です。
(差異を認識することは、“事象そのもの”の具体性をあきらかにすることです)
“われわれ”は、混血であるからこそ、この“差異”に敏感になれる。
そして“この世界”を愛するからこそ、この世界を肯定したいからこそ、この世界を疑い、<批判>するのです。
ぼくは、“マルクス主義者”ではありませんが、マルクスが考えたことで魅力的なのは、“世界のプロレタリアートの団結”を訴えたことです。
すなわち、“プロレタリアート”とは、イスラエルの<人民>、北朝鮮や中国の(あるいはアメリカの)人民のことです、日本の人民のことです。<注>
<国家>と国家にしかアイデンティティを持たない人々が<戦争>するとき、“人民の連帯による平和”を実現しようとするひとびとです。
まさに“マルクス主義インターナショナル”は、第2次世界大戦へ雪崩を打って突入するとき、この<連帯>あっさり放棄し、“ナショナリズム”に奔走したのです。
ぼくたちの時代=戦後は、そこから始まったと認識しています。
しかしぼくの関心は、こういう“いわゆる”政治的次元にあるわけではありません。
ぼくの最終的関心は、哲学や科学と呼ばれるものにも、ありません。
ぼくに関心があるのは、<文学>や<芸術>と“呼ばれる”領域にあります。
つまり、この世界の中での、個人の<表出>に、です。
<注>
ぼくが考える“プロレタリアート”とは、“労働者”でも“抑圧された人々”でも“善良な人々”でもない。
世界(自然-他者-社会)に直面し、関係し、この世界の固定観念を変更する認識を持つことが可能な人々のことだ、そのような<生>だ。
こんばんわ
”hiro.t"さんへの手紙を読ませて頂きました
私にはWarmgun様の思いが最後の<注>の文章
に集約されているようにそしてそれが私の問い
への回答になっているまさに宇宙の真理を述べ
られたお言葉に聞こえました。ご指導有難うご
ざいました。私もそんな<生>を目指す普通の
ヒトでありたいと思います。
いえいえ、“宇宙の真理”とか“ご指導”とかの、たいそうなものではありませぬ(笑)
ただ“普通のヒト”というのは、いいですね。
<ヒト>という表記には、人間を動物のひとつとしてとらえる視点がありますから。
けっきょく“ぼくの言っていること”も、レトリックで誤魔化している部分があります。
つまり、“わかっていないこと”、“迷っていること”が、無数にあります。
単純には、“読む本”の選択に毎日迷っています。
このことは、他の人からみれば、滑稽なことです。
ぼくには、なんでも手当たりしだいに読んでしまえる“馬力”も“時間”もないから。
どうしても“包括的に”読みたいという、無謀な幻想を捨てることができませんし、逆に言えば、“自分が依拠する思想や人”を絞り切ることもできません。
つまりぼくは“××主義者”とか、“信者”には、死ぬまでなりえません。
いつも矛盾しているのです。